「肉体労働」や「頭脳労働」と並ぶ言葉で、相手(顧客)に安心や満足感・購買意欲などある種の感情を引き出すために、高度な感情コントロールが要求される仕事をさす。米国では広く使われてきた用語で、1983年、米国の社会学者A.R.ホッシールドがその著書で提唱。航空会社の客室乗務員の労働実態を、典型的な「感情労働」であり、「感情の搾取」であると指摘した。というのも本来人為的には作ることのできない感情を、表情や声・態度で演出し続けるため、自分の感情を押し殺し神経を消耗してしまうのだ。そのため「燃え尽き症候群」に陥るケースも多いという。現在は、看護師・保育士・教師、また営業やカウンセリング・苦情処理など対人サービスのほとんどに「感情労働」をみることができる。
5月27日(日)午後、東京都北区の「北とぴあ」にて、日本視覚障害ヘルスキーパー協会主催の第29回ヘルスキーパーセミナーが、関係者など60人余りを集めて開催された。同セミナーは、まず後援をしている厚生労働省を代表して、工藤正一<くどう・しゅういち>専門官が挨拶に立った。
視覚障害者の就職状況は依然厳しく、昨年の上半期に就職した視覚障害者は841人だが、これは身体障害者の中で6.7%の少なさで、そのうちヘルスキーパーとして就職した人は30人で、年間でも60人位である。一方、昨年の4月から「障害者の在宅就業支援制度」がはじまったが、視覚障害者関係では、「在宅ヘルスキーパー」をイメージして、自宅開業者に企業が職員の健康管理のために発注すると一定金額以上であれば特例奨励金という形で企業に補助金が還付される仕組みを作った。この報奨金は今年の4月から企業への還付がはじまったが、残念ながらまだ3社しかなく、現状は事例作りの段階だという。法律改正を視野に入れて、同省では現在3つの研究会を実施しているが、それぞれに視覚障害委員が入って、雇用に反映させるように考えている。「厚生労働省も視覚障害者の雇用に積極的に関与するので、理解とご支援をいただきたい」と挨拶した。
セミナーの第1弾は筑波技術大学形井秀一教授による「これからの経穴、これからのあはき」をテーマにした講演。これはWHO西太平洋地域事務局の諮問を受け、昨年10月、つくば国際会議場で開催された「経穴部位国際標準化公式会議」の結果である「361経穴部位の国際標準化」について、歴史的な経緯、現代的な意味、今後の課題を、第二次日本経穴委員会の委員長である形井教授が解説したもの。ただ、この結果は、今年の夏から秋にかけて発表されるWHOの公式刊行物(英文)で発表されるので、それが教科書に反映されるのは早くても2年後という。
これに対してフロアから、「この問題を『医道の日本』で読んでから、今まで習ってきたツボはなんなのかと混乱状態にあるが、どう考えたらいいのか」と質問があった。それに対して教授は、「標準化は理論、教育するときの基準についての話であり、それを実際に臨床に応用して皆さんが現在行っている施術を否定するものではない。ただ、医学の分野でも1990年代より、カナダから全世界に広まった科学的根拠に基づいた医療・EBM(Evidence-based medicine)が指摘されており、このようにある時代までは正しいといわれてきたものに対する別の理論や視点が出てきて、見直さなければならないこともある。鍼に関してもその施術の科学的根拠を示さなければならないが、だからといって、自分で臨床的に確信を持って行っている施術を捨てる必要はまったくない」と述べた。
続いて行われたシンポジウム「ヘルスキーパーの発展 ―― 協会の役割を検討する」では、まず加藤武司会長が、「視覚障害者の就職先は、いぜんとして病院や治療院が多く、ヘルスキーパーはごく一部に限られる。それも地域差があり首都圏、東海圏、関西圏、北九州圏に集中しており、それ以外の地域とは認識が異なっているのではないか? 地域によって性差もある。ヘルスキーパーの専門性をどう身につけるか? そしてあはきの社会にフィードバックするのが我々の役割だ」と問題提起した。
次に登壇した理教連の緒方昭広<あきひろ>会長は、ヘルスキーパーについて昭和26年(1951)の産業教育振興法から説き起こし、1992年に日本視覚障害へルスキーパー協会が設立されるまでを、理教連とヘルスキーパーの関係も含めて歴史的経過を踏まえて解説。次いで手技療法の効果に関する文献研究の紹介を行った後、ヘルスキーパーの概念と定義が不統一なので、その確立が必要。ヘルスキーパーの教育養成プログラムの確立、普及活動・就労促進、企業が雇ったときのメリットを数値化する。他団体とのネットワークの構築等について提言を行った。
