THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2007年2月号

第38巻2号(通巻第441号)
編集人:福山 博、発行人:迫 修一
発行所:(社福)東京ヘレン・ケラー協会(〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4
電話:03-3200-1310 振替:00190-5-173877) 定価:一部700円
編集課 E-mail:tj@thka.jp
―この紙はリサイクルできません―

はじめに言葉ありき「巻頭ミセラニー」
「冥王星にされた(Plutoed)」

 昨年、冥王星が太陽系の惑星から外されたことをきっかけに、米国では会社の人事で降格されたときなどに使う表現として、冥王星を意味する「プルート(Pluto)」を受動態にした「プルーテッド(冥王星にされた)」という言い回しが広く使われるようになった。そこで1889年創設で、北米の言語学者、辞書編集者、歴史学者、作家らで作るアメリカ方言学会は、この1月5日、2006年に最も注目を集めた「ワード・オブ・ジ・イヤー(今年の言葉)」に、「冥王星にされた」が選ばれたと発表した。
  冥王星は米国人天文学者によって発見されたことから、米国では親しみが持たれていたが、去年8月、国際天文学連合の学会で議論された結果、太陽系の惑星から矮小惑星に格下げされ、がっくりきていた。

目次

(特別寄稿)ベトナム・ホーチミン市の視覚障害者
 マッサージ事情(佐々木憲作) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
ネパールを訪ねて(藤元節) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
10
リレーエッセイ:イタリア全盲二人の旅(読谷山こずえ) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
22
カフェパウゼ:タイの高速道路で5バーツ分の沈黙 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
26
感染症研究:ノロウイルスの逆襲 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
28
水原紫苑の短歌教室 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
33
知られざる偉人:バッハ演奏の大家、H.ヴァルヒャ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
35
コラム・三点セット ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
39
大相撲:今年は大豊作、アマ実力者が続々と角界入り ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
42
スモールトーク:腕のいい床屋の東西散髪談義 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
45
ブレーメン:袖振り合うも多生の縁 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
47
生まれ変わった日本の姿『平成大合併地図』発刊! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
50
モニター旅行参加者募集 〜 飛騨高山へ旅行して、アンケートに答えて下さい ・・・
51
「武士の一分」体験上映と制作者を招いたシンポジウム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
52
映画レビュー
  1. 武士の一分
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
54
  2. 「ヘレンケラーを知っていますか」を観て ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
57
時代の風:犬のやせ薬米で初認可、羊水から万能幹細胞、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・
59
伝言板:東京大マラソン祭り、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
62
編集ログブック ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
64

ネパールを訪ねて
―― 国境に沿って1,000kmを走る ――

 昨年の10月27日成田発バンコク経由、11月6日帰国の日程で、海外盲人交流事業福山博事務局長の出張に便乗して、ネパールを訪問した。
  ネパールは3度目だったが、今回は、1昨年スタートした毎日新聞東京社会事業団の助成による就学支援事業「ネパール視覚障害児奨学金事業」(以下、「毎日奨学金」)により、奨学金を受けている視覚障害児の学ぶ統合教育校を訪問するのが目的だった。毎日奨学金を受けている児童は現在7校47人だが、そのうちの5校(33人)を訪れた。もっぱら四輪駆動車であるトヨタ・ランドクルーザー(ランクル)の走るままに統合教育校の寄宿舎を巡るツアーであった。

ネパール盲人福祉協会にて

 「いい先生になり、視覚障害者のことを、いろんな面で助けられるようになりたい」。
  昨年のSLC(10年間の教育課程が終わった春行う学校教育修了国家試験)で、歴代の障害児の最高点を取ったティムシナ君(21歳)は、こう語った。彼はネパール最大の景勝地であるポカラにあるプリティビナラヤン大学の教育学部1年である。
  私は、東京ヘレン・ケラー協会が受託した事業のパートナーである首都カトマンズのNAWB(ネパール盲人福祉協会)本部を訪ね、ラジャン・バハドゥール・ラウト会長への挨拶もそこそこに、この青年に引き合わされた。
  平成5年(1993)に当協会が初めてNAWBと共同で統合教育を始めたインド国境沿いのバラ郡にあるドゥマルワナ校の出身。実家は釈迦の生誕地であるルンビニの近くの村で、ドゥマルワナ校までバスで5、6時間もかかる。このため東京ヘレン・ケラー協会が、郵政省(当時)のボランティア貯金の配分金を受けて建設した寄宿舎がなければ、学校には上がれなかったという。彼は私たちの事業により、10年課程を優秀な成績で卒業できたことを報告すると共に、母校の寄宿舎が手狭になってきたので、その増築の陳情に片道6時間かけてポカラからバスでわざわざ出かけてきたのであった。
  「06年、SLCにチャレンジした視覚障害児81人のうち77人がパスしました。合格率 95%ですよ。晴眼児は 42%でした」と胸を張るのは、NAWBのホーム・ナット・アルヤール事務局長。晴眼児は農村では有力な働き手、勉強どころではない者が多い。「SLCに合格して小学校教員の資格を」と寄宿舎で、ひたすら勉学に励む視覚障害児の合格率は高くなるというのである。

