8月24日、国際天文学連合(IAU)は、チェコ共和国の首都プラハで開かれた総会において新たに惑星を定義しなおし、冥王星が惑星から除外された。それで可哀想な冥王星は降格して何になったのかというと、新聞・雑誌はおおむね「矮惑星」と表記し、放送ではもっぱら「矮小惑星」といって、統一がとれていない。そこで、どちらが本当か調べてみると、IAUでは「ドワフ・プラネット(dwarf planet)」という英語の名称のみが決まっただけなので、両者とも仮称なのだという。今後、半年かけて日本学術会議・日本天文学会・日本惑星科学会が教育機関などと検討して、決めるという。このため、両者とも異なるまったく別の訳語たとえば「準惑星」などと命名される可能性もまだ残っている。
本年度の「ヘレンケラー・サリバン賞」受賞者は、香港盲人補導会グレース・チャン(Mrs. Grace Chan)行政総裁(60歳、香港在住)に決定した。第14回を迎える本賞は、「視覚障害者は何らかの形で晴眼者からのサポートを受けて生活しているので、それに対して感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が委嘱した視覚障害者の委員によって選考される。
贈賞式は、9月22日(金)につくば国際会議場で開催されるWBUAP(世界盲人連合アジア太平洋地域協議会)盲人マッサージセミナー開会式に続いて行われ、本賞(賞状)と副賞としてヘレン・ケラー女史の直筆のサインを刻印したクリスタル・トロフィーが贈られる。
「香港盲界に君臨するクイーン」という異名が、日本の視覚障害者の耳に達したのは、もはや随分昔のことである。少なくとも1987年11月に香港で開催された第1回東アジア太平洋会議のときには、晴眼者ながらチャンさんは名実共に香港盲界のリーダーとして、参加者に広く認知されたはずである。もっとも今は亡き村谷昌弘日本代表の隣りに立つ彼女は、実際以上に小柄で若く見え、異名とのギャップに初見参の参加者は戸惑ったものである。実は、この年に彼女は正式に香港盲人補導会の総幹事(ディレクター)に就任したのだが、すでに1984年には30代後半という若さで、盲人援護調整委員会の委員長という公職に就き、リーダーシップを発揮していた。以来、20余年にわたって、香港はもちろんのこと、中国、アジア太平洋地域の失明防止と視覚障害者教育、およびリハビリテーション事業に、彼女は疲れを知らぬバイタリティーを発揮してきたのである。なお、香港盲人補導会の総幹事と現在の行政総裁(チーフ・エグゼクティブ)は名称こそ違うが、最高経営責任者という実質的な職責はまったく同じである。
典型的なコスモポリタンである彼女のこれまでの抜群の業績は、一方、香港と中国の現代史が色濃く投影されたものでもある。グレース・チャンさんは、1945年の10月5日に激動の香港に生を受けたので、彼女の経歴はそのまま戦後史に重なる。また、彼女の活動は香港という英語と漢字が常に併存した植民地であり、今また一国二制度という特異な地理的、文化的条件に常に彩られてもいる。サリバン女史ほど極端ではなかったが、彼女の生家も貧しく、幼くして放課後にアルバイトをして彼女は家計を助けなければならなかった。そして中国語で教育を行う中文中学校を卒業したら、両親は働いてくれと頼んだという。しかし、向学心にあふれる彼女は高校にはどうしても行きたいと両親に粘り強く迫り、「学費は出せないので奨学金を見つけてきたら」という条件で、英語で教育を行うイングリッシュスクールに進学したのであった。高校卒業まで彼女は、常にクラスでトップであったが、それは首席でなければ奨学金が支給されなかったため、必死に勉強した結果であった。
香港は1941年の太平洋戦争の勃発とともに日本軍に占領され、日本の敗戦と共にイギリスの軍政下に置かれ、翌1946年に民政に復帰。その後、めざましい復興をとげ、終戦時に60万人程に減っていた香港の人口は1947年には180万人となる。毛沢東が天安門広場で中華人民共和国の建国を宣言するのは1949年の10月1日であるが、終戦からその間、中国本土は国共内戦による血を血で洗う凄まじい戦いに明け暮れていた。そして難民が怒濤のごとく香港に押し寄せ、1950年には人口が236万人へと急増。このような、激動の中国現代史のただ中で生まれた彼女が物心ついた頃、また中国本土では1958年にはじまった大躍進運動で大混乱に陥る。しかし一方、香港はこの間、香港政庁が地元産業の育成に務めたため、従来の無関税のメリットだけを生かした単なる中継貿易港から、中継加工貿易都市へと急速に経済発展していくのであった。
