THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2006年9月号

第37巻9号(通巻第436号)
編集人:福山 博、発行人:迫 修一
発行所:(社福)東京ヘレン・ケラー協会(〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4
電話:03-3200-1310 振替:00190-5-173877) 定価:一部700円
編集課 E-mail:tj@thka.jp
―この紙はリサイクルできません―

はじめに言葉ありき「巻頭ミセラニー」
「青蔵鉄道(セイゾウテツドウ)」

 この7月1日に開通した中国西部・青海省西寧(セイネイ)(シリン)とチベット自治区の首府ラサを結ぶ総延長1,956kmの鉄道。平均海抜は約4,500mで最高地点は5,072m、また海抜4,000m以上の部分が960kmもあり、世界一高所を走る鉄道である。このため、航空機に使われる与圧設備を持つ車両が投入され、さらに各席には酸素吸引設備が用意されている。最高時速は160kmだが、海抜5,000m以上の区間では時速80kmに減速し、西寧からラサまでを27時間で結ぶ。チベット観光の目玉として期待されており、また、チベットと中国他省との物流が大きく改善されるとみられる。他方、これによりチベットへの漢族流入がますます促進され、チベットの「漢化」が一層進み、独自文化の破壊が懸念される。

目次

「この夏のセミナー・講習会」
 
 理教連定期総会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
 アイダス研修会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
6
 2006ロービジョンセミナー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
8
(新連載)サイゴン駆足紀行(上)幻想のプチパリと盲学校 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
11
リレーエッセイ:マレーシア一人旅(あかつき・えにし) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
21
感染症研究:日常生活を脅かす性感染症の最近の動向 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
25
60年前の記憶を手がかりに「身障法」や岩橋武夫を語る
 フェルディナンド・ミクラウツ特別講演
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30
福田案山子の川柳教室 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
33
知られざる偉人:名作のモデルとなったM.A.インガルス ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
36
コラム・三点セット ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
40
大相撲:国技存亡の危機が密かに進行中!? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
43
広げよう視覚障害者登山の輪! 
 六つ星山の会創立25周年記念フォーラム今秋開催 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
46
日本の伝統、盲人按摩と国際共生(4)(笹田三郎) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
48
スモールトーク:視覚障害者クライマーへの支援Tシャツ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
54
ブレーメン:短波ラジオにかじりつく ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
56
時代の風:NPO法人の名前が消える? 他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
59
伝言板:かがり火2006、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
62
編集ログブック ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
64

サイゴン駆足紀行(上)
―― 幻想のプチ・パリと盲学校 ――

 「どえらい飛行機に乗るんやなぁー、福山君は!」とか、「知っていたら止めたのに。クラッシュ(墜落)エアーラインと呼ばれているのを知らないの?」などと散々脅かされ、冷やかされて中華航空(華航)107便で成田を飛び立ったのは、7月22日の午前9時40分であった。ということは空港には2時間前に着かなければならないので、新宿6時7分発の成田エクスプレスに乗らなければならず、自宅最寄り駅5時半発という強行軍。ベトナムへ行くのに台北経由の華航を選んだのは、とにかく旅費を安くあげるためであったが、思わぬブーイングもあり搭乗するまでが難儀であった。
  本誌2006年3月号「鳥の目、虫の目」で、航空会社の安全度を検討したが、そこでの華航の評価は「空飛ぶ棺桶と呼ばれているほど悪い会社ではない」というものであった。そして、実際に搭乗した感想も近代的な航空会社のそれで、たとえばロイヤルネパール航空に感じる違和感や不安感のようなものはまったくなかった。しかも、今年の土用の丑の日は7月23日で、その前日のフライトであったため機内食にウナギが出てくるサービスぶりだ。もっとも私は「ウネーギ」という単語がわからず聞き返したばかりに「フィッシュ」と説明され、なおさらわからないまま、注文したのであった。
  いずれにしろ、華航での日越往復時に都合4回機内食にありついたが、どれも味付けが絶妙で、華航ならではのホット・ウーロン茶のサービスもあり、サッパリと仕上げることができた。なによりシート間隔がゆったりとしており、繰り返すようだが、「空飛ぶ棺桶と呼ばれているほど悪い航空会社ではない」のである。