アダーシャ校にて

 「陶器や紙張り子のお面の家内工業が栄えている」と、旅行案内書に紹介されるバクタプール郡ティミ町。カトマンズの中心部から東に10km、カトマンズ盆地の真ん中にあるのに、町の入口は狭くて急な坂道である。NAWBの四駆、ランクルが悲鳴を上げながら登り切ると、右手のレンガ塀に囲まれた城砦のような2階建てが、目指すアダーシャ校だった。城砦と思ったのも当然、群雄割拠したマッラ王朝(15〜18世紀)の王宮を基に、増築を繰り返して学校にしたのだという。錠前のかかった武器庫の奥には槍が見えた。
  シュレスタ校長によると、全校1〜10学年で生徒は1,300人、うち視覚障害児は9人。
  さて、毎日奨学生4人との面接。障害児は決まって晴眼児に導かれて現れる。経験20年という女性リソースティーチャー(視覚障害児担当教員)は、その度に「ボランティアです」と誇らしげに紹介した。
  女児の1人は私たちを歌で、病気のため歯が全くない男児の1人は竹笛で歓迎してくれた。もちろん、共に視覚障害児である。
  考えさせられたのは、両親がすでに亡く、成人した兄弟は冷たいので、夏休みなどの長期休暇中も実家に帰れない子がいたこと。
  また、母親に連れられてきた女児は、重複障害のため首にコルセットをして、痛々しいばかり。聞けば、田舎の実家は貸家に出し、母親はカトマンズの電力会社勤務、父親は自称記者だが、誰も彼が書いたものを見たことがないという。この子には、両親がいながら、帰るべき家庭はなかった。日本の児童施設と同じ現象が、ネパールの統合教育のための寄宿舎で起きているのだった。
  寄宿舎は1つのベッドを2人で使う狭さだが、校長は「土地の手当ができないので・・・」と、あきらめの様子。校内を見学して、アルヤール事務局長が手放しで喜んだのは、どの教室も女子が男子より、グンと多かったこと。「女の子は家事に追い使われ、学校に容易に行かせてもらえない。だから、ここは素晴らしい」と言うのだった。