その後、彼女が20歳を過ぎた頃に大陸では文化大革命が起こり、香港でもそれに呼応したデモやストライキが発生して社会不安が起こる。そのような中で、彼女は高校を卒業して働きながら経営学や人事管理学など、その後、ソーシャルワーカーとしての彼女のキャリアを支える武器を着々と身につけたのであった。そして、1968年に夫となるポール・チャンと出会い、1971年に結婚。1971年12月には息子のマーフィーを授かったのであった。
彼女がソーシャルワーカーの道を歩みはじめたのは、社会の底辺で苦悩する人々や身体障害者を身近に見ていたからであった。そして、息子が乳離れすると共に盲人補導会に職を得、水を得た魚のように活躍する。しかし、休日も関係なく世界中を飛び回らなければならない激務であったために彼女は随分家族を犠牲にし、それを許してくれたご主人に、とても感謝しているという。子息は大学からオーストラリアに留学し、商学修士号を取得して香港に帰り、7年間香港上海銀行でマネージャーを務め、現在はシティーバンク香港の副支店長を務めている。
彼女の現在の肩書きを、彼女自身とっさに全て述べることは難しいだろう。主なものだけでも長い名称の名誉職が20ほども並んでいるのだ。その中にはWBUAPのマッサージ委員長など、日本の視覚障害者にも馴染みのものの他、香港政府の委員や国際的な失明防止協会の役員などがある。驚くべきは、中国各地の盲学校の顧問や名誉校長、障害者団体等の顧問や名誉会長、大学や研究所の客員教授、果ては山東省の政治顧問など、極めて多種・多彩な役職に多数就任していることである。それは、これまで中国の12の省において移動眼科治療センターを開設して、白内障の無償手術を行ったり、中国の4つの省で統合教育のためのリソースセンターを開設し運営するという大規模な事業を次々と実施してきた、その実績のたまものである。このため、これまでも広州市政府や中華人民共和国副首相などからも表彰され、1997年には香港政府から「ジャスティス・オブ・ザ・ピース(太平紳士)」という称号さえ贈られている。また、同年には身近なところで、日本ライトハウスの岩橋武夫賞も受賞している。ちなみに、ヘレンケラー・サリバン賞の外国人受賞者は、今回で2人目だが、1997年度の受賞者プラサド博士も1987年に、奇しくも岩橋賞を受賞していたのであった。
戦後60年は中国はいうに及ばず、香港にとっても、そこで暮らす人々にとっても平坦な道ではなかったはずだ。困難な時代を天の時とし、生き馬の目を抜く自由港を地の利とし、スタッフや利用者あるいは支援者を、そのカリスマ性と強力な組織力で糾合して、彼女は次々と事業を展開したのではなかったか。そのチャンさんの姿は、1997年7月に中国に返還されて、中華人民共和国香港特別行政区となった現在も、多彩な魅力を持つ自由港として、ディズニーランドの開園に象徴されるように、ますますエネルギーに溢れ、世界中の人々を魅了する香港そのもののようにも思えるのであった。(福山博)
私が宿泊したホテル・マジェスティックは、ベトナム戦争中の小説やルポルタージュによく登場するので、昔からその名前は知っていた。そこで、どうせならと航空券を手配する前に、インターネットでまず宿を予約したのだった。
今から40年以上も前の話しだが、1964年末から1965年初頭にかけて、開高健(カイコウ・タケシ)が『週刊朝日』に毎週送稿したルポルタージュは、日を置かず『ベトナム戦記』のタイトルで緊急出版された。その取材のために彼が泊まったのがこのホテルである。私は、ベトナム戦争が終わってからいわば古典として同書を読んだのだが、開高がカメラマンと共に「チョー・ヨーイ(なるようになれ)」と叫びながら飲んだくれるシーンが印象に残っている。このためか、この古いホテルにもなにやらすさんだ、うらぶれたイメージを持っていたが、これは根拠のない幻想であった。
