愛の光通信    2012年冬号通巻37号 2012.1    LIGHT OF LOVE    Overseas Program for the Blind - Plans and Reports    ISSN 0913-3321 東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局 (写真)この記念撮影後の話し合いでは激しい応酬があり、バスビッティ校のリソース・ティーチャー(視覚障害児の教育担当教師)は青ざめた。後列左端は全盲のビレンドラ・マハト先生、その隣が校長、一人おいて当協会福山博、後列右端はNAWB(ネパール盲人福祉協会)のプラカシュ・ギミレ課長、その隣がくだんのリソース・ティーチャー。(2011年11月24日・バスビッティ校にて、関連記事2ページ) ●無惨な試み―― 善意から出た不幸 ――  海外盲人交流事業事務局長/福山博  「実は、5人のうち1人しか残っていないのです」。11月18日の午後2時過ぎ、NAWB(ネパール盲人福祉協会)での打ち合わせ会議で聞いたラトナ・ラル・マハールジャン事務局長の爆弾発言に、私の頭はクラクラした。  詳細は後述するとして、この日、定刻通りにバンコクを出発した私を乗せたTG319便は、小一時間遅れてカトマンズに到着した。空港の外に出ると、NAWBのカジ・マハールジャン運転手とプラカシュ・ギミレ課長が待っており、その足でNAWBに乗り込んでこんな話である。  翌朝は、7時半にホテルをチェックアウトして、地方に向けて出発するので、そのスケジュール調整程度に軽く考えていたのだが、いきなり重量級の問題が降って湧いて、いささかうんざりした。  問題はそれだけではなかった。ジュッダ校では視覚障害児が1人死んだというのだ。こちらの方は冥福を祈るばかりだが、いずれにしても実際に学校で詳しく話を聞かなければ埒が明かない。  「安達禮雄育英基金」、「正雄育英基金」、「順子女子育英基金」の3つの基金の運用でまかなう奨学金事業には6校19人の奨学生がいる。今回の現地調査では、その内の4校を訪れた。  ネパールでは、日本ではちょっと想像できないようなトラブルがよく起こる。そのうえ知り合いが、これまたよく病気になる。 ◆視覚障害児・者の就学状況  問題点を指摘する前に、ネパールの視覚障害児・者の就学状況を、以下に数字で示したい。  以下、教育課程、就学数の順(2011年11月現在)。  小学校1〜10年生、1,262人  高校2〜3年生、178人  大学、160人  大学院修士課程、29人  大学院博士課程、2人  教育制度が違うので一概にはいえないが、日本の盲学校出身者で、現在修士課程に在籍している視覚障害学生は29人もいない。ネパールは開発途上国の中では、例外的にずば抜けて視覚障害者が、高等教育を受けている国なのである。  一方、ネパール教育省は 就学適齢期の視覚障害児・生徒数を32,000人と公称している。日本は4,000人いないので8倍以上だが、そのうちで実際に就学できているのは、わずか4.5%である。  NAWBは、高校2年生以上の学生には、点字用紙の支給とテープレコーダーの貸し出ししかしておらず、その教育事業のほとんどは小学校1〜10年生への就学支援だ。とくに当協会の支援で始めた点字教科書の発行は、25年におよぶ。  NAWBの奮闘で、徐々に増えてきたとはいえ、それでも就学率4.5%に過ぎないのだ。しかし、大学進学率をみると、その教育の質は何とか担保されてきたのではないだろうか。 ◆橋のない川  バスビッティ校は、私たちが支援する学校の中で最も恵まれない地域にある学校で、生徒の約15%が「ダリット」と自らを呼ぶ被差別カーストである。だからというわけではないが、私はこの学校に向かう道すがら、いつも住井すゑの名著『橋のない川』を思い出す。実際に川には橋がかかっておらず、4WDで浅瀬を選んで渡河する。もっとも道はわだちが深くて、4WDでなければ、川にまでたどりつくことさえできないのだが。 ◆5人の落第と4人そろっての中退  同校に昨年5人の視覚障害を持つ少女が入学した。もっとも、小学校1年にあがる前に点字を学ぶリソース・クラスへだが。ところが1年後に5人全員が落第した。ネパールの公立校では小学校1年生が2年生に進級するときに、半数近くが落第するので、それ自体は珍しくない。  その理由はいくつかある。