幻想のサイゴン

 1975年4月30日、北ベトナム軍の進攻により首都サイゴンは陥落し、南ベトナム政府は崩壊。翌1976年にサイゴンはホーチミン市と改称した。しかし、だからといってサイゴンという地名が死んだのかというと、そうではないところが面白いところで、いまだに地元では当地をサイゴンと呼んでいる。例えば今回私が泊まったのは「ホテル・マジェスティック・サイゴン」といったが、これは1925年開業の古いホテルだからサイゴンという名がついているのは分かるとしても、最近できた超高級ホテルにも「サイゴン」が冠せられている。さらに、あくどいことでガイドブックに名指しされているサイゴン・ツーリスト・タクシーは国営なので、これはもう政府がお墨付きを与えているのも同然であるから、この稿でももっぱらサイゴンと呼ぶことにする。なお、ホーチミン市はサイゴンに加えて隣接する町も合併して命名されたので、厳密にいうならホーチミン市の中核部のみがサイゴンとなるのだが、ここではこれ以上詮索しないことにする。
  サイゴンの中心部はドンコイと呼ばれる通りの周辺で、ここがベトナム現代史の一方の舞台となったところである。サイゴン大教会、中央郵便局、ホーチミン人民委員会庁舎、市民劇場などフランス植民地下の豪壮なコロニアル建築が林立しており、その間を洒落たブティックやレストラン、カフェなどが埋めており、「プチ(小)・パリ」の趣をいかんなく漂わせている。実際にサイゴンに来るまで、私はベトナムに対してなぜかすさんだイメージを持っていたが、それが音をたてて崩れたのもこの美しいドンコイ通りの並木道を散策したときであった。
  私が宿泊したホテル・マジェスティックもドンコイ通りにある天井の高い重厚なコロニアル建築で、戦時中は大日本帝国陸軍に接収されていた。それを証明するように、エレベータホールには1940年撮影の写真パネルが飾られていた。その写真に写っているホテル屋上には、右から左に漢字とカタカナで「日本ホテル」の看板が掲げられていた。ちなみに香港のペニンシュラホテルは「東亜ホテル」、シンガポールのラッフルズホテルは同様に「昭南旅館」と改称させられたのであったが、いずれにしろ何というネーミングであろうか?

