□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 視覚障害者とともに 創基80周年/設立70周年 東京ヘレン・ケラー協会のあゆみ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□  ※各小みだしの前の行に「++」の記号がありますので、検索機能などで見出しを探すときにご活用ください。  写真:東京ヘレン・ケラー協会名誉総裁のヘレン・ケラー女史  THKA 社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会(Tokyo Helen Keller Association, INC.)  写真:名誉総裁の来日 1955(昭和30)年5月27日〜6月7日  写真:名誉総裁の協会来訪 1955(昭和30)年5月28日  写真:和服姿で正座した名誉総裁  写真:川崎秀二厚生大臣から勲三等瑞宝章をつけてもらう名誉総裁(1955年6月7日)  写真:三味線を弾く名誉総裁 ++       ● はじめに ●       道を照らし続けたい       ── ヘレン・ケラー女史の精神を掲げて70年 ──  今年は,ヘレン・ケラー女史の生誕140周年にあたります。88年の生涯にわたるその人間愛に満ちた活動の中で,日本に残した足跡の大きさを改めて思います。  親日家だった女史は3回,来日しています。 2回目が焼け跡の残る占領下。1948年8月29日から10月28日までの59日間の活動は,日本中で大きな感動を呼びました。  晴天の下,皇居前広場で開かれた「ヘレン・ケラー女史歓迎国民大会」に集まった5万人の群衆を前に,女史はこう発しました。  「皆様の持っているランプの灯をいま少し高く差し上げて道を照らしてやってください。さすれば盲目の人たちも光明を与えられて見ることができ,彼らのために新しい生活の道が開かれるのです」(『毎日新聞』1948年9月5日付朝刊)。  68歳の女史は精力的に列島を巡り,多くの人たちとふれあいました。この活動は毎日新聞社を中心に結成されたヘレン・ケラー・キャンペーン委員会が後押ししました。  この訪日を契機に,身体障害者福祉法が施行された1950年,キャンペーンで集まった浄財で,当協会の前身である東日本ヘレン・ケラー財団が設立されました。  以来70年,毎日新聞社や毎日新聞東京社会事業団をはじめ,多くの団体や善意に支えられて今日を迎えることができました。  当初から主たる事業として位置づけてきた,視覚障害者のためのあん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師(あはき師)の養成施設・専修学校であるヘレン・ケラー学院は,昨年度までに1,961人の卒業(修了)生を送り出しました。先人たちの努力のたまものです。  時代は進み,医療の進歩や職種拡大は歓迎すべきことですが,急速な少子高齢化が拍車をかけ,各地の盲学校では,理療科生徒は減少の一途をたどっています。当学院も例外ではありません。あはき師養成事業を取り巻くこうした環境の変化に対し,次代に向けた新しい役割も模索していかなければなりません。  当協会は,点字出版所(1968年開設),点字図書館(1974年開館),盲人用具センター(1982年開設)など,多様な福祉サービスを提供する総合施設として発展してきました。1985年からはネパールの視覚障害者支援も続けています。さらに未来を見据え,この節目を機に,変革を恐れず,視覚障害者自立支援の使命を果たす決意を新たにしています。  女史が三たび日本の土を踏んだのは,前回来日の7年後でした。羽田空港に降り立った翌日に当協会を訪れ,「社会福祉施設が一段と改善されているのを知り,喜びでいっぱいです。この前日本を訪れたとき私がまいた小さなタネが実ったのなら,思い残すことはありません」とあいさつしています(『毎日新聞』1955年5月29日付朝刊)。  女史の博愛精神によって光り続けるランプの灯を,これからも高く掲げていくために,関係者一同,なお一層の努力をしてまいる所存です。  末筆ながら,関係省庁,自治体,関係諸団体,ボランティアの皆様をはじめ,法人運営にご協力くださる多くの方々に改めて厚くお礼を申し上げますとともに,変わらぬご指導ご支援を賜りますようお願い申し上げます。 2020(令和2)年10月 社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会 理事長 奥村博史 ++ ● もくじ ●  以下、大見出し(賞・資料)、中見出し(墨字ページ)の順  はじめに 道を照らし続けたい ── ヘレン・ケラー女史の精神を掲げて70年(7) 第1章 ヘレン・ケラー女史の精神を高く掲げて ヘレン・ケラー女史の来日と協会の発足  協会の前史(14)  ヘレン・ケラー女史の初来日(14)  東京盲人会館の建設(15)  ヘレン・ケラー女史2度目の来日(17)  来日記念の募金と記念事業の展開(23)  1950年東日本ヘレン・ケラー財団の誕生(25)  昭和天皇,皇后両陛下のご視察と東京盲人会館の改修(28)  ヘレン・ケラー学院の開設(30) 第2章 視覚障害者の文化の向上を目指して 財団法人から社会福祉法人へ ヘレン・ケラー名誉総裁の来日  財団法人から社会福祉法人へ(34)  ヘレン・ケラー女史3度目の来日(35)  盲大学生との連帯へ―― 全国盲大学生大会(38)  ヘレン・ケラー学院の運営(38)  待望の協会改築(41)  ヘレン・ケラー女史逝去(45) 第3章 日本の点字文化とともに歩んだ50年 毎日新聞社から固型点字輪転機を引き継いで  固型点字輪転機導入と点字出版局の開局(49)  『点字ジャーナル』創刊(50)  生活情報誌『ライト&ライフ』(52) 第4章 協会に新しい波 評議員会の設置,学院の改革などを実施  1970年のヘレン・ケラー学院(58)  点字図書館を一般に開放(58)  1980年協会設立30周年(59)  学院に高卒課程新設(62)  盲人用具センター,海外盲人援護事業スタート(63)  協会に新しい時代の波(65) 第5章 伝統と独創性を誇る 点字図書館,海外盲人交流事業,盲人用具センター  点字図書館(70)  海外盲人交流事業 ネパールの視覚障害者に愛の灯を(75)  クリシュナ基金に対する支援(86)  スタディ・ツアー(89)  盲人用具センター アイデアと工夫で新製品開発(94)  盲学生音楽コンクール ―― 国際的視覚障害音楽家を世に送り出す(98) 第6章 設立50周年から70周年まで 2000(平成12)年〜2020(令和2)年  会報『青い鳥』からみた協会の20年(106)  毎日ホールで50周年式典(107)  協会装い新たに(109)  協会設立60周年記念 チャリティー「ハッピー60thコンサート」(113)  支援の強化と災害対応(115)  