入学はしたものの実際にはほとんど通学しなかったり、通学はしても母語がネパール語ではないため授業についていけなかったりだ。そして、ちょっとひどいと思うのだが、うまく生徒を教育できない教師に限って低学年を受け持つためでもある。小学校教師になるためには本来はSLC(10年課程の学校教育修了国家試験)に合格していなければならないが、そうでない代用教員が地方にはいくらでもいる。そして、彼らは主に小学校低学年を教えるのだ。  それにしても、全員落第にはクビをかしげざるを得ない。そしてNAWBで落第どころか、学校に1人しか残っていないと聞いて飛び上がった。  バスビッティ校でもこの問題は大きかったようで、私は「リソース・ティーチャーと校長、学校運営委員長、それに全盲のマハト先生くらいでいい」と言ったのだが、結局、全教員注視の中で、職員室で行うことになった。それにマオイストの地域リーダーという男も加わりにぎやかだった。  「14歳になったので結婚した」、「てんかん持ちだったから」、「足が悪かったので」、「兄が教師である娘は本人の意思で辞めた」。リソース・ティーチャーが言った視覚障害を持つ少女たちが中退した理由はそれぞれもっともらしかった。しかし、全員がダサイン祭による長期休暇の前に辞めたことが、私には腑に落ちなかった。そこで、足の悪い娘はひとりで立つことができたのかと聞くと、「できなかった」との返事であった。  これである。辞めた背景には1人の盲重複少女の存在があったのだ。自分で立ち上がることができない足の悪い視覚障害女子12歳が、昨年入学して来たが、学校側は何の準備もしていなかったのである。  そこで、トイレの世話などが寮母さんだけでは手が回らず、12〜13歳の同級生の3人もその手伝いをさせられたのだ。そのためこの5人のクラスは勉強どころではなくて全員落第した。そして、10月にダサインという大きな祭りがあり、これを機に4人はそろって退学したのである。  寮母さんも正式な職員ではなく、マハト先生の奥さんが月給1,000ルピー(邦貨も同額の1,000円)で働いていたという。彼女には子供が2人おり、1人は手のかかる幼児である。職員室の会議ではこれも問題になり、学校側もさすがにこれはまずいと反省して、今後は独自に寮母を月2,000ルピーで雇用すると確約した。この給与も寒村ならではの安さで、もちろん正規の職員ではない。  ところで1人残った同級生だが、彼女は他の生徒より5歳も若かった。それで手伝いをしなくて済んだので退学には至らなかったのである。  車椅子の用意とか、トイレの改修、教室のバリアフリー化などの準備をしないで、安易に受け入れたための悲劇であった。  学校側は、7月の人事異動で校長が代わっており、今後どうしたらいいのかわからず、私たちの到着を待っていたようだ。そこで、できるだけ早く、代わりの視覚障害児を受け入れるように言うと、マハト先生は、2人はすぐにでも補充できると請け合ったのだった。  この件については、カトマンズに帰ってからNAWBの幹部とも協議し、他の学校には奨学金を待っている視覚障害児が多数いるので、もし、同校で補充できなかった場合は、他校に奨学金を回すようにすることで合意した。 (写真)自宅前のマハト夫妻と次男 ◆マハト先生の不満  全盲教師マハト先生(29歳)は、学校から9kmの距離にある村で生まれ、バスビッティ校に入学して10年後、SLCに合格。そして奨学金を受けて、カトマンズ盆地のバクタプール市にあるトリブバン大学サノティミ校に入学し、教育学部で社会科の「人口と環境」とネパール語を専攻した。現在、母校の教員になって8年がたち、3年前に、子供が1人いるマガル族の未亡人(28歳)と結婚。家族で校内で暮らしており、1年前に次男も生まれた。その彼が妙なことを言った。彼の給料は3年前に9,900ルピーになり、今年はさらに昇級して13,650ルピーになった。ところが実際には、彼は8,280ルピーしか貰っていないと言うのだ。  日本の小学校の先生が「初等教育に専門性はないのか!」と激怒しそうだが、ネパールでは小学校の教員より、中学校の教員が、それより高校の教員が給料が高い。これは学校教育が開始されたときに小学校教師は中学校の卒業生が、中学校教師は高校の卒業生が、高校教師は大学の卒業生が行えると決めたことにその端を発する。  そこで、マハト先生が言いたいのは、どうやら自分は13,650ルピーを貰える中学教師の資格があるのに、小学校教師に甘んじていなければならないことへの不満だったようだ。