江戸時代の1707年(宝永4年)に伊勢神宮内宮前、五十鈴川のほとりで販売されたと言い伝えられる「赤福」は、真心(赤心)を尽くすと、すなおに他人のしあわせを喜ぶことができる(慶福)という社是「赤心慶福(セキシンケイフク)」に由来する。赤福餅は保存料を使わない生菓子で、本来の消費期限は夏期は製造年月日を含め2日間、冬期は3日間。しかし、創業300年にあたる本年(2007)、冷凍保存していた製品を、解凍日を製造年月日として出荷していたこと、さらに売れ残り商品の再利用をしていたことが明るみに出て、三重県は10月19日より「赤福」を無期限の営業禁止処分にした。ただ、衛生面の問題が取りざたされた他の食品メーカーの不祥事とは違うのだが、社是に反したのだから経営危機に直面しても致し方ないか。それにしても早く出直して、赤心を尽くして欲しいものである。
ミャンマーでは、1990年には総選挙が実施されアウンサン・スーチー女史率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したが、軍事独裁政権は同女史を自宅軟禁にし、民政移管を拒否。いまでも枢要な行政府には軍人が天下りして、不条理な政策を推進している。たとえば軍用地であった山の中に突然新首都を建設し、ネピドー(王の都)と命名して昨年遷都したが、なんと一般人は立ち入り禁止で、商人は商業地区に隔離された閉鎖都市である。このため各国大使館は、いまだに旧首都のヤンゴンにあるという有り様だ。なぜ、このような無茶を強行したかといえば、米国からその専制を批判されている同政権はイラク戦争に危機感を覚え、海に近いヤンゴンより、内陸部の方がより占領されにくいと考えたためだ。圧制者は自らの不正義をよく知っているので、非常識なほど臆病なのである。
不合理は他にもある。ミャンマーの通貨・チャットの公式レートは、1米ドル5.75チャットだが、私がホテルで両替したレートは1米ドル1,390チャットであり、この間には241倍の開きがある。これでは「悪法もまた法なり」と澄ましていることはできないし、実際に現在は公式レートで両替すること自体不可能だ。したがって、ミャンマーの旅行ガイドブックには、はっきり「両替はブラックマーケットを利用」と書いてある。ちなみに私はホテルのフロントで両替をしようとしたら、同ホテル内の長い廊下の突き当たりにある小さな画廊を紹介された。むろん、ここもまた闇両替商なのであった。なお、鉄道やフェリーボートなど政府が関係する交通機関に外国人が乗る際は、パスポートを持参の上、米ドルでしか切符を買うことができない。通貨がこのような状態で経済運営がうまく行くわけがなく、こうして僧侶でさえ見かねてデモをしなければならない、完全に破綻した経済状況にこの国はあるのだ。
ちなみにミャンマー南部のイラワジ川下流域に広がるデルタ地帯は世界的な穀倉地帯である。しかも石油と天然ガスを産出するほか、世界最大のルビーの産地で、他に鉄、スズ、鉛、ヒスイなども産出する豊富な資源大国なのだ。そして人材も豊富で、古くから識字率も高かったため1948年の独立時はアジア有数の豊かな国であった。そのような国がアジア最貧国になるとは、当時は考えられなかったことであったろう。
賄賂がほぼ自動的に入る公務員以外、この国の給与生活者はサイドビジネスに励まなければ糊口をしのぐことはできない。そして、これは私立の盲学校においても同様であった。視覚障害児の学費に相当する金額は国費から支出されることになっているが、それだけでは十分ではない。そこで、ミャンマーキリスト教盲学校は、空き教室や講堂を会議のために貸したり、建物自体を自動車修理工場に貸していた。また、マッサージセンターもあり、点字出版所では点字の教科書を作って、その一部は国立盲学校に販売したり、賛美歌のCDなどもスタジオで収録・販売していた。要するに、盲学校とはいっても、それを基盤にしながら、職業訓練やリハビリテーション施設も運営し、その他竹細工の工場もあれば点字図書館も盲人用具販売も、なにもかも一手に引き受けているのだ。しかも、校内に生徒のための寄宿舎とは別に教職員住宅もあるので、盲学校というよりももっと雑然とした小さなコミュニティを形成している。そういえば裏庭には魚の養殖池さえあった。同校がここまで成長するには、ドイツの援助団体であるCBMからの大規模な資金援助があったという。