続いてヘルスキーパーの立場から協会の会員である(株)テプコシステムズ(注)大石孝氏が、無資格業者がリラクゼーションということで企業に働きかけている。また京都で知的障害者に足裏マッサージを教えている問題について、障害者雇用という点で競合しかねないので、問題が小さいうちに摘む必要がある。視覚障害者がシステムエンジニアとして雇用されても、結局仕事についていけず退職する例をみている。とくに重度視覚障害者にとってあはきは適職であるように思う。産業労働衛生法関係で産業医、看護師と共にヘルスキーパーも何らかの位置づけができないか。ヘルスキーパーの定着に向けて技術の向上、PR活動、他団体との連携の必要性等について提言した。
その後フロアとの議論になり、ヘルスキーパーの定義に関しては、協会の仕事として今後検討することになった。衛生管理者の資格をとり、ヘルスキーパーばかりでなく社内の安全衛生委員会の議長として月例会やセミナーのとりまとめをしている人の体験談があったが、障害者雇用率のことばかり考えている会社では、産業カウンセラーや衛生管理者の資格を取っても生かし切れないケースも多い。盲学校の就職担当者もその厳しい状況をわかって欲しい。入社する前に産業医などと話がついているのかフォローして欲しいという悲痛な声もあがった。学校教育の中での実技の不足、ヘルスキーパーに関する内容の不足等が、国試とのバランスの関係で議論された。
(注)コンピュータソフトウェアの開発などを行っている東京電力の子会社。ヘルスキーパー制度の導入を計画している企業に向けて、導入のための手引書や導入のための具体的書類例などをホームページ上(http://www.tepsys.co.jp/)で、無償提供している。
4月19日(木)午後1時から映画「ふみ子の海」の試写会が、東京・東銀座の「シネスイッチ銀座」にて、70人あまりの招待客・関係者を招いて開かれた。この映画は、元高田盲学校の教師で児童文学者の市川信夫さんの原作『ふみ子の海』(理論社刊、1991年児童福祉文化賞受賞)を映画化したもの。モデルは高田盲学校で長年教鞭をとりながら、日本盲人会連合婦人部長として視覚障害女性の福祉向上にも尽力、さらには『光に向かって咲け』(岩波書店刊)の著者でもある故粟津キヨさんの少女時代である。
映画の舞台は、昭和10年頃の雪深い新潟県高田市(現・上越市南部)。主人公の淡路ふみ子(鈴木理子<りこ>)は幼くして失明し、母チヨ(藤谷美紀)と2人で肩を寄せ合って慎ましやかに暮らしていた。我が子の将来を案じたチヨはふみ子を連れて入水自殺を計ろうとしたが、「海ってきれいだね」という一言で我に返り、我が子のためにと前向きに生きる決意を固めた。そんなある日、高田盲学校教師・高野りんと出会ったふみ子は、点字の世界を知り、盲学校進学を夢見る。しかし、一家の暮らしは赤貧洗うがごとしで、とても学校へ通わせる余裕などない。そこで、本家の大旦那・善吉に相談すると、「めくらの女が学校へ行ってなんになる。瞽女になるか、按摩になるか、二つに一つだ」と言われ、ふみ子は全盲の按摩屋笹山タカ(高橋惠子)に9歳で奉公に出される。
盲女性が按摩で生活する厳しさを身に染みて感じていた師匠のタカは、弟子たちに按摩ばかりか日常生活一般も厳格に指導する。辛い日々が続くふみ子の拠り所は、2つ年上の先輩サダ。同じ境遇の2人は、実の姉妹のようになんでも話し合い、励まし合う。弟子入りして1年たつと、ふみ子は按摩笛を吹いて高田の街を流すようになるが、当然客を1人もとれず、タカから毎日のように叱責される。そんなふみ子を見かねたサダは自らの稼ぎを渡してかばおうとすると、それをタカに難なく見破られ、「めくらがめくらを騙すのはもっての他だ」と、激しく折檻される。
ふみ子は、高田の人々にも助けられて徐々に一人前の按摩として自立して行く。そんなある日、子供のいたずらがきっかけとなりふみ子は高野りん先生と偶然再会する。りんは放課後、盲学校にふみ子を呼び、点字を教える。好奇心の旺盛な彼女はヘレン・ケラーの自伝をむさぼり読み、「いつかはヘレン・ケラーさんみたいなりっぱな人になりたい」と夢見るようになる。按摩屋のラジオからは二・二六事件の臨時ニュースが流れ、軍靴の音が響く昭和10年代、ふみ子の生活も風雲急を告げる。