ただ、彼の身分は臨時教員なのだから、試験を受けて正規の教員になる方が先のような気がした。なお、彼は社会科の教員だが点字も教えている。しかし、リソース・ティーチャーの資格は持たない。「点字を使っているから点字を教えられるだろう」という安易な発想も実は大問題なのである。 (写真)バスビッティ校の給食 ◆結核で死んだ13歳の男子  インドと国境を接する町ゴールにあるジュッダ校に話を移そう。ジュッダ校は、この前訪れたときは平屋建ての校舎だったが、今年、全校舎が2階建てに増築された。今回、私が同校を訪れたのは11月22日だったが、その1ヶ月ちょっと前の10月13日に、ジェイ・ナラヤン・サハ君(13歳)が、結核で亡くなった。8年生であった彼は以前から結核を病んでいたはずだが、誰も気づかず病院に行ったときはすでに手遅れだったという。  肺結核を英語ではTuberculosisというが、ネパールでは「ツベルクロシス」とか、それを略した「TB」という病名は普通に知られている。しかし私は知らなかったので、同行したNAWBのスタッフが信じられないという顔をした。  それほどネパールでは、結核という病気は一般的で、まだまだ怖い病気なのだ。そこで、帰国後ちょっと調べてみたら、ネパールでは人口の45%が結核に感染しており、そのうち約8万人が結核を発病し、年間に約4万人以上の新規患者が登録されるという。そして驚くべきことに、ネパールでは今でも結核が成人の死因の第1位を占めているのだ。学校当局の不注意が頭の隅にあったが、どうもそれは私の認識不足だったようだ。  彼の代わりに5年生のマダン・ライ・ヤダブ君(14歳)が奨学生になった。彼は、バラ郡のバグワンプール村の出身で、学校までは父親の自転車の後ろに乗って3時間かかったという。光覚が残っており、カメラのフラッシュを避けようとした。 (写真)向かって左がヤダブ君、冗談好きの人気者だ ◆パシュパティ校は大家さん  パシュパティ校は、ラーハン町の目抜き通りに沿って広い敷地を持っている。私たちが訪問したとき、校庭ではクリケットの試合がユニホーム姿で行われていたが、学生の試合ではなく、場所を貸しているだけだった。また、道路沿いには19の店舗をもち、それを様々な商店に貸している。そして、現在別途8店舗増築工事中で、その店に入居するには、20万ルピーの前払い金が必要だという。この家賃も学校の貴重な収入源である。 (写真)パシュパティ校のテナント  1993年に54人の会員でこの町にNAWBの支部が結成されて以来、同校はNAWBとの間に良好な関係を維持している。現在95人会員がいる同支部の事務所は同校内にあり、前校長が支部書記長だ。  同支部では独自の活動として、同町のサガルマタ・チョーダリ眼科病院の協力を得て、今年度ラーハン町にある31の高校で、眼科検診を行う計画だ。支部長にもご挨拶したかったが、私たちが訪れる前日、急病のためダラン市にあるB. P. コイララ病院に緊急搬送され入院したという。 (写真)私たちが到着する前日に手渡されたパリッとした制服を着た視覚障害生徒 ●発展するドゥマルワナ校  教育省から480万ルピー、ドゥマルワナ村開発委員会から110万ルピーの資金を得て、ドゥマルワナ校は、現在、校舎を新築工事中だった。  先住民のタルー族の村にあり自己資金に乏しいため、同校の元校長で現在は学校運営委員長のパラット・チョーダリ氏が、あの手この手で資金を集め、学校を発展させてきた。彼は、現在腸チフスに罹っており、残念ながら私たちは今回は彼に会うことはできなかった。同氏の影響か、同校は昔から開明的で視覚障害児も元気がいい。今回も生徒から、遠慮がちにだが同校には視覚障害生徒が20人いるが、奨学金を受けているのは14人しかいないので、生活が苦しい現状と、点字タイプライター1台と点字器10面がどうしても必要だとNAWBに伝えて欲しいと訴えられた。  同校には毎年立ち寄るのだが、全盲のクリシュナ・チミルシナ先生が3年前に結婚していたことをはじめて聞いた。相手はジュッダ校出身の弱視ミラ・シャーさんで、SLCに合格後進学した大学で知り合った。クリシュナ先生の実家は学校から5 kmほどの距離にあるがクリシュナ先生は単身赴任で、奥さんは彼の実家に住んでいるという。 (写真)後列左端の長身がクリシュナ先生 ●旅のトラブル―― もし、フロントガラスが割れたなら ――  「ボム」と低い音がしたと同時に、一瞬にして目の前のフロントガラスが蜘蛛の巣になった。  