1989年、ビルマの軍事独裁政権は、国名の英語表記をミャンマー(Myanmar)に改称したので、国連と国際機関それに日本政府等は同国の表記を改めた。しかし、同政権の正当性を否定する米国や英国政府はいまでもビルマ(Burma)とし、EUは併記している。このため、我が国のマスコミにも一部混乱があり、たとえば『ニューズウィーク日本版』等ではビルマと表記している。ただ、ビルマ語では、「ミャンマー」も「ビルマ」も本来同じ意味の言葉であり、前者が文語的、後者が口語的という違いがあるだけだ。このため、一般国民も特に意識することなく歴史的に併用してきた。この間の事情は、「にほん」と「にっぽん」という呼称にも相通じるものがあるようだ。また、ビルマ国内では正式名称として、独立以来ずっと文語的な「ミャンマー」で統一してきたという。
特別支援教育開始から半年過ぎた現在、盲・ろう・養護学校を特別支援学校に統合・再編する計画が、全国各地で着々と進行している。はたして統合・再編は、個々の障害児童・生徒の幸せに繋がるものなのだろうか? 先頃、その動きを先取りするような「愛媛県立松山盲学校(松山盲)を同松山聾学校へ移転・統合する計画」が現実味を持って急浮上した。ここが突破口となり、堰を切ってこの動きが全国に波及するのか、阻止されるのか? 関心は高い。
そこで、私は急遽単独で現地に飛び、この10月4日に計画を推進する武智(タケチ)一郎愛媛県教育委員会指導部特別支援教育課長と、反対運動の急先鋒である「盲学校を現在地に存続させる会」代表の楠本光男愛媛県視覚障害者協会会長、それに山本四郎松山盲校長の3氏に面会を求めた。また翌5日には、同県議会で行われた標記請願書採択の様子を傍聴した。(本誌・戸塚辰永)
愛媛県県立学校再編整備計画検討委員会(検討委)は8月3日、松山市久万ノ台(クマノダイ)にある松山盲を現在地から3.5km郊外に離れた同市馬木町(ウマキチョウ)の聾学校に移転し、さらに知的障害生徒を対象にした高等部を新設して、3障害を統合した特別支援学校を設立するという県教委の原案に沿った形での県立学校再編整備計画案を同日記者発表。今年10月16日の松山盲100周年記念祝賀行事の準備に追われていた盲学校関係者は、寝耳に水で一転して心の故郷である母校の存廃問題を突きつけられることになった。
前述した「存続させる会」の楠本代表は、「移転・統合案に関して公の席では『意外である』と述べるに留めているが、個人的には『してやられた』という思いが強い」と憤る。ただ、その兆しは特別支援教育が話題に上るようになった数年前からあり、耐震補強工事を行うならより古く危険性の高い盲学校を先にすべきなのに、聾学校だけ行ったことなどから、移転・統合の噂が囁かれていた。それが、噂でなくなったのは、昨年秋に移転・統合計画が県教委で具体化しつつあり、それに対する意見をマスコミ関係者から求められたことが糸口だった。ところが、県教委も前松山盲の校長も「そんなことは当分ない」の一点張りで為す術がなかった。
それが動いたのは、この夏県教委が松山盲の移転・統合案を含めた県立学校再編整備計画案に対するパブリックコメントを8月14日から9月3日の期間に募集するとインターネット上でのみ発表したことだった。楠本代表は、「視覚障害者に深く関係する問題を点字等の媒体によらず、われわれがほとんどアクセスできないPDFファイルで、しかもお盆を狙って公開したのです。ある人が教えてくれなければ、本当に手遅れになるところでした」と、その不誠実でずる賢いやり方に対して不信感を露わにした。