一方、ミャンマー盲人協会にはこれまで海外からの支援はなかった。この夏、国際視覚障害者援護協会(直居鐵理事長)と共同で白杖作りのワークショップを開いたのがその最初である。もっとも会場はミャンマーキリスト教盲学校を借りてのことであったが、予想以上の反響にミャンマー側の責任者であるアウン・コー事務局長も喜んでいた。それでもまだ、盲学校の児童全員に白杖が行き渡ったわけではなく、相変わらずただの木や竹の棒を頼りにしている視覚障害者も目立った。
このイベントの前に、講師であるウイズの斯波千秋所長は白杖80本分の材料を日本より航空便で盲人協会に送った。そして、そのときの関税が12万チャットかかったという。ミャンマー盲人協会事務員の4カ月分の給与に相当する大金だ。これでもアウン・コーさんが粘りにねばって値切った果ての金額である。彼は昨年末にも痛い思いをした。日本からクリスマスカードが届いたのだが、それはクリスマスソングを奏でる電子オルゴールタイプのもの。そこでも課税されたが、それはヤンゴンでその電子オルゴールを買うよりも高額であったという。クリスチャンの彼がいうには、クリスマスカードは普通の紙のものにして、白杖の材料にしろ船便で出してもらえたらこんなことにはならなかったと、深いため息をつくのであった。
キリスト教盲学校を見学した後、私は同校内のマッサージセンターで施術を受けることを楽しみにしていた。治療費は1時間5,000チャット(500円)と聞いて驚いた。ベトナム・ホーチミン市の倍額だったのだ。ところが、これは外国人料金でミャンマー人はこの半額で、ベトナムとほぼ同額であった。しかし、残念ながら治安の悪化に急かされて、それを試すことができなかったのがつくづく残念であった。もっとも帰国してから事情通に聞くと、「下手だから、受けなくてかえってよかったよ」とのこと。ただし、一般給与所得者の誰もが、サラリーだけでは食っていけない中にあって、マッサージ師はこの仕事だけで食えるという成長株である。そのためにも技術の向上は先決で、この10月24日に東京・晴海のグランドホテルで正式に設立したAMINのマッサージ指導者養成研修に熱い期待のまなざしを向けていた。
例年、10月15日の「国際白杖の日」には、全国の盲学校から約400人の視覚障害者が参集して、ボランティアや盲学校の先生達と先月号で紹介した人民公園からヤンゴン市庁まで約3kmの目抜き通りを白杖を持って歩く。今年の「白杖の日」パレードには、この夏の白杖作りのワークショップで、12名の視覚障害者が、自作した白杖を持って参加する予定だったのだが、折からの治安の悪化により、パレードそのものが中止となったと、国際電話で、アウン・コーさんは無念そうに答えていた。
軍事独裁政権による虐殺が行われてから、寺院、博物館、ショッピングセンター、マーケットなどがすべて閉鎖され、ヤンゴンはゴーストタウンのようになってしまった。私は戦前のビルマで警官であった英国の小説家ジョージ・オーウェルの赴任地まで、船で行く小旅行を企てたが、どれもが欠航しており、対岸に渡るのがやっとであった。そして、ヤンゴン中央駅から市街を3時間で1周するループ・ライン(環状線)に乗り込んだ。途中、電車からディーゼル機関車に乗り換えると、途端にローカルな色彩が濃くなり、買い出し部隊のおばちゃん達が、大量にガラスのない窓から投げ込む農産物に辟易しながらも、ゆったり農村風景を楽しんだ。「もうすぐ次の駅」というざわめきが聞こえた頃、ひときわ大きな叫び声が聞こえ、列車はゆっくり停車した。ドアのない列車の乗降口のステップを踏み外した中年女性は一命は取り留めたものの、片腕が引きちぎられたのであった。まったく油断のならない国である。
雨期のヤンゴンは空気がたっぷりと湿気を孕み、温度はさほどでないが、少し歩くだけで、ポロシャツの胸と背中が汗でぴったりと張り付いた。カメラは一枚写す毎にレンズを拭かなければ、風景が霧の中に浮かぶ。あるいは、暗くどんよりと曇った中にぼんやりと浮かんだシュールな姿が、あるがままのこの国の姿なのかも知れないが。
私は10月1日の午後、オーウェルがその小説『1984年』で描く圧政国家そのもののミャンマーを出国し、夜間飛行で10月2日の早朝帰国し、そのまま出勤した。