ネパール各地を車で移動すると必ずといっていいほどアクシデントに見舞われる。今回はトラックが跳ね上げた小石が、私たちが乗っていたトヨタ・ランドクルーザーを直撃したのだった。  四半世紀、毎日のように運転しているカジ運転手にとっても初めての経験でどう対応していいかわからない。そこで、彼はなじみの自動車修理工場にケータイで電話して指示を仰ぐ。と、「危険だからすぐにひび割れたガラスを撤去するべきだ」との回答。そこから小一時間かけてのガラス撤去がはじまった。飛散しないようにビニールテープを格子状に張り、ぼろ布を敷いて、拳で叩くとあっけなくフロントガラスは割れたのだった。  気を取り直し、事故が午前9時半と早い時刻に起きたことをむしろ幸運と考えることにした。たまに舗装が途切れて土埃が舞い込むが、一応幹線道路なので道もまずまずである。あまりスピードは上げられないが、とにかく、その日、泊まる予定のホテルに正午前に到着して、対策を練る。  紆余曲折の末、結論は、その日はフロントガラスのない車で予定通りの仕事をこなす。  翌日は、半日運転手付のジープを4,000ルピーで借りて予定通りの日程をこなして、次の目的地であるビルガンジ市へ行く。一方、カジ運転手はカトマンズに帰り、車にフロントガラスを入れて、翌々日われわれを拾いにくる。往復、15時間の旅である。  事故の翌日、私が1人で泊まるホテルは、東京から予約したところではなかったのだが、あらかじめ下見をしていたのは幸運だった。  予約した街一番のホテル(1泊2,486ルピー)は飛び飛びに3泊する予定だったが、2泊目は予約を受け付けていないと、1泊目にいわれたのだ。  またもやWブッキング(過剰予約)である。真相は結婚シーズンであるため、団体客が入ったので、単独客である私ははじき飛ばされたのだ。  下を向いて畏まるホテルの予約係に、別のホテルを紹介するように言うと、ホッとした顔をして受話器をとった。  街で二番目のホテルは結婚式で一杯だが、三番目のホテルは泊まれると言う。そこで、われわれはすぐに下見に行ったのだった。外国ではランクが下がれば下がるほど、宿屋は注意を要するのである。  実際に最初に案内された部屋は、隣の住宅の屋上から窓を割って進入できるロケーションにあった。隣家はインド人の大金持ちの邸宅であるため、そこに面したガラス窓には、遠慮して鉄格子を入れなかったようなのである。  私は、窓を開けると隣家の壁で、しかも鉄格子が入っている部屋を1,356ルピーで予約した。街一番のホテルと1,000ルピーも違うのには理由があり、建物の外観、設備もさることながら、このホテルはお湯が出なかったのである。  とはいっても、この街では高級ホテルの範疇に入り、ちゃんと新婚カップル用に飾り付けた車が車寄せに止まり、結婚披露パーティも行われていたのである。 ●日ネ友好道路の完成  カトマンズと古都バクタプール間の道路9.14kmが、日本の無償資金援助で、2車線から4車線に拡幅され、昨年(2011)5月に日本大使、ネパール首相が参列して開通式が行われた。  中心となる交差点には、日本のODA(政府開発援助)であることを示すネパールと日本の国旗が描かれた標識がある。  片側2車線、往復4車線の道路には中央分離帯があり、歩行者は交差点でなければ道路の横断はできない。ところが、近道をしようと車が時速80km程度で流れている道路を無鉄砲に横断する人々が続出。そこで中央分離帯には乗り越えることができないように、特設の柵が後日造られた。  現在、10分足らずのこの道のりを、かつては大渋滞に巻き込まれて、2〜3時間かかったことが何度あっただろうか?  日本のODAはとかく批判されることが多いが、ネパールにおいてはおおむね成功しているように思える。願わくばメンテナンスの面倒もしっかり見て欲しいものである。(H. F.) ●孤児たちの教育環境  協会有志等によるクリシュナ君遺児育英基金(クリシュナ基金)は、突然死したネパール人現地スタッフの遺児3人に対して、10年課程の教育を支援する育英事業。3人はバラ郡カレイヤ町にある私立のブライト・ランド校の寄宿舎で生活している。  遺児3人には別に1人の妹がおり、この、末娘のアーラティ・ムキーヤは、NCO(ネパール・チルドレンズ・オーガニゼーション)が経営するビンフェディ・チルドレンズ・ホームという孤児院に入所している。  