こうして事態が突然顕在化し、8月26日に松山盲の卒業生と保護者・教員の有志などが集まり「存続させる会」の準備会が発足。盲学校の児童・生徒にとって望ましい教育環境を確保するためには松山盲を現在地に存続させることが一番であり、そのためにはパブリックコメントに反対の意見を県教委に送ること、そして県議会への請願運動とマスコミ等への働きかけを行うことが討議された。そして9月1日には「存続させる会」が正式に発足し、30人余りで松山市内3カ所で反対の街頭署名を開始したのであった。
反対理由のその1は、3障害を統合した特別支援学校では、視覚障害のある幼児、児童、生徒が安全に安心して学習や行動できる空間を確保しづらい。その2は、移転により理療科の臨床実習の患者が確保できなくなり、その結果教育の質が低下する可能性が高くなる。その3は、松山盲が県内唯一の視覚障害教育の専門機関であり、統合により専門性の維持が困難になる。その4は、移転予定の馬木町は、松山市の中心部から10kmも離れており、しかも最寄り駅の予讃線伊予和気駅(イヨ・ワケ)は普通列車しか止まらない無人駅で、交通の便が悪く、徒歩以外に自力での手段を持たない視覚障害者は学校を訪問しにくくなる、の4点であった。
3週間という短時間ながら、寄せられたパブリックコメントは、松山盲の移転・統合だけで273件(賛成8件、反対265件)であった。愛媛県が行うこの種の意見募集では通常20件足らずというからその関心の高さがわかる。また、同会は1万筆の請願書名を目標にしていたが、9月20日に県議会に提出された請願署名は、なんと5万8,697筆にも及んだ。ここまで県民の関心が高まったのには、新聞・テレビが連日この問題を取り上げ、しかも時を追うごとにそれが大きく報道されたためだ。9月25日には「盲学校移転統合 強引に事を運ぶべきではない」と題する社説が『愛媛新聞』に掲載された。楠本代表も、「こんなことは愛媛県の視覚障害者史上初」、山本松山盲校長も「このところ取材に追われているが、盲学校がここまで話題の中心に上るとは思わなかった」と驚いていた。
県議会への働きかけについては、「野党はわれわれに当然同調してくれると最初に踏んで、愛媛県は全国有数の保守王国なので、与党の自民党と公明党に的を絞って行なった」という。これはとくに自民党の議員が臍を曲げたら、通る請願も通らないと考えて、気を遣ってのことだ。このため、請願書の内容も与党議員の意見を受け入れ、移転・統合に直接反対する表現を見直し、「県教育委員会が最終的な計画を決定するにあたり、パブリックコメントや松山盲関係者の反対意見や要望を十分に尊重した上で慎重な検討を行い、今後の盲学校の児童・生徒にとって望ましい教育を確保すること」という文言に改めた。また、篠原実自民党愛媛県連幹事長が紹介議員になってくれたことも異例中の異例で、特に力になったという。
そして、10月1日に開かれた文教委員会において、請願「愛媛県立松山盲学校を愛媛県立聾学校に移転・統合する県立学校再編整備計画案に関することについて」を全会一致で採択し、教育長に対して今後も慎重に審議し、学校現場・地域との十分な協議を継続することなどを求めた。次いで、10月5日には、同請願が県議会本会議でも全会派一致で、つまり文句なしに採択されたのであった。
それでは、「松山盲の移転・統合は撤回されたのか?」というと、事態はそれほど単純ではない。第1ラウンドでは優勢であったが、まだKOしたわけではないのだ。
そこで、松山盲の移転・統合を推進している武智特別支援教育課長とそれに反対している楠本代表のコメントを以下に記し、第2ラウンドを占ってみよう。なお、山本校長にも意見を求めたが、「私にも意見が無いわけではないのですが、ずばり申し上げることはできにくい状況です」と、とつとつと今の心境を吐露し、難しい立場にあるため、コメントは差し控えたいと述べた。
それでは、まず武智課長の推進の弁から紹介する。