「国立ホーチミン盲学校」にて

 「今日、日本から帰ってきました」。私がサイゴンに着いた翌夜、ホテルの自室でごろごろしていると電話が鳴り、佐々木憲作さんの明るい声が響いた。同氏とは、その1週間ほど前、たまたま国際視覚障害者援護協会に電話をかけたとき、一時帰国中の同氏が同協会を訪問中ということで、山口和彦事務局長が「佐々木さんを紹介するよ」といって、電話を代わってくれたのであった。同氏は、50半ばにして単身サイゴンに移り住み、ベトナムの視覚障害者に日本の按摩をボランティアで教えている人である。そこで、サイゴンで会うことを約したので、電話がかかってきたのであった。私は、成田空港においてベトナムで使える携帯電話をレンタルしていたので、さっそくその電話番号を伝えた。サイゴンは観光地であれば日本語で頻繁に話しかけられるが、一歩外れると英語もほぼ通じない。そんな状況を知るにつけ、携帯電話は心強かった。今回のサイゴンへの旅は個人的なものではあったが、日本に留学した視覚障害者のその後と、日本按摩の浸透振りを確認したくて、その手引きを佐々木さんにお願いしたのであった。
  翌朝は9時に私の宿舎で会う約束であったが、佐々木さんは10分ほど遅れて白杖をついてひとりで現れた。バイクタクシーに乗って来たとのことであったが、降ろされたところが悪かったようで、ホテルをぐるっと回って正面玄関を探すのに、思いの外手間取ったという。それまで私は、彼を「かなり見える弱視者」と勝手に想像していたのだが、それを引き取り、彼は「実は、かなり見えん弱視者なんですよ」といって笑った。バイクタクシーとは、客をオートバイの後ろに乗せる旅客輸送業である。佐々木さんは単独で行動するときは、これを愛用しているということで、場合によっては道路の反対側に渡る時に使うことさえあるという。信号を無視する世界一ともいわれるバイクの洪水をみれば、これも無理からぬことだ。
  私たちはホテルからタクシーで、一路「国立ホーチミン盲学校」に向かった。ここでは便宜上こう呼んだが、ベトナムの国立盲学校は全国に4校(ホーチミン、ハノイ、ダナン、ハイフォン)にあるそうだが、そのすべての学校の正式名称は、阮廷鷺(グエン・ディン・チュー)(チエウ)学校といい、その最後に所在地名を付けて区別する。阮廷鷺(1822〜1888)というのは、フランスの植民地支配に抵抗した盲目の詩人で、ベトナム文学史上に燦然と輝いている。
  この盲学校では全盲の教師グエン・チャン・ヴ・トゥイ先生に案内してもらった。彼女は長崎県立盲学校に留学し、日本のあはき師の国家試験に合格して、母校の教員になった人だ。トゥイ先生は同校で、日本への留学を希望している視覚障害者2名に日本語も教えているという。まずは校長先生に挨拶して、学校を見学。同校には幼稚部と小・中学校の課程があり、在校生は約200人で、そのうちの半数が寄宿舎に住んでいるという。ベトナムの障害児教育は原則として統合教育なので、盲学校には高校の課程はない。このため、同校の寄宿舎に住んで普通校に通う生徒も14人いた。これは普通高校に通う生徒ばかりではなく、大学に通ったり、小・中学生であっても優秀な生徒はどんどん普通校に送りだしているためだという。教職員は52人で、そのうちの40人が教師であった。同校はベトナム南部地域唯一の国立盲学校として統合教育のセンター的機能も併せ持つので、統合教育校のリソース・ティーチャーを指導したり、点字教科書の作成を行ったりしているのである。
  私が同校を訪問したときは夏休み中だったので授業は行われていなかったが、統合教育校の教員を集めて、インターネット研修会を行っていた。参加者は講師を含めて10人で、そのうちの3人が視覚障害者であった。
  同校では、先のトゥイ先生とやはり女性で晴眼者のマイ先生の2人、それに応援の医科大学の先生を交えてマッサージ講習会も行っており、これまでに約100人の修了者を出し、現在も30人が学んでいるという。また、同校には1997年に設立されたマッサージセンターがある。現在のベッド数は30床で、登録された視覚障害マッサージ師40人が交代で1日に約100人の患者を治療しているという。しかも、このセンターが手狭になったということで、隣接して新館を建設し、この9月から稼働する計画である。
  私は、社会主義国の国立盲学校というので、とても官僚的で窮屈な組織・施設を想像していたが、実際は校長の裁量により、果敢に融通無碍に対処しており驚いた。これもドイモイ(刷新)政策の成果だろうか?
  「十数年前までは、盲教育といえば義務教育である小学校5年課程までであったが、現在はわが校を卒業して短大や大学などの高等教育機関で学んでいる学生が20人もいる。また、マッサージによる職業自立のめども立ち、わが校や盲人協会が運営している大規模なマッサージセンターだけでなく、視覚障害者自ら開業するものも4、5人出てきた」と校長は誇らしげに語った。それにしても日本の盲学校とは違い、夏休み中といえども校内に活気がみなぎっていたのは驚くばかりであった。
  国立盲学校を見学した後、学校の前の喫茶店にて一休みした。といっても、歩道と同じ高さの室内は、オートバイの一時預所になっており、我々は歩道に置いたプラスチックの椅子に座ってコーヒーを飲んだ。すると、ノンという編み笠をかぶったおばさんが入れ替わり立ち替わり宝くじを売りにきた。タイでは宝くじ売りが視覚障害者の有力な職業の一つになっているが、ベトナムでも最近宝くじを売る視覚障害者が増えてきたという。ただ、足を棒にして働いても実入りには限界があり、マッサージほどには有力な職種とはいえないようだ。