ドゥマルワナ校にて

 カトマンズから、「SLC全国一」を輩出したドゥマルワナ校(バラ郡ドゥマルワナ村)に近いインド国境のビルガンジまでは80kmなのに、陸路の山越えは最低6時間かかる。そこで、同行の福山、アルヤール両事務局長と3人で、ビルガンジに近いシムラまで仏陀航空機で飛ぶ。離陸から20分、秋を思わせる首都とは打って変わり、夏だった。国境沿いに西から東に細長く延びる亜熱帯のタライ平野の真っ只中だから、当然ではある。
  シムラ空港では統合教育開始時のドゥマルワナ校長だった「ミスター・チョーダリ(同姓が多いので、こう呼ばれる)」をはじめNAWBバラ支部のメンバーから花輪と花束攻め。トヨタのランクルとドライバーも、手配通り待機していた。この日は、バラCBRセンター附属眼科診療所眼科助手のまま、4年前他界したクリシュナ君の遺児3人が寄宿舎生活を送る学校と同センターを訪ねたあと、夕食を共にして予定終了。
翌朝7時前にホテルのレストランに行ったが、朝食が出て来たのは50分後。トーストに野菜サラダ、紅茶だけだったのに。何とか8時に迎えのランクルに乗り込み、ドゥマルワナ校へ。30分も走らないうち、悪路とぶつかる。こんなひどい穴ぼこには、日本では絶対お目にかかれない。それでもメーターは時速40kmを下らず、トラックやバスを次々追い越す。ハラハラの連続だが、よく見ていると、我がドライバーの腕は抜群とわかる。
「得難い体験」のあと、1時間程で、校門前。菩提樹の下で、ヤギたちが悠々とエサをあさっている。校門左わきに理容店など3店があり、右わきにも2店が建築中だった。1〜12学年(小学校から高校まで)、生徒数1,200人という大規模校。広い草地の校庭を突っ切ると、英語で「ブラインド・ホステル(BLIND HOSTEL)」と書かれた鉄門が見えた。レンガ塀の内側に平屋の寄宿舎があった。
  男女5人の視覚障害児たちから花輪と花束を贈られ、校長の案内で屋内見学後、「食堂で昼食をどうぞ」と言われて、戸惑った。6畳程のコンクリート打ちした部屋には机もイスもないのである。この学校の運営委員会のトップを務めるミスター・チョーダリらNAWBバラ支部役員、校長、私たちの8人がコの字に座り、昼食会となった。メニューは、お決まりのダル・バート・タルカリ(ネパール定食)。日本からの2人はナプキン代わりに新聞紙を渡され、スプーンでいただいたが、他は全員、皿のご飯とカレースープなどをかき混ぜ、右手で器用に平らげた。
  校長が「もっといい仕事をしようと決めている。そのために、寄宿舎に2階を増築して欲しい」と切り出した。NAWBのアルヤール事務局長によると、寄宿舎の増築に必要な資金は695,176.54ルピー(約118万円)という。
  「他校では1つのベッドを2人で使っているところさえある。ここは、部屋が広いし、新築して11年しか経っていないではないですか」と、福山事務局長が突っ込むと、こんな答えが戻ってきた。
  「就学できなくて、家で待機している視覚障害児がたくさんいるので、広すぎることはない。それに問題が起きないよう男子と女子の部屋を1階と2階に分けたい。さらに学習環境を整え、統合教育のモデル校にふさわしいものにしたい」。
  寄宿舎の菜園に目をやると、高菜、ダイコン、ジャガイモ、ソラマメが植え付けられていた。子どもたちの食事の助けにするのだという。水くみ用の手押しポンプのそばには、値段の安いお米を貯蔵するために手作りの米倉を備えていた。
  さて、校門前の店は? 「あれ1店で月500ルピーのテナント料が学校に入る。3店で年間18,000ルピー(約30,000円)の収入。建築中の2店舗はタバコ販売組合が資金を提供しました」。ミスター・チョーダリは、外国の支援を求めるだけでなく、地域も頑張っていると力説した。私は「2007年春までには、いい答えが出せるよう努力します」と約束して校門を後にした。

ジュッダ校にて

 タライ平野の3日目は、強行軍だった。朝食抜きで、午前7時ホテル発。密林を切り開いて、旧ソ連がつくったマヘンドラ国道を東に1時間疾走後、枝道に入る。悪路を1時間有余、何とか9時20分にジュッダ校(ロータート郡ゴール町)に走り込んだ。
  こちらも校舎の前に芝生の校庭が広がる。その向こうに、ガラス窓、少し張り出した陸屋根<ろくやね>の寄宿舎があった。校庭より土台が1mほど高い。大洪水の教訓から、7年前、国際ボランティア貯金の配分を受けて改築した際に取った安全策だという。校長とリソースティーチャーから説明を受け、視覚障害児に面接したあと、話題になったのは、学校のレンガ塀の外側で進む大がかりな建築工事。コンクリートの柱が数十本、ニョキニョキと突っ立っているのである。
  「あれはインド政府の援助を受けて、寄宿舎をつくっているんです」と、校長は話す。総額 3,000万ルピー(約 5,000万円)というから、ケタ違いである。ネパールの首都カトマンズはチューリア丘陵、マハーバーラタ山脈を隔てた向こう側だが、インドはタライ平野でつながっている。地形的にもそうだが、実際、平野の南端だけに、住民のインドとの結びつきは、極めて強いという。この学校の教師のほとんどがヒンズー語で教育を受けていると聞けば、インドからの援助が大きくて不思議はない。ネパールで4番目、開校から60余年という、この学校は、今回訪問した5校のうちでも最大規模のマンモス校。1〜12学年で、学生数は 1,700人に上るという。
  「あなた、前に会ったよね」。福山事務局長が声をかけると、ニッコリほほ笑み返す白杖の青年がいた。白ワイシャツ、白ズボンに茶のジャケットを羽織り、サンダル履きで軽やかに、教室に急ぐ。2年前、私たちの事業で、この学校の10年課程を修了し、SLCに合格したサロジ・クマール・ケサリ君(26歳)だった。
  ケサリ君は、併設のSLC合格者対象の教員養成コース(10カ月)を終え、母校の教師として、低学年に英語を教えているという。
  教室をのぞいた。100までの数の数え方の授業だった。ケサリ君の「サーティ(30)、サーティワン(31)・・・」に続いて、「サーティ、サーティワン・・・」と復唱する児童たちの元気な声が教室にこだました。明るく、自信をもって教壇に立つ「ケサリ先生」の晴れ姿を見た。