同映画は、今年(2007)10月から「シネスイッチ銀座」を皮切りに、全国ロードショー上映の予定。試写版では音声ガイドが付いていなかったが、現在音声ガイドを検討しているという。なお、鑑賞の際にはハンカチーフをお忘れなく。(戸塚辰永)
「やや大風呂敷を広げた感はあるが、ユニバーサル社会の実現のためには、今、公共団体・企業・利用者などの横の連携が必要とされている。このシンポジウムがその役に立てれば幸い ―― 」。この社団法人交通バリアフリー協議会会長・井山嗣夫<つぐお>氏の挨拶で始まった標題のシンポジウムは、5月22日、赤坂区民センター(東京)を会場に行われた。主催は同協議会、後援は国土交通省で、協議会に加盟する企業や自治体のほか、障害者団体から約250名が集った。内容は多岐にわたり、まちづくりの事例から機器開発まで計10本の発表が行われたが、そのなかで視覚障害者関連の発表を中心に紹介する。
まず、日本信号(株)の今井達二己<いまい・たつふみ>氏は、JR宇都宮駅構内で行った歩行実験について報告。これまで視覚障害者の歩行案内システムといえば、1つの機器を使って案内するものを中心に開発されてきたが、これからは残存機能を活用した利用者中心のサービスへと切り替えるという。そのため、資料収集や施設の訪問調査などを行った後、音声案内の内容や効果的な伝達手段を探るべく、先天盲の女性(20代)を被験者に実験を行った。歩行時の音の手がかりと周辺の環境音を調査したところ、音声案内は実験時は問題なかったが、人の多い時間帯では音量が問題となる可能性があると指摘。人の流れ・店舗の音楽などの環境音も手がかりとなることを再確認した。またスロープの有無で男女のトイレの入り口を判別したことは、意外な発見だったという。実験後に口頭で駅構内を説明してもらうと、メンタルマップに局所性があることが分かった。このことから、音声案内は全体的な位置関係よりも、部分から全体を説明する方がよいとし、今後はさらに被験者の幅を広げて実験を重ねたいと発表を締めた。発表後の質疑応答では、DPIの今福義明氏(車椅子)が「スロープの話は感動的」と発言。また次の発表者でもある国立身体障害者リハビリセンターの小林章<アキラ>氏からは「局所性は先天盲の方だったからでは、今後は中途視覚障害者も参考に」との意見も出た。
次に、その小林氏は(株)キクテックや住友スリーエム(株)と共同開発した弱視者用の蓄光式段鼻標示材について発表。2001年の全国身体障害者実態調査では、日本の視覚障害者の約62%は65歳以上の高齢者であり、その主な原因疾患である糖尿病性網膜症・緑内障・白内障などは、視力の低下だけでなくコントラストの低下ももたらす。同氏によると、その際1番問題になる歩行課題は下り階段で、影が見えず平面に見えてしまうので非常に危険だという。開発した標示剤は、縦3cm、横40cmのテープタイプで黄色と茶色の2種類。暗い環境下でも識別しやすいよう、楕円形の蓄光剤が間隔を置いて配置されている。性能調査では、平均年齢25歳の晴眼者15名にコントラスト感度を低下させる半透明な遮蔽板「バンガーターフィルター」を使って、視力を0.03〜0.06に低下させて実験。使用した赤茶色の階段では黄色の方がコントラスト比が高いが、意外にも茶色も視認性があったものの、これは蓄光剤のためと推測。今後は被験者層を高齢者まで広げて実験を続けたいとまとめた。質疑応答では、耐久性についての質問が出たが、「1年使用してもはがれるなどの問題はないが、踏まれて蓄光部分に汚れが出たときに、どの程度効果が落ちたかは確認できていない」と答え、今後の課題とした。
そのほか、興味深かったのは、富士電気システムズ(株)の高畑達<たかはた・いたる>氏による街角ロボット構想。市街地・住宅地などの街角にカメラ・マイク・スピーカー・通信機能などを搭載した自動販売機を配置し、防犯・防災、観光案内などに使うというもので、愛知万博では自動販売機ではないプロトタイプのデモンストレーションが行われた。便利ではあるが、タッチパネル操作なのが問題だ。また、とくに質疑応答が活発だったのが、斜行型階段昇降装置だ。これは駅構内の階段に設置される、駅員を必要としない斜めに動くエレベータで、車椅子だけでなくすべての人が使える。今年度内には東京メトロで試験設置する予定だという。(小川百合子)
