昭和10年代初頭の近代批判と古代賛歌を支柱とする文学思想に日本浪漫派がある。文芸評論家の保田與重郎を中心とし、太宰治や檀一雄らも同人として加わり、三島由紀夫などにも多大な影響を与えた一大文学エコールである。
安倍晋三首相の一連の発言を思い起こすと、この人は遅れてきた「日本浪漫派」かと思う。安倍首相の地球温暖化問題に係わる新提案は「美しい星50」で、著書は『美しい国へ』。三島由紀夫に『美しい星』という小説があるが偶然だろうか? 「日本の伝統への回帰」を叫ぶために「ロマン」とか、あるいは「レジューム」という横文字の概念が必要だったことも似ている。なにより、9月12日の突然の辞任会見で見せた病を背負った悲壮感とデスペレートな(絶望的な)諦観は浪漫派そのものではないか。(福山博)
当協会が委嘱した視覚障害委員によって選考された本年度の第15回「ヘレンケラー・サリバン賞」受賞者は、天津市視覚障害者日本語訓練学校(天津日本語学校)の李勝彦<リ・カツヒコ>校長(63歳)に決定した。本賞は、点字出版所設立25周年を記念して設けられた経緯から、従来は出版所設立記念日の10月1日前後に贈賞式を行ってきた。しかし、今回は「国際交流基金が12月に中国で実施する日本語能力試験を目指して、学生がラストスパートで頑張っている最中に校長が学校を留守にはできない」という受賞者の意向を尊重し、年が明けてから東京で実施する。
アジア視覚障害者教育協会の青木陽子会長が、1995年に天津日本語学校を設立し、以来10余年、現在までに77名(視覚障害48、健常29)の日本語能力試験合格者を出し、9名が日本へ留学。同校では、視覚障害受講生75名、同通信生125名に加え、肢体不自由13名、健常162名と、計375名の学生を受け入れてきた。その巣立った人々の日本語能力の高さは我が国でも定評のあるところだ。全盲の青木氏を公私ともに献身的に支えているのが、「中国の両親」と彼女が慕う李勝彦・傳春霞<デン・シュンカ>夫妻である。
李氏は「本来なら創立者の陽子が校長になるべきところ『外国人は、法的責任を負う資格を持たない』という法律があり、こちらにまわってきただけ」と謙遜する。しかし、サリバン賞に関しては「なにより祖母と母の祖国である日本から認められたのが嬉しい」と、手放しで喜んだ。彼が日本にこだわるのには、李家4代の浅からぬ日本との因縁のためだろう。
天津は首都・北京に隣接する港湾都市だから、さしずめ横浜市みたいなものだ。しかし、その面積は神奈川県に埼玉・千葉の両県を加えてもまだ足りず、北京にいたってはこの3県に東京都を加えてもまだ及ばない。中国全図を広げると点でしかない北京のしかし広大な天安門広場を訪れる同世代の日本人観光客を見て、李氏は思わずその姿に自分を重ねる。祖母や母と日本に帰っていたなら、間違いなく日本人として育ったはずだからだ。
李勝彦氏は日本が敗れる前年の1944年、満州国の首都・新京(現・長春)で生を受けた。大日本帝国の強い影響下で建国された国家に仕える当時の李家は、2代にわたり日本人妻を娶り、栄耀栄華を極めていた。父は満州国軍楽隊を指揮し、叔父は聴覚障害者ながら宮廷画家として名を馳せていた。母は日本人で、50数代(1300年以上)にわたり宮内庁楽部を中心に継承された格式の高い家系である薗<ソノ>家から嫁いでいた。
李家繁栄のきっかけを作った祖父は現在の一橋大や東京外大の前身である官立学校の中国語教授で、秋田美人の祖母を見初めて東京で挙式、勝彦氏の父親を含む3人の息子に恵まれ、彼らは中国人ながら日本人としての教育を東京で受けたのであった。
日本の敗戦で満州国はあえなく崩壊。国境線を突破してきたソ連兵に追われるように、李一家は新京から南へ下って大連へ、今度は北上して朝鮮国境の通化へと逃避行を繰り返す。そして、終戦の混乱がようやく治まると、日本人の引き揚げが始まる。そこで祖母と母は息子や夫と別れて帰国するか、中国に留まるかという究極の選択を迫られ、結局2人の日本人妻は、中国大陸に骨を埋める決意をする。このため、祖母はその後も「お前たちさえいなかったら、私はあの時引き揚げ船に乗れたのに」、と口癖のように勝彦少年に話したという。
長い逃避行の末、新京が改まった長春へ戻ってみれば、今度は国共内戦である。しかも、20歳半ばの母は肺結核を患い床に伏し、父は人民解放軍に職を得て広東省の広州に赴任して行った。勝彦少年が3、4歳の頃、弟は赤ちゃんで一家の切り盛りはすべて祖母がおこなった。その頃の記憶は、祖母が毎夜歌ってくれた「ねんねんころりよ、おころりよ。坊やはよい子だ、ねんねしな」のメロディーである。