バスビッテイ校にて

 ジュッダ校を出て、2時間走り、道路わきの食堂でのダルとサモサの昼食をとる。意外に美味だった。朝食抜きだったせいかも知れないが・・・。次は両事務局長とも処女地のバスビッテイ校(マホッタリ郡バスビッテイ村)。何度も道を尋ね、さらに2時間、携帯電話を持った案内役の先生と運良く合流できた。車1台がやっとの道を抜け、凸凹の農道に差しかかる。その先は川だが、橋らしきものはない。土手を下りると、車輪すれすれの流れをよぎり、干上がった川原を行く。そのあとに感動が待っていた。
  校門が開くと、100人を超える生徒が2列に並び、両側から拍手で迎えてくれるではないか。1〜10学年で、生徒数は1,100人ということだが、さらに1,000人を超える多人数が拍手の列を包むように取り巻いている。村人や学齢前の子どもまで集まっているのだった。
  「日本人が初めてなので、見に来たのです」というのはアルヤール事務局長。夕闇迫る校門わきの大きなチョウタラ(緑陰の休憩所)をステージに歓迎の集いが始まった。リソースティーチャーが奏でるキーボードに合わせて視覚障害児たちが歌い、校長先生や学校運営委員会の役員が、支援に感謝する言葉を次々に述べた。
  その夜は、ヒンズー教の巡礼地として知られるジャナクプル泊まり。
  「ホテルに入る前に、ネパール唯一、ここにしかない鉄道をみましょう」。今回でネパール訪問17回目という福山事務局長の指示を受けたドライバー君は、暗がりのなか、ゴミゴミした道を何回か尋ねた末、どうにか駅を探り当てた。明かりの消えた駅舎の前には、野宿の人が数人、横になっているだけ。ホームに出ると、3両連結の列車がとまっていた。線路は日本の在来線の狭軌(1,067mm)よりさらに狭い軌間762mmの軽便鉄道規格で、インドを植民地にしていた英国が敷設したという。第二次大戦直後を思わせるオンボロ車両だった。
福山事務局長のペンライトで照らし出された車内はと言えば、座席の布は擦り切れ、とても試乗する気は起きない。驚いたことに、1等車と2等車の別があり、インド国境を越えて東の終点ジャイナガルまで総延長29kmを片道4時間という超鈍速だった。線路の幅が狭いのに、客車は日本の在来線とほぼ同じサイズなので、脱線しないようにゆっくり走るのである。私たち観光客が行けるのは3つ目、国境のネパール側の駅カジュルまで。21kmで3時間かかる。
  「少々込みますが、ココナツやバナナの繁る田園風景をのんびり眺められますよ。朝6時発から午後3時発まで、1日3往復なので、1日がかりになりますけど」と言うのは、ホテルのフロント氏だった。悠久の時が流れる地ながら、時間に縛られる身ゆえ、断念するほかなかった。線路は、北西に27kmのビジャルブルまでもう1本、敷設されているが、いまは運行されていない。