「文部科学省は複数の障害に対応する特別支援学校の設置が望ましいと言っている。無理にではないが、複数障害に対応できる学校を作ろうということだ。もちろん、その場合専門性が確保されなければならない。デメリットばかり強調されているが、複数障害に対応した教育のメリットは、重複障害への指導の充実、あるいは個別相談に機敏に対応できることだ。また、特別支援学校に統合することは、障害の異なる児童・生徒間で相互理解が可能になるだろう。さらに、組織統合により、校長や事務職員の削減ができ、運営の効率化が可能となる。当初、検討委員会では、視覚障害者は移動するのが大変だから、聾学校を盲学校へ移転してはどうかという意見もあった。しかし、盲学校の敷地は、聾学校の敷地の半分ほどと狭く、運動場、体育館を確保するためには校舎を高層ビルにしなければならないが、これは無理な話だ。一方、聾学校は敷地にゆとりがあり、校舎も耐震補強が進んでいる。これを壊して新たに立て替えるのは、財政的に困難なので、スクールバスを走らせて通学の便宜を確保できるのなら、盲学校を聾学校へ移転・統合するのも一案だと考えた。ただ、移転で盲学校の方にとってネックになるのは、盲学校の方が松山市の中心部に近く、聾学校の方が郊外にあることだ。しかし、盲学校の目の前には大きな通りもあり、教育環境としては聾学校の方が静かでよいはず。聾学校から徒歩10分以内にJRの駅やバス停もあるので、慣れれば交通に関しても同等である」と立て板に水の名調子で持論を展開した。
ついで、パブリックコメントに寄せられた4点の主な反対意見についても逐一反論。その1の「視覚障害者と聴覚障害者ではコミュニケーションが取りづらく、それゆえトラブルも発生する」については、昔とは教員の配置数も違うし、ある程度独立性を保ちながら授業を行うので相互理解も可能。その2の「鍼・灸・按摩の臨床実習の患者が少なくなる」には、移転先には大きな住宅地が広がっており、十分呼びかければ、むしろ患者は現在よりも増加すると思われる。現に、聾学校では散髪の実習を行なっており、近所の方々が多く利用している。その3の「専門性が確保される保証がない」に対しては、完全に建物を新築し、教員も移転して独立性を保った授業を行なうので、専門性は確保できる。その4、「在校生はスクールバスを利用できるが、移転により卒業生が盲学校を訪問しづらくなる」については、「慣れていただくとしか言わざるをえないが、特別支援学校の設置が決まれば、当然点字ブロックや音響信号等の環境を整備する」と述べた。そして「このような意見は主として卒業生の方々から点字でほぼ同じ文面でいただいた。ところが、在校生と保護者の意見は、2、3件しかなく、こちらとしても今後在校生には説明会を設けて十分説明していくとともに、在校生がどんな考えなのか調査を含めて意見聴取を行う」と述べた。
一方、知的障害高等部については、「聾学校の空きスペースを利用することで対応する。というのは、現在の聾学校の生徒数は39人で、これは全盛期の175人に比べて極端に減少しており、当然校舎は、当時の生徒数に合わせて作られており、聴覚と知的のスペースをパーテーション等で区切ることで独立した教育が保たれる」というのだ。
その上で「ここまでことがこじれてしまったのは、パブリックコメント以前に仮の話としてでも移転・統合についていろいろと伺っておけばよかった」と反省の弁も述べた。そして「逆を言えば、これから説明をしていかなければならない。ただ、視覚障害者の団体の方は、『検討委員会は初めから統合する方向で結論を出して、それから説明するからと言っても、単なる説得に過ぎない』と思うだろう。請願が『計画に当たっては、反対者の意見を十分に聴いて慎重に取り扱いなさい』ということなので、県議会の議決に反して、県教委が強引にことを進めることはありえない。来年、再来年から始めるのではなく、これまで説明不足だった分、じっくり話を聴くことからはじめたい」とこれまでとは違った戦略で、妥協点を探る含みも見せた。なお、検討委の最終報告については、「完全に確定的なものではなく、理念としては統合が大切だが、実施については請願の意図を汲んで慎重にという付帯意見もあるだろう。そこは、検討委員会が検討することだ」と述べた。