ガイヘル養成研修事業開始(118)  新時代への対応と対策(121)  就職支援セミナー開催(129)  助成による施設整備,機器・器具の整備一覧(学院)(134)  本館の外壁・外構工事(136)  固型点字輪転機から平板点字印刷機へ ―― 点字出版所の大変革(139)  点字以外の出版物(151)  海外からの訪問と交流(154)  ネパールとの交流事業(160)  点字図書館の新たな活動(169)  サポートグッズフェア(179)  『点字ジャーナル』講演会 ―― 『新版 絵はがきにされた少年』とコロナ下の世界(189) 資料  社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会の沿革(192)  全国盲大学生大会 ―― 盲学生をとり巻く諸問題の環境改善を目指して(194)  (インタビュー)『盲人と大学 門戸開放70周年』を刊行した橋實氏に聞く(196)  全国盲学生音楽コンクール/全日本盲学生音楽コンクール/ヘレン・ケラー記念音楽コンクール 歴代1位・ヘレン・ケラー賞・審査員特別賞受賞者(202)  『点字ジャーナル』創作文芸懸賞小説入選者(209)  ヘレンケラー・サリバン賞受賞者(210)  協会の組織と職制の英文表記(213)  財団法人東日本ヘレン・ケラー財団役員(214)  社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会歴代役員(214)  歴代ヘレン・ケラー学院長(217)  歴代点字図書館長(217)  歴代点字出版局長/点字出版所長(217)  歴代『点字ジャーナル』編集長(218)  歴代『Light & Life(ライト&ライフ)』編集長(218)  おわりに(219) *お断り*  本誌の記述の中に,現在は使用を避けるべき不適切な言葉と表現があります。しかしこれは,その時代その時代で社会が障害者をどう認識し,それによって障害者がどのような立場に置かれていたかを知るうえで重要な手がかりとなる歴史的記述であると考え,その当時の記録に残された表現を,あえてそのまま掲載しました。  本文中で使用,引用した資料には,旧字体で記載されたものがありますが,ここでは基本的に新字体で表記しました。文語調で書かれていた表現もできるだけ口語調に書き直しました。  読みやすくするために暦年表記は統一し,本文中では原則として西暦の後にカッコ書きで和暦を記載しました。また,敬称も「氏」に統一しました。  グラビア等のカラー写真は,AI(人工知能)による白黒写真の自動色付け技術を活用したオンラインサービスを利用して,当時の白黒写真をカラー化したものです。 社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会 ++ 第1章 ヘレン・ケラー女史の精神を高く掲げて ヘレン・ケラー女史の来日と協会の発足  写真:1937年4月18日東京会館におけるヘレン・ケラー女史歓迎晩餐会より ++       ■協会の前史  社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会は,1950(昭和25)年4月,財団法人東日本ヘレン・ケラー財団として発足し,社会福祉事業法の施行に伴って,1952(昭和27)年5月現在の名称に改めた。  当協会の母体となったのは,1937(昭和12)年のヘレン・ケラー女史1回目の来日を記念して設立された財団法人東京盲人会館と,1948(昭和23)年のヘレン・ケラー女史2回目の来日記念事業を展開するために毎日新聞社を中心に組織されたヘレン・ケラー・キャンペーン(H・K・C)委員会である。  東京盲人会館は,戦後の混乱期に東京都からの補助金が打ち切られたため運営が極めて困難になっていた。そこで1950(昭和25)年4月に,東京盲人会館とH・K・C委員会が白紙合体して,新財団として財団法人東日本ヘレン・ケラー財団が発足したのであった。 ++       ■ヘレン・ケラー女史の初来日  1937(昭和12)年,「盲聾唖三重苦の聖女」といわれたヘレン・ケラー女史が,1回目の来日を果たした。  この訪日は,ライトハウス(現・日本ライトハウス)の創設者で当時館長だった岩橋武夫氏とその妻が,米国ペンシルベニア州ハバフォード(フィラデルフィア郊外)にある名門リベラルアーツ・カレッジのハバフォード大学などから招かれて渡米した際に,1934(昭和9)年12月に同女史に会い,「日本の視覚障害者を励まし,日本社会の障害者に対する関心を喚起してほしい」と懇請したのがきっかけだった。  ヘレン・ケラー女史は,もともと日本に強い関心を持っており,自著の中でも「日本人は礼儀正しいので,人の障害の部分をできるだけ見ないようにするという ── とラフカディオ・ハーンがそういう日本へ行きたがった心持ちは推察できる」と記し,また「私は常に日本人について大きな関心を持っている。過去における彼らの優れた業績の中で,視覚障害者に対する近代的教育方法が発見される以前から,自国の視覚障害者に対して,賢明なる人道精神を示した。彼らはおそらく西欧人以上に明瞭に,霊的暗黒が大いなる痛苦なることを理解してきた」とも述べている。  岩橋氏と女史との文通はそれ以後頻繁に交わされ,2人の友情は,ますます深まり,女史はついに日本訪問を決意した。  写真:7歳頃のヘレンとサリバン先生  予定ではその第1回の来日は,1936(昭和11)年の春であったが,女史の家庭教師として知られるアン・サリバン先生が健康を害したため,この時点での訪日を中止し,サリバン先生の回復を待った。しかし,女史の祈りもむなしく,サリバン先生は10月20日,不帰の人となってしまった。  女史の悲しみは深かったが,アジアの視覚障害者のことが片時も頭から離れなかった女史は,サリバン先生を失った悲しみと闘いつつ再び訪日を考えたのだった。 ++     平和親善使節  予定より1年遅れた1937(昭和12)年4月15日,ヘレン・ケラー女史と秘書のポリー・トムソンは,東京市と大阪朝日新聞社の協力を得て,客船「浅間丸」で横浜港に入港し,日本の土を踏んだ。  写真:歓迎の幟が翻る横浜港に入港  2人の来日は,単なる親善訪問にとどまらず,フランクリン・ルーズベルト大統領から「平和親善」のメッセージを託されていた。女史自身も常々「戦争になれば最も被害を受けるのは障害者だ」と平和の重要性を説いていた。  写真:帝国ホテルで桜を愛でる  熱狂的な歓迎を受けた女史は,日本国内の主要都市はもちろん,遠くは朝鮮,満州にまで足を延ばし,障害者を中心に多くの人々に直接話しかけた。  しかし,1937(昭和12)年7月7日,中国北京市南西部で,一発の銃声が響いた。日中戦争の発端となった盧溝橋事件の勃発である。女史は志半ばで,悲しみを深くしながら急遽米国へ帰国した。 ++       ■東京盲人会館の建設  ヘレン・ケラー女史の第1回来日は,予期せぬ形での中断となったが,東京ヘレン・ケラー協会にとっては,後日の協会設立に結びついた出来事の幕開けとなった。  1929(昭和4)年に視覚障害者福祉を目的とした強力な事業機関として,それまでにあった30余りの福祉関係事業体をとりまとめて,中央盲人福祉協会が設立された。  1937(昭和12)年当時,同協会は東京に盲人会館を建設し,視覚障害者に対する授産,職業保護,指導相談,修養娯楽,貧困盲人の救済など,視覚障害者の福祉増進を目的とした諸事業を運営したいと熱望していた。そして,女史来日を機に盲人会館の建設案が急浮上し,1937(昭和12)年4月27日の理事会でその建設が決定した。  この盲人会館建設の話が天皇陛下にも届き,1937(昭和12)年10月18日,1万円の御下賜金を賜った。思いもよらぬ出来事に,中央盲人福祉協会は畏れ多いことだと思うと共に感激した。  そして急遽,盲人会館建設準備委員会は内部的なものから社会的組織として,中央盲人福祉協会の理事のほか,内務,文部,東京府と市および助成団体代表者などが選任された。  そのメンバーは,内務省社会局社会部長山崎巖,同保護課長灘尾弘吉,同傷兵保護課長堀田健男,文部省普通学務局長藤野恵,同庶務課長伊藤日出登,東京府知事館哲二,同学務部長多湖實夫,東京市助役篠原英太郎,同社会局長澤逸與,三井報恩会常務理事山口安憲,原田積善会常務理事佐伯武雄,服部報公会常務理事黒崎眞也,中央盲人福祉協会会長侯爵大久保利武,同副会長石原忍,同常務理事原泰一,同理事須田卓爾,同高野六郎,同村上俊泰,同片山昇,同秋葉馬治,同川本宇之介,同山縣五十雄,同ギルバート・ボールスである。  準備委員会は1937(昭和12)年11月から翌1938(昭和13)年9月まで,精力的に会議を重ねた。そして準備委員会ならびに中央盲人福祉協会理事会において,盲人会館建設計画案,建設後における経営方法と事業を検討,最後に次の結論に達した。  1.建設費予算を8万2,500円とし,その資金の造成ならびに建築工事一切を中央盲人福祉協会が行うこと。  2.中央盲人福祉協会は盲人会館敷地ならびに建物を基本財産として財団法人東京盲人会館を設立すること。  3.財団法人東京盲人会館設立後における経営費は,これを主として東京府の補助に仰ぐこと。  これを受け,建設委員会と中央盲人福祉協会は建設資金集めに奔走,助成金,寄付金を合わせて6万7,400円69銭の建設資金を調達した。  こうして東京盲人会館は建設への第一歩を踏み出した。まずその建設地として,1938(昭和13)年11月,淀橋区西大久保(現在の新宿区大久保の東京ヘレン・ケラー協会所在地)の土地490坪1合1勺(1,620平方メートル)を大蔵省から払い下げを受け,同月8日には地鎮祭を行い,即日建築工事に着手,翌1939(昭和14)年7月15日に一切の工事が完了した。  これに伴う財団法人東京盲人会館の設立許可申請は,1938(昭和13)年11月2日付で中央盲人福祉協会から東京府を経て厚生省と文部省に提出され,1940(昭和15)年10月3日付をもって許可された。  これによって中央盲人福祉協会は,土地建物と盲人会館に属する一切の資産を直ちに新財団に譲渡し,以後,盲人会館は東京府の援助を受けながら新財団によって運営されることになり,東京盲学校教頭の大河原欽吾氏を常務理事に迎え,事業をスタートさせた。  完成した東京盲人会館は,2階建て延べ床面積300坪。砂利を敷きつめた広い庭に,噴水を配した池もあるモダンな建物であった。 ++       ■ヘレン・ケラー女史2度目の来日  1945(昭和20)年の終戦により,日本は新しい国と新しい時代への第一歩を踏み出した。  しかし焦土となった首都・東京をはじめ,日本全国は深刻な食糧不足に加え,インフレ,物資難が重なり,人々は生きるのに精いっぱいであった。  そのようななか,第1回来日の道をつけた岩橋武夫氏はヘレン・ケラー女史に対して日本への再訪を懇請したのであった。  これに対して女史自身も,再訪日の意志を抱いていた。女史は第一次世界大戦に米国が参戦しようという機運にあった時,その平和主義の立場から,軍備の増強に反対する講演旅行をしたこともあり,長期の戦争に敗れた日本に対しても大きな同情を寄せ,戦時中置き去りにされていた日本の障害者を慰め,激励したいと考えていた。  同女史は岩橋氏の要請に対し,「お国の視覚障害者の方々が私を必要としておられるのであれば,そうした方々に慰めと希望を与えるために,もう一度お国を訪問したいと思います」という内容の手紙を寄せた。  そして2度目の訪日を正式に了承した手紙が,1947(昭和22)年11月1日付で,連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥を通じて届けられた。そこには,岩橋氏の要請を受け入れ,1948(昭和23)年8月に,滞在期間2カ月の予定で日本を訪れる旨がしたためられていた。  ヘレン・ケラー女史の来日承諾を受けた岩橋氏は,この招請運動は日本の新聞社の援助を仰ぐべきであると考えた。そこで毎日新聞大阪本社の本田親男編集主幹と会い,女史滞日中に「ヘレン・ケラー運動」を展開することと,「ヘレン・ケラー基金」を公募することなどを提案し,その具体的支援を依頼した。 ++     ヘレン・ケラー・キャンペーン委員会  毎日新聞社は,岩橋氏の提案を全社的なレベルで検討し,これを国民運動とするためには広い組織を持つべきであるとの結論を出した。そのために,毎日新聞社が中心となってヘレン・ケラー・キャンペーン(H・K・C)委員会を組織し,同委員会と同社が協力して運営することとなった。そして1948(昭和23)年1月,直ちに各方面との連絡を開始し,同年2月21日,同委員会の正式結成に至った。当時の委員会委員は以下の通りである。  顧問:内閣総理大臣兼外務大臣芦田均,衆議院議長松岡駒吉,参議院議長松平恒雄,文部大臣森戸辰男,厚生大臣竹田儀一,労働大臣加藤勘十,連合国軍総司令部公衆衛生福祉局長クロフォード・F・サムス准将,米UP通信社アジア担当副社長マイルス・ボーン  以上のうちその任を離れた時は後任者を顧問に委嘱。松岡駒吉は衆院議長辞任後も委員となり,さらに東日本ヘレン・ケラー財団設立後も評議員として関与された。  