THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2007年4月号

第38巻4号(通巻第443号)
編集人:福山 博、発行人:迫 修一
発行所:(社福)東京ヘレン・ケラー協会(〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4
電話:03-3200-1310 振替:00190-5-173877) 定価:一部700円
編集課 E-mail:tj@thka.jp
―この紙はリサイクルできません―

はじめに言葉ありき「巻頭ミセラニー」
「ジャイロボール (gyroball)」

 当の本人は「何を指しているのか」と当惑するが、レッドソックスの松坂大輔投手が投げる魔球は速度が落ちず、打者の手前で急激に変化すると米メディアが大騒ぎをしている。
  ジャイロボールは、ライフルの弾丸のように、進行方向に伸びる軸を中心に回転する独特の球種で、スポーツ科学者で、野球道場「上達屋」代表の手塚一志<テヅカ・カズシ>氏(44歳)が名付けた。主なジャイロボーラーは、ロッテの渡辺俊介<ワタナベ・シュンスケ>投手、元阪神の川尻哲郎<カワジリ・テツロウ>(現プロ野球解説者)、ニューヨーク・メッツのペドロ・マルティネス。
  米国のインターネット投稿動画サイト「ユーチューブ(You Tube)」を見ると、スローモーションで松坂の縦に変化するスライダーが、捕手側からみるとたしかにきれいに反時計方向に回転しながら迫ってくるのであった。

目次

第15回「ヘレンケラー・サリバン賞」候補者推薦のお願い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
ユニバーサル社会を考える 
 高山情報バリアフリー推進シンポジウムに参加して
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
4
盲教育は埋没するのか? 「特別支援教育全国フォーラム」にて ・・・・・・・・・・・・・
12
クリシュナ君の客死と遺児のその後 募金を集めてから困ったことを含めて ・・・・・
19
用具センターからのお知らせ:人気復活中!「ものしりトーク」のご紹介 ・・・・・・・・・
27
リレーエッセイ:こんにちは!シネマ(ノンちゃん) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
28
感染症研究:ここまでわかった皮膚常在細菌叢の役割 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
32
水原紫苑の短歌教室 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
37
知られざる偉人:視覚障害女性の地位向上に尽くしたS.マクブール女史 ・・・・・・・
39
コラム・三点セット ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
43
大相撲:騒動・事件史その1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
46
ブレーメン:窮屈な「サニー」でハンガリーへ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
49
スモールトーク:振り込め詐欺にご用心 携帯を使った手口はこうだ! ・・・・・・・・・・
52
パスモは便利なICカード乗車券
 東京都交通局が「都営交通パスモナビ(点字版)」を作成! ・・・・・・・・・・・・・・・・
56
時代の風:脳の考えを機械で読む、井口深雪選手引退、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
58
伝言板:奨学生公募のお知らせ、視覚障害者の情報アクセス、他 ・・・・・・・・・・・・・
61
編集ログブック ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
63

ユニバーサル社会を考える
―― 高山情報バリアフリー推進シンポジウムに参加して ――

1.きっかけ

 昨年仕事を通じて私は、バリアフリー旅行に携わっている方々と知り合いになった。その縁で、バリアフリーのシンポジウムにパネリストとして参加しないかというお誘いをいただいた。最初はあまり気乗りしなかったのだが、たいへん興味深いエピソードを伺い、そういうこともあるのだったら私も少しは役に立てるのかなと思い直し、参加してみることにした。
  そのエピソードとは、次のようなものだ。社団法人交通バリアフリー協議会という組織があって、関心のある企業や熱心な自治体が加盟している。所管は、国土交通省総合政策局交通消費者行政課。この協議会が数年前に開催したシンポジウムで、富山県のある視覚障害者が寝台車で自分がどこにいるのかわからない、自分の位置をわかるようにしてもらえないかと涙ながらに訴えた。同席していた国土交通省の当時の担当課長の尽力で、新幹線の車両の点字サインが実現したというのである。私は東海道・山陽新幹線をたまに利用するのだが、あるとき突然トイレのドアに点字サインを見つけて驚いた経験を思い出した。そのときは、どこかの熱心な団体がねばり強く交渉して実現したのかなと勝手に合点したのだった。