するとやはりヤンゴンでの私の安否が心配されており、「ミャンマーで怖い目に遭わなかった?」と何度か問われたが、私自身に限っていえば、とりわけ恐怖を感じたことはなかった。ただ、ヤンゴン市街中心部の辻々には、血走った目の陸軍兵士が大勢密集しており、その回りを自動小銃を水平に構えて警備していたのが、薄気味悪かったことは事実だ。同じ国軍でも宿舎の周辺や、大河イラワジ川の支流であるヤンゴン川の港湾施設等は水兵が警備しており、こちらはヤンゴン在住で弾圧にも動員されていないせいか、打って変わってのんびりムードである。いずれにしろ、私が「変な行動」に出なければ、兵士は誰何さえしないはずだという確信があり、その意味で不安も恐怖もなかった。変な行動とはたとえば兵士にカメラを向けることだ。
そういえば、私がタクシーの窓ガラス越しに隠し撮りをしたら、すぐに運転手に察知され「ノー・フォト、ベリー・デンジャー(写真を撮るな、危険すぎる)」と半狂乱になって怒鳴られ、私は身をすくめたのであった。
1987年の筑波技術短期大学の創立から数えて、今年(2007)で20周年を迎えた筑波技術大学(大沼直紀学長)は、「アジアにおける視覚・聴覚障害者の高等教育と就労」を全体テーマに記念シンポジウムを、視覚障害系の保健科学部と聴覚障害系の産業技術学部で開催した。
10月23〜25日の第1部は、「医療按摩による視覚障害者の職業領域の拡大」をテーマに東京都中央区の晴海グランド・ホテルにて、AMIN(アミン・アジア医療按摩指導者ネットワーク)の設立総会を兼ねて、14の国と地域から82人の参加者のもと行われた。なお、アミンは、保健科学部に事務局と推進委員会(プロジェクト代表一幡良利同学部長)が、昨年から日本財団の財政支援を受けて、5年計画でアジア地域の意欲ある視覚障害者に日本の医療按摩等を教え、職業自立の一助とすることを目的に活動している。
初日午前の記念講演では障害者職業総合センター上席研究員の指田忠司氏が、「アジア諸国における視覚障害者の職業事情と展望」と題して登壇。「マッサージが、東アジアだけでなく、東南アジアでも視覚障害者の職業として広がりつつある」ことを紹介し、タイでの事例を挙げた。「同国では1980年代にマッサージが視覚障害者の職業として再評価され、1999年から福祉省の委託事業として盲人協会が農村部の視覚障害者に講習会を開いている。これによって、多くの人が、職業自立できた」と述べた。
初日と2日目の午後には、ラオス、カンボジア、ベトナム、モンゴル、バングラデシュ、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、韓国、台湾、日本の12の国と地域からアミン推進委員会によるアンケートに基づいて視覚障害者のマッサージ事情が報告された。免許制度の整った東アジアを除くと、どの国も指導者が不足しており、バングラデシュ、カンボジア、ラオス、モンゴル、マレーシアでは指導者が10人にも満たない状況である。一方、マッサージによる収入は、どの国もおおむね平均以上だと答えていた。さらに、「マッサージは性風俗の一部として一般的には考えられているのではないか」との質問には、「視覚障害者は出張治療をせず、治療院で施術しているので、そういったことはない」と否定。ただ、「マッサージに対する一般のイメージは、性風俗と結びついており、日本の医療按摩を身につけることにより、それとは明確な区別ができるようになる」との意見も上がった。報告を聞いて、日本の按摩を習いたいという前向きな姿勢が報告者から感じられたが、特に盲学校や沖縄プロジェクトにおいて日本按摩を実際に研修した人の声には熱意がこもっていた。
シンポジウムの最後に、推進委員の藤井亮輔准教授は、「アミンの最大の課題は、核となるマッサージ指導者が圧倒的に不足していること。アミンの講習会は短期間のため、それだけでは核となる指導者の養成は難しい。3〜4年日本であはきを学び、免許を取る指導者が1カ国最低数人必要だ。また、技術・知識にも地域格差があり、レベルに合わせた教科書や指導者養成もアミンとして考慮したい」と分析し、「アミンの事業がアジアの視覚障害者の就労に貢献できるものと確信している」と力説した。
第2部は、11月1日、2日に茨城県つくば市の同大天久保キャンパス大学会館にて障害者の高等教育修了後の就労を中心に中国、韓国、日本の関係者による国際シンポジウムが開かれた。