新中国誕生の年である1949年、勝彦少年5歳の時、一家は聴覚障害の画家である伯父を頼ってはるばる天津に向かう。その時の無理がたたったのか、母はその後すぐにおびただしい喀血と共に26才の若さで亡くなった。それからは、祖母が彼と弟を育てた。「坊や、坊や」と可愛がられ、3人の日常会話は日本語だったが、母の死と勝彦少年の小学校入学をきっかけに、中国語が少しずつ混じるようになり、ついに日本語は消えてしまった。一歩外に出ればそこはもう敵地で、「日本の鬼っ子、小日本を打倒せよ」と悪ガキたちがてぐすね引いて彼を待ち構えており、しばしばとっくみあいの喧嘩をしたという。
元気だった祖母が、突然半身不随で寝ついたのは彼が12才の時で、以来、炊事・洗濯から食糧・雑貨の買い出しに至るまで、ありとあらゆる仕事が、彼の双肩にのしかかった。当時、一番苦労したのは食料の確保で、配給キップを持っていても、長い行列を作らなければ、物が買えない時代だった。とはいえ、経済的には苦労が絶えなかったが、それまでは日本人の血を引いていても、父にしろ伯父にしろ共産党体制の下で公式にはなんら差別を受けなかった。しかし雲行きが変わったのは、従兄弟が「右派分子」の汚名を着せられた1957年の反右派闘争の頃からで、ひたひたと「暗黒時代」の足音が近づいてきた。祖母が貧乏の末亡くなったのはちょうどその頃で、その後の地獄を見なかっただけ、かえって幸いであったと勝彦氏は述懐する。祖母の死後数カ月してはじまった大躍進運動の結果として全土を襲った飢餓地獄は悲惨を極めた。中学生の勝彦少年は、弟を従え夕暮れを待って農村に出かけては、畑から芋や大根などを失敬し、警察の目を盗んでは川で魚や蟹を捕まえ、食えるものなら犬だろうと芋の茎だろうと手を出した。なにしろ2,000万人とも5,000万人ともいわれる餓死者が出たのである。
1963年に彼は工業高校を卒業するとすぐ徴兵され、鉄道敷設のため零下46℃にもなる内モンゴルのモロトカに送られた。これを機に3つ下の弟は、再婚して広州に住む父親の元へ引き取られていく。勝彦青年が幸運だったのは、笛と歌ができたお陰で宣伝部にまわされ、原生林の伐採という過酷な労働から半年で解放され、翌1964年には北京の「文工団(文芸工作団)」勤務になったことだ。ここは軍隊の中で歌舞演劇を通じて思想宣伝を行う部門だ。そして1966年から10年間続くプロレタリア文化大革命の混乱を、彼は北京で迎える。24歳の彼は投票で「造反派(革命派)」400人を統率する隊長に選出され、2年足らずではあったが「武闘」を演じたという。
その後、李氏は逃げるように人民解放軍を除隊し、天津に帰って1969年には国営の新華書店に入社。その後、1985年からはレストランの経営で辣腕を振るう。そして、ご子息李爽<ソウ>氏が日本に留学し、青木さんに中国語を教えた縁で、李勝彦夫妻と青木氏が出会い、日本語学校へとつながったのである。現在、李爽氏夫妻は、日本人の親戚が住む神奈川県相模原市を中心に大型中華レストラン4店舗を構える会社を経営している。(福山博)
NTTドコモは、「あんしん」「かんたん」をさらに追求したテレビ電話機能付き携帯電話・らくらくホンW(F883iES)を8月17日に発売した。
デザインや操作方法、機能などは従来の機種を踏襲しつつ、らくらくホンシリーズで初めてのGPSを搭載している。自分の今いるだいたいの場所を地図や音声で確認したり、その地図を簡単にメールで送ることができるようになった。またらくらくホン専用の地図ナビソフトも搭載。音声読み上げだけでなく、音声での入力も可能で、特に乗換案内は便利だ。出発駅と到着駅を入力すると最短ルートを手軽に確認でき、各駅の時刻表も調べられる。さらに、セキュリティー面も強化。緊急時に大音量のブザーを鳴らして周囲に知らせるワンタッチブザーと、GPSを連動させ、ブザーを鳴らすと、音声電話の発信とともに、事前に登録した相手に自動的に位置を測定して居場所を知らせることができる。そのほか、歩数計はこれまでの歩数・歩いた距離・消費カロリーなどに加え脂肪燃焼量の表示も追加。らくらくホンベーシックで追加された着信相手の名前を読み上げる機能も継承している。
サイズは前機種よりさらにスリムになり、高さ104mm、幅50mm、厚さ17.6mm(折りたたみ時)。重さは約113g。色はシルバー・ピンク・ネイビーの3色。点字版とCD版のマニュアルも用意されている。
8月26日(日)午後1時から、東京都港区の東京都障害者福祉会館で、標記の集会が行われた。先月号の本誌でも触れたように、学校法人モード学園が、2009年に開校予定の医療専門学校に、健常者を対象としたマッサージ師養成課程を新設しようとしている。この集会は今後の対処方法や方向性を探るために開かれたものであるが、会場には三療に携わる関係者など90名以上が集まり、関心の高さが伺えた。