2.シンポジウムの概要

 交通バリアフリー協議会と岐阜県高山市の共催で本年2月26日(月)に、シンポジウムが高山市民文化会館で開かれた。はじめに、交通バリアフリー協議会の梅原肇理事長が、開会を宣言した。引き続いての来賓挨拶では、まず、国土交通省総合政策局交通消費者行政課の武川恵子課長が登壇、ハートビル法と交通バリアフリー法を統合して、新たに昨年6月21日に公布、同年12月20日に施行されたバリアフリー新法について概説した。次に、土野守高山市長は、歓迎の挨拶の中で、高山市におけるバリアフリーのまちづくりの取り組みについて説明した。
  基調講演は、摂南大学工学部の田中直人教授。田中氏は1948年神戸市生まれ、建築学の分野でバリアフリーやサイン計画などを研究、バリアフリーに関する政府や自治体の委員を歴任、神戸の震災復興にも関わった方である。テーマは「バリアフリーの実践と展望」。まず、バリアフリーに関して次のように概観した。属性に対応したバリアを除去するのが中心で、例えば車椅子のための段差解消、視覚障害者のための点字ブロックの設置等々である。物理的なバリアの除去に加えて、社会的なバリアや心のバリアを取り除いていかなければ、真の意味でのバリアフリー社会は実現できないと付言した。スライドの事例の中から、興味深いものをいくつか紹介しよう。デンマークの事例では、(1)点字ブロックの警告(点状)ブロックは残して誘導(線状)ブロックをスリムラインという線に置き換えたもの、(2)床材のタイルの仕上げをあるラインだけ凹凸の模様をつけてそれ以外はフラットにしたもの。そして、田中氏の関わった建物で採用した手法では、次の二つが注目される。一つは、視覚障害者の施設において曲がり角を、天井の高さの違いによる音の反射の変化、鳥の鳴き声、水の音、光の強さの変化で認識してもらう手法。もう一つは大阪府堺市のビッグ・アイ(国際障害者交流センター)の廊下における試みで、誘導ブロックを設置するかわりに「タイルカーペット」と固い石のタイルというように床材をかえてかつ色をかえた手法だ。このようにすることで、全盲のための方向性、ロービジョン者のための空間認識、車椅子のためのゾーンの確保が実現できたというのである。同氏は、限られた空間や資源をみんなが使いやすいようにするため、また共用を成立させるため根本的に考え直す必要があるのではないかと問題提起した。そして、バリアフリーを進化させていくことにより、ユニバーサル社会を達成することを目標にすべきだと提案。そのための今後の目指すべき方向性について、次の6点を指摘して締め括った。(1)バリアフリーは個別の課題を超えるべきである。(2)多様な人々の参加と共同。(3)参加の実を上げることで、プログラムのスパイラルアップ。(4)一つの基準や一つの製品ではなくて、これからは多様な方法論を提示しなければならない。(5)ユニバーサルだからといって皆同じというのでなく、地域性や個性を生かしたデザインが必要である。(6)環境共生に立脚したトータルな枠組みのデザインが求められている。
  パネルディスカッションに移って、第1部のテーマは「バリアフリー新法の視点からみた高山市のまちづくり」である。高山市企画管理部企画課長の西倉良介さんは、住みよい街は生きよい街という理念で高山市が取り組んできた誰にも優しいバリアフリーのまちづくりについて報告した。続いて、全国頸髄損傷者連絡会相談役の今西正義さんは、車椅子使用の立場から、条件整備に取り組んできたこれまでの運動を振り返りつつ、交通バリアフリー法の施行(2000年)で非常に外出しやすくなってきたと具体例を挙げながら語った。今回のシンポジウムに参加するために東京から高山市までどのようにしてやってきたかという体験談は、車椅子使用者にとってのバリアとその対処法を活写するものであった。次に、鹿島建設(株)建築設計本部の原利明さんは、建築設計者の立場とロービジョンの当事者という立場から、見やすさとデザインを考えることでよりよいユニバーサル社会を実現できるのではないかと主張した。そして、これまでのガイドラインでは点字ブロックの設置など視覚障害者といっても全盲のための整備が中心で、将来的に増える傾向にあるロービジョン者への配慮が進んでいないと訴えた。最後に、東京大学大学院講師の大森宣暁さんは、都市交通計画と人間の交通行動を専門とする観点で、バリアフリー新法と高山市の取り組みについてコメントした。
  私が参加したのはパネルディスカッション第2部、テーマは「超高齢・人口減少社会における観光産業とコミュニケーション」だ。まず、(株)ICSコンベンションデザイン営業開発部マネージャーのピーター・ラクナーさんが、高山市の外国人モニターツアーに関して報告した。次に、千葉県ユニバーサルツーリズム事業推進委員で聴覚障害者の松森果林さんは、聴覚障害者は移動のバリアはほとんど無いが情報障害とコミュニケーション障害が課題であると具体例を織り交ぜながら説明した。3番目が私で、全盲の立場から一人旅のエピソードを交えて、移動困難の問題と旅行願望について話をした。続いて、サービスを提供する側から、ひだホテルプラザ宿泊支配人の道下勝彦さんが、その次に高山グリーンホテル技術次長の村山宏さんが、これまでの経験や取り組みに関して報告した。最後に、交通バリアフリー協議会アドバイザリースタッフの中川敬三さんは、IT特に携帯電話を利用しての街の情報整備に関して提案を行った。