パシュパティ校にて

 今回の学校訪問最終日は、ホテル発午前7時。食事待ちには懲りごりだったので、車から目に入ったマヘンドラ国道沿いインド料理レストラン「アンクル(新芽という意味)」で、タンドリーチキンとナンの朝食をとった。しんがりのパシュパティ校(シラハ郡ラーハン町)は国道から150m入った、わかりやすいところにあった。ここでも寄宿舎前で、女生徒の歌声で歓迎され、男子10人、女子3人から花を贈られた。寄宿舎内を精査した福山事務局長の評価は「他のどこの統合教育校よりも清潔で美しい」だった。ズボラな私にも、そこで生活する視覚障害児たちのひたむきさは、しっかり伝わってきた。
  校長から同校はシラハ郡で最も大きく、1〜10学年で26教室、生徒数は1,600人と聞いたあと、挨拶を交わしたのは、同校運営委員長のチョーダリさん。「この学校の校地を寄付した人と同姓だが・・・」。福山事務局長の誘い水から、ネパールの教育財政の実態を知ることができた。
  ネパールの公立学校は、10年課程のうち国(教育体育省)から支出されるのは、小学校課程(1〜5年)を担当する教員の給与だけ。学校の建設資金は、もちろんあとはすべて学校運営委員会が調達する。財政は、入学金、授業料ではまかない切れず、運営委員長の腕の見せどころとなる。
  チョーダリさんは「(58年前)ブラフマン(僧侶階級)で大地主のチョーダリ氏が敷地を寄付し、この学校は誕生した。私はタルー族なので、同姓だが関係ない」と言って、豪快に笑った。「学校設立者とは無関係」なチョーダリさんも、実は商工大臣をつとめた町一番の有力者だった。帰りの時間が気になりながら、「元商工大臣のお招きですから」という福山事務局長のアドバイスもあり、レストランでのランチの馳走に甘えることになった。ダルカリ主体ながら、高菜のおひたしの美味しさが、今も忘れられない。
今回のタライ・ドライブは実質4日間、1,000kmを超えた。密林を抜けると、稲穂が重く垂れる水田や砂糖キビ畑が果てしなく続く穀倉地帯。11月21日の政府と反政府武装勢力マオイストの和平協定成立直前だったのに、国道ではマオイストの関所、銃身むきだしの銃を構える国軍兵士にも出くわした。マオイストの若い女性から「通行税25ルピー也(40円)」を徴収されたが、カメラを向けてもとがめられることはなかった。「今は平和。いろんなことが止まっている」というNAWB役員らの言葉通りだった。
  悪路で油断大敵の一般道路はもちろん、幹線国道でさえ、橋げたが落ちたままのところがあったが、乾期で何とか干上がった川床を渡ることができた。「雨期だったら?」と、アルヤール事務局長に聞くと、「そのときは、行かないんです」という答えが返っただけだった。国民1人当たり約3万円というGDPの低さが、アジア最貧国クラスであることは、間違いない。それなのに、現地で食事をし、買い物をして、お金の値打ちを知り、豊かな穀倉地帯を目にしたとき、この国で暮らす人々は本当に貧しいのだろうか、と何度も自問したことである。
  さて、おしまいにアルヤール事務局長は、と言えば、持参した点字教科書を学校を訪問するたびに、仕分けしてリソースティーチャーに渡していた。
  「うちのパソコン教室を見てくれ」と案内され、視覚障害者対応にできないことがわかっても、熱っぽくITの効用を説く。信頼に足るパートナーである。訪問したどの学校でも、教室の最前列に陣取り一心不乱の視覚障害児たちの姿と重ね合わせて、「毎日奨学生」をはじめネパールとの交流事業を、さらに有効に進めなくてはとの思いを新たにした。

■ カフェパウゼ ■
タイの高速道路で5バーツ分の沈黙

 昨年の本誌11月号「巻頭ミセラニー」で、新バンコク国際空港を取り上げたが、その原稿をちょうど書いていた時、同空港で機内預け手荷物が出てくるのに6時間かかり、ロストバゲージ(手荷物の行方不明)が多発していることを知った。しかもチェックインなどにもとても時間がかかると聞き、私は内心穏やかでなかった。というのもそのすぐ後に実際に利用することになっていたからだ。
  とにかく早めの行動を心がけ、恐れていたようなトラブルには見舞われなかったが、未だに工事中の部分が多く、雨漏りしていたのは本当であった。しかも、翌日カトマンズに行くためにチェックインすると、係員は日除けを通した陽射しが、それでもまぶしいようで左手で影を作って、右手の指1本でキーボードを叩いていた。このため、行列に並ぶことなく発券がはじまったのに、結局窓際の席を通路側に変更することは断念せざるを得ないほど、時間ばかりが過ぎていった。
  それより問題なのは、空港がばかに広すぎるということだろう。もちろん動く歩道はあるのだが、実際はその上を延々と歩かなければならず、世界一の広さになんて感心しておられないのだ。待合室で世間話をしたバンコク在留の邦人は、ターミナルビルの大きさが世界一だということを知らなかったが、国連総会で演説するためにニューヨークを訪問中に軍事クーデターが起こり、新空港開港直前に失脚した首相の名前を出し、「世界一なんてタクシンの考えそうなことだ!」といって笑っていた。
  新空港はバンコクから約30km離れており、市内までは車で約30分だ。しかし、空港タクシーの悪辣さには懲りているので、この間をリムジンタクシーで往復したため7,000円近くもかかり、ちょっと痛かった。
  それは仕方ないとして、空港からしばらく走ったら、運転手が「エクスプレスウェイ(高速道路)を使うか?」と聞いてきた。バンコクの一般道路は世界一の渋滞であるから、もちろん使うつもりだったが、念のために値段を聞くと、65バーツ、邦貨にして200円ちょっとだという。そこで、僕は運転手に100バーツを渡すと料金徴収所を過ぎてから、領収書とおつりが30バーツ返ってきた。僕は5バーツ足りないと思ったが、たった15円ほどでドライバーともめたくなかった。するともう1カ所料金徴収所があり、ここでもドライバーがお金を差し出し、驚く僕に新たな領収書と5バーツを返してくれた。たいした距離ではないのに、高速道路の料金所が2カ所あり、40バーツと、25バーツがその都度徴収されたのだ。しかも、そのレシートはタイ語で書いてあるのでなんのことだかわからない。なかなか立派なタイのエクスプレスウェイは、ETA(タイ高速道路交通公社)が運営するが、小さい文字でいいから英語でちょっと書いて欲しいものである。
  ところで、ホテルに向かうにはどうしても高速を降りて一般道を通らざるを得ないが、すると途端に交通渋滞であった。また、復路の高速料金はリムジン代に含まれていたが、その分たっぷり上乗せされていたのはいうまでもなかった。(福山博)