委員:日本赤十字社長島津忠承,同胞援護会会長徳川家正,外務政務次官松本瀧藏,東京都知事安井誠一郎,カトリック代表田中耕太郎,日本キリスト教団代表小崎道雄,YMCA会長山本忠興,YWCA会長植村環,西本願寺代表梅原眞隆,浅草寺貫主大森亮順,日本放送協会代表高野岩三郎(後に古垣鉄郎),日本商工会議所会頭高橋龍太郎,中央盲人福祉協会代表原泰一,国立盲教育学校長松野憲治,同聾教育学校長川本宇之介,国際平和協会長賀川豊彦,日教組代表荒木正三郎,婦人代表前田ふさ子,同山川菊榮,片山哲,鮎澤巖,H・K・C東京地方委員会代表石原永明,同江藤チカシ<しんにょうに日>(後に櫃田祐也),大阪府知事赤間文三,大阪市長近藤博夫,同志社大学代表湯淺八郎,東本願寺代表大谷智子,四恩学園代表林文雄,日曜世界社社主西阪保治,大阪府立盲学校代表西出末三,大阪市立盲唖学校代表高橋潔,関西学院代表神崎驥一,大阪連絡調整事務局長島重信,衆議院議員中山まさ,清水寺貫主大西良慶,大阪商工会議所会頭杉道助,淀川善隣館代表シャーウッド・F・モラン  常任委員:招致責任者大阪のライトハウス代表岩橋武夫,毎日新聞社(東京)代表楠山義太郎主筆,毎日新聞社(大阪)代表本田親男編集主幹  実にそうそうたる顔ぶれであるが,この名簿からもわかるように委員の顔ぶれが東京と大阪の2グループに分かれていたため,委員の会議・集会は東西別々に開かなければならないという不都合があった。しかし,H・K・C事業そのもの,特にヘレン・ケラー基金の公募などについては,東西の委員会がそれぞれの方針,方法で事に当たることとした。事務局も東京・大阪の両毎日新聞本社内に設置された。 ++     日本中を巻き込んだ感動  ヘレン・ケラー女史と秘書のポリー・トムソンは,1948(昭和23)年8月27日,英国空軍(RAF)輸送機ランカスターの機上の人となり,オーストラリアのシドニーを出発し,同国ダーウィン,フィリピンのクラークフィールドを経て翌々日の29日午後4時25分,山口県岩国市の岩国飛行場に着陸した。  空港には英豪軍参謀長マックレー空軍中将,英豪軍YWCA会長ジョーンズ女史ら多数が出迎えた。  ヘレン・ケラー女史は濃紺のスーツの下に純白の絹のブラウスをのぞかせ,白髪を混じえた毛髪を大きな紺色のリボン付き白のターバンでまとめ,にこやかにほほ笑んでいた。  タラップを降りた女史は歓迎グループの盲・聾児に歩み寄り,やさしく抱きしめて,その子らの顔にほおずりをした。  一行は到着後,連合軍の晩餐会に臨み,わずか数時間の休息をとっただけで午後11時2分発の進駐軍特別列車で岩国を離れ,一路東京に向かった。  当時の鉄道交通事情では,岩国〜東京間は一昼夜を要し,女史が2度目の東京の土を踏んだのは翌30日,午後8時47分であった。  列車は東京駅6番ホームに停車した。ホームには連合国軍総司令部公衆衛生福祉局サムス准将夫妻,日本招致の責任者の岩橋武夫氏,厚生,文部,労働各省代表,毎日新聞社の本田,楠山の両取締役など多数が出迎えた。  ニュース映画用の照明や新聞社のカメラのフラッシュが間断なくたかれる中での歓迎となった。岩橋氏の前にやってきたヘレン・ケラー女史は「タケオ」と岩橋氏を呼び,岩橋氏もまた「ヘレン」とファーストネームで応え,固く抱き合い国境を越えた友情が,11年ぶりに東京駅でよみがえった。そして女史は,長旅の疲れも見せず,宿舎の帝国ホテルに入った。 ++ ランプの灯を高く掲げて  1948(昭和23)年9月1日,2日を箱根・宮ノ下の富士屋ホテルで長旅の疲れをいやしたヘレン・ケラー女史は,3日午後1時,東京・神田の共立講堂にその姿を現した。会場は聴衆2,500人でぎっしりと埋め尽くされた。  障害者代表,各界代表の歓迎の言葉に次いで壇上に登った女史は,万雷の拍手に迎えられた。  女史のスピーチを秘書のトムソンが英語で復唱し,それをさらに岩橋武夫氏が通訳する形で,女史は約50分にわたり講演した。  翌4日午前10時30分から「ヘレン・ケラー女史歓迎国民大会」がH・K・C委員会,東京都,毎日新聞社主催で開かれた。  会場は皇居前広場で,秋晴れの空の下,都内197の中学校,56の小学校から生徒,児童約2万人が歓迎の表示板を掲げて入場,一般の入場者3万人と合わせて5万人が会場を埋め尽くした。  東京都吹奏楽団の演奏により全員で「ヘレン・ケラーの歌」を大合唱して歓迎の意を表した。満場の拍手に包まれて登壇したヘレン・ケラー女史は,まず「アリガトウ」と日本語で礼を述べ,「ヘレン・ケラーの歌は美しい。演壇の下から私の足に感激が伝わってくるのを感じます」と続けて,次のように述べた。  「いまや新日本の黎明は,皆様方の上に輝き始めました。私が願うことは,皆様方のランプの灯をいま少し高く掲げて道を照らしてください。そうすれば盲目の人たちも,光明を与えられて見ることができ,彼らのために新しい生活の道が開かれるのです」  国民歓迎大会の翌日,女史は日比谷野外音楽堂での講演のあと渋谷におもむき,“忠犬ハチ公”の銅像にふれた。というのは,女史のかつての愛犬が日本から贈られたハチ公の子供だったからだ。 ++     59日間の精力的な活動  この第2回来日で,ヘレン・ケラー女史は10月28日に米陸軍輸送船で横浜港を出発するまでの59日間,日本各地をくまなく歴訪した。  8月30日 午後8時47分東京駅着,宿舎帝国ホテルへ入る。  8月31日 先着のジョン・ミルトン協会(女史が総裁を務める)幹事長スタッファー博士等とマッカーサー元帥訪問,直ちに箱根へ,宮ノ下の富士屋ホテルに入る。  9月1日 休養  労働省主催,H・K・C委員会後援の身体障害者雇用運動週間第1日。  9月2日 午後4時宮ノ下奈良屋旅館におけるH・K・C委員会主催歓迎会に出席。  9月3日 早朝箱根発,10時30分放送会館で新聞会見,午後1時10分より神田共立講堂において身体障害者,社会事業家,日赤奉仕団を対象として第一声をあげる。名古屋から盲導犬にひかれて上京した視覚障害者や塩原光明寮から上京した人なども来聴し超満員,国立盲教育学校生徒の「ヘレン・ケラーの歌」の合唱,国立聾教育学校生徒の口話による歓迎のあいさつがあった。  9月4日 天皇,皇后,皇太后陛下ならびに秩父,高松,三笠三宮家からH・K・Cへ金一封下賜。午前10時30分から皇居前広場で開かれた国民歓迎大会に出席,約5万人の参加者の熱狂的歓迎を受けた。閉会後毎日新聞社を訪れH・K・C幹部にあいさつ,午後4時丸の内工業クラブにおける歓迎茶会に出席,高松宮殿下,松平参議院議長,植村環YWCA会長等が歓迎の辞を述べた。出席者約250人。  9月5日 午後1時30分日比谷野外音楽堂における一般講演会で講演,渋谷へ赴きハチ公の像をなでる。  9月6日 午前11時40分天皇,皇后両陛下に謁見,孝宮,順宮,清宮各殿下も会談に参加,下賜の日本茶,和菓子と皇后陛下御心づくしの焚香に感激,新宿御苑から取りよせられた蘭の花束と銀製合子を拝領,午後1時から共立講堂における婦人のための講演会に臨み,宮城道雄氏の箏曲のリズムに合わせて手を振る。  9月7日 朝10時20分首相官邸における政府主催の懇談会に臨み,衆参両院の厚生委員等に対し身体障害者福祉法制定の必要を説く,午後横浜公園音楽堂で講演,超満員。  9月8日 朝8時上野発,一行は秘書トムソンのほかドクター・マークスン,カールソン大尉,岩橋武夫氏夫妻等計13人,沿線各駅ホームで歓迎の人々に一々あいさつしながら午後4時55分仙台着,駅頭の歓迎群衆に阻まれてしばらくは動けなかった。進駐軍専用の松島パーク・ホテル泊。  9月9日 休養,松島散策。  