それに対して、楠本代表は、「今、なぜ3障害を統合しなければならないのか、理解できない。移転・統合するのなら、盲学校が県立高校の空き教室に移転した方が良いのではないか。それに郊外で、しかも障害者だけを集めた閉鎖的な環境で教育を受けるよりも、社会に接する機会の多い街中で教育する方が、視覚障害者にとって人格形成という面でもプラスになるはずだ」と力説。また、「聾学校は敷地が広く、建物も視覚障害と他の障害と分離するというが、所詮同じ敷地内。視覚障害者と聴覚障害者がトラブルになることは少ないだろうが、自閉症の子供が、視覚障害の子供と鉢合わせして、白杖を見て攻撃されると感じてパニックを起こすことはないだろうか? そんなとき、視覚障害の子供は危険を回避できない。その点、久万ノ台の盲学校は子供たちが安心して過ごせる環境で、近くには点字図書館等の視覚障害者関連施設もあり、中途失明者の歩行訓練にも都合が良いが、移転すれば、それも難しくなるだろう」と話す。さらに、「移転予定先の馬木町は静かな環境で視覚障害者の教育にも適しているというが、視覚障害者にとって静かな環境は、反って悪い場合もある。先日、聾学校周辺を歩いてみたが、車ばかりで通行人がほとんどいない。これでは視覚障害者が道に迷ってもなかなか助けを求められない。移転すれば、点字ブロックや音響信号を整備するというが、特に馬木町のような静かな場所では音響信号の音が騒音問題に結びつくし、最寄のJR駅は無人駅で、視覚障害者には利用しにくい。そしてとくに恐れているのが、移転・統合のあかつきに理療科教員が集まらなくなるのではないかという懸念だ。誰でも少しでも条件の良い所へ就職したいはずで、松山盲は今でも地理的に不利で、理療科の正教員が足りず、非常勤教員で補っている。団塊の世代の退職を目前に控えて、教員募集は理療科教育の質の低下どころか、理療科自体の存続の鍵を握るもの。さらに、条件の悪い特別支援学校にはたして教員がやってくるだろうか?」との疑問を呈した。
請願が採択されたことで、移転・統合問題は、11月中にも検討委の最終報告書が県教委に提出され、いよいよ戦いは第2ラウンドに突入する。請願には法的拘束力はないが、150万県民の代表である県議会の意見は重い。「存続させる会」は、検討委と県教委への働きかけをさらに強化し、盲学校の移転・統合を愛媛で阻止したいと意気込んでいる。なかでも楠本代表は「いつ、誰がリングにタオルを投げるかが問題だ」とはや勝利宣言とも取れる意味深な言葉を吐いていた。
10月とはいえ日中は暑く、汗だくになりながらの取材、そしてますますヒートアップする伊予の秋であった。
「本当に福山さんですか? ああよかった」。流暢な日本語で9月27日午後8時頃、私が滞在するヤンゴンのホテルにミャンマー盲人協会のアウン・コー・ミェント事務局長から電話がかかってきた。その直前に、「東京から9月25日にヤンゴンに来た52歳の日本人ジャーナリストが殺された」との噂を聞き、彼は青ざめて電話してきたのだ。私はこの時点で、まだこのニュースに接しておらず、思わず息を呑んだ。