■ スモールトーク ■
腕のいい床屋の東西散髪談義

 行きつけの理髪店の主人に、「お客さん、最近どこか遠いところに行きませんでした?」と聞かれたのは、もう5、6年も前のことであった。そして、それが図星だったので驚いた記憶がある。散髪の技術がいかにも日本のものではないというのだ。日本人は剛毛が多いが、それに慣れていない人が、無理矢理カットしたように、彼には見えるといった。
  外国に出かけたついでに、理髪店に行くことが多い。例えば空港で5時間も待ち合わせがあると、その時間をひとりでいかに潰すのか途方に暮れる。そんな時、散髪が恰好の時間調整になるのだ。
  くだんの主人によれば、理髪店のことを東日本では俗に「床屋」というが、西日本では「散髪屋」ということが多いといった。これは理容組合の全国組織である「全理連」が調べた結果で、ただ九州は場所によって両方が混交しているらしいが、それ以外はかなりはっきり分かれるようなのだ。そして、技術も東日本と西日本ではその流儀にいささかの違いがあるという。もっとも、どこの理容専門学校を出たかによっても違うので、一概にはいえないが、東日本では通常の調髪はハサミだけで行いバリカンを使うことはまずない。しかし、西日本ではバリカンを良く使うというのだ。このように国内でも違いがあるのだから、日本と外国とではその差がもっと大きいはずだと、主人はいうのだ。
  たしかに私のふる里である熊本の山奥では、かならず襟足にバリカンを当てていたように覚えているが、東京・杉並のこの店でバリカンを当てられたことはまだない。バリカンといえば、スペインのバルセロナでは、ハサミをほとんど使わず、もっぱらバリカンをつかって散髪したのには驚いた。クシで髪の毛の長さを測りハサミで切るところを、バリカンを滑らせたのである。
  バリカン発祥の地はフランスだという、フランス語では「トンズーズ」、英語では「ヘア・クリッパーズ」というのだが、なぜか日本ではバリカンという。それは、明治16年(1883)に在仏日本公使館の書記官が日本に持ち込んだものが、バリカン・エ・マール社製だったため、そう呼ぶようになったというのだ。バルセロナのあるカタロニアは、その昔は現在フランスに含まれるルション地方を含めてピレネー山脈の両側を支配する事実上の王国であった。このため、フランスとも因縁浅からぬ地方なのでバリカンが多用されるのは納得のいく話である。
  ところで、この腕がいいと評判の理髪店の主人が、数年前に実に不思議なことをいった。「お客さん、先月も私が刈りましたか?」というのだ。なんだか変な質問だと思って聞いてみると、自分が施した調髪とよく似ているが、どこかちょっと違うようにも思うというのだ。
  実はそのとき、私は羽田で飛行機に乗り遅れ、空港内の理髪店で時間調整をしたのであった。それを聞くと、笑いながら「いかほど?」ときた。通常の料金より割高だったというと、「そりゃそうでしょう。テナント代が高いですからね」とひとり合点して、「その店、腕もいいね」と太鼓判を押したのであった。(福山博)