3.バリアフリーが新たなバリアに

 シンポジウムの前日には顔合わせの食事会があって、私は高山市に単身乗り込み、「指と音でたどる飛騨高山観光マップ」を頼りに街をいろいろと歩いてみた。高山駅前の観光案内所で昼食に関して相談したところ、寿々や〈スズヤ〉を紹介された。道順は、駅前から石畳の道路を宮川に向かって直進、花屋の角を左折してしばらく行った右側だという。横断歩道を渡り、石畳の道路に入った。この道路は、車道、歩道、側溝のグレーチング(金属の格子蓋)部分がフラットなのである。段差はまったく無い、歩道のちょっとした傾斜さえ皆無。途中の床屋で、花屋の角を再度尋ねた。3本目の道を左だという。寿々やに到着、昼食を取ることができた。
  フラットな道路を歩いて感じた問題点が三つある。第一に、知らないうちに車道にはみ出る危険性だ。第二に、歩道のどの辺りを歩いているかの定位感覚の喪失。第三に、交差点に差し掛かっても、完全にフラットでありしかも側溝のグレーチングは続いており、左から交わって来る道を横断している感覚をまったく抱けないのだ。そのとき私は、施設見学会に組み込まれている道路だということを知らなかった。
  27日(火)の午前中は施設見学会だった。Aグループは公共系施設、Bグループは観光系施設で、私はAグループに参加した。融雪機能を有した点字ブロック、歩行者感応式安全システムなどを見学した後、歩車共存型道路を歩いた。これが件の道路だったのだ。今度は手引きされてである、しかも市役所の担当者の解説つきだ。その解説によると、歩道を茶色にカラー舗装することで車道と同じフラットな歩行者ゾーンを実現できたというのである。手引きされて歩いてみると、前述の問題点をほとんど実感せずに済んでしまうのだ。誤解を恐れずにいうならば、段差解消のバリアフリーにより新たなバリアが生み出されているのではないか。歩道を2、3cm高くして段差は緩い傾斜にするとか、車道と異なる素材を歩道に採用するといった配慮があれば、全盲の単独歩行でも歩きやすくなるのではないかと感じた。
  なお、歩行者感応式安全システムとは、センサーが歩行者を感知して、昼間は音で夜は光で交差点であるという情報を知らせるものだ。

4.新しい潮流 ―― まとめにかえて

 顔合わせの食事会で、はっとさせられたことがあった。2005年2月に開業した福岡市営地下鉄七隈〈ナナクマ〉線が話題になった。駅の施設や設備でいろいろ新しい試みが取り入れられているそうで、その一つが誘導ブロックの断続的な設置だ。点字ブロックの過剰な設置は、車椅子使用者や健常者にとってはバリアになることもあるといわれて久しい。そこで、誘導ブロックを横切る動線を確保するために、誘導ブロックを一定間隔でわざと設置していない箇所があるのだ。この話を聞いて、昨年11月私は福岡市の繁華街にある七隈線天神南駅の地下コンコースで、たまたまこの誘導ブロックを歩いたことを思い出した。てくてくてく・かくっ、てくてくてく・かくっ、ぎこちない歩き方を余儀なくされなんだこれはと違和感を禁じ得なかったのだが、理由もわからないままそのことは記憶の彼方に押しやられていた。
  これまで視覚障害者のためのさまざまな誘導システムの実験が行われてきたが、実用に耐えうるものは今のところ見当たらない。しかし、ユビキタス社会の到来で、実用化が一気に加速するかもしれない。また、基調講演の事例からトレンドを読むと、視覚障害者の誘導と安全は、点字ブロック一辺倒から、音、音の反射、色や光など五感を総合したものへと移行する傾向にあるようだ。これらに加えて、誘導ブロックの断続的な設置である。いずれ全盲の単独歩行は、あるときには点字ブロックで、あるときには五感を総合して、またあるときには誘導システムでと多様な対応を迫られることになるのかもしれない。そういう状況になったら、緊張感や疲労感の増大あるいは集中力の低下が、もたらされないで済むのだろうか。
  全盲の単独歩行にもいろいろなレベルがある。歩行訓練を受けて白杖を使って歩けるようになる、通勤通学は何とか一人で大丈夫、2、3度訪れたことがあれば一人で歩ける、初めてのところへも一人で出かけられる等々。これは視覚障害関係者にはいまさら指摘するまでもないことだが、他のユニバーサルデザイン関係者にどこまで理解されているのか気がかりだ。点字ブロックの設置や施設の設計は、全盲が初めて一人で歩くことをベースに考えてもらいたいと思うのだが、無理な願いだろうか。
  今回のシンポジウムに参加して、バリアフリーやユニバーサルデザインに関する車椅子使用者の要望は確かに切実で根源的なものであり、またロービジョン者のそれは健常者からは大変新鮮に受け止められている感を強くした。彼らは全体計画、トータルなデザインの下で自分たちの要望を実現しようと努力している。しかも、運動団体や研究会の活動を通じて組織的に対応できているのだ。パネルディスカッションで私が移動の困難や旅行願望を開陳したところで、何か軽薄で迫力に欠ける発言だったのではないかと思われてならなかった。

(『ライト&ライフ』編集長 田辺淳也)