ところで開高には「チョー・ヨーイ」と聞こえたようだが、正しくは「チョイ・オーイ(Troi oi)」というようで、直訳すると「おお天よ!」という意味。ベトナムでは、「困ったとき」「驚いたとき」「頭にきたとき」「がっかりしたとき」などに口癖のように多用する。開高が滞在した当時のサイゴンではホテルの爆破も珍しくなく、最前線でなくとも気の休まることがなく、この言葉を吐きたかったのだろう。むろん現在はそんな危険はないが、あろうことか、同ホテルのエレベータは、例のシンドラー社製で、まったく「チョイ・オーイ」である。しかし、人を挟んだまま動いたり、急上昇して最上階の天井にぶつかったりしなければ、とても静かなエレベータではあったが。
サイゴン中心部のホテルから車で20分程度北上した住宅街に、4階建ての瀟洒なペンシルビルがあった。石川県立盲学校に4年間留学し、2004年4月にサイゴンに帰って来たブイ・バン・タンさんの自宅兼治療院である。彼は帰国後すぐに開業準備をすすめ、同年末に開業申請を行った。ところが、それが認可されるまでになんと1年6カ月もかかったため、開業にこぎ着けたのは今年の6月10日だという。これもまた「チョイ・オーイ」である。従って私が訪れた時は、開業してひと月半しかたっていなかった。このぴかぴかの治療院の名前は「ニャッ・タン・ベト」といった。最初の「ニャッ」というのは日本の「日」をベトナム読みしたもので、ミドルネームのタンとはそのものずばり彼の名前で、最後の「ベト」とはベトナムのことであるから、「日越タン治療院」という意味だ。
タンさんは留学中、金沢で野崎たか子さんと知り合い結婚し、彼女と二人三脚で、この治療院を開設した。サウナ風呂付の女性用治療室が1室でベッドが4床、男性用が同じくサウナ風呂付3室11床で、4階が自宅という堂々たるものである。従業員は女性治療師2名、男性治療師9名で、それに加えて自家用バイクの運転手が1名と受付業務の女性が2名の計14人である。治療師は全員視覚障害者だが、給料は歩合制だという。
私は挨拶もそこそこに、まずは施設見学をさせてもらおうと冷房の利いた治療室に向かうと、ベッドでは治療師がシェスタ(昼寝)の最中で、大慌てで起き出した。2、3人収容のサウナ室のノック式ドアノブが、逆についていたので、それを指摘すると、サウナの中で倒れる事故がたまにあるので、わざと内側からはカギがかからないようにしているということだった。ベトナムにはバスタブにお湯を張って入る習慣はなく、普段はシャワーで済ますのだが、ちょっとリラックスしたいときには、サウナに入る習慣があるので、マッサージ施術所にサウナは欠かせないという。
マッサージのメニューはいろいろあったが、ベトナム式とはオイルマッサージのことだというので、私はこれを敬遠して日本式按摩を受けた。施術者は、この6月に日光盲学校を卒業した男性治療師で、佐々木憲作先生の直弟子だ。治療費は1時間で3万5,000ドン、邦貨にして256円で、これに加えて75円程度の心付けを払った。日本人の感覚ではこれでもむろんとても安いが、佐々木さんによるとベトナムの諸物価から換算すると少し高いという。その例として、彼が出したのはお手伝いさんの日当で、相場は1日3万ドン。お手伝いさんのことをベトナムでは俗に「オシン」というが、これは10年ほど前に1年間ベトナムでテレビ放映され、圧倒的人気を博したテレビドラマの影響である。あのドラマのように、けなげな少女が安くこき使われるのであるから、高いわけがないが、1日10時間働いてマッサージの施術料より安いのだ。しかも、タンさんの施術所は、一般の相場よりかなり安いというのにである。
さて、私が受けた施術の感想だが、まったくの日本式按摩で、施術は横臥ではじまった。ただ、直弟子が少し張り切りすぎたようで、当初私は何度か「痛い」と叫ぶことになったが、こういうとき、曲がりなりにも日本語が通じるのはありがたい。ただその後、私は不覚にも寝てしまったので、それなりに上手であったといっていいのだろう。佐々木さんによると、「どの部位で少し力を加減するかが良くわかっていないところがあるが、ベトナムでは上手な方ですよ」と評した。
この治療院もそうだが、盲学校も治療室はフロアーごとに厳密に男女別になっていた。そして、男性は男性の治療師が、女性は女性の治療師が施術することにしていた。こうでもしないと、マッサージは風俗営業と思われるのだそうだ。実際に開業して1カ月もたたないうちに、何人かの男が風俗営業と間違えてきたといって、タンさんは笑った。そして、「日本の皆さま。もし、サイゴンに来られる機会があれば、マッサージ・按摩のニャッ・タン・ベトに、ぜひお立ち寄りください」と、商売の宣伝も忘れなかった。
