THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2005年10月号

第36巻10号(通巻第425号)
編集人:福山 博、発行人:竹内恒之
発行所:(社福)東京ヘレン・ケラー協会(〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4
電話:03-3200-1310 振替:00190-5-173877) 定価:一部700円
編集課 E-mail:tj@thka.jp
―この紙はリサイクルできません―

はじめに言葉ありき「巻頭ミセラニー」
「日本脳炎(Japanese encephalitis)」

 この夏、例年になくインド北部で日本脳炎が猖獗を極めており、確認作業が行われていない村々もあり正確な数字ではないが、死者はすでにインドで1000人を、ネパールでも400人を超えているという。犠牲者のほぼ全員が子どもなのは、この地域で子どもへの予防接種が徹底されていないためである。
 アジア、インド亜大陸に広く分布する疾患であるにもかかわらず、この病気は世界的に「ジャパニーズ・エンセファリティス(日本の脳炎)」と呼ばれる。このなんとも日本人にとってはなはだ迷惑な、人聞きの悪い病名が付けられているのは、昭和10年(1935)にわが国ではじめて病原ウイルスであるフラビウイルス科に属する日本脳炎ウイルスが、犠牲者の脳から分離されたためである。

目次

(特別インタビュー)その名を竹帛に垂れよ!― 聖明福祉協会の50年 ・・・・・・・・・
3
全点協に関わった人々― 「せめてひと揃いの
 点字教科書を!」から50年(竹村實) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
9
研究室から:枝葉に泣く(倉本智明) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
14
緊密な国際連携が成果をあげる ― 日点の第2回池田輝子
 ICT奨学金事業(山口和彦) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
17
キーワードは「クロス・ディスアビリティ」 ― ダスキン研修生来日 ・・・・・・・・・・・・・・
21
感染症研究:根絶したかに見えたポリオ発生の脅威 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
24
万華鏡:この、バチ当たり奴! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
29
水原紫苑の短歌教室 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
31
使いやすいフォーマらくらくホンU新発売! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
33
視覚障害者の外出をサポートする和波その子さんにサリバン賞 ・・・・・・・・・・・・・・
34
知られざる偉人:盲導犬普及の父、R.H.ウィトストック ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
37
コラム・三点セット ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
41
大相撲:末恐ろしいエストニアの怪物 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
44
宮城道雄50回忌に寄せて(最終回) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
47
読書人:イギリスのインクルーシブ教育 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
52
ブレーメン:全盲の裁判官 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
54
時代の風:映画「ベルナのしっぽ」が来春上映予定、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
58
伝言板:ヘレン・ケラー記念音楽コンクール、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
61
編集ログブック ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
64

(特別インタビュー)
その名を竹帛に垂れよ!
― 聖明福祉協会の50年

 わが国における盲老人福祉のパイオニアである聖明福祉協会が、本年(2005)設立50周年を迎えた。そこで9月27日(火)には、ホテルグランドヒル市ヶ谷で大々的に記念祝賀行事が催される。そこで、創設者でもある本間理事長に、今だから語れる秘話も交えて、改めて逆境から抜け出し盲老人の理想郷を目指した50年前を振り返っていただいた。

悲劇の中での出会い

 本間昭雄さんは、昭和4年(1929)2月18日、東京で生まれた。風雲急を告げる昭和16年(1941)に小学校を卒業した本間さんは、同家由来の地である水戸へ疎開。県立水戸中学校(現・水戸第1高等学校)に進み、家業である医師になるべく一所懸命に勉学に励んでいた19歳の時に突然悲劇が襲う。
  「1本の注射が私の人生を大きく変えたんです」。右手橈骨(トウコツ)麻痺を負った本間青年はこれでは医師にはなれないとの不安を抱いて国立第一病院(現・国立国際医療センター)整形外科に入院。4回もの大手術を受けたが、右手はとうとう直らなかった。その上、3度目の手術の直後に両眼底から出血し、二十歳で失明したのだった。
  「戦後間もない頃で、栄養状態が悪くて体も弱っていたんですね。だから、直接手術が失明に影響したわけではないんです」と本間さんはある種の達観を、噛んで含めるように静かに語った。
  のちに本間夫人となる麻子さんは、当時同病院に看護婦として勤務していたが、本間さんの手術を見守ると間もなく退職し、郷里の山梨県で保健婦・助産婦として地域医療に取り組んでいた。一方、国立第一病院では医師の道を断たれ、悶え苦しんでいた青年を看護婦達はいつも気にとめ、励ましていた。
  「私の様子を心配して婦長さんが、山梨に帰った彼女との仲を取り持ってくれて、結婚することになったわけです。そして、私が福祉の道に進みたいというと、彼女も共鳴してくれました。やはり看護婦でしたから、福祉と医療は相通ずるのですね」。
  こうして、昭和27年(1952)に日本社会事業学校(現・日本社会事業大学)に同校初の盲学生として入学し、当時欧米から導入されたばかりの社会福祉理論を学ぶ。もちろん、本間さんは点字で学んだのだが、板書を多用する講義のノートテークや歩行介助などは妻の麻子さんの役割であった。彼女は正式な学生ではなかったが、卒業証書を夫と共に受け取って良いほど熱心に社会福祉を学んだという。また、この当時、『点字毎日』編集長の中村京太郎氏や日本点字図書館の本間一夫先生という大先達の謦咳(ケイガイ)に接し、志を新たにしたという。