「武士の一分」体験上映と
制作者を招いたシンポジウム

 シネマ・アクセス・パートナーズ(CAP)は、1月8日、渋谷の東京ウィメンズプラザホールにおいて、「映画のバリアフリー化に向けて――音声ガイドの未来と可能性」と題したフォーラムを、約200人の参加者を集め開催した。
  住友商事の社会貢献事業により、音声ガイドを焼き付けた山田洋次監督による松竹映画「武士の一分」が、1月13日から全国5都市で上映されているが、CAPはこの音声ガイドを請負・制作したNPO法人でもある。
  12時半からの第1部は、主催者あいさつの後、文化庁の「芸術団体人材育成事業」として実施した「視覚障害者の映画鑑賞要望調査」の報告と音声ガイド付映画の体験上映会が行われた。調査報告では、実に90.2%の視覚障害者が「音声による解説付きの映画を見たい」と答えるなど、音声ガイドへの強い要望があることがわかった。一方、体験会は、@映像のないセリフのみ、A映像のないセリフと音声ガイド、B映像、セリフ、音声ガイドがそろった映画の順に、「武士の一分」の最初の場面が各5分間上映された。今回の音声ガイドは、従来のFMラジオによる実況中継方式とは異なり、音声をフイルムのサウンドトラックに直接焼き付けた。このため、一般客にもセリフや音の合間に、登場人物の動きや背景などのナレーションが聞こえるので、「音声ガイドが、映画全体を台無しにしないか」懸念された。松竹サイドもその点は配慮して作成し、その上で「バリアフリーへの理解を深めるきっかけになってほしい」との期待を込めて、実施・上映したという。
  20分の休憩を挟んで、第2部は「音声ガイドをめぐる諸問題と今後」と題したシンポジウム。コーディネーターはCAPの武藤歌織氏、パネリストは岩井和彦(「全視情協」理事長)、中野利恵(映画配給会社「パンドラ」代表取締役)、平松恵美子(山田洋次組助監督)、深澤宏(松竹プロデューサー)、平塚千穂子(CAP理事長)の5氏。
  音声ガイドの普及を訴える異口同音の声が聞こえる中、興味深かったのは映画製作側の本音であった。今回の音声ガイドに関して、山田洋次監督はすんなり了承してくれたが、絶対に拒否するという監督もいるという。それは「隠し味」のようなところが、音声で100%オープンになってしまうと、映画本来の面白さ、醍醐味がなくなるからというのだ。映画のバリアフリーは課題山積ではあるが、熱い思いが語られ、とても考えさせられる3時間半であった。
  なお、これからでも間に合う音声ガイド付「武士の一分」上映は、1月24日〜26日が大阪・梅田ピカデリー(06-6315-1414)、1月29日〜31日が愛知・名古屋ピカデリー(052-551-5461)、2月4日〜6日が北海道・ユナイテッド・シネマ札幌(011-207-1110)。(編集部)

■ 映画レビュー ■

1.武士の一分

 映画「男はつらいよ」や「幸福<しあわせ>の黄色いハンカチ」などで、家族のあり方や人のつながりを描いてきた山田洋次監督の79作目「武士の一分<いちぶん>」が、観客動員250万人を超えるヒットを記録した。松竹によると、昨年12月の公開から1月8日までの興行収入は、計30億600万円で、都合254万7660人が映画館に足を運んだ計算になる。
  この、現在ロードショー公開中の松竹映画は、住友商事の財政支援により音声ガイドが付いて、1月13日の東京を皮切りに、全国5都市で次々上映されている。筆者は、1月13日(土)に西武池袋線豊島園駅に隣接するユナイテッド・シネマとしまえんで、音声ガイドが付いた話題の映画「武士の一分」を観た。
  今回、音声ガイドを製作したのは、2001年から活動しているバリアフリー映画鑑賞推進団体「シティライツ」を母体に、質の高い音声ガイドの製作・普及を目的に昨年(2006)3月に設立されたシネマ・アクセス・パートナーズ(CAP)。映画会社などからの依頼を受けて、音声ガイドの脚本を作成するほか、視覚障害者によるモニター・監修なども行い、映画のバリアフリー化を目指しているNPO法人である。
  これまでもCAPはシティライツ以来、数多くの映画に音声ガイドを付けてきた。だが、それらは、ナレーターが映画館の映写室で映画の進行に合わせて解説したり、映画に合わせた音声ガイドをあらかじめ録音したものを、オペレーターが映画の進行と同時に手動で流し、それを電波に乗せ、観客がFMラジオで聞くという方式であった。
  しかし、今回上映された「武士の一分」では、音声ガイドがあらかじめフイルムに焼き付けられており、これは本邦初の試みである。このため、ナレーターや技術者、特種機材を必要としないので、全国どこででも通常の映画同様、音声ガイド付きで上映が可能な、真のバリアフリー映画である。また、映画制作者側が、音声ガイドにもタッチしており、録音技師が役者の言葉や音響と音声ガイドのバランスをより良く調整しているため、臨場感を味わいつつ、映画を楽しむことができたのは、私たち視覚障害者にとってはとても嬉しい限りであった。
  「武士の一分」は、藤沢周平原作の『盲目剣谺返し』を、山田洋次監督が、「たそがれ清兵衛」、「隠し剣、鬼の爪」に続く、藤沢周平3部作の完結編として撮りおろした時代劇だ。
  三村新之丞(木村拓哉)は、妻加世(檀れい)とつましく暮らす海坂<うなさか>藩の30石取りの下級武士。ただただ藩主の食事の毒見をするのみの平凡な日々を過ごしていた新之丞は、「早めに隠居して、子供たちに剣を教えたい」という夢を加世に語りながら仲むつまじく暮らしていた。ところが、毒見に出された赤つぶ貝を試食した新之丞は、貝毒に当たり、突然苦しみだし、数日間高熱にうなされ気を失う。藩医の適切な手当てと加世の献身的な看病により一命は取り留めたものの失明する。盲目となった新之丞は、毒見役の職を解かれ、俸禄を減らされることを覚悟し、一時は絶望するものの加世の支えもあり、光の無い世界にも慣れてくる。一方、加世や周囲のものは生活を維持するために奔走するが、なかなか手立てが見つからない。
  そこに現れたのが、加世の娘時代を知る高級武士の島田藤弥(坂東三津五郎)である。そしてある日、新之丞は加世と島田との不貞を知ってしまう。島田に体を預けることを引き換えに家禄を保ってきたことを知った新之丞は加世を離縁。島田への恨みを胸に剣の稽古に没頭する。そして、妻を弄んだ藩内きっての剣の使い手である島田と、“武士の一分”をかけた果たし合いに臨むのであった。
  木村拓哉の演技もいいが、慎ましやかな檀れいの演技がすばらしい。また、三村家に仕える中間・徳平役の笹野高史、加世のおば・波多野以寧役の桃井かおりが、気落ちした新之丞に接する姿は、飄々としており、ときにコミカルに感じるものの、人間的な温かみを感じさせる。
  最後に、音声ガイドが場面場面で適切に入り、立ち回りのシーンなど、普通はつばぜり合いの音がするだけで何が起こっているのかお手上げだが、それが手に取るようにイメージできた。そして、なにより脚本が素晴らしいばかりか、音声ガイドの言葉もよく吟味され、時代劇に合った文学的な言葉が使われ十分に堪能できたお勧めの映画である。(戸塚辰永)