ニャッ・タン・ベト(Nhat Thanh Viet)は、ベトナムの旧正月(テト)以外は年中無休で、施術の受付は9〜20時半。電話番号は、(08)511-7418。住所は204/4D National Street 13, Word 26, Binh Thanh District, Ho Chi Minh City(福山博)
NTTドコモは、累計台数約789万台を突破したらくらくホンシリーズの新機種、フォーマらくらくホンVを9月1日に発売した。同シリーズは、その先進的なユニバーサルデザインにより視覚障害者に圧倒的に支持されているが、新機種のVでは、機能が全体的に強化されると共に音声読み上げ機能がさらに進化し、実用的になった。
気になる音声読み上げ機能は読み上げ項目がぐんと充実し、なかでも今回から変換候補を読み上げるようになったことは視覚障害者ユーザにとって朗報だ。変換候補の読み上げは「詳細読み」で、たとえば学校の「校長」という字を入力した場合は、「学校のコウ、長いのチョウ」というように漢字を1文字ずつ説明してくれる。また、変換候補にカタカナやアルファベットがある場合もその違いを教えてくれる。こうして選んで入力した単語は変換候補リストの先頭にくるようになっており、頻繁に使う単語のスムーズな入力が可能だ。ただ、入力予測機能の変換候補の読み上げが未対応なのは残念だが、変換自体は日本語入力システムのATOKが搭載されているので誤変換はとても少ない。これで、電話帳の登録やよく使う単語の登録なども自分ででき、仕方なくメールをひらがなで打っていた人も、これからは漢字仮名交じり文で送ることができるだろう。
そのほか、通話機能では、相手の声がゆっくり聞こえる「ゆっくりボイス」を引き続き搭載。また通話相手の声を強調し聞き取りやすくする「はっきりボイス」は、一定レベルを超えた周囲の騒音を感知すると、自動で起動するようになった。これは携帯初の機能で、2つ搭載したマイクが騒音と声を聞き分ける仕組みだ。また、緊急時用の「ワンタッチアラーム」機能も強化。前機種ではスイッチを入れると大音量で周囲に自分の居場所を知らせるのみだったが、新機種ではワンタッチアラームを作動させた約30秒後には、あらかじめ設定してある相手に音声電話を自動発信し、「○○さんがアラームを鳴らしています」というメッセージを流してくれるようになった。そして、「日付時刻設定」は電源を入れると自動で時刻補正してくれるようになるなど、他の機能でも細かなバージョンアップが施されより便利になっている。
新機能としては、iモード機能に「iチャネル」が追加。これは、定期的に受信したニュースや天気、芸能・スポーツ、占いなどのテロップが待受画面で表示されるというもので、ドコモが提供する有料サービスの1つ。待受画面でiチャネル対応ボタンを押せば、ニュース等の最新情報が一覧表示され、気になるニュースがあれば、さらに詳しい内容を知ることができる。
このように機能が増えたが、本体は前機種と比べて、折りたたみ時の厚さが23mmから19.5mm、重さが122gから113gへとよりスリムになっている。色はブラック・ゴールド・ピンクの3色。
誇張ではなく、「座談会『視覚障害者の留学』」では、司会の私のみが訥弁で、最も日本語会話がへただったような気がします。もっとも一方では、あはきの国家試験に不合格となったり、あるいはそもそも盲学校の入試に失敗して、帰国を余儀なくされた留学生も少なからずいます。しかし、それらの不本意な留学ではあっても日本での滞在・留学が必ずしも無駄ではなかったようにも聞いています。取り上げ方が難しいのですが、いずれ何らかの形で紹介したいものです。それにしても英国の外国人に対する歩行訓練拒否の傲慢な姿勢はひどいですね。福祉大国というのは幻想なのでしょうか? 次回では米国のひどい話がでてきますが、欧米なかんずく英米のきれい事には、いよいよ眉に唾をつけて聞かなければならないような気がします。
9月22日からいよいよ「盲人マッサージセミナー」が開催されます。関係者の方々は、今がまさに最後の正念場でしょう。同セミナーの成功を心より祈念致します。私も22日と25日には取材に駆けつけます。
今号の「知られざる偉人」は、著者の都合により休載します。(福山)
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