軍事独裁政権の凶弾に倒れたジャーナリスト長井健司さんの実際の年齢は50歳であり、ミャンマー(ビルマ)での不確かな報道にすっかり振り回された形だが、アウン・コーさんから見たら、『点字ジャーナル』編集長もはるばる日本から来たジャーナリスト。実際に2日間の取材を予定しており、この日の午前中には、彼が経営する幼稚園「アジア・スター・ルビー」を見学させてもらいながら、インタビューもしていた。この日、僧侶を中心としたデモは大きく膨らみ、このままただで済むはずがないといわれていた。そしていよいよ軍が武力弾圧に動きだすという情報が入り、彼に促されて私は午前中で取材を切り上げ、彼と彼の手引きをしていた可愛い許嫁と昼食のビルマ料理を食べ、ホテルに帰ったのであった。僧侶は午前中にお勤めを終え、昼食後デモを行うのでヤンゴン市街は昼過ぎから危険だといわれていた。しかし、私がそれからダウンタウンに向かえば、事件に巻き込まれた可能性は大いにあり、アウン・コーさんはそれを心配したのだろう。
この前日9月26日の午前中、私はデモの出発点であるシュエダゴン・パゴダと終点であるスーレー・パゴダの両方に参詣していた。日本では一躍デモで有名になったが、元々前者はミャンマー随一の観光名所で、後者はダウンタウンのランドマークだ。前者のシュエダゴン・パゴダは、巨大な仏塔を囲んで中小の仏塔が林立しており、どれもが全面金箔貼りでその総量は10tを越え、総計5,451個(2,000カラット)のダイヤと1,383個のルビー等で彩られており、総額はミャンマーの全国民を30年間養えるだけの価値があるという壮大なものだ。104段の階段の脇にはエスカレーターも完備され、靴を脱いだ足で乗らなければならないので、私は少々戸惑った。ただ、午前6時前に参詣したにもかかわらず、広大な大理石を敷いた境内はきれいに掃き清められており、大勢の僧侶と共に熱心に善男善女が祈る姿は圧巻で、貧しい国のおそらく世界一豪華な寺院の朝である。
さらにその前日の9月25日の午後、私はシンガポール経由の中型機でヤンゴンに入った。飛行機はほぼ満席だったが目の前にいた大勢の乗客は、入国審査ではすべてミャンマー国籍の列に並び、外国人のトップは私になった。高級ホテルなのにやけに宿代が安いと思ったが、観光客が喜んで来るような国でも、季節でもなかったようなのだ。この日、亡くなった長井さんもバンコクからヤンゴン入りしたと帰国後聞いた。
そして入国した夜、ホテルのスタッフから「夜の9時から翌朝5時までのカーフュー(夜間外出禁止令)が発令された」と聞いたのであった。風雲は急を告げ、私は急かされるように早朝から両寺院に参詣したのだが、その日の午後から警棒と催涙弾、それに威嚇発砲による弾圧が開始され、ご存知のとおり黄金に輝く両寺院とも血にまみれたのであった。
私は海外でこれまでも死者を伴う騒擾を数回見てきたが、それはどれも暴徒化したデモを鎮圧した際のことであった。一方、今度のヤンゴンの事件は、僧侶を主体とした平和的なデモに対する有無を言わさぬ武力弾圧で、その無軌道ぶりは犯罪と断言していいだろう。
長井さんは戦場での死は覚悟していたのであろうが、実際はお経を唱えながら行進する僧侶の一団を取材中、至近距離からの銃撃による虐殺であった。彼でなくただの観光客であっても、カメラを手に殺されてもおかしくないのが、戦慄すべきこの国の今なのである。
シュエダゴン・パゴダの西隣には東京ドーム11個分に相当する広大な人民公園があり、その南側には私が宿泊したサミットパークビューホテルがある。周辺は大使館が軒を連ねる閑静な住宅街で、このホテルから車で5分ほどのところにアウン・コーさんの自宅兼幼稚園の3階建ビルがあった。2〜5歳の園児55人を6人の女性教諭が面倒をみていると聞いたが、私が見学した日は治安が悪いというのでスクールバスは出さず、近所に住む園児が5、6人来ているだけだった。また、通勤距離の遠い教諭2人も休んでいた。
アウン・コーさんは名目上は副園長だが、事実上は園長である。なにしろ園長である母親は、父と姉・弟の世話をするためシンガポール在住なのである。ヤンゴンには彼と、少し離れたところに末弟が住んでいるばかりという。開発途上国はどこでもそうだが、手っ取り早く豊かになるためには、海外に雄飛するにつきるが、弁護士である彼の父親を筆頭に彼の家族もその例に漏れないようだ。
