1936年11月、抗日のため国民党と共産党の合作を求めた全国各界救国連合会の指導者7人が、上海租界で蒋介石の国民政府官憲に一網打尽にされる。彼らを救うため救国会の陰のリーダー・宋慶齢(孫文未亡人)が展開した運動のスローガンが「愛国無罪」「救国入獄」で、これは「愛国には罪はない。もしあるとすれば、われわれにも罪があるので逮捕しろ」という捨て身の運動。これが功を奏し、翌年7月7人は群衆の歓声をあび保釈される。
先の中国の反日デモでも群衆が機動隊に向かって同様に叫んだが、その意味は「われわれが暴れるのは愛国の心情からなので、逮捕は論外、官憲は邪魔だてするな」という意味だとマスコミは報じていた。しかし、そうだとするとその言葉の使い方は、約70年前とはまったく異なり、似て非なるもののようである。
今月号の森・長尾両氏の対談に、「ナナオラ」という聞き慣れないラジオが出てきた。トランジスタが米国で発明されるのは戦後のことなので、もちろん戦前は真空管を使った管球式ラジオの全盛期である。
現在、このクラシカルなラジオを修理・復元する趣味を持っている人が以外に多い。まず、木製の本体に紙やすりをかけて、ニスを塗りなおす。部品も一点いってん確認し、コイルなどは自分で巻き直して、できるだけオリジナルの部品を使って修理・復元するのだ。また、当時の販売カタログやポスター、回路図などを収集して、ウエブ上で公開している人もいた。それによると、戦前の4大ラジオメーカーは、大阪の松下無線(現・松下電器産業)、早川金属工業(現・シャープ)、それに東京の七歐無線と山中電機で、この東京2社は1950年代に東京芝浦電気(現・東芝)に吸収されている。
森雄士さんが昭和9年に家に買ってもらった4球式箱型ラジオは、ナナオラ52型ではないかと思われるが、価格まではわからなかった。しかし、同社の同じ4球式で箱形ではないちょっと古い44型の同年の価格が55円なので、52型はそれより高額なはずで、ひょっとしたら100円近くしたかも知れない。普及型の3球式が30円代であったので、これはちょっとした高級品。ちなみに当時の小学校教員の初任給は55円であった。(福山)
4月25日(月)に起きた兵庫県尼崎市のJR福知山線で快速電車が脱線した事故は、ついに死者が100人を越える大惨事となった。もはや仏となっているので事故を起こした運転士の資質はひとまず置くとして、脱線後も続行された天王寺車掌区のボウリング大会と、事故を起こした電車に乗り合わせた2人の運転士が救助活動をせずに出社したことを、どう考えたらいいのだろうか?
私は1987年秋のある日の出来事を今、まざまざと思い出した。
当時、明治大学の3年生だった私は、点訳サークルの仲間と共に、学園祭である「駿河台祭」の企画として、首都圏各鉄道会社の視覚障害者への安全対策をテーマに小冊子をまとめていた。あたかも1987年は国鉄からJRに移行した年であり、民営化後のJRの安全対策が紙幅の半数以上を占める中心企画であった。
小冊子の内容は、点字ブロックの敷設率、プラットホーム上の駅員の配置、アナウンスの内容、安全設備の設置状況等を各社に電話調査したもので、加えて近くに都立文京盲学校があり、視覚障害者の利用も比較的多く、列車とホーム間のすき間の広いJR飯田橋駅を1例として調査し、同駅駅長へのインタビューも敢行。その上で当時東京・八重洲にあったJR東日本本社を、私は点訳サークルの仲間10人あまりと共に訪問し、視覚障害者に対する安全対策について質した。
あらかじめ取材趣旨を告げていたため、私たちはすんなりと会議室に通された。大学の学園祭の企画であり、こちらはちょっとコメントだけでも聞ければいい位にしか思っていなかったが、会議室に現れたのは何と本社の広報課長であった。
私たちの点訳サークルの会長が再度取材趣旨を告げ、小冊子をまとめるために話の内容をカセットテープに録音してもよいかとたずねた。すると、広報課長は、「話の内容を録音することをお断りいたします」ときっぱりと言い切った。そればかりか驚いたことに速記者を付けて、私たちの発言を一字一句もらさず記録。その上で点字ブロックやホーム上の駅員の配置などの安全対策について、「JRは国鉄から180度変わりました。利益が上がらない以上、点字ブロック等への設備投資は致しません」と明言。当時、高田馬場駅でホームから転落死した上野訴訟が係争中であり、異常に警戒したのかも知れない。しかし、私たちはそのあからさまな言い方に衝撃を受け、耳を疑った。JRは民間の会社であるから利潤の追求は当然のことである。しかし、安全確保と利益の追求が相反するとでも、本当に思っているのであろうか? JRは旅客輸送業のはずで、安全運行が何にも勝る錦の御旗ではなかったか。30分ほど広報課長と話をしたが、とうとう超エリートであるはずの彼の口から「安全」という言葉は一言も発せられなかった。
あれから18年が経過し、そうはいってもJRの視覚障害者への対応は、設備の面でも介助の面でも、国鉄当時と比べると比較にならないほど、格段に進んだことは間違いない。ああはいっても安全確保と利益の追求は相反しないということが、わかったのだろうと私は独り合点していた。ケチケチして乗客に大けがをさせたり、大勢を殺せば莫大な補償を要求され、計算に合わないことは明白だからだ。逆説をいうようであるが、JRは利益を徹底的に追及するなら、今回のような事故も、18年前の不遜な態度もなかったはずである。ところが、大事故が起こったことを知りながら、天王寺車掌区長は、計画通りボウリング大会を開き、脱線電車に乗り合わせた運転士は、遅刻しないように出勤した。彼らはその時点で正しく判断したつもりで、まさか非難されるとは思いもしなかったはずである。そして、死んだ運転士は定時運行を死を賭して追求したのであった。
無難に後ろ指を指されないように、賢くやろうとしたその実直な官僚主義が、今回の悲劇を生んだのである。それをJR西日本の幹部が「情けない」と嘆くだけでは、また同じようなことが起こるであろう。と思っていたら、ゴルフだ、宴会、慰安旅行と続々出てきたのはご存じのとおりだ。問題は「認識の甘さ」などではなく、国鉄時代から綿々と続く官僚主義だから、一朝一夕には改めようがないのだ。利益のみを飽くなく追求してきた私鉄の方が、安全対策が万全なのは皮肉でもなんでもない。(戸塚辰永)