NCOは1964年に孤児と貧困家庭の児童の育児と教育を目的に設立され、現在ネパール全土で12カ所の孤児院を経営しているNGOだ。  アーラティたちは毎日、孤児院からビム・アーダル・コミュニティ・スクール(Bhim Aadhar Community School)に通学している。同校は名前こそコミュニティ・スクールだが、実際は英語で教育を行う私立学校である。  コミュニティ・スクールは、本来、教育行政が自らの所管の公立学校の運営などに手が回らないところを、地域住民に積極的にかかわってもらって運営の一部を任せる学校のことである。そのために保護者や地域住民の代表などから構成される学校運営協議会(理事会)が設置される。日本では、2002年度より米国や英国のチャータースクールを手本に小・中学校で実験的に行われ、2011年4月現在全国に789校ある。  一方、ネパールの公立学校には学校運営委員会があり、地域住民が積極的に学校運営に関わっているので、その形態はコミュニティ・スクールそのものだが、そう呼ばれることはない。  ところが、教育行政から一切、財政支援のない私立校がコミュニティ・スクールを名乗っているので、これはちょっと皮肉である。  皮肉といえば、孤児院の子供達は恵まれた教育環境にあるのに対して、近隣の村人の子供達は公立学校に行けるかどうかという状態である。  もっともアーラティは、前回会ったときは、天真爛漫で元気いっぱいだったが、今は10歳になり、自分の身の上がはっきりわかるようになり、きょうだいと会っても複雑な表情を見せていた。 ●ハットリくんはヒンディー語が上手  この絵はカトマンズ中心部の学校の塀に描いてあったものだ。「忍者ハットリくん」は衛星放送の「スター」でヒンディー語版が放映されており、ネパールでも人気があるようだ。他に「ドラえもん」や「ケロロ軍曹」、「クレヨンしんちゃん」などのアニメのヒンディー語版も放映されており、言葉や文化がわからなくても、結構、子供は夢中になって見ているようである。 ●9年ぶりの再会  地方都市バラトプル滞在中のホテルグローバルで、9年ぶりに会ったのは、元NAWBのCBR(地域に根ざしたリハビリテーション)課長であったプレム・マハールジャン氏(写真右から2人目)。カジ運転手の実兄なので、私がこのホテルに泊まっていることを知っていたのだろう。彼は現在も他のNGOで視覚障害者のためのCBRで活躍している。 ●募金のお願い  ネパールにおける視覚障害者支援、とくに教育の充実をはかるために募金をお願い致します。  寄付金のご送金は下記口座をご利用ください。 郵便振替:00150−5−91688 銀行口座:三菱東京UFJ銀行 高田馬場支店(普)0993756  銀行送金の場合は、寄付金受領書をお送りするため、寄付のご趣旨と芳命・ご住所を、電話、FAX、またはEメールで事務局へお知らせください。 ●寄付金に対する減免税措置  東京ヘレン・ケラー協会は、所得税法施行令第217条第1項第5号に掲げる社会福祉法人です。当協会に対するご寄付は、所得税法第78条第2項第3号、法人税法第37条第1項及び第4項の規定が適用され、税法上の特典が受けられます。 ●編集後記  ネパールへの出張は、例年7月末から8月中旬頃にNAWBと折衝して決めるのですが、2011年のヴィクラム暦は日が悪く、例年より1ヶ月遅れました。  このため本誌の発行が1月にずれ込んだことをお詫び致します。  行政能力の高いバブラム・バッタライ博士が8月28日に首相に就任。11月1日、ネパールの主要3政党間に歴史的合意が成立し、5年間続いた和平プロセスと新憲法制定の作業が完了する見通しとなりました。治安が目に見えて良くなったことは喜びに堪えません。  昭和61年(1986)発行の本誌創刊号では、1ネパール・ルピーを10円で計算していますが、この秋は1ルピーは約1円で、しかもごく僅かですが、ルピーの方が円より安くなりました。(H. F.) ●発行:社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局 〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4 TEL: 03-3200-1310 FAX: 03-3200-2582 http://www.thka.jp/ E-mail: XLY06755@nifty.com ※ 迷惑メールが増えています。当協会宛のメールには、適切な「件名」をお書き添えください。