THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2005年12月号

第36巻12号(通巻第427号)
編集人:福山 博、発行人:竹内恒之
発行所:(社福)東京ヘレン・ケラー協会(〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4
電話:03-3200-1310 振替:00190-5-173877) 定価:一部700円
編集課 E-mail:tj@thka.jp
―この紙はリサイクルできません―

はじめに言葉ありき「巻頭ミセラニー」
「不安定の弧(アーク・オブ・インスタビリティ)」

 米軍普天間飛行場のキャンプ・シュワブ沿岸部への移設や、米陸軍第1軍団司令部のキャンプ座間への移転について、11月7日、沖縄・神奈川両県知事が相次いで反対を表明した。これらの在日米軍再編の背景には米政府が同時多発テロ後の国防戦略見直しにおける安全保障上の認識「不安定の弧」がある。これは、イスラエルからカスピ海を通り北朝鮮を結ぶ線と紅海から韓国へといたる弧の間、つまり東欧から中東、インド、中国、北朝鮮にかけての地域が近年、テロの温床となっている。そこで、米軍がこの地域への関与を強化するために、日本を重要な戦略拠点と位置付けているのだ。なお、同時に米国は豊かな油田のあるアフリカ北部を「チャンスの弧」、治安と経済が安定している欧州を「安定の弧」としてとらえている。

目次

(座談会)盲教育を憂う(ご出席は、阿佐博、直居鐵、長尾榮一の3氏、
  司会は本誌編集長) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
アンゲリーカが死んだ!!(田中徹二) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
18
読書人:『全盲の弁護士 竹下義樹』、『視覚障害学生サポートガイドブック』 ・・・・・・
22
研究室から:特別支援教育の推進を願って(久松寅幸) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
25
感染症研究:いつ発生してもおかしくない新型インフルエンザへの危機管理 ・・・・・
28
万華鏡:今日も4、5店、本屋が消える ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
33
鳥の目:過ぎたるは猶及ばざるが如し ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
35
水原紫苑の短歌教室 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
38
知られざる偉人:オーストラリアのヘレン・ケラー、アリスベタリッジ ・・・・・・・・・・・・・
41
コラム・三点セット ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
45
大相撲:現代大関昇進事情 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
48
よみがえる黄金時代 全点協50周年記念の集い開催 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
51
ブレーメン:とても親切な医療保険 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
55
どんなPDFもよめーる! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
58
時代の風:身に着けるリハビリロボット、「腹部肥満」は心臓病のもと、
  タミフルに耐性ウイルス、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
59
伝言板:NHKにお便りを出そう、日点随筆コンクール入賞作決定、
  アメディアフェアに行こう、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
62
編集ログブック ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
64