2.「ヘレンケラーを知っていますか」を観て

 昨年(2006)12月5日(火)、東京・大泉学園にある東映東京撮影所において映画「ヘレンケラーを知っていますか」の試写会が開かれた。この映画は、ハンセン病患者や、不登校などの教育問題を長年撮り続けてきた中山節夫<なかやま・せつお>監督の作品で、企画・製作は山口県映画センターが行った。主演はNHK朝の連続ドラマ「おしん」の子役で好評を博した小林綾子で、同県に実在する70歳代の盲ろう女性「絹子」と、不登校の15歳の少年との心の交流を描いたもの。
  あらすじは、不登校の少年が一人暮らしの絹子の家に忍び込む。絹子は人の気配に気付き、いいようのない不安に駆られ、そのことを週に何度か訪問するホームヘルパーに訴えるが、気にかけてもらえない。しかし、絹子は少年を発見し、彼との交流が始まる。少年は心に闇を抱えており、ナイフでリストカットを図ろうとしていたが、彼女との会話を通じて、徐々に心を開いていく。
  これだけ聞くと、誰もが素晴らしい映画だと思うだろう。しかし、実際に映画を観ると、なんとも白々しい違和感を覚えた。まず、絹子役の小林綾子が、妙にはっきりした口調で子供を諭すように話していることだ。絹子は、二十歳過ぎで盲ろうになったという設定なので発話は可能だろうが、これでは長年孤独に生きてきた盲ろうの老女の、リアリティーは感じられない。また、この点が最も許し難い点だが、この映画は実在する人物をモデルにしていながら、内容はほとんどご都合主義のフィクションなのだ。例えば、絹子は盲学校でマッサージを学ぶのだが、そこではなんと生徒全員が手話による授業を受けていたのだ。そして、絹子も弱視の生徒と手話でコミュニケーションを取るのだが、こんなことがあり得るだろうか。この映画は平成17年度文化庁文化芸術支援作品で、文部科学省特別選定作品でもあるので、小・中学生も観るのだろうが、これでは視覚障害者や盲学校、そして盲ろう者の実情が伝わらないばかりか、誤解を生みかねない。
  撮影に当って製作者側は、モデルとなった盲ろう女性の手のひらに文字を書く、いわゆる「手書き文字」で話をして彼女には十分説明し、理解を得てもらったという。しかし、手書き文字でのコミュニケーションは、確実に意思が伝わっているか確認しづらい。製作者側と彼女との間で、なぜ点字を介したコミュニケーションがなされなかったのであろうか? 制作者側の誠意に疑問を感じる。
  同映画について当事者団体の全国盲ろう者協会は、「表現の自由の観点から映画制作に異議を挟むつもりはありませんが、本人および地元関係者と十分な意思の疎通を欠いたまま、映画撮影が進められたことは遺憾です。この映画については、協会としては協力も推薦もしません。ただ、上映によって映画を観た人達がモデルとなった盲ろう者を訪ねて、生活や安全を脅かすことのないように製作者には万全の対策を取っていただきたいと強くお願いしています」とコメントしている。(戸塚辰永)

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