9月10日 午後1時30分宮城県知事室で記者会見,午後2時から公共会館で講演。  9月11日 2時から宮城学院で身体障害者,学生のために講演。  9月12日 午後7時49分仙台発。  9月13日 午前6時53分青森着,駅頭で講演,8時10分青森発,午後1時10分函館着,湯ノ川で一浴後列車内宿泊。  9月14日 休養。  9月15日 午後2時函館新川小学校で講演,午後11時35分函館発。  9月16日 朝8時札幌着,軍政官邸泊。  離日も間近となった10月24日,NHK東京放送会館で内外記者団と会見した女史は,次のように語った。  「最も大切なのは,社会全般および組織や独創性を持つ個人が,常に目や耳の不自由な人々の問題を忘れず,見守っていくことです。特に,日本の婦人たちの力に期待したい。あなた方の愛は,やがて暗黒と沈黙の世界に苦しむ人たちを救い,日本全体に幸福をもたらすに違いありません」  さらに女史はこの記者会見後,以下の声明を発表した。  一.全国に民間の盲人団体を結成し,各団体が協力し,さらに政府の施策を後援する。  一.PTAと協力して,目の不自由な子供の精神的肉体的なマイナス面を除去するように努める。  一.視力の弱い子供のために特別なクラスを設け,大きな文字の教科書を与える。  一.目と共に耳の不自由な子供は,盲学校で教育すべきである。  一.厚生省と文部省は,障害者の保護に積極的に協力すべきである。  一.障害予防の施策も大切である。  10月28日の朝,横浜港の桟橋に,女子高校生約300人が歌う「蛍の光」が流れた。米陸軍輸送船の甲板に立った女史は白手袋をした手を振り続け,デヴィッド・C・シャンクス号は静かに岸壁を離れた。 「お別れを申し上げるに際し,私の心は甘い悲しみでいっぱいです。お国へのこの2度目の訪問中,毎日のように私は,お国の人々から愛と感謝と豊かな心のしるしを受け,大変感動させられました。多くの子供たちが歌った“ヘレン・ケラーの歌”はどんなに可愛かったかいい表しようもありません。皆様は日本の目や耳の不自由な人々のために“ヘレン・ケラー・キャンペーン”に協力してくださっただけではなく,この運動のうちに,心にふれるやさしさと詩をつぎ込んでくださったのです」  と,「お別れのメッセージ」を残して,女史は帰国の途についた。 ++       ■来日記念の募金と記念事業の展開  ヘレン・ケラー女史の2度目の来日は,事実上国家的行事であった。そのためH・K・C委員会は,記録映画「青い鳥のおとずれ」を制作するとともに,「ヘレン・ケラー女史来訪記念身体障害者救護事業」を実施することとし,その事業資金のための基金募集事業を毎日新聞社とともに開始した。  東京本社が行った東日本の事業資金の公募は東京都だけにとどまらず,静岡,長野,新潟3県より東の県ならびに北海道において実施され,その募金目標額まで事務局によって割り当てられた(大阪本社ではそれより西を担当した)。  東京においては毎日新聞社の一色直文事業部長が中心となり,GHQ(連合国軍最高司令官総司令部),財界,官界などのあらゆる方面に懇請し,その援助を仰いだ。また地方においても,毎日新聞社の各地方支局長が精力的に活動し,地方自治体と各関係団体の協力を求めた。  この募金事業の総額は4,162万5,621円97銭であった。 ++     青い鳥のブローチ,バッジの発売  ヘレン・ケラー女史がラドクリフ女子大学(現・ハーバード大学)を1904(明治37)年に卒業した時,童話劇『青い鳥』の作者メーテルリンクの夫人が,ちょうど米国訪問中であった。同夫人は女史を大学に訪ね,「あなたこそ幸福の青い鳥を発見したただ一人の人である」との夫・メーテルリンクのメッセージを伝え女史の卒業を祝福した。  そこでH・K・C委員会は,「青い鳥」を意匠化し,女史の署名を配した七宝焼製のブローチとバッジを製作し,全国発売した。  その反響は大きく,東日本だけで245万6,473円34銭もの売上げとなり,基金に繰り入れられた。  H・K・C委員会は,地方からの拠金の一部を身体障害者福祉向上のためとして各地方に還元した。それは,例えば神奈川県に60万円,茨城県18万円,栃木県35万円,群馬県25万円,岩手県25万3,000円,青森県20万4,000円,新潟県29万円,山梨県25万円,福島県50万円,北海道8万円 ── であり,これとは別に,H・K・C委員会は免税興行の寄付金のうちの100万円を財団法人日本肢体不自由児協会へ,さらに150万円を肢体不自由者巡回相談事業のため厚生省に寄託した。 ++     「ヘレン・ケラーの歌」の撰定  H・K・C委員会と毎日新聞社は,ヘレン・ケラー・キャンペーンの一環として「ヘレン・ケラーの歌」を公募した。すると2,300通余りが殺到した。  審査員は佐伯孝夫,大木惇夫,日高第四郎,南江治郎,楠山義太郎の5氏。  当選作品の作詞者は鳥取県東伯郡下北條村(当時)の吉田啓文氏。当選作品「幸福の青い鳥」には,当時の楽壇の鬼才と称された作曲家・飯田信夫氏が曲をつけた。  ヘレン・ケラーの歌「幸福の青い鳥」  作詞 吉田啓文 作曲 飯田信夫  撰定 H・K・C委員会 毎日新聞社   (一) 幸福の青い鳥 青い小鳥がとんできた 遠い国からはるばると 日本の空へこの窓へ 海をわたってとんで来た ヘレン・ケラーのおばさまは いつも小鳥といっしょです   (二) 幸福の青い鳥 青い小鳥を見つけましょう みんな誘って窓あけて こころの中に青空に 可愛いつばさを見つけましょう ヘレン・ケラーのおばさまの 肩に小鳥はとまります   (三) 幸福の青い鳥 青い小鳥が歌います 暗い涙はふりすてて 明るく強くほがらかに 生きてゆこうと歌います ヘレン・ケラーのおばさまは きょうもみんなを守ります ++       ■1950年東日本ヘレン・ケラー財団の誕生  ヘレン・ケラー女史の2度目の来日を機に行われた各種事業ならびに事業資金募金によって,H・K・C委員会は事業資金として東日本で1,761万7,413円63銭を残した。しかし,国民の善意によるこの巨額な基金をどのように使うかは大問題であった。  1950(昭和25)年4月21日,H・K・C委員会は同委員会内に小委員会を設置し,この問題を慎重に検討することとした。  小委員会の委員は,厚生次官葛西嘉資,衆議院議員松本瀧藏,東京都知事安井誠一郎,日本商工会議所会頭高橋龍太郎,全日本民生委員連盟代表原泰一,特殊教育代表川本宇之介,同松野憲治の各氏。 ++     H・K・C委員会の解散と東日本,西日本両ヘレン・ケラー財団設立  財団設立のための第1回会議が1950(昭和25)年8月25日午後1時から4時30分まで,東京都千代田区有楽町の毎日新聞東京本社の第1会議室で開かれた。同会議はH・K・Cの最終中央委員会で,松岡駒吉元衆議院議長を議長に議事に入った。  その結果,東日本ヘレン・ケラー財団と西日本ヘレン・ケラー財団のほか,両財団の連絡調整をすると同時に,両財団を国際的に代表する機関として,日本ヘレン・ケラー協会を設立することで意見が一致した。  