盲教育は埋没するのか?
「特別支援教育全国フォーラム」にて

前置き

 本年(2007)4月から少なくとも制度上は盲学校がなくなる。京都の「盲唖院」と東京の「楽善会訓盲院」をその嚆矢とした130年にわたる視覚障害教育は、否応なく新たなステップを踏み出すことになるのだ。楽善会の流れをくみ、わが国の視覚障害教育の中心と自他共に認める筑波大学附属盲学校も、この4月から「筑波大学附属視覚特別支援学校」に名称変更する。経過措置によりこの4月に名称変更しない盲学校も、それは名ばかりで実質は特別支援学校として再出発するのである。
  改めて指摘するまでもなく盲学校に在籍する生徒は年々減少しており、今や小学部全体で生徒数が数人という事実上解体している学校も珍しくない。そうでなくても、集団の中で切磋琢磨するという学校教育本来の姿が可能な盲学校は極めて少ない。一方、養護学校や特殊学級に在籍する生徒や通級による指導を受けている生徒数は年々増えている。また盲・聾・養護学校では約半数の生徒が重複障害児で、障害の重度・重複化と多様化が進んでいる。こうした状況に加え、近年の医学や心理学の進展、ノーマライゼーションの理念の浸透等により、障害の概念や範囲も様変わりし、小・中学校の通常学級に在籍している生徒のうちLD(注1)AD/HD(注2)高機能自閉症(注3)などのいわゆる発達障害の生徒が、文部科学省の調査でも6.3%おり、これらの生徒に対する指導・支援が重要な課題となってきた。それに応え、障害のある生徒の自立や社会参加に向けて一人ひとりのニーズに応じた特別支援教育を推進するため、昨年(2006)の9月に学校教育法等の改正が行われ、この4月から複数の障害種別に対応できる特別支援学校の制度がはじまることになったのである。
  特別支援教育の対象になるのは圧倒的に発達障害の生徒が多く、視覚障害分野はさらにマイナーな存在になるのは確実だ。このままでは、視覚障害教育は広大な特別支援教育に埋没してしまう危険性さえ想像に難くない。ただでさえ学校教育が成り立たなくなってきている現状を踏まえ、「障害種別を超えて」というきれい事に惑わされることなく、専門的な視覚障害教育を行うためにも、発達障害を含む特別支援教育に関心を持つことは、視覚障害教育関係者にとって喫緊の課題ではないだろうか。

特別支援教育全国フォーラムの狙い

 文部科学省等の主催で3月3日(土)「特別支援教育全国フォーラム」が、東京・お台場の東京国際交流館で開かれた。参加者は約600人で、幼稚園・小・中・高等学校関係者、盲・聾・養護学校と教育委員会指導主事等関係者、保護者など一般市民が、それぞれがきれいに3分の1ずつを占めた。
  開会の挨拶に立った銭谷眞美<ゼニヤ・マサミ>初等教育局長は、「この4月より特別支援学校は専門性を生かし、小・中学校等に在籍する障害のある子どもや保護者のための支援を行う地域の特別支援教育のセンター的機能を果たすことになった。そして、幼稚園・小・中・高等学校においても学校全体で特別支援教育を推進することが明確に規定された。文部科学省では障害のある子どもたちの支援体制を整備するために厚生労働省と連携し、平成15年度からすべての都道府県で、特別支援教育体制推進事業を進め、この4月から所要経費250億円を見込み、全国で約2万1千人の特別支援教育支援員の配置を地方財政措置で行う。そして平成20年度には全ての公立小・中学校に相当する約3万人の同支援員の配置を行う。このフォーラムは、(1)障害に配慮した教育の基本的なプログラムについて理解を深め、(2)特別支援教育の今日的な課題について深め、(3)子どもの将来の自立と社会参加について考えるの3点を狙いとして開催する」と述べた。
  午前中の全体会では、北海道大学田中康雄教授らが「特別支援教育に期待するもの」と題して発達障害に関する鼎談を行った。午後は「障害に配慮した教育」「特別支援教育の今日的課題と実践」「子供の自立と社会参加」の3分科会で現場の教師らが報告し、参加者との意見交換を行った。
  従来の盲・聾・養護学校で行われてきた特殊教育の分野において、わが国は世界においてもトップレベルにある。一方、発達障害に対する教育は、特に米国と比べるとまだかなり見劣りし、社会一般はもとより、学校現場においても充分浸透しているとは言い難い状況にある。たとえば、養護教諭を読者対象とした月刊誌に『健康教室』があるが、同誌の2007年2月増刊号は特別支援教育を取り上げ、LDやAD/HDなどの発達障害について解説している。このように、いわば専門家さえもまだ勉強中の段階なのだ。このため、今回のフォーラムの大部分は発達障害を中心に論議され、分科会もその例外ではなく第1と第3分科会ではもっぱら発達障害を対象にしていた。その中において、比較的視覚障害者教育に関係が深かったのは第2分科会であったので、最後にその模様をレポートする。