愛称は「日光盲学校」

 サイゴン中心部のホテルからタクシーで西北に30分ほど走ると、その上に有刺鉄線がトグロを巻く長大な白い塀が見えてきた。ベトナム戦争当時は米軍も駐屯していた広大な陸軍基地である。そのちょっと先に、目指す奇光(キークワン)寺はあった。
  このお寺の本堂は数え方にもよるが、6層の岩窟を模した建造物で、各階には極彩色に彩られた蓮のオブジェに飾られて、白く輝く大小あまたの仏像がピンクの台座に乗っていた。最上階から庭を見下ろすと、コンクリート造りの小山があり、そこには実物大の猪八戒が馬を引いており、その前を沙悟浄と三蔵法師が歩いていた。これはどこかにかならず孫悟空がいるはずと目をこらすと、山の頂上にて遥か行く手をうかがっていた。おそらく日本人の感覚では、いかにもキッチュな、仏教アミューズメントパークとでもいうようなお寺である。しかし、ちょっと考えると仏像や伽藍に芸術性や文化、わび・さびを感じてありがたがる方が、存外おかしいのであって、これが本来の仏教の姿かもしれない。そこには物知り顔に値踏みする姿はなく、一心不乱に仏像に叩頭し帰依する純粋な庶民の姿だけがあり、理屈抜きの仏教の始原的力強さを感じさせた。
  一方、このようなきらびやかな本堂に対して、それに隣接する「庫裏」に相当するのであろう建物は、ベトナムの病院や学校とまったく同じ構造の地味なレンガ造りであったが、増築を重ねた大規模なものであった。それは寺院から学校や病院・リハビリ施設が独立する前の未分化な姿である。その一画に、寺の大僧正が「ニャックワン盲学校」という愛称を付けた2年制の「日越友好マッサージトレーニングスクール」があった。ここで佐々木さんが、事実上の校長として教えているのだ。
  ニャックワンとは日光のことなので、以後は日光盲学校というが、同校は2階建てで、1階が寄宿舎と食堂、2階が職員室、教室、シャワーも備えた臨床室に、2体の実物大の人体模型などを収めた倉庫などもあった。午前中が1年生、午後が2年生の授業ということで、もっとこぢんまりした「寺子屋」を想像していた。が、実際は、職員室とゆったりした臨床室にはエアコンも入っており、堂々としたものであった。
  2004年9月に開校したこの日光盲学校は、今年の6月に第1期の卒業生8人を送り出した。そのうちの1人は日本への留学を希望しており、そのための日本語を特訓中だが、後の7人は全員就職した。同校は2年生の臨床実習として週3回無料でマッサージ治療を行っており、毎回10〜20人の患者が来校するという。「なぜ治療費を取らないのですか?」と聞くと、佐々木さんは、「本当のところは安くてもいいから取りたいのですが、慈悲を施すのがお寺なので、それができないんですよ」という。このお寺には、別にベトナム伝統医療の漢方診療所があり、貧しい人々に漢方薬を処方したり、伝統的な手技マッサージを施術したりしており、そこも無料だという。教育上あるいは運営上の合理性の前に教義上の理念が優先するのは、寺院と施設が未分化なのだから致し方ないところである。
  話が複雑になるが、このお寺にはキークワン・ハイ盲学校という入所施設がある。とはいっても、入所者150名余りのうち視覚障害者は30人にしか過ぎない。本来は視覚障害児のための施設であったのだが、行き場のない障害児も入所させたためこうなったのである。なかには、おそらく枯れ葉剤の影響なのだろう、極端に足が奇形した重度障害の子どももおり、30年前に終結したはずのベトナム戦争が未だに尾を引いているのがうかがえショックである。
  ベトナムの人口は日本より少ない約8,206万人であるが、障害者数は極端に多く、一説によると全土の心身障害者数は人口の7%の約574万人におよび、そのうちの20.2%にあたる126万人が視覚障害者であるともいわれている。
  この寺では、重度の障害児を多数の職員やボランティアが、とても自然に世話していたが、これはセンチメンタルなヒューマニズムとは無関係な大変な事業である。社会の苦を解決するためのひたむきで強靱な宗教的エネルギーに圧倒され、私は古いテレビニュースを想い出し、戦慄した。ベトナム戦争に反対して次々と焼身供養(自殺)を行うベトナム仏教僧の凄惨なニュースであるが、民衆に寄り添う深い慈悲は、軽々とヒューマニズムを越えるものなのかも知れないのである。
  キークワン寺には5kmほど離れた郊外の広大な敷地に職業訓練センターを開設しており、ここでは、視覚障害を持つ青年を中心に肢体障害者なども協力して、ランなどの花卉栽培や民芸品作りなどを行っていた。お寺側の意向としては、敷地の広いこちらに日光盲学校を開設したかったようなのだが、人家の少ない地ではいくら無料とはいえ、患者を集めることができず、臨床ができないので断念したという。このため日光盲学校の学生はここに寄宿し、学校へはお寺のバスで通学していた。
  サイゴン河に面して風の良くとおる広々とした木造2階建ての寄宿舎を訪れると、夏休みでも親元に帰らない、あるいは帰れない教え子が佐々木先生の声を聞いて笑顔で集まってきた。そして、ブラインドサッカー談義にひときわ大きな歓声がわき起こったのであった。(福山博)