同会議に出席していた連合国軍総司令部公衆衛生福祉局のミクラウツ氏もH・K・C(東日本)の収支決算と残金を新財団へ寄付することを承認し,ここに東日本ヘレン・ケラー財団と西日本ヘレン・ケラー財団の発足が正式に決定した。そしてヘレン・ケラー女史の第2回来日の際に第一声を発した9月3日を女史来訪記念日とすることとし,1950(昭和25)年の9月3日をもってH・K・C委員会を解散した。  これを受けて財団設立趣意書と財団寄付行為が協議決定され,1950(昭和25)年4月1日付にさかのぼって厚生省から正式設立許可が出された。  その日は,奇しくも女史の来日がきっかけとなって立法された身体障害者福祉法が施行された記念すべき日でもあった。 ++     財団設立趣意書  盲聾唖三重苦の聖女ヘレン・ケラー女史の1937年と1948年の両度の訪日はわが国の身体障害者に強い精神的光明を与えると同時に,一般国民に対して身体障害者愛護の精神を深く植えつけた。その現れとして挙げ得る事例は枚挙にいとまないが,なかでも,1937年の訪日を機会に浄財を以て設立された財団法人東京盲人会館とその10年間の事業,および1948年の来訪を機会に結成されたヘレン・ケラー・キャンペーン委員会に寄せられた巨額の資金とは,わが国身体障害者の将来にいよいよ大きな希望の光を投げかけるものでなければならぬ。  ここに右(上記)の女史両度の来訪記念事業中右(上記)の両事業を合一して新たに東日本ヘレン・ケラー財団を設立しわが国の身体障害者を対象とする福祉事業を強力に展開せんとするものである。 ++     財団設立のための第1回理事会開かれる  この第1回理事会は1950(昭和25)年3月15日,午後2時から毎日新聞東京本社3階の第1会議室で開かれた。議案は事業計画ならびに収支予算の件,資産管理の件,寄付行為施行細則の件,評議員委嘱の件等であった。  その東日本ヘレン・ケラー財団評議員候補者は,片山哲(元首相),松岡駒吉(元衆議院議長),国立盲教育学校長松野憲治,東京都知事安井誠一郎,同胞援護会会長櫻井安右衛門,全日本民生委員連盟会長原泰一,日本キリスト教団代表小崎道雄,衆議員議員松本瀧藏,都議会議長石原永明,YMCA会長山本忠興,都民生委員連盟会長益池清助,都社会事業協会長山口安憲,日本マッサージ師会連合会長小守良勝,都盲人協会代表林春吉,日本点字図書館本間一夫,厚生次官葛西嘉資,労働次官江口見登留,日本盲人会連合代表赤澤長秋 ── などといった顔ぶれであった。 ++     第1回評議員会,第2回理事会開催   理事長に高橋龍太郎選出  4月20日に第1回評議員会が,第1回理事会と同じ東京都千代田区有楽町の毎日新聞東京本社3階の第1会議室で開催された。  この日は合わせて第2回理事会も同社で開かれ,理事長に高橋龍太郎,常務理事に一色直文と磯村英一が選出され,東日本ヘレン・ケラー財団としての組織が正式に決定した。 ++     日本ヘレン・ケラー協会と東日本,西日本両ヘレン・ケラー財団  日本ヘレン・ケラー協会の設立趣意書  東日本ヘレン・ケラー財団と西日本ヘレン・ケラー財団を統括するものとして,前述したように日本ヘレン・ケラー協会が設立された。その設立趣意書は次のような内容だった。  盲聾唖三重苦の聖女ヘレン・ケラー女史は,1937年と1948年の両度わが国に来訪し,努力主義,平和主義を基調とする崇高なる人間愛を説いて国民に大きな感銘を与えたが,女史の来訪により国内の所在で身体障害者を対象とする社会事業が勃興し,いまやますます発展の途にあることは国民を挙げて慶賀し感謝するところである。  殊に1948年の来訪を機として新たに起こった東日本ヘレン・ケラー財団は東京に,西日本ヘレン・ケラー財団は大阪に本拠を置き,ヘレン・ケラー精神に基づく身体障害者更生事業を中心として活発な活動を展開するが,両財団が別々に事業を行うことは勿論歓迎すべきであっても,相互間の連絡,調整をはかり,両財団の協力を密にするため連合体を持つことが必要であり,国際的に代表する機関としてかかる団体の存在は有意義であると信ぜられる。  本協会は敍上の要請に応えて設立するものである。  日本ヘレン・ケラー協会は東日本,西日本両ヘレン・ケラー財団の相互間の連絡調整を大きな役目とはしているが,「国際的に代表する機関」とされ,社会福祉事業の国際化に対応しようとした。そしてその協会規約(抜粋)は,以下の通りである。  一.本協会は,財団法人東日本ヘレン・ケラー財団ならびに財団法人西日本ヘレン・ケラー財団によって組織される。  一.目的及び事業 ── 本協会は,両財団が1948年のヘレン・ケラー女史訪日を記念し,身体障害者の社会的福祉を増進する事業を行うにあたり,その全国的事業の連絡と指導統一ならびにその対外的運動あるいは宣伝などを行うことを目的とする。  一.本協会は目的を達成するため左(下記)の事業を行う。 (1)両財団の緊密な連絡ならびにその事業に対する指導 (2)両財団の全国的事業の実施 (3)身体障害者福祉に関し,両財団を代表して,国際親善,宣伝,連絡などの運営  一.経費 ── 本協会は,両財団が毎年度において同額宛支出する分担金によって運営される。  一.両財団の分担金は,毎年度両財団が協議の上決定する。  一.事務所 ── 本協会の事務所を東京都千代田区有楽町1丁目11番地毎日新聞社内に置く。  一.日本ヘレン・ケラー協会役員  会長:日本商工会議所会頭高橋龍太郎  幹事長:ヘレン・ケラー女史招請功労者岩橋武夫  幹事:日本社会事業協会理事長青木秀夫  厚生省社会局長木村忠二郎  東京都民生局長磯村英一  東日本ヘレン・ケラー財団理事一色直文  大阪商工会議所会頭杉道助  大阪府民生部長服部富士雄  大阪市民生部長和爾俊二郎  毎日新聞大阪社会事業団常務理事小谷正一 ++     積極的に多くの事業を推進  全国の盲学生から熱望されていた「全国盲学生音楽コンクール」を1949(昭和24)年,東京で第1回開催にこぎつけた。同コンクールはその後,第2回を1950(昭和25)年に東京で,第3回を大阪で開催するなど,着実な広がりを見せていった。そしてその経費は,東日本ヘレン・ケラー財団と西日本ヘレン・ケラー財団が分担した。  1951(昭和26)年9月には「全国身体障害者のための奨学金制度」の実施を発表,その基金をこれまた東日本,西日本両ヘレン・ケラー財団が毎年各10万円ずつ支出し,障害者の教育環境の整備向上を図った。  東日本,西日本両ヘレン・ケラー財団がそれぞれの立場で独自の企画・予算による全国を対象とした出版を行ったり,全国的に出席を求める講習会や大会を実施する場合,東西財団が独自に実施すると地域性が強調されることで大きな成果を得られない,との危惧がでてきた。  そこで,こうした全国的事業を実施する場合,たとえそれが東日本ヘレン・ケラー財団あるいは西日本ヘレン・ケラー財団の単独事業だとしても,全国的規模の事業とさせるため「日本ヘレン・ケラー協会」名を統一使用し,その運営を効果的にさせようとなった。  