盲老人のために生きる

「私が2歳の時に本間家第9代が、私宛の遺言書を残しました。そこには代々水戸藩医であった本間家の家系が書いてあり、特に本間家第7代の玄調(ゲンチョウ)は、長崎でシーボルトに近代医学を学び、多くの人命を救ったことで、藩主徳川斉昭(ナリアキ)から『救(スクウ)』の称号を贈られました。『救・本間玄調』と名乗ったこの人物は、紀州の華岡青洲と共に日本近代医学の創始者です。祖父は『祖先(第7代玄調)の偉業を継ぎ、その名を竹帛に垂れよ(歴史に名を残せ)』と私に命じたのです。私は医者になれなくても同じ失明者のためになにかやれるのではないかと思い、社会福祉の道に入りました」。
  やっと「戦後が終わった」という時代、日本はまだ貧しく社会福祉という概念もなく、ほとんどの人は日々の生活に追われていた、そんな厳しい状況の下で本間夫妻は昭和30年(1955)1月30日に聖明福祉協会を東京都世田谷区砧(キヌタ)に創設し、在宅の視覚障害者の家庭訪問を開始した。ときに本間青年は25歳で、まさに青雲の志を持った門出であった。当時、英国盲人協会(RNIB)が中途失明者のリハビリテーションとして取り組んでいた「ホーム・ティーチャー」というプログラムをいち早く導入、視覚障害者のいる家庭を一軒一軒訪ねては相談に応じ、点字の指導、生活訓練、失明予防のための眼科検診等々に奔走したのだった。また、これは意外に知られていないが、同会はこのとき小規模ではあったが盲女子ホームを同時に開いている。
  「私たちの盲女子ホームは、実はサフランホームよりもっと古いんですよ。入所した人達はあん摩マッサージで自立するのが難しい人や家庭環境が複雑な人達でした。当時は座敷牢じゃないけど、いい家庭ほど盲人を外に出したがらない時代でしたから、そういう家を白い杖をついて訪問すると、『近所の噂になるから来ないでくれ』と言われたこともありました。ある人は、二十歳まで学校へ行かせてもらえなくて、八王子盲学校小学部3年に編入し、その後国立光明寮(後の国立視力障害者センター)に入って自立しました。また、離婚して苦しんでいた女性を光明寮に入れるお手伝いをしたこともありましたが、その後、この人は乳房マッサージで大成功したんです」と本間さんは当時の様子を生き生きと語る。
  「ところが、日本では施設がないとだめなんですね。訪問相談には公的な補助が出なかったんです」。2人の職員の給与や眼科検診の費用等々資金づくりに本間さんは四苦八苦した。当時、全国各地で行われていた愛の鉛筆運動に加わり、都内の小中学校で鉛筆を売って事業資金を積み立てたという。