60年前の記憶を手がかりに「身障法」や岩橋武夫を語る
―― フェルディナンド・ミクラウツ特別講演 ――

 7月26日(水)、日本点字図書館にて、フェルディナンド・ミクラウツ(Mr. Ferdinand Micklautz)氏の特別講演が行われた。現在91歳の同氏は、敗戦後の日本で連合国軍総司令部(GHQ)において身体障害者福祉法の原案を作成した人物。この講演をコーディネートしたのは、埼玉県立大学社会福祉学科の丸山一郎教授で、講演では通訳も兼ねて司会進行役を務めた。
  まず、ミクラウツ氏の経歴が紹介された。同氏は1915年、ニューヨーク市で生まれ、コロンビア大学で心理学と経営管理学士を取得。1933年に海軍に入隊し1937年に除隊。その後1944〜1951年まで、米国赤十字および国際赤十字の帰還兵・災害担当者として、中国、韓国、沖縄、日本本土、東南アジア、アフリカなどで帰還・救援活動に従事。その間の1947〜1949年にGHQで活動していたのである。1952年に帰国し、赤十字メリーランド州支部、バージニア州支部の支部長を歴任。現在は、ハワイで骨董店を営んでいる。
  次に、身体障害者福祉法(身障法)の原案について語られた。ミクラウツ氏がGHQの占領政策に関与する契機は、1947年赤十字活動で来日していたときに、公衆衛生福祉局(PHW)のサムス准将から要請を受けたことによる。そしてGHQに所属し、1948年11月〜1949年11月までの1年間、PHWの更生・組織係の責任者として身障法の原案をまとめ上げたのである。この身障法の制定は着任の前年にすでに決まっており予算もついていたという。ここで注目すべきは、ミクラウツ氏が作成した原案では、対象障害は、視覚、聴覚、肢体だけでなく結核、精神なども含まれていたことだ。制定時に外されたことについては、「任期を終えた後なので詳しくは知らないが、施行するのは日本政府であり、当時の極めて深刻な経済状況が影響したのではないか」と語った。
  また、ミクラウツ氏は大阪のライトハウスに岩橋武夫氏を訪ねて親交を結んだエピソードも紹介。当時、ライトハウスの貴重な収入源だった進駐軍の空き缶の再生加工が困難となる事態に陥ったとき、岩橋氏はG.コールフィールド女史に相談。同女史は視覚障害者で、大正時代から何度も来日していた米国のソーシャルワーカーである。ミクラウツ氏にとっても、彼をPHWへ推薦した人物である。同女史のアドバイスがあり、ミクラウツ氏は岩橋氏がマッカーサー元帥に面会できるよう取り持つことになる。こうして会談は成功し、元帥はすぐに命令を発したため、再生加工を行う金属工場は無事継続できるようになったのである。
  ミクラウツ氏は「武夫は頭の回転がよく、有能なセールスマンのようだった。ただ、その後も何かあるたびに、たびたび私の所を訪問しては、マッカーサーに合わせろ、というので困った」とユーモラスに語り、その後も2回、岩橋氏が元帥に会う機会を作ったという。
  公演後は質疑応答が行われた。会場から「GHQで鍼をなくせと命令が出たときは、差別的な意味あいがあったのか?」との質問に、ミクラウツ氏は、「差別的な意味は全くない。鍼が不特定多数の人に使われることが衛生的に問題だったのだ」と述べた。また、「身障法が傷痍軍人をも対象としたため反対があったというが?」との質問には、「米国の世論は反対していたが、GHQは無差別平等が社会政策の原則であったため、私は当時、米国の国内向けに行われた記者会見で、傷痍軍人も差別しない」とはじめて発表したと述べた。また、質問ではないが、国際視覚障害者援護協会の直居鐵理事長が、1949年コールフィールド女史と交流があったことを話すと、「どうしてその時に会わなかったのだろう」と驚き感激した様子であった。今回の来日で、直居氏が実際にコールフィールド女史を知る唯一の人物であったそうだ。
  ミクラウツ氏は最後に、参加者一人ひとりとあつい握手を交わした。時に空を見つめて記憶をたどりながら語られたその内容は、参加者にとって始めて知ることも多く、当時を違う角度からみることができたのではないかと思う。現在、ミクラウツ氏は自伝を執筆中だという。日本でも紹介されれば貴重な資料となるであろう。(小川百合子)

■ 編集ログブック ■

 「WBUAP盲人マッサージセミナー」への関心を深めるために企画した、「日本の伝統、盲人按摩と国際共生」は、今月号で完結しました。後は9月22日から開催されるセミナーの成功を祈るばかりです。
  「サイゴン駆足紀行」は、次号からギュッと圧縮して、3回シリーズでお届けします。出発に際し成田空港の手荷物検査で、靴と500mlのペットボトルが引っかかりましたが、どちらもすぐに返してもらいました。靴はX線検査機で、ミネラルウォーターは液体物検査装置で爆発物ではないことが証明されたのです。もっともいざとなれば、水はおろか、歯磨き粉や口紅まで没収されるようなので、これから海外にお出かけの方はご注意ください。
  ミクラウツ氏の講演は私も聞きたかったのですが、その時私はホーチミン市におりました。同氏と親しかったコールフィールド女史は、当協会設立時の顧問で、当協会で講演を行ったり、書籍発行の指導をされていたようです。また、当協会点字図書館の前身であるヘレン・ケラー学院併設点字図書室は、同女史と毎日新聞社『点字毎日』編集部からの寄贈点字図書により発足したものでした。(福山)

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