■鳥の目、虫の目■
過ぎたるは猶及ばざるが如し

 四季の移ろいは早く、もはやうっすらカビさえ生えていそうな話しだが、今年は1964年以来41年ぶりに、九州南部より先に関東地方が6月10日梅雨入りした。ちょうどその頃、わたしは自宅近くの電器屋の店頭に本体希望小売価格5万円のコロナ製除湿器が特価1万7,000円で売られており、心動かされた。というのも、その日エアコンのついていない部屋の押し入れから、洗濯物を部屋干ししたときのような嫌な匂いがしたのだ。夕刻ではあったが暑い日で、ボーッとその除湿器をながめていたら白髪の店主が店から飛び出してきた。そしてコンプレッサー方式はちと音がうるさいが、最新式のデシカント方式はまったく静かなのだと講釈をはじめた。
 「なんですか、その新方式は」と聞くと、「水分をヒーターでパッと蒸発させる方式」と身振り手振りよろしく説明するが、ちっとも要領を得ない。コンプレッサー方式との違いも、「音がするかどうかだけ」と断言したが、わたしはにわかに信じられなかった。
 性能が店の親父がいうように決定的に違うのなら、能力が劣る方には最早商品価値はないのではないか? 例えば、白黒テレビは、値段を安くしても売れず、結局製造自体が中止されたのではなかったか? たしかにコロナ製の除湿器は安くなっていたが、それ以外のコンプレッサー方式の除湿器は値崩れしていない。そこで、わたしは大いに首を傾げながら、愛想だけはめっぽういいその店をそそくさと出たのであった。
 コンプレッサー方式の除湿器は、冷たい水の入ったコップの外側に露がつくのと同じ仕組みで空気中の水分を集める。冷やすときにコンプレッサーを使うのは、冷蔵庫やクーラーと同じである。気体は圧縮すると発熱し、膨張すると熱を奪うので、この原理を応用するのである。一方、デシカント方式はゼオライトという強力な乾燥剤に、空気中の水分を吸わせ、吸い付いた水分はヒーターで加熱して分離し、水タンクに集める方式。したがって電器屋の親父の説明も、半分は当たっていたわけである。
 しかし、両方式の違いは断じて音だけではなかった。まず、電気代がデシカント方式の方が、2倍近くかかるのだ。次いで、コンプレッサー方式を連続運転させると室温が1〜2℃上がるが、デシカント方式ではなんと3〜8℃も上がるという。こんな重要な情報を、街の電器屋の親父は一言も教えてくれなかったのである。あるいは知らなかったのだろうか? 勉強不足か、不誠実なのか? 今にしてみれば、その両方だったようにも思うのだが。
 この両方式の違いという重要情報を、わたしは隣の駅にある家電量販店で聞いた。そして、白髪の親父がわたしに売りつけようとして3万2,000円といっていた製品が、ここでは2万2,000円で売られていた。コロナ製除湿器はここでも1万7,000円であったが、それが通常の販売価格であった。オープン価格だから、いくらで売ってもその店の勝手ではある。しかし、件の親父の店はあまりに悪辣・暴利ではないだろうか?
 量販店の若い店員と相談してわたしは結局、1日に9lの除湿能力のある三菱製除湿器を買った。というより、「鉄筋なら、そこまで必要ない」という店員の親切なアドバイスを押して、無闇に買ったのである。若い店員はあきれた風ではあったが、客が買うというものを、押しとどめるほど無邪気ではなかった。
 金を払ったら気がはやり、配達までの一両日が待てなくて、タクシーに載せていそいそと帰宅した。そして、早速使ってみたら驚いた。押し入れを開け放した6畳間から、1日足らずで4lもの水が絞り出されたのだ。それも、匂いもなく、飲めそうなほど混じりっ気のないクリア・ウォーターがである。そして、気のせいか部屋のあの嫌な匂いもすっかり消え失せていた。それにしても、あの押し入れにいれる「水とりぞうさん」に代表される除湿剤は、あれはなんであろうか? 大容量を謳った製品でもたった0.6lにしか過ぎないのである。しかも3カ月も入れてのことであるから、これはもう気休め以外の何ものでもないと断言してもいいくらいだ。
 ところで、除湿器のこの高性能に感動すると共にすっかりひれ伏してしまったわたしは、他の部屋も開け放ち、あるいは冷房の利いた部屋にもこの高性能機を持ち込んで、水分を絞りに絞り、梅雨時にもかかわらず、見事に爽やかな空気を自宅に持ち込んだのである。
 そして、それから2、3日後のある朝、いつものように爽やかな目覚めを期待して起きたら、喉が痛い。すっかり乾燥した部屋に、しかも熱帯夜であったため、冷房を利かせて寝入ってしまい、すっかり喉を痛めてしまったのであった。(福山博)