第2分科会報告

 約120人が参加した第2分科会では、「特別支援教育の今日的課題と実践」をテーマに千田耕基<チダ・コウキ>国立特殊教育総合研究所上席総括研究員を司会に、前半では齋藤佐和目白大学教授(元筑波大学附属聾学校長、元筑波大学特別支援教育センター長)と東洋大学宮崎英憲<ミヤザキ・ヒデノリ>教授(元東京都立青鳥<セイチョウ>養護学校長)による講義、後半では高山恵子NPO法人えじそんくらぶ代表と加藤醇子<ジュンコ>クリニックかとう院長が指導助言者に加わりフロアとの意見交換が行われた。
  齋藤教授は、「障害者の理解、交流および共同学習の推進」をテーマに講義し、「交流学習はすでに40年もの実績があり、特別支援教育のスタートにより、交流学習は量から質への転換を図るべきである。そういう意味で交流学習において誰が何のために学ぶのかを改めて問い直す必要がある。学習の目的は、障害のない児童・生徒・保護者などが、障害者を理解することと、障害のある児童・生徒が自身の障害を理解することだ」と述べ、筑波大学附属聾学校などの事例を紹介した。また、交流学習の内容を深めるためには緻密な教材研究、特別支援教育コーディネータの役割が重要だと指摘した。
  続いて登壇した宮崎教授は、「個別の支援計画の策定と活用」というテーマで講義。同氏は、「これまでの特殊教育では、ややもすると本人のためになるのならということで児童・生徒本人の主体性を脇に置いた教育が行われていたのではないか。特別支援教育では本人の主体性を大事にする仕組みを作ることが基本になる」と前置き。「個別の支援計画は、『新障害者プラン』に基づいて乳幼児期から高等部卒業、就労まで見据えた一貫性のあるものでなければならない。教師だけで計画を立てるのは大変な作業なので、医療、福祉、就労等の専門家を含めたチームで計画を立てる方が望ましい」とアドバイスした。また、計画の作成には児童・生徒の情報の共有化が欠かせないが、もちろんこれには情報保護・管理を徹底しなければならないと指摘した。
  分科会の後半では、AD/HDの当事者、臨床心理士の高山氏は、「AD/HDやLDといった軽度の発達障害は、環境によって障害が現れたり、出なかったりする障害であり、従来の障害の概念とは異なる。そのため、障害というよりも個性として考えたほうがしっくり来る」と説明。また同氏は、小学生を対象にしたAD/HDについての授業で、AD/HDや障害ということに直接触れず、特徴だけを話したところ、子供たちはとてもよく理解してくれた」と語った。小児神経科医師の加藤氏は、「軽度発達障害は、診察室だけでは診断しづらい。また、診断も医師によって異なる場合も良くあるので、診断書がないと支援体制が組めないとの意見もあるが、それはまったく違う」と述べ、従来の特殊教育が対象とした「障害」の常識にたって、判断する危うさを指摘した。
  フロアとの意見交換では、中学校の特別支援教育コーディネータから「個別の支援計画を立てるために学校で相談したいと保護者の了解を得ようとしたが、断られてしまった。どうしたらよいか」や、「通常学級に通うダウン症の息子のために教科書の拡大コピーを家庭で用意しているが、どうしたら拡大教科書が手に入るのか」といった質問が寄せられた。特別支援教育の課題は、多様化、個別化するニーズに応じて学校側がいかに情報を発信、伝達、共有できるかだと感じた。

(注1)「学習障害」ともいい、全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算するまたは推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を指す。その原因として、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されるが、視覚・聴覚・知的・情緒などの障害や、環境的な要因が直接の原因となるものではない。

(注2)「注意欠陥・多動性障害」ともいい、注意力を維持しにくい、時間感覚がずれている、様々な情報をまとめることが苦手などの特徴がある。日常生活に大きな支障をもたらすが、適切な治療と環境を整えることによって症状を緩和することも可能である。しかし脳障害の側面が強いためしつけや本人の努力だけで対処するのは困難である。

(注3)自閉症は社会性や他者とのコミュニケーション能力の発達が遅滞する発達障害の一種で、そのうち知的障害がないものを高機能自閉症と呼ぶ。「高機能」というのは知能指数が高いという意味だが、平均的な健常者より高いとは限らず、知的障害との境界域の場合もあれば、平均的な健常者をはるかに上回る場合もある。

(取材・福山博、戸塚辰永、小川百合子)

クリシュナ君の客死と遺児のその後
―― 募金を集めてから困ったことを含めて ――

海外盲人交流事業事務局長/福山博

 「クリシュナ君遺児育英基金」(以下、クリシュナ基金)という、東京ヘレン・ケラー協会(以下、当協会)職員有志による小さな国際協力活動がある。この基金と当協会海外盲人交流事業は、少なくとも資金的にはまったく無関係だが、送金の代行や契約の面で当協会がサポートしたいきさつがある。
  私も関係するクリシュナ基金が目標とした金額を集め、すでにネパールに送金したことにより、少なくとも日本側の約束・義務はすべて履行された。そこで当協会の事業と混同したり、誤解を招かないためにもクリシュナ基金の活動を、その背景と共にここにご紹介したいと思う。