関東エスペラント連盟は「エロシェンコと現代日本」と題する講演会を、5月20日(日)13時〜14時半、横浜市ZAIM(注)において、100名余りの参加者で開催した。
講演者は、ロシア極東国立総合大学函館校副校長のセルゲイ・アニケーエフ氏で、講演は、同連盟の年次大会の企画として開催されたため、エスペラント語により、日本語の逐次通訳を交えて行われた。ところが、同氏は来日10年目で日本語もペラペラであるため、つい通訳に引きずられて、途中日本語で話しはじめたため、会場は爆笑の渦に巻き込まれる一幕もあった。
同氏は3年前に『世界を歩いた人』というロシア語の本を読み、中心人物であるワシリー・エロシェンコ(1890〜1952)に興味を持ったという。そして、エロシェンコの研究をはじめたアニケーエフ氏は、様々なつてを頼り、現在は引退して米国に住んでいるア・ハリコウスキー氏を探し出し、文通するようになる。
ハリコウスキー氏は、山本直人<やまもと・なおと>訳で邦訳が恒文社から出ている『盲目の詩人エロシェンコ』の著者である。そして、高齢のハリコウスキー氏は、エロシェンコに関する資料をアニケーエフ氏に託したのである。その中には、エロシェンコ研究の第一人者で、戦前は改造社の雑誌『文藝』の編集者で、戦後は静岡大学教授であった高杉一郎氏の著作『エロシェンコ全集』全3巻もあり、そこには「ウラジミール・ローゴフ氏に捧げる」と高杉教授の直筆署名があったという。
ソ連のジャーナリストであるローゴフ氏は、エロシェンコの死後日本を訪れ、劇作家で児童文学者でもあった秋田雨雀(1883〜1962)など生前のエロシェンコと親交のあった日本人に直接インタビューを行い、1958年、エロシェンコ没後6年にして、ソ連において初のエロシェンコの紹介記事を書いたのである。
その後、高杉一郎教授のエロシェンコ全集や伝記もソ連に伝わり、1962年にはエロシェンコの伝記が、ロシア語やウクライナ語で刊行されたという。そして、1982年にはより詳細な改訂版が出版されたが、それも高杉一郎教授の伝記に依拠したものばかりであったという。エロシェンコの作品は、日本語、中国語、エスペラント語では刊行されているが、実はロシア語では編まれていないのである。このため、エロシェンコが、童話作家・詩人として活躍したのが大正期の日本であったため、日本の作家・詩人とみなされることもあるほどだという。
エロシェンコはスターリン時代に、国際主義者で、ユートピア主義者と目され、冷遇された。また、彼に関する研究も、旧ソ連時代は事実上禁止に等しいもので、エロシェンコに関する資料もロシアにはほとんどなく、日本や中国に多く残存している。アニケーエフ氏は、高杉一郎教授でさえ発掘できなかった、エロシェンコの幻の作品を、日本語の点字書の中に発見したという。
アニケーエフ氏の講演は、ロシアの盲目の詩人エロシェンコが、エスペラント界だけでなく日本の文化にも大きな影響を与えた大正時代から90年余がたち、エロシェンコは児童文学にしては内容が深刻すぎるし、文学としては物足りないと、否定的にとらえられることが多い。しかし、彼の国際主義者としての精神は、今国際化が課題といわれている日本においては必要なものであり、そのためにもエロシェンコはもっと再評価されて良いと力説するのであった。
質問では、「エロシェンコが留学した現在の筑波大学附属盲の蔵書には、当時の点字雑誌『六星の光』が現存しており、エロシェンコの作品も残っている。しかし、それとエロシェンコ全集の作品には明らかな違いがある」という、指摘もあった。これに対して、アニケーエフ氏は、「それは秋田雨雀らが、手を加えたためだが、内容的にはロシア人の手によるものであることは明らかだ」と述べた。
ところで、私はモスクワ盲学校にエロシェンコのまとまった資料があることを聞いていたので、講演後アニケーエフ氏にその旨話した。アニケーエフ氏もエロシェンコが、ソ連帰国後、モスクワ盲学校で英語教師の職にあったことは、知っていたが資料の存在については懐疑的であった。そこで、名古屋在住のロシア人視覚障害者ニキータ・S・ヴァルラモフ博士を紹介したのであった。(福山博)