それを具体化させようと,東日本ヘレン・ケラー財団の事業であった『更生の杖』(中原武夫著),『欧米における盲人の職業教育』(沢田慶治著),『私たちの眼』(ジュヌヴィエーブ・コールフィールド指導)の3冊を,1950(昭和25)年の5月と10月,1951(昭和26)年の12月に「日本ヘレン・ケラー協会」名で出版した。さらに東日本ヘレン・ケラー財団は,1951(昭和26)年7月,やはり「日本ヘレン・ケラー協会」名で東京・高島屋において「ヘレン・ケラー・バザー」を開催した。このバザーでは高島屋および富士紡績株式会社から200万円もの寄付を受けた。この資金を活用したのが前記の『私たちの眼』の出版で,全国の小中学校,工場などに無料配布した。  これと合わせて1951(昭和26)年8月31日から9月2日まで,東京都新宿区西大久保の東日本ヘレン・ケラー財団本部で「第1回全国盲大学生大会」が開催された。本大会も事実上は東日本ヘレン・ケラー財団の主催であったが,全国規模の事業であることから「日本ヘレン・ケラー協会」による主催とされた。  本大会は全国で学ぶ盲大学生にとっては画期的なもので,参加学生と介護者約40人を3日間にわたって無料宿泊,さらに全員の旅費ならびに食事代,みやげ代を協会が負担した。 ++       ■昭和天皇,皇后両陛下のご視察と東京盲人会館の改修  東日本ヘレン・ケラー財団が産声を上げた1950(昭和25)年4月1日からわずか1カ月半後の同年5月19日,昭和天皇,皇后両陛下が,財団本部施設である東京盲人会館のご視察においでになった。  ただ当時の同会館は老朽化が激しく,このご視察の後には改修工事が必要なほどの惨状であった。  同日午前11時,両陛下は会館の玄関に立たれた。岡田新宿区長,財団関係者,お迎えに立ち並ぶ多数の視覚障害者に会釈をおくられた両陛下は,そのまま2階の貴賓室に入られ,高橋理事長の御礼の言葉と設立経過および事業報告に耳をかたむけられた。  その後両陛下は,東京盲人会館に同居していた同愛盲学校の生徒の点字授業,盲人そろばんの授業,女子生徒の編物,点字印刷作業,さらに盲人用具などを熱心にご覧になり,最後に財団理事らに「しっかりやってください」と激励の言葉をかけられ,帰途につかれた。 ++     東京盲人会館の大改修  東京盲人会館(敷地面積499坪,建坪延べ259.196坪)は,1937(昭和12)年のヘレン・ケラー女史第1回来日を記念して建設(1939年7月工事完了)された社会福祉事業の歴史的意義の大きな会館であった。しかしその後の日中戦争,第二次世界大戦による極端な資材不足で,ほとんど補修が行われないままで財団に引き継がれてきた。  そこで341万6,395円を投じての大改修が行われ本館のほかに和式建物1棟(17.75坪)を増築,1951(昭和26)年7月末に竣工した。  同年12月8日,財団法人東日本ヘレン・ケラー財団は,東京都新宿区西大久保4丁目170番地の同財団本部施設「東京盲人会館」の改築完成感謝会を開催した。  感謝会は,女史2回目の来日(1948〔昭和23〕年)の際その歓迎茶会の席上で国民を代表して歓迎の言葉を述べられた高松宮妃殿下をはじめ,各界,社会事業界の代表,さらに東京都内の失明者500人を招き,午前9時から開かれた。 ++     シロアム教会揺籃の地  現在の東京都新宿区大久保3-10-1には,スーパーマーケット「マルエツ」オレンジコート店を中心に約30店舗の専門店が入っているオレンジコートショッピングセンターがある。そして同センター内のエレベーターで2階に上がると,日本キリスト教団シロアム教会がある。  シロアム教会は国内外で視覚障害者のための教育と福祉に優れた働きをされていた中途失明者の大村善永牧師(1904〜1989)によって,視覚障害者への伝道を主目的として1948(昭和23)年6月,東京盲人会館の一室を借りて,シロアム伝道所と命名して創立された。大村牧師は同愛盲学校の講師もされていた。  「シロアム」とは,イエスに言われて盲人が目を洗って開眼したと聖書が伝えるイスラエルのエルサレムにある「シロアムの池」にちなんだものだ。  しかし,東京盲人会館大改修のために立ち退かなければならなくなり1950(昭和25)年12月,諏訪通りにバラックの会堂を建て,シロアム教会として移転した。  同教会は,1981(昭和56)年4月,東京都の都市再開発事業計画に伴い,高層複合施設の2階部分,人工地盤の上に会堂を建て今日に至っている。 ++       ■ヘレン・ケラー学院の開設  東京盲人会館の一部は私立東京同愛盲学校に無償貸与され,初等科,中等科,高等科,専科の授業が行われていたが,例えば初等科の生徒数は4人で,その経営は極めて苦しかった。  東日本ヘレン・ケラー財団は,この伝統ある盲学校の苦境を憂慮,その打開,解決策をさぐり,協議・検討の結果到達したのが同校を財団直営にするというものであった。  こうして1950(昭和25)年4月1日「ヘレン・ケラー学院」と改名して開学され,1951(昭和26)年6月26日付で厚生省の認定を受け,中途失明者を対象とした本科定員60人,修業年限2年のあん摩師(マッサージ師を含む)養成施設として新生発足した。  教職員は医師3人,普通科7人,実技科5人,の合計15人で教授陣を構成,東京同愛盲学校時代とは比較にならない陣容となった。  ヘレン・ケラー学院は特に中途失明者のための更生施設と位置づけられていたことから,入学金,授業料の徴収は一切行われなかった。そればかりか,教職員は特に自分の時間をさき,点字の出張教授までも実施し,その恩恵を受けた受講生は33人に上った。  ヘレン・ケラー学院の設立で最も問題となったのが運営費であった。理事会でこれまで東京同愛盲学校の経理に充てていた経費を統合し,かつ,財団の予備費から繰り入れての学院費を新設することになった。具体的には事務費から9万6,000円,事業費の各項目から54万円,予備費から20万円をそれぞれ捻出し,計83万6,000円の学院費とされた。  ヘレン・ケラー学院歌  作詞 法師浜直吉  作曲 三浦俊子   (一) 戸山ヶ原の 葉桜の  香り慕いて 集まれる おお ヘレン・ケラー学院の  甍(いらか)に止まる 青い鳥   (二) 一人の母を 母とする  我等兄弟 手をとりて おお 正しく 強く 生きて行く  世の荒波を 乗り越えて   (三) 母の望みは 我が望み  心に祈る 人の幸 おお 元気で 今日もまた明日も 我等の行手 光あり ++     ヘレン・ケラー学院の前身東京同愛盲学校  ヘレン・ケラー学院の前身であり,母体となった東京同愛盲学校は,1906(明治39)年1月16日,東京・浅草の教会の一室で開校した。当時の校名は「浅草訓盲所」で,校長は大儀見元一郎牧師であった。  