THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

(『点字ジャーナル』2000年1月号より)

ニキータはエロシュンコの再来か?
――名古屋大学にロシアから盲留学生――

 東京国立近代美術館所蔵の重要文化財に、中村彝(つね)画伯が1920年に描いた油彩「エロシェンコ氏の像」がある。当時、新宿中村屋に身を寄せていた盲目のロシアの詩人ワシリイ・エロシェンコの肖像画である。解説には「天衣無縫な人柄と美しい風貌によって、出会う人をみな魅了し、また杖も使わずに坂道を駆け下りられるほどにさえた感覚を持っていた」とある。
  その詩人を彷彿とさせる人物に会ったのは、昨年(1999)11月5日であった。名前は ニキータ・セルゲーヴィッチ・ヴァルラモフ(Nikita Sergeevich VARLAMOV)。場所は、東京・早稲田の(株)アメディア本社。彼はこれから揃える予定の情報機器について、望月優社長にアドバイスを求めて名古屋からやって来たのだ。というのも、今使っている点字ディスプレイは、モスクワの視覚障害を持つ大学教授や教員、弁護士、鍼灸師などで組織する知識人協会から借りているもので、来年の夏には返さなければならない。そこで、彼が早口の日本語でまくし立てたシステムが実にふるっていた。
  「日本語、中国語、韓国語、インドネシア語、マレー語、英語、フランス語、そしてもちろんロシア語にも対応するようなシステムを組みたい」というのだ。我々はあっけにとられたが、望月社長は「来年マイクロソフトからウインドウズ2000が予定どおりリリースされれば別だが、現状では不可能に近い」と前置きし、国内外の情報機器についてやや緊張した面もちで丁寧に説明した。
  大正3年(1914)に来日したエロシェンコは、エスペラント普及のかたわら官立東京盲学校に学び、日本語で童話などを創作し発表している。そして、危険人物として日本を追われた後は、北京大学でエスペラントを講じる。また、戦後はモスクワ盲学校で英語を教えるので、彼は数カ国語がしゃべれたようだ。そして、エロシェンコ以来85年ぶりにロシアから来た盲青年は、8カ国語しゃべるという。
  彼は、昨年の10月4日来日した。従って我々が出会ったのは来日して1カ月目である。それにもかかわらず、彼は名古屋弁まで織り交ぜて流暢に日本語を操り、我々を驚かせた。最もその彼も、漫然と語学が達者に成ったわけではない。大学で留学生を支援するボランティアサークルに所属し、それを通じて語学を鍛えたのだ。モスクワ大学だけでも日本人留学生が200人もおり、東京ではそのような縁で知り合った日本人の家に泊まるという。そして、「モスクワでは僕が彼をガイドしたから、東京では彼が僕を助けてくれます」と屈託がない。

ロシア人の意外なメンタリティ

 「ロシアで名字を呼ぶのは、その人を遠ざけたいとき。だからニキータと呼んでください」。彼はそう言って自己紹介をはじめた。ミドルネームを聞いたら「セルゲイ、あのフルシチョフと同じ」との答え。そこで、それだけが同じなのかと思ったらファーストネームもスターリンを批判した書記長と同じであった。あるいはフルシチョフに因んで名付けられたのかとも思ったが、そんなはずはないだろう。彼が生まれたとき、すでにフルシチョフはすべての地位を失っていたのだから。しかし、その疑問を彼にぶつけると「いや、もちろん両親は意識していたんですよ。フルシチョフが、スターリンの独裁から人々を解放したから、今でも人気があるんです」と爽やかに笑った。
  ニキータとは二度会った。アメディアで初対面の時再会を約したのだ。再会時はモスクワで知り合った伊藤さんという女性が同席した。前に手引きしてきた人とは別人で、彼の交友関係の広さがうかがえる。初対面ではそのエリート臭さが鼻についたが、喫茶店でじっくり話を聞き、居酒屋で盃を重ねると、また違った彼の側面が見えた。思いの外生真面目で、しかも遠慮深いのだ。
  伊藤さんによると、一般にロシア人のメンタリティは欧米人より日本人に近いという。このため、居酒屋に誘うのに一苦労したのだが、伊藤さんに耳打ちされるまで身長184cmの大男が、「明日の朝は早いので・・・といいわけするのが、相手に負担かけたくないという思いからだったとは、想像だにできなかった。天衣無縫と伝えられるエロシェンコが、わが国でいまだに語り継がれているのも、この愛すべきロシア人の国民性のためかも知れない。

プロフィール

 ニキータは1970年12月14日にモスクワに生まれた。したがって我々が出会ったとき彼は30歳を目前に控えた29歳であった。父親は科学技術者で、母親は薬剤師というから典型的な中産階級の一人っ子である。1989年にモスクワ盲学校を卒業して、モスクワ大学歴史学部に入学。その後、大学院に当たるロシア科学アカデミー東洋科学研究所に進み国際関係論を修めた。
  モスクは盲学校といえば、エロシェンコの出た学校でもある。そこでひとしきりエロシェンコの話題で盛り上がった。しかし、突然彼は真顔になり、「でも、僕はエロシェンコとはまったく違う人格ですから重ねないでくださいね」といった。
  たしかに、ロシアがソ連になり、スターリンに弾圧されてモスクワ盲学校の英語教師に職を求めざるを得なかった詩人と、ソ連で生まれ新生ロシアで羽ばたこうというニキータには、共通点より、あるいは相違点の方が多いのかも知れない。しかし、多才な盲青年がロシアから来たとなれば、誰もがエロシェンコの再来と思うのではないだろうか?
  ニキータには気の毒だが、それだけエロシェンコのイメージが強烈で、今でもその残像が輝きを失わないと言うことだろう。詩人とだぶらせられることを嫌がる彼だが、盲学校では附属の博物館で、下級生にエロシェンコについて講義もしたという。当時の校長が歴史が得意な彼を指名して、母校のパイオニアを紹介させていたのだ。
  その後、ニキータは、モスクワでわが国の文部省(当時)が主催する留学生試験に合格。留学にあたっては、在モスクワ日本大使館公報センターが、非常に熱心に彼を応援してくれたという。現在、彼は名古屋大学の研究生の身分で、同大博士課程国際開発研究科への入学を準備している。国費の留学生であるから、85年前のデラシネ(根無し草)の詩人と待遇はまったく違う。その有利な環境を活用して、先達以上の輝かしい足跡をわが国に残して欲しいものである。(福山博)

Copyright 2004 Tokyo Helen Keller Association. All Rights Reserved.

THKA