広がる支援の輪

 本間さんの苦労する姿と熱意は徐々に浸透してゆき、地元世田谷の有力者が次々と援助の手を差し伸べてくれた。戦前・戦後の党人派政治家として活躍し、第3次吉田内閣の農林大臣となった廣川弘禪(ヒロカワ・コウゼン)氏、五十嵐丈夫(イガラシ・タケオ)白洋舎社長、長瀬富郎(ナガセ・トミロウ)花王石鹸社長、佐久間長吉郎(サクマ・チョウキチロウ)大日本印刷社長といった政財界の錚々たる名士や地元ロータリークラブが同会を強力にバックアップしたのだ。また、聖愛協会の巽芳三郎(タツミ・ヨシサブロウ)牧師は、元々裁判官であったが、人が人を裁くことに悩み苦しんで信仰の道に進んだ方で、協会の初代理事長に迎え、本間夫妻を精神的に支えてくれたのだった。ちなみに、聖明福祉協会の「聖(ひじり)」は、聖愛教会の「聖」の1字をいただいたという。
  こうして協会は、多くの人々に支えられて昭和35年(1960)財団法人に、昭和38年(1963)念願の社会福祉法人となった。法人化と平行して、昭和37年(1962)から盲老人ホーム建設に向けて土地を探しはじめた。東京都調布市に350坪ほどの土地を所有していたのだが、逆境から抜け出し盲老人の理想郷を目指した本間理事長の思い描く青写真では、そこはいかにも手狭だった。郊外でもいいから広い土地を求めていたところ、東京・青梅市が私有地を競売に出しており、約1000坪の土地を購入。昭和38年(1963)に協会は本部を青梅市根ケ布(ネカブ)2丁目722番地に移転した。しかし、購入した土地は道路に面していない小高い丘だったので、整地作業等に頭を悩ますことになる。そんな折り、有力国会議員が米軍司令官に事情を話してくれた。すると、何人かの米兵が休暇を取ってブルドーザーで土地の一部を整地してくれた。
  「あのときは本当に助けていただきました。兵隊さん達は交代で一服するんですが、その間もブルドーザーは絶え間なく動いているんです。つくづく米国人は合理的だなと思いましたね。その時、偶然にも美智子様(現・皇后)がいらしたんですね。整地作業をご覧になった美智子様は感激され、兵士一人ひとりに握手をして労をねぎらっておられました」と秘話を披露した。
  悲願であった定員50人の軽費盲老人ホーム聖明園が、昭和39年(1964)4月に梅の里の丘陵地に誕生した。「昔、老人ホームは養老院と呼ばれており、個室なんて考えられませんでした。ところが聖明園は四畳半とはいえ個室ですから、お年寄りが大変喜んでくれました」。翌年には定員50人の盲養護老人ホーム第二聖明園が完成。部屋は八畳に4人だったが、それでも入居希望者が殺到。さらに第二聖明園を100人に増員。盲老人ホームは150人になった。世田谷から青梅に移転し20年、常に土地の買収・整地、増改築が続き、重機の音が聞こえ、活気に満ちていた。今や、聖明園の敷地は当初の10倍の一万坪と拡大。全室個室の盲養護老人ホーム曙荘、特別養護盲老人ホーム寿荘、特別養護老人ホーム富士見荘ができ、280人のお年寄りがゆったりと暮らしている。
  なお、聖明福祉協会には昭和44年(1969)、昭和天皇から社会福祉振興の思し召しをもって金一封が下賜されている。同年、我が国唯一の盲大学生奨学貸付金制度を発足。本年度迄に178名が利用している。(戸塚辰永)