ムキーヤ夫妻の死

 当協会は1989年からネパール盲人福祉協会(NAWB)とバラCBR事業を実施し、同事業が9年を経過した時から計画的に規模を縮小し、2002年6月末日をもって、同事業への支援は完了した。当時、バラCBR眼科診療所の眼科助手であったクリシュナ・ムキーヤ君(以下、クリシュナ君)は、1989年11月に採用されて以来働きづめで、10年余にわたり長期休暇を取っていなかった。そこで、この支援完了を契機に、母親の長年の夢であったインドのビハール州にあるヒンズー教の聖地への巡礼に向かった。ところが、クリシュナ君は同年(2002)9月、心臓発作により30代後半の若さで旅先において急逝する。
  2003年5月に、事業管理のために現地に赴いた私は、バラCBRセンターにおいて未亡人と遺児に会い、お悔やみを述べると共に、協会からの弔慰金を手渡した。未亡人はまったく教育を受けたことがないため、現地語であるボジュプリ語しか話せなかったが、バラCBRセンターは隣町の眼科病院に掃除人として雇ってくれるよう交渉していた。
  それから2年後の2005年7月、ネパールを訪問した私はNAWB幹部との席上、故クリシュナ君の家族の消息を尋ねた。しかし誰も知らないので、現地に電話してもらうと、2004年に未亡人は28歳で死亡していた。そこで、驚いた私はその日から2日後、NAWBのアルヤール事務局長と共に、飛行機による日帰りで現地に飛んだ。バラ郡にあるシムラ空港に到着するとNAWBバラ支部長ほか、幹部が車をチャーターして待っていた。当時のネパールは内戦状態であったため、国軍の検問を何度もくぐり故ムキーヤ夫人の実家に向かった。そして、未亡人の死因が毒をあおった自殺であることを聞くと共に、遺児が極めて悲惨な状況に置かれている現場を目撃した。
  そのとき、当時7歳の長男はパンツ一つで庭で食事をしていたが、彼が食べていたのは、お盆にご飯を盛り、それに塩と水をかけた粗食であった。ネパールの貧民が食べると聞いてはいたが、目にするのは初めてで、むちで打たれたような衝撃を受けた。住居も家とは名ばかりの土壁の小屋2棟に、大人5人、子ども11人が、土間にごろ寝していた。
  私たちはそれからバラCBRセンターで善後策を話し合ったが、それは気が滅入る3時間を超える会議となった。まず、末っ子は5歳以下なので、孤児院にあずけることが可能だというので、すぐに関係先に連絡してもらった。残りの3人については、寄宿舎のある学校に入学させ、なんとか10年間の教育を受けさせたかった。わが国では高校1年修了に相当するが、ネパールではいわば高卒として小学校の教員や公務員、NGO等への就職が可能になるのだ。しかし、そのための費用がいくらかかるのか、それをどのように捻出するかが問題だった。結局、私が帰国する直前になって寮費等の生活費の見積りができたが、それは邦貨にして年間約11万5,000円、10年分で115万円だった。

募金と契約

 クリシュナ君は極めて貧しい、低いカーストの出身で、苦学して10年間の中等教育を終了し、1989年11月に私たちのバラCBRセンターに勤めた。そして、その中から特に選抜されて、カトマンズの国立大学医学部において眼科助手になる教育を受け、国家試験に合格してバラCBRセンター附属の眼科診療所に勤務した非常に物静かで有能なスタッフだった。一方、同夫人は一切教育を受けたことがないため、現地語の他はネパール語も話せず、結局、生活できるような仕事を見つけることができなくて、絶望の中でヒンズー教の因習であるサティー(殉死)のような死を選んだのだ。悲劇を繰り返さないためには教育が不可欠であった。
  ところで、当協会の事業はあくまでも視覚障害者を対象にしており、いくら遺児とはいえ3人の晴眼児には1円たりとも支出できなかった。そこで、協会とは別に有志で「クリシュナ君遺児育英基金」を組織して、協会の職員に呼びかけて、遺児たちの育英資金を集めることにした。
  具体的な目標や実施方法は、@目標額1万ドル(115万円)。A早急に当面の子どもたちの生活費15万円をNAWBに送金する。B残金の9,000ドルを1年以内に集め、NAWBに送金する。送金にあたっては事前にNAWBと協議し、本資金がクリシュナ君の遺児の教育に使われることと、適切に会計処理されることを書面にて確約してもらうこととする、であった。
  募金活動は難航が予期されたが、予想外に多くの職員が協力を惜しまず、しかも思わぬ大口の寄付もあり半年足らずのうちに目標額に達した。しかし、お金が集まったところではたと困ったのは、同基金は任意団体なのでネパールへの送金や契約を保証する力が無かったことである。
  そこで当協会はクリシュナ基金に対して、費用の支出を伴わない、次のような側面的支援を行うことにした。
  @送金手数料も含めて費用の全額を同基金が支出することを条件にNAWB宛の送金を代行する。ANAWBが責任をもって3人に就学機会を提供することを骨子とした「覚書」を交換し、事業の推進を担保する。
  こうしてNAWBと当協会間には覚書が交換され、遺児3人が10年課程を修了するための生活費72万ルピーに対して、クリシュナ基金からそれを上回る75万9,018ルピー(115万円)が2006年5月までに全額送金されたのであった。今後は、NAWBがこの資金を運用して、遺児3人の生活費を捻出する契約となっている。