開会に当たって、大沼学長は、「アジアにおける障害者の高等教育は欧米から理論等を直輸入してきたが、今やむしろアジア地域の専門家がアジアで共通の課題を見いだして問題解決に向けて、関係を深めて行く時代だ」と述べた。
午前中は、全体報告として中・韓・日3カ国の状況、筑波技術大の取り組みに加え、聴覚部の卒業生(機械5期生)と視覚部の卒業生(情報12期生)による職場報告が行われた。
昼食をはさんで午後からは、中・韓・日3カ国各大学の学生の就職状況や就労支援プログラムが報告された。ここでは、韓国の再活福祉大学の張錫敏(チャン・ソンミン)学長と中国の長春大学特殊教育学院李春艶(リ・シュンエン)副院長の報告を紹介する。
再活福祉大学は2002年に開学し、学生の30〜50%が障害者で、講義に速記支援システムを導入するなど障害学生への配慮も従来から行き届いてきた。しかし、同大の取り組みは例外的で、ほとんどの大学は、障害学生に何も配慮してこなかった。だが、2006年の特殊教育法の制定により、2008年から全大学に障害学生のための支援センターの設置が政府の援助により義務づけられることとなった。このセンターには就職に関する部署もおかれ、そこでは就職相談、職業紹介等がなされるという。現在、それに向けて支援についてのガイド・ブックを作成中だという。
長春大学特殊教育学院は、筑波技術大同様20周年を迎えた中国初の視覚・聴覚・肢体障害者を対象にした高等教育機関で、鍼灸マッサージ、芸術、映画、アニメーションコースがあり、現在615人の学生が在籍している。2003〜2006年に253人の視覚と聴覚障害学生が卒業し、その内、視覚障害者111人全員が就職した。「これも、5年課程のコースで鍼灸マッサージの専門技術を身に付けたからだ。特に、病院マッサージ師の需要が多く、養成・供給が間に合わないほどだ」と李氏は誇らしげに話していた。(戸塚辰永)
近年マッサージ業界もさまざまな動きを見せています。その動きを見ていると、私たち現場の声が、必ずしも、反映されているとは思えないのがよくわかります。
各団体の言い分はさまざまありますが?そのどれもが、「自分たちの要求」「わが団体の発展」を叫ぶ声にしか聞こえないのは、私だけではないと思います。
激増する無資格者・次々に増える養成施設・そして、盲教育の崩壊。どれを取っても世の中に押されっぱなしという気がします。私は以前自分のブログの中で、盲教育を守れと書きましたが、それはあくまでも、小・中・高等学校のことが対象であります。
現在私たちが、職業としているあはきについては別の考えで、それは、次のようなものです。
1.盲学校ではなく、専門学校にする:盲学校の生徒が、減少したり、教員の免許が更新制に変わったりという中で、今年の4月に、盲学校が、他障害者の学校と、統合されるという前代未聞の事態になりました。そこでこれを機会に、盲学校教育を見直して、理療科をすべて廃止して、専門学校に移行し、健常者とともに、同じレベルで、勉強できる環境を作ることが、よいのではないかと思います。
2.国家試験に実技を導入する:1993年から始まった、三療の国家試験ですが、実技試験がないことや、筆記試験のレベルが上がったことが影響して、盲学校受験者が合格できない事態が、長く続いています。これを解消するためにも、国家試験に、実技を導入することが、望ましいと考えます。
ではそのやり方ですが、ひとつの案として、毎年夏に行われている、臨床実習を、それに代えることで、盲学生のレベルを改めていけるようにしていくことが、重要だと思います。
3.業界団体の1本化:三療にかかわる団体を、すべてひとつにして、その中で、各既存団体が、各部会としての機能を、持たせることができると思います。
今回は期せずして、「特別寄稿特集号」になりました。長文の寄稿は、割付が難しいので、田中邦夫様の原稿は1カ月遅らせての掲載となったためです。これも編集者冥利に尽きる嬉しい悲鳴です。
先月号で呼びかけましたところ、「米国のジェームス・ライアン氏に点字英和辞典を譲りたい」と複数の方から申し出がありました。ありがとうございました。なお、点字和英辞典に関しましては、まだ申し出がありませんので、引き続き受け付けます。譲ることができる方は、いきなり当方に送りつけないで、必ず事前にご連絡ください。(福山博)
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