視覚障害者の外出をサポートする
和波その子さんにサリバン賞

 当協会が制定した「ヘレンケラー・サリバン賞」に、視覚障害者外出介助ボランティア、アカンパニー・グループ代表の和波その子さん(86歳、東京都世田谷区在住)が決定した。第13回を迎える同賞は、「視覚障害者は何らかの形で健常者からのサポートを受けて生活している。その支援に障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、視覚障害者の委員によって選考される。授賞式は、10月7日(金)に当協会で行われ、本賞(賞状)と副賞としてヘレン・ケラー女史の直筆のサインを刻印したクリスタル・トロフィーが贈られる。
  アカンパニー・グループは、全国から上京する視覚障害者の東京都内及び近郊での外出介助を目的として、昭和60年(1985)11月に発足。10月末で創立20周年を迎える。グループ名の“アカンパニー”は、“同行する”という意味で、また、同行する人を“アカンパニスト”と呼び、人間同士が助け合って共に歩くことを趣旨としている。同行した視覚障害者は、8月12日現在でのべ6865人にものぼる。費用は、利用者が全額負担するため、行政からの援助は一切受けていない。
  グループ設立のきっかけは、昭和59年(1984)に和波さんのご長男で、視覚障害を持つヴァイオリニスト和波孝〓(たかよし=よしはネに喜)氏の友人である全盲のピアニスト、カルマン・ドボシュ氏をハンガリーから招いてチャリティコンサートを行うことになった時に遡る。そこで、彼の滞在中に外出介助を引き受けてくれる組織を探したが、東京に籍のない者を援助するシステムが国も東京都にも無かったのだ。このことに疑問を感じた和波さんは、「無いのなら作ればいい」と、グループ設立に向け動き出した。和波さんは、昭和52年(1977)に闘病生活の末、夫を舌がんで亡くし、その頃孝禧氏も結婚。和波さんは当時のことを「一人になったからやりたいことができたの」と振り返った。さっそく、孝禧氏や友人に相談。しかし、何人かの視覚障害者に相談すると、「大変だからやめた方がいい」と反対されることもあったという。それでも賛同してくれた友人と依頼を受け始めた。
  話をうかがっていると、和波さんは実に前向きに考える方だ。私が「グループを発足するにあたって苦労されたことは?」と尋ねると、「苦労しないでできる方法を考えたのよ。アカンパニストはご一緒に歩くだけでいいの」とボランティアを堅苦しく考えてはいない。さらに、「もともと息子孝禧と一緒にいろいろなところを歩いていたのよ。これが貴重な体験だったの」とあっけらかんと語る。
  視覚障害者からくる外出介助の依頼は、会議の出席、病院への通院、レジャーなど様々で、和波さん自身が電話で対応する。そして、彼女が、目的地まで利用する交通機関の路線や乗り換え、徒歩の道順、所要時間などを調べ、アカンパニストへの依頼書を作成。彼女自身が待ち合わせ場所に向かった際に迷った経験があることから、アカンパニストが迷わないように綿密に調べ、パソコンを駆使し依頼書を書きあげる。また、依頼は直接視覚障害者本人から受け、前日に依頼者とアカンパニストが依頼内容を再確認する。アカンパニストは月に一度の例会に参加し、同行した際の事例を全員で共有するようにしている。こうした方法は、彼女自身が編み出したもので、グループ発足からあまり変わっていない。
  グループを続けてこられた秘訣について和波さんは、「苦情がなかったのよ」と明るく答え、続けて、「ボランティアとは、母心でやってはダメ。ボランティアは頼まれないことはやらない。頼まれたことを責任もってやる。ボランティアは誰がやっても同じでなくてはダメなの」と強調した。こうした信念がアカンパニストに共有され、苦情無し、事故無しにつながっているようだ。 
  最後に、和波さんにグループの今後の抱負について聞いてみると、「このグループがなくなることだわ」と即答され、驚いた。さらに、彼女は「グループ発足からいつも言っているんだけど、みんながお互い助け合い、気をつけあう世の中ならこうしたグループはいらないのよ」とつけ加えた。そして、孝禧氏のロンドン留学中の話をしてくれた。ロンドンでは視覚障害者が困っていると、声をかけてくれ、目的地が同じ方向であれば途中まででもサポートしてくれる。ロンドンでは、視覚障害者が一人で外出できるのだそうだ。和波さんは、日本でも視覚障害者が一人でも安全で安心して外出できる日が来ることを願っている。(山本令子)

■編集ログブック■

読者より

 暑中お見舞い申し上げます。8月号をさっそく拝読しました。最近は宮城道雄50回忌にまつわる話しや筑波技術大学に関する話題に注目しました。これからも意欲的な記事をお願い致します。(滋賀県栗東市/与野福三)

編集長より

 与野様ありがとうございました。本来なら先月号に掲載すべきでしたが、ちょっとしたタイミングの違いで、ひと月遅れになりました。
 ご好評をいただきました「宮城道雄50回忌」は、今回が最終回となりました。宮城先生の事故死から50年近くたって、はじめて語れることもあったように思われます。それは今月号にもいえることで、巻頭の「聖明福祉協会の50年」にしろ、竹村先生の「全点協に関わった人々」にしろ、50年たったからご披露いただける「秘話」なり、「真相」もあるものだと、つくづく感じ入った次第です。ところで、「時代の風」に掲載しました「ベルナのしっぽ」映画化の話も、出演者等が錚々たるメンバーであるため、制作者側からはまだ公式な発表がないまま、漏れ伝わった「秘話」です。(福山博)

投稿をお待ちしています

 日頃お感じになっていること、世相に対する批判、あるいは本誌の記事に関するご意見やご感想を点字1000字以内にまとめ、『点字ジャーナル』編集部宛お送りください。Eメールでのtj@thka.jpへの投稿も歓迎します。

Copyright 2004 Tokyo Helen Keller Association. All Rights Reserved.

THKA