(注)横浜市が現代美術の国際展を実施するために市民サポーターやアーティストに解放している施設で、元は旧関東財務局と旧労働基準局の2つの歴史的建造物。
その日は土曜日で、朝から篠突く雨に加え、夜半からは強風が吹くと天気予報は警戒を呼びかけていた。その日、僕は遅れていた仕事を片づけるためにひとり出勤した。暖冬とはいえその日は寒く、低気圧のせいか僕の気分は最悪であった。そして魔が差したのか、めったに乗らないタクシーに乗って、道を知らないドライバーのために、出勤までにひどく疲れていた。しかし、仕事はひとりで集中でき、午前中は思いの外はかどった。問題は昼食を食べに外に出て、帰ってきた直後に鳴った電話であった。
受話器をとると、すさまじい警報ベルと共に、「たった今出勤したら、火災報知器が鳴っていた」と、やはり休日出勤した当協会図書館職員からの通報があった。小誌編集部は、協会と隣接した毎日新聞別館内にあり、ベルの音はまったく聞こえなかった。
火災報知器のある部屋に文字通り押し入ると、火元を示すランプは「ヘレンケラー学院1階」が点灯していた。そこで主装置を切って、とりあえず近所迷惑な火災ベルの音を消した。火災が発生している様子は微塵も感じられなかったが、火災がどこかで起きていることになっており、主装置を復旧させると、またすさまじい音がした。
やむなく、契約している防災会社に電話すると、各部屋の天井にある煙感知器のどれかが点灯しているはずだという。教室、トイレ、倉庫とどこを見て回ってもランプはついていない。しかし、合い鍵が見つからず立ち入れない部屋があった。そこで、協会の防災担当者、理事長、その部屋の担当と次々に電話をしたが、午後から雨があがったせいか誰もが外出中で、携帯電話も通じなかった。そこで、留守電にメッセージを録音したのだが、このため3時過ぎから4時にかけ続々とそれらの人々を呼び寄せる結果になった。
まず、最初に現れたのは防災会社の係員で、点検してもらうと異常はないという。立ち入れなかった部屋も、開けてみれば意外にも無実だったのだ。後は防災担当者にまかせて僕は、仕事に戻ったのだが、結局その日の本業はまったく振るわなかった。
翌週の月曜日に聞いた話は、結局原因がわからないまま、自然に復旧したという何とも気の抜ける結論。そこでやや無責任ながら気圧のせいで報知器も一時的に狂ったのだろうと考えた。ところがその後、もう一度同様の事件が起こったのだ。その時は消防署に通報され、前にも増して大騒ぎになり、やっと原因が究明されたのであった。
職員トイレに掃除道具を入れる高さが1mちょっとの穴蔵のような物置があり、そこに別途煙感知器が付いており、赤く点灯していたのだ。トイレの個室は天井が抜けているため、煙感知器は一つだけのはずだと誰もが思いこんでいた。しかし、その物置は階段下の空きスペースを利用していたため、構造上天井が抜けないので、別途付いていたのだ。
「プロならすぐに気づけよ」とも思ったが、その前に、うかつさはお互い様であった。(福山博)
7月19日(木)午後7時から、日本橋区民センター内(03-3666-4255)日本橋劇場において、尺八の人間国宝山本邦山<やまもと・ほうざん>氏をゲストに迎え「しんゆうの会」箏曲演奏会が開催される。今回は、宮城道雄14才の処女作であると共に、全作品の中でも屈指の名曲「水の変態」を、宮城の愛弟子である森雄士<もり・ゆうじ>氏が演奏する。「しんゆうの会」とは箏曲家の唯是震一<ゆいぜ・しんいち>、森雄士の名前を一字とって名付けた二人演奏会。入場料は3,000円、詳しくは〒151-0064東京都渋谷区上原3-21-4森雄士さん(03-5453-0503)へ。
「伝言板」に掲載するためには、どんなに遅くとも毎月10日までには資料をいただかなければ掲載することはできません。それが、今回遅れました。森雄士先生には本誌に連載した「宮城道雄50回忌に寄せて」で、大変お世話になり、また、今回は「水の変態」を演奏されると聞き、万難を排して参上したいところです。しかし、その日は参議院選挙の点字公報の作成が糅てて加えて、本誌8月号の編集に大わらわの可能性大で、髪振り乱しているかも知れません。(福山博)
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