子どもたちとの再会

 昨年(2006)10月30日、私と当協会藤元理事長、それにNAWBアルヤール事務局長の3人は、午後一番の仏陀航空機にて、カトマンズ空港からシムラ空港に向かった。離陸して20分後に到着した空港では、なんとNAWBバラ支部の役員たちが、顔パスで荷物の受取所まで入り込み、花輪をかけてくれた。そして、チャーターした真新しいトヨタ車にて、子どもたちが勉強している学校・サニーアカデミーに向かった。
  同校は半年前に新校舎に移転したが、完成したところから部分的に使っているので、階段にはまだ手すりもなく危険きわまりなかったが、それがネパール流であった。
  校長室にて挨拶がてら子どもたちの様子を聞くと、ようやく学園生活に慣れ、ネパール語もしゃべるようになったが、3人ともまだ小学校には上がっていなかった。
  同校は小学校の前に、「保育部」、「幼稚部年少」、「幼稚部年長」という3段階のクラスがあり、長女と長男は幼稚部年長、次女は幼稚部年少だった。とはいえ幼稚部にも筆記試験があり、30数人のクラスで長男は首席、長女は13番、次女は7番の成績だった。
  意外かも知れないが、開発途上国であればあるほど、実は受験競争が熾烈である。米国より日本が大変だが、それより韓国が、さらに中国が、インド・ネパールの方がさらに激しいのである。子どもたちは言葉も文化も違う場所に飛び込み、果敢に努力したのであったが、いずれにしろ小学校の授業は「ネパール語」以外は、すべて英語で行われるので、これからも大変である。しかも、彼らには両親がいないので、勉強ができなければ話にならないのだ。そのためにも、あわてて進級させるより、十分力をつけてから小学校に入学させた方が良いという現地の判断である。
  校長室では、教師やバラ支部の役員、それに私たちに囲まれて子どもたちはとても緊張していた。そんな中、長女が消え入りそうな声で、「アーラティに会いたい」といった。末っ子の三女アーラティは、一昨年(2005)秋に孤児院に預けられたまま、1年以上もきょうだい同士会っていなかったのだ。
  私たちは、インド国境沿いの統合教育校4校を4泊5日で訪ねる旅の最後に、予定を変更して、孤児院の近くのホテルに泊まることにし、子どもたちを連れて孤児院を訪問することにした。

「お家に帰りたい」

 3人の子どもたちは四輪駆動車とはいえ乗用車に乗るのが初めてで、そればかりかジャングルの木立も、山や渓流を見るのも初めてであった。このため、当初は見るものすべてが目新しく、興味津々であったが、孤児院は山奥にあり、山道はつづら折りであるため、彼らはすぐに車に酔ってしまった。
  ところで、日本で孤児院といえばとてもイメージが悪く、そのため現在は「児童養護施設」と呼ばれている。しかも、実際に孤児はほとんどおらず、親はいるが養育不能になったため預けられている児童ばかりで、中でも虐待のため両親から離れて生活せざるを得ない児童がすでに6割に達しているという。
  その点、ネパールでは、「中の上の生活」が保証される孤児院のイメージはとてもよい。東京にいるネパール人に聞いても「それはラッキーなことだ」といって手放しで、その子の幸運を喜んだ。というのは孤児だからといって、誰もが孤児院に入れるわけではないのだ。
  三女アーラティが住んでいるのは、ネパール児童機関が運営する12の孤児院のうちの一つ、ビムフェディ児童ホームであった。ここに住んでいる孤児は44人で、私たちの訪問中に、近くの学校に通学している子どもたちがこざっぱりとした制服を着て、笑顔で次々と帰ってきたが、どの顔も幸福そのものであった。
  私たちは孤児院の許可を得て、三女を一晩連れ出すことにした。車で小一時間のリゾートホテルに連れて行き、一晩兄弟4人で過ごして欲しかったのだ。
  この再会にバラから連れていった3人は大喜びだったが、三女は4歳で別れたため記憶がなく、きょうだいだということも分からないので、「わたしのお家(孤児院)に帰りたい」といって泣いた。
  NAWBバラ支部のシャハさんは、つい3カ月前も孤児院を訪問しており、三女が見覚えのあるただひとりの人物であったため、夜が更けても寝ない彼女に添い寝して、寝込んだところで、きょうだいたちの部屋に移したが、朝の4時に目覚めた三女は、また大泣きしたという。
  翌朝、私たちはアーラティとはホテルで別れた。送り届けるためだけに往復2時間の山道を行き、また車酔いになったら大変だからだ。3人とも、末っ子の元気な姿を見て、安心したようで、それからはホテルの庭で、無邪気に歓声をあげていた。
  私たちはこの日(11月3日)、午後1時発の仏陀航空機でカトマンズに帰った。それを見送るために子どもたちも空港に来たのだが、飛行機を見るのも初めてで、ここでもはしゃいだ。
  空港には手荷物を量るための秤があった。ネパールでは学校で、児童の成長を記録する習慣はないので、理事長の発案で、子どもたちの身長と体重を服を着たまま測ることにした。
  その結果は、10歳の長女アルチャナが140cm(26kg)、8歳の長男ローシャンが131.5cm(22kg)、7歳の次女プジャが115cm(17kg)であった。一昨年(2005)の7月に私が彼らに会ったときは、栄養状態も悪く、年齢より小柄で発育が遅れているといわれていたのが嘘のような成長ぶりであった。

用具センターからのお知らせ
人気復活中!「ものしりトーク」のご紹介

 「ものしりトークZER-868V」(パナソニック)は、物を識別するときに便利な視覚障害者用音声ICタグレコーダです。識別したい物に円盤状のタグをつけて音声を登録すれば、リモコン型のリーダで聞くことができます。最近は日常生活用具の給付対象とする自治体も増え、人気が復活しています。
  操作は簡単、読み取りはタグにリーダを近づけて読むボタンを押すだけ、音声の登録は同じように読むボタンを押した後、録音ボタンを押しながらリーダのマイクに向かって話せば完了です。タグは標準・小型・薄型の3種類。例えば標準タグなら、医薬品の種類や用法・用量を登録したり、耐冷−25℃なので冷凍保存にも使えます。洗濯も可能で、衣類に縫いつけるために小型タグには小袋も付いています。また薄型タグはカードや通帳のほか、CDケースにつけても金属を通して読み取れます。
  そのほか、メモ録音機能は最大3分間、合計20分間の録音ができ、録音したメモを後からタグに登録することもできます。また、リーダがどこか分からなくなっても、拍手を3回すればリーダから音がするサーチ機能もあります。
  リーダは、縦14cm、横5.5cm、高さ2.4cm、重さ約150g。充電台、タグ50個、イヤフォン付き、6万2,790円(税込み)。リーダには操作説明の音声データが入っています。ご注文・お問い合わせは、当協会盲人用具センター(03-3200-1310)まで。

■ 編集ログブック ■

 4回目となる「サポートグッズフェア」が3月6日、当協会3階ホールで開かれました。平日の午後1時から同4時までの3時間という限られた時間だったのですが、約90人もの来場者で大盛況でした。
  1995年、ブラジルにご一緒した栗本久雄・悌子夫妻が見学を終え、ちょうど会場を後にされようという時に、ばったり出会いました。とても懐かしい10年ぶりの邂逅でした。奥様が一時体調を崩され、このたび快復されたのでわざわざ群馬県前橋市からお運びいただいたとのことでした。その時私は、ホーチミン市からお越しの佐々木憲作さんを案内していました。ちょうどいい具合にこのイベントがあることを『点字ジャーナル』で知り、併せて帰国されたということでした。おそらく日本のIT事情に触れるのは3年ぶりのことだったのでしょう。熱心に見学されていました。
  やはり同フェアを見学されたヘレン・ケラー学院の卒業生である堀口清さんは、昨年の本誌7月号「盲人ホーム『あさひ園』深谷市人見にオープン!」の記事を読み、都合3回もあさひ園を訪問されたそうです。ご自身施術所を経営されているので、新しい盲人ホームの施設や経営の実際に強い興味があったとのこと。そして施設長の茂木幹央さんとも親しく話をされ、行く前は大げさに書いてあるのではないかと思っていたが、実際に行ってみると、『点字ジャーナル』に書いてあったとおりだったと、本誌の記事に太鼓判を押していました。盲ろう者なのでなかなか外出が自由にならないとおっしゃっていましたが、軽快なフットワークです。もっとも、一度は遅くなったので、あさひ園から板橋区の自宅までタクシーで帰ったため、2万数千円かかったと豪快に笑っておられましたが。
  この4月から盲学校が「視覚特別支援学校」とか「盲特別支援学校」という名称になります。いえ、この4月に名称変更しない盲学校も、それは名ばかりで実質は特別支援学校として再出発するのです。私は第1回の「特別支援教育全国フォーラム」を取材して、長らく障害者教育のエースであった視覚障害教育が、特別支援教育の中でなんとも影の薄い存在になっていることを再確認し、改めて愕然としたものでした。
  ところで、取材にあたった3人はそれぞれ異なるメーカーのICレコーダを持参し、それぞれほぼ同じ条件で録音しました。すると、私のオリンパスと戸塚記者の三洋は同じところが聞き取れませんでしたが、小川記者のパナソニックは、そこも明瞭に聞き取れ、ちょっとショックでした。レコーダはやはり音質が命で、変な機能に心奪われてはいけませんね。
  リレーエッセイの著者ノンちゃんは、ある時は妙蓮寺紫、ある時は斉藤恵子、しかしてその実体は・・・という方です。(福山博)

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