同校が誕生したのは,浅草三筋町の美普(メソジスト)教会の大儀見牧師が,街頭での伝道中,笛を吹きながら按摩の客を求めて歩き続ける盲女性の姿を見たことだった。  同牧師は,その女性按摩師の姿から視覚障害教育の必要性を痛感し,前述の1906(明治39)年1月16日,3人の視覚障害者に声をかけ,教会堂の一室に「浅草訓盲所」を開設したのである。3氏は福音を語り伝える伝道を続けると同時に,わが国の盲人伝導者の草分け的存在であった熊谷鉄太郎氏を講師に招き,鍼按の教授も開始した。  この浅草訓盲所は翌1907(明治40)年に「同愛訓盲院」と改称,米国の美普教会本部から経営資金の援助を受けるようになったが,1920(大正9)年3月,再び校名を「同愛盲学校」に変えた。しかし,1923(大正12)年の関東大震災で校舎が焼失。1924(大正13)年に中野区に移転し,65坪の校舎と45坪の寄宿舎を建て,キリスト教教義を主体とした本格的な視覚障害教育をスタートさせた。そして校名を「東京同愛盲学校」と三度改称した。  その後の日米関係悪化のために米国からの経営援助が打ち切られたが,懸命の努力で運営を維持した。しかし太平洋戦争の戦禍が日ごとに激烈となり,ついに1944(昭和19)年5月,政府の命によってやむなく休校に追い込まれた。そしてそのちょうど1年後の1945(昭和20)年5月の「山の手大空襲」によって,校舎はもちろん,一切のものを残さず焼失してしまうという悲運に見舞われたのであった。 ++     戦後,東京盲人会館内で復校  敗戦から3年後の1948(昭和23)年,卒業生有志が立ち上がり,同愛盲学校復校に向けて奔走した。そして1949(昭和24)年4月,新宿区西大久保の東京盲人会館の理事会のあっせんを受け,東京都庁の了解を得て同会館内に暫定的に復校した。  しかし1952(昭和27)年,後述するように,東京盲人会館の運営母体である東日本ヘレン・ケラー財団が東京ヘレン・ケラー協会と組織改組したため同年4月に休校した。  しかし伝統ある母校の復校を熱望する教員,生徒,卒業生の切実な願いが実を結び,1953(昭和28)年4月20日,世田谷区三軒茶屋の社会福祉法人聖ルカ失明者更生協会で復校し,同協会内で母校復校記念礼拝式を行った。だが当時の社会情勢では私立盲学校の運営は困難を極め,1954(昭和29)年4月18日の同窓会総会の決定で,ついに廃校となってしまった。 ++     身体障害者大学生奨学金交付  身体障害という大きなハンディキャップと闘いながら大学で勉学に励む学生を対象に奨学金を贈る「身体障害者大学生奨学金」制度が,1952(昭和27)年3月からスタートした。  主催者は東京ヘレン・ケラー協会,西日本ヘレン・ケラー財団,毎日新聞社会事業団。  申込資格は,新制高校,盲・聾学校高等部卒業生,または同等の学力があると認められた者を入学資格とする修学年限2年以上の一般大学(またはこれに相当するもの)に在籍する者(聴講生,通信学生は除く)で,1級か2級の身体障害者手帳を所持する者。  毎日新聞紙面などで希望者を募り,東京と大阪で審査会を催し,20人の学生に1人1万円の奨学金(返済義務なし)を贈った。  第1回の1951(昭和26)年度は全国から53人(盲学生21人,聾学生3人,その他の身体障害者29人)の応募があった。  東京の選考会には,東京教育大学国府台分校主事川本宇之介,文部省学生生活課長補佐三島良兼,東京都身体障害者団体連合会理事長堺栄伍氏ら7人が,大阪の選考会には立命館大学学長末川博,大阪府民生部長服部富士雄,西日本ヘレン・ケラー財団副理事長岩橋武夫氏ら9人が審査に当たった。  この結果,日本大学大学院生松井新二郎,関西学院大学生青木茂氏ら盲学生14人,明治学院大学生池尾寿一氏ら聾学生3人,東京理科大学生松野武氏ら身体障害者3人の合計20人に第1回の奨学金が贈られた。  1952(昭和27)年度の第2回奨学生には,応募者49人の中から,明治大学生渕上英氏ら盲学生15人,近畿大学生白石堯美氏ら聾学生2人,早稲田大学生金子精宏氏ら身体障害者3人の20人が選ばれ,それぞれ1万円の奨学金が贈られた。  1953(昭和28)年度の第3回奨学生には,応募者33人の中から大阪キリスト教短期大学生玉田敬次氏ら盲学生15人,聾学生は東洋大学大学院生皆川文雄氏1人。高知大学生福井清水氏ら身体障害者4人の20人が選ばれた。  1954(昭和29)年度の第4回奨学生には,応募者45人の中から東京大学生増井満氏ら盲学生14人,聾学生は広島大学生守政恭輝氏1人,東邦大学生佐野愛子氏ら身体障害者5人の20人が選ばれた。  なお,盲大学生奨学金は,この1954(昭和29)年度を最後に中止された。 ++ 第2章 視覚障害者の文化の向上を目指して 財団法人から社会福祉法人へ ヘレン・ケラー名誉総裁の来日  写真:協会会議室で,視覚障害者施設・団体のリーダーたちとの懇談 (名誉総裁とトムソン女史の間に立っているのは,高橋龍太郎初代理事長) ++       ■財団法人から社会福祉法人へ  1952(昭和27)年2月27日の午後2時から東日本ヘレン・ケラー財団本部2階会議室で開かれた第8回理事会で,東日本ヘレン・ケラー財団は社会福祉法人に組織変えし,「社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会」とすることが決まった。  鈴木三郎常務理事(元毎日新聞社運動部長)を議長に,議事に入った理事会の第一号議案は「本財団法人を社会福祉法人に組織変更の件」で,東京都民生局総務課指導係の大竹藤一氏から社会福祉法人設立の趣旨説明がなされ,異議なく可決された。続いて社会福祉法人としての定款を審議,さらにこれまでの財団本部施設であった東京盲人会館の名称を従来どおりの施設名として存続させる,基本財産は土地と建物のみとし,ほかは運用財産とする,役員は理事7人,評議員15人と改める ── などが相次いで可決された。  なお,定款に示された協会の目的は以下の通りである。  この社会福祉法人は身体障害者,特に失明者の福祉増進と身体障害の防止を図ることを目的として左(下記)の社会福祉事業を行う。  1.この法人の本部施設内において身体障害者,特に失明者を対象とする更生相談所の設置経営ならびに都内各所において臨時または巡回更生相談所の開設。  2.この法人の本部施設内において点字出版所ならびに点字図書館の設置経営。  3.この法人の本部施設内の講堂,会議室,宿泊所などを無料または実費以下で身体障害者に利用させる事業。  4.身体障害者のために無料または低額料金で臨時または巡回診療を行う事業。(以下略)  この社会福祉法人への組織変更は,1952(昭和27)年5月17日付をもって厚生大臣から認可され,その旨は,同30日の社会福祉法人としての第1回理事会で報告された。 ++     社会福祉法人に変更後も続く毎日新聞社とのつながり  財団から社会福祉法人に組織変更となったが,初代常務理事の一色直文のあとを受けて鈴木三郎がその職につき,一色は理