彼の家には、母方の祖母と母の妹である叔母夫婦一家が同居しており、叔父は幼稚園のスクールバスの運転手をしている。なんともややこしいが、母は長年高校のビルマ語教師をしており、食事の世話はもっぱら同居する叔母がおこなっていたため、彼にとっての「お袋の味」は事実上「叔母の味」で、実際に母親が作るとなにか物足りないのだといって笑った。
アウン・コーさんは1975年にヤンゴンで生まれた。生まれたときから目が悪く、10歳で国立ヤンゴン盲学校に入学。ただ、同校は当時小学校の課程しかなかったので、中学・高校はヤンゴンキリスト教盲学校で学び、1996年にヤンゴン大学哲学科に進学。2000年25歳のとき、休学してダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業の第2期生として来日し、10カ月間の研修を受けた。そして帰国後ヤンゴン大学を卒業し、続いてミャンマー神学大学で宗教学を修め、次いでミャンマー外国語大学日本語学科に進学。この春同大に卒業論文を提出し、その結果を現在待っている段階で、なかなかの勉強家である。この間、2004年からミャンマー盲人協会の事務局長も務めているが、これはむろん無給である。
ミャンマーの人口は5,322万人だが、そのうちの視覚障害者数を政府は約30万人、盲人協会は約60万人と推定している。そして、そのうちの250人のみが盲人協会に組織されている。組織率がこのように低いのは、なによりも視覚障害者の就学率が約30%と低いからだろう。同国の識字率は90%と非常に高いにもかかわらずである。ミャンマーの国土は日本の1.8倍もあるのに盲学校は、国立が2校、私立が6校の計8校があるだけだ。このため盲学校には寄宿舎があるものの公共交通機関の長距離バス、フェリーボート、それに鉄道が十分整備されているとはいえず、盲学校への進学を大きく阻害する要因になっている。特に鉄路は老朽化が進み、「名鉄」払い下げの電車は時速20kmほどしか出ていないにもかかわらず、左右に大きく揺れた。また、長年鎖国を続け、その後も政府が情報管理を徹底してきたため、たとえば統合教育への取り組みにしても、まだ「斬新な試行」にとどまっているようなのだ。
この国を見ていると古いものと、新しいものがちぐはぐに混在していて我が目を疑う。真新しい飛行機と空港、植民地時代の駅舎に日本から払い下げられた電車とバス。見学した盲学校2校にはどちらも真新しい視覚障害者用パソコンがあったが、盲人協会では古めかしい大型の手動タイプライターが現役であった。
そしてこの盲人協会はヤンゴンキリスト教盲学校の一室にあった。格安で借りており、2人の女性事務員は常勤であった。一人は弱視で月給は3万チャット(3,000円)、もう一人は晴眼者で2万5,000チャット(2,500円)だと聞いた。アジア・スター・ルビーの教諭の月給は3〜5万チャットで、それだけでは生活できないので、家庭教師をして別途毎月4、5万チャットを稼いでいると聞いたが、弱視の事務員も携帯電話を貸し付けて毎月5万チャットの収入があると言っていた。つまりサイドビジネスの方が収入が多いのだが、それは税金がかからない闇経済なのである。これは一般庶民の軍事独裁政権への無言の抵抗でもあるだろう。ところで携帯電話を購入するには300万チャット(30万円)必要だが、これはなんと盲人協会の年間予算に相当する大金だ。しかし、そのような元手も有力なアルバイトもできなければ、一般庶民の生活は困窮の一途で、それが今回の僧侶のデモにつながったのである。
9月5日〜17日に掛けて第92回二科展が開催された。絵画、彫刻、デザイン、写真の4部門からなる同展は、(財)二科会による美術作品の公募展で、1914年の第1回から1世紀近い歴史を有し、従来は上野の森美術館と東京都美術館を会場にしてきたが、今回から東京・六本木に本年(2007)に開館した国立新美術館へと移して行われた。そのようなことも契機となり、デザイン部の新たな試みとして、今回から「触って観るポスターアート」コーナーが設けられ、会場を訪れた観客の注目を集めていた。
ポスターアートの入選作品は33点で、その内の1点は筑波技術大学の学生の手になるものであった。今年のテーマは、「日本ブランド」と「自由課題」の2つ。はがき大のオリジナル作品とともに、作品をモノクロに転換し、黒い部分が凸になるように立体コピーした触図を作成し、それに作品を説明した点字による文章が添えられていた。
同コーナーの企画には筑波技術大学が全面協力しており、その企画と運営の中心メンバーの一人は、安田輝男同大産業技術学部総合デザイン学科教授だ。東京大学で美術を専攻し、博報堂で長年ポスター等の製作で活躍されていた安田教授は、筑波技術短期大学当時の8年前から筑波技術大学で、聴覚障害学生に広告クリエイティブ、ポスター、ビジュアル・デザインを教えている。
それ以来、二科展のテーマを学生に課して出品しており、安田教授の指導の下学生の実力も開花し、毎年誰かしら二科展に入選するようになったという。このことが学内でも評判になり、数年前から同大で学生の作品を展示しはじめ、視覚障害者にも楽しんでもらえるように立体コピーした触図も展示。視覚障害の教職員や学生にも好評であったため、それを弾みに今回の二科展での試みに結実した。
安田教授は、「他の触図関係の研究者も異口同音に言うが、美術館は、視覚障害者が来ないものという前提で考えている。二科展では触って感じるというアート部門があり、話が通りやすかった。美術館関係者の固定概念を変革させるためにもこの企画が多少なりとも役立てれば嬉しい」と語った。
今回の作品を実際に触った筆者の感想は、輪郭がはっきりしたものは手で触れて理解しやすいが、もともと抽象的な構図や、背景と作品の色のコントラストが不明確なものなどは、手で触っただけでは分りにくいものも少なからずあった。
安田教授は、「今回の作品展示は、オリジナルにまったく手を加えることなく、そのまま立体コピーしたので、分りにくい点もある。作品を鑑賞した視覚障害者の意見を取り入れて、作者と話し合いながら、黒と白のコントラストを逆転させるなどより分りやすいものに改良していきたい」と抱負を語っていた。(戸塚辰永)
松山盲の移転・統合問題は、全国の盲教育関係者に衝撃を与えました。明日は我が身だからです。そして、視覚障害者にとっての特別支援教育が、文科省のいう美辞麗句の理念とは別に、極めて過酷であることをも露わにしたのではないでしょうか。とはいえ、対案を出さず現状維持だけを訴えてもいずれ押し切られるのは、火を見るより明らかです。先人が培ってきた我が国の高度な盲教育や職業教育をどのように継承し発展させるか、今、智恵と度胸が、待ったなしで求められています。一方、政治・経済ともに目茶苦茶のミャンマー、しかしヤンゴンの2つの盲学校は賑やかで活気に満ちていました。暗い世相だから人々は打ちひしがれているのかというと、どっこい、そうではないのですね。ただ、職業的自立は、一般給与生活者がそれだけでは食えない状況なので、とても厳しいようでしたが。
ジェームスは友人やボランティアと思われる人に頼んで電話をかけてくるので、「ジェームス・ライアン」と名乗ってもいつも違う声で、当初は面食らいました。ところで彼に点字英和・和英辞典を譲ることができる方は、いきなり当方に送りつけるようなことはせず、必ず事前に電話にてご連絡ください。とにかく分量がただならぬわけですから、くれぐれもよろしく、お願い致します。(福山博)
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