よみがえる黄金時代
全点協50周年記念の集い開催

 全点協(全国盲学校生徒点字教科書問題改善委員会)のかつての闘士45名が、11月1日(火)東京・高田馬場の日本点字図書館(日点)に全国各地から集い、青春時代の熱き想い出を語り合った。全点協の経緯については、竹村実氏が本誌10月号に詳述されているので、本稿では割愛する。
 第1部では「全点協の結成から解散までについて」というテーマで、当時の様子をふり返った。冒頭登壇した白畑庸(しらはた・いさお)氏(当時京都府立盲学校高等部生徒会長)は、「京都一円の高校生徒諸君が全点協署名委員会をつくって協力してくれた。また、京都へやって来る政治家、例えば60年安保の最中、日比谷公会堂で刺殺された浅沼稲次郎(あさぬま・いねじろう)社会党委員長(1955年当時は書記長)からはだみ声で『がんばれよ』と励まされた。東京裁判でキーナン検事に対抗した清瀬一郎(きよせ・いちろう)主任弁護士が、当時文部大臣で同氏にも面会した」と語った。
 全点協運動の火付け役である長谷川貞夫氏は、「昭和30年の6、7月頃教科書出版社が学校にリベートを贈っているスキャンダルがニュースになった。一方、専攻科2年生だった私たちは、みんなでお金を出し合って4千円もかけて教科書を有料点訳してもらっていた。そこでNHKのラジオ番組『私たちの言葉』に投書すると、谷川貞夫のペンネームで読まれた。それが契機になって9月9日付の『朝日新聞』夕刊に『せめてひと揃いの点字教科書を!』という記事が掲載された」と述べた。
 宇佐美秀雄(うさみ・ひでお)氏(当時都立文京盲学校生徒会長)は、「雑司ヶ谷の附属盲学校から話があった当初は、おつきあい程度にしか考えていなかったが、運動方針委員長にさせられ、報道陣を前に話をしたときは、頭の中が真っ白になって立ち往生した。その場面が、たしか『日本ニュース』だったと思うが、映画館で上映され、朗々と演説をぶっていたのには、さすが編集者はすごいなと感心させられた」と当時の驚きを語る。
 全点協結成全国大会に学生服にたすきがけで参加した生徒が2人いたが、その一人で柳川盲学校から参加した福井康雄(ふくい・やすお)氏は、「同級生がつくってくれたあのたすきで、柳川からはるばるやってきたと今でも皆さんは信じているようだが、実は会場に入ってからたすきを掛けた。校長は、生徒会代表として大会に参加することを許可しなかったので、私は処分対象にされたが、生徒会やある大学の学長、労働組合などの支援で、結局処分されなかった。その後、理療科教員になってから、文京盲学校の高橋校長から、きみたちがいなかったら、いまの盲教育はあり得なかったとねぎらわれた。教育の機会均等という全点協の精神で高校や大学の点字受験、公立図書館の開放や統合教育に福岡で携わってきた。時代が変わりつつある今だからこそ、全点協運動を振り返ることに意義があるのではないか」と問いかけた。
 署名活動の先頭に立った内田利男氏は、「署名活動をするためには警察の許可が必要だと知って、学校をさぼって池袋警察署へ行ったが、警官が手続きに必要な書類の代筆を断ったので、代書屋に駆け込んだ」。同じく黒坂精一氏は、「署名台を富士銀行の前まで運ぶのにリヤカーがなく、大八車で運んだ。車輪のがらがらと動く感覚が未だに身体に残っている。通勤・通学途上のサラリーマン、OL、学生が署名台の前に行列した」とその当時の光景を生き生きと証言。
 全点協は、たった3週間で18万9500筆もの署名を集め、マスコミ等での反響も大きかった。文部省は、就学奨励法を改正し、昭和31年4月より点字教科書の無償給付を高等部以上の生徒へも拡大することを決定。これにより運動は収束へ向かい、残務委員の石淵貞次郎氏と木塚泰弘氏は、平和的に運動を終結させることに苦心した。それまで全点協におおらかな姿勢をとっていた附属盲学校は、文部省の校長会への指導もあって、病気で休職中の松野校長に代わった鈴木力二校長代理らが運動へ介入するようになった。石淵氏は、日点の本間一夫館長に相談すると、本間氏は、「記録を取り、亜鉛板に起こすように」アドバイスしてくれたという。「こうした当時の資料を一人でも多くの皆さんに読んでもらって盲界の歴史として全点協を残していかなければならない」と訴えた。木塚氏は、「昭和31年6月に全国の盲学校の生徒会に全点協の解散の是非を問う質問状を送付したが、すべての回答は事前に開封されていた。これは由々しき問題であったが学校側と交渉する際の最終手段としてとっておいた。非常に盛り上がった運動を誰一人処分されないで収束させるのはどんなに大変か学んだ。さらに、点字本の無償給付ではなく、価格差補償を求めた点は、『君たちは憎いね。ただでくれとは言わない』とマスコミが好意的に見てくれた。全点協の理念が、価格差補償につながっている」とその歴史的意義を強調した。
 第2部では、当時附属盲学校の社会科教員であった大河原潔筑波大学名誉教授が、「全点協運動の歴史的意義」と題する講演を行った。「全国の盲学校が一致団結して決起したのは、昭和22年11月の鍼灸存廃問題での陳情運動と全点協の2回。全点協の問題を教官会議で喧々囂々議論した記憶がほとんどない。教える側としても教科書がないということは、非常に苦労したので、教職員の多くが心情的に賛成していた。当時すでに病床にあった松野校長は、実は広島で被爆された方で、文部省に掛け合ったり、各学校の校長に理解を求める手紙を書くなど生徒を一貫して支援していた」と半世紀たった今だから語れる真実をうち明けた。(戸塚辰永)

■編集ログブック■

 巻頭の座談会は10月25日(火)当出版所会議室にて、午後2時に始まり時間を忘れるほど熱を帯びて、午後6時まで行われました。しかし、多岐にわたる内容をわかりやすくするため、ややこぢんまりにまとめすぎたうらみがあるかも知れません。むろん、これは当編集部が負うべき責です。
 明治38年(1905)に神戸訓盲院(現兵庫県立盲学校)を創設し、相前後して日本初の点字新聞『あけぼの』を創刊したのは、サコンノジョー・コ−ノシンとおぼえていましたが、これは間違いでした。長尾先生のご指摘で、当時の『あけぼの』(復刻版)を読むと「サコンジヨー‐コーノシン(左近允孝之進)」と書いてあり、驚きました。
 なお、復刻版は兵庫県立盲学校古賀副武(そむえ)理療科教諭の手に成るものです。古賀先生とは一昔前ですが、ヘレン・ケラー・ヨーロッパ・ツアーで、阿佐先生ともどもご一緒したことがありました。
 『点字毎日』初代編集長の中村京太郎先生は、晩年にはヘレン・ケラー学院でも教鞭をとられていたことも、この際申し添えます。(福山博)

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