第1部は国立福岡視力障害センターの杉本龍亮<リュウスケ>厚生労働教官による「韓国盲人按摩専業秘話」と題する講演。韓国の憲法裁判所は2006年5月、視覚障害者にのみ按摩師資格を認めている法律について、職業選択の自由を侵害するとして、違憲判決を下した。これに対し、視覚障害者団体は判決の撤回を求めて抗議行動を展開。世論の応援もあり、3カ月後の8月には医療法が改正され、専門の教育を受けた視覚障害者にのみ按摩業を認める規定が盛り込まれた。以上が運動の経過であるが、講演の中で杉本氏は、「大変な状況にあるときこそ現状を訴えること、諦めずに信念を貫き通すことが大切」と強調した。韓国には障害者の生活を保障する年金制度がない。視覚障害者の多くは按摩業で生計を立てており、晴眼者に参入されては生活が成り立たなくなるという厳しい状況がある。運動によって違憲判決を覆すことは出来たが、視覚障害者の職域開拓という新たな問題も明らかになった。
第2部のテーマは「モード学園と視覚障害者」であるが、この問題を論議するためには、視覚障害者とマッサージの関係を見つめ直すことが必要となる。そこで以下の4点について、パネルディスカッションが行われた。
まず、元筑波大学教授長尾榮一氏が「日本盲人の職業と福祉」について発表。中世から現在までの視覚障害者福祉の変遷を外観した後、「日本国憲法に基づいて、障害者基本法(1970年)や障害者自立支援法(2006年)も障害者の社会参加や基本的人権を守るよう規定している。それが守られない状況になったとき、障害者は団結して対処しなければならない」と主張した。
次に日本盲人会連合あはき協議会会長の桜井俊二氏が、「日本の視覚障害者とマッサージ」について発言。1947年のGHQ(連合国軍総司令部)の鍼灸按摩禁止問題に触れ、「この時の反対運動は凄まじかった。今はあはき法19条によって守られているが、真に安定した生活を得るためには、直面している状況を行政に訴えることが大切」とした上で、「無免許者の増加や晴眼者の参入によって19条が脅かされるような場合には、関係団体が一丸となって立ち向かわなければ、現在の立場は守れない」と警鐘を鳴らした。
続いて、神奈川県横浜市の五色反町<タンマチ>治療院院長加藤勝<マサル>氏が、「中途視覚障害者と鍼灸マッサージ」について発表。同氏は40歳で失明してから開業までの道程を振り返り、「比較的順調だったことは恵まれていたと思うが、周囲は視覚障害者についてほとんど知らない。理解してもらうためにも外に出て、働きかけることが大切」と語った。
最後に登壇した笹田三郎氏は、「海外の視覚障害者とマッサージ」について報告。特に中国について、「按摩教育が始まったのは50年ほど前だが、この10数年で視覚障害按摩師の数が急増している。その裏には、短期間で按摩師を養成できるシステムがある」と語り、他のアジア諸国でも、健康産業の発展と共に按摩が盛んになる一方で、晴眼者との競争が激化している実態が示された。それに対し、フィンランドやイタリアでは法的な保護により、按摩が安定した職業になっていることが紹介された。このような状況を踏まえて、「日本では無免許者が有資格者の権益を無視してマッサージを行っている実情がある。行政の配慮や優先権の確保は言うまでもないが、有資格者の権益を認めてもらえるような対策を取らなければならない」と述べた。
フロアーとの意見交換でも、無免許者の取り締まり強化を望む切実な声が多く上がった。あはき業界が岐路に立たされている今、関係団体の更なる連携と協力が望まれると共に、今後の動向にも注目したい。(安達麗子)
9月12日、「首相退陣」という一陣の突風が吹きました。そこで問題になったのが「巻頭ミセラニー」での「首相」の扱い。発行日と自民党の総裁選をにらみながら一旦「前首相」としたものを、翌日「前」を削り、「首相」としました。
ちょうど10年ほど前、高田馬場の中華レストランで小会合があり、李勝彦氏に会ったことがありました。通訳はもちろん青木陽子氏で、「カツヒコ」と自己紹介されたのに驚いた記憶があります。また、実の娘のように青木氏をサポートしているのも不思議でした。本来ならばサリバン賞発表では、日本語学校における李校長の活動をもっと紹介すべきだったのでしょうが、あまりに有名な青木氏の活動と、李校長のそれは重なる部分が多いと考え、異例ですが、李氏がなぜ青木氏をサポートするようになったのか、その原点に迫るつもりで「李家4代、日本との友誼」として、それに代えさせていただきました。
今号は(特別寄稿)が2編並びましたが、これは「カンボジア報告」は、本来もっと前に掲載する予定だったためです。しかし、「掲載はいつでもいいですよ」という佐々木氏の言葉に甘えて、当方の都合でのびのびになってしまいました。この場を借りて失礼をお詫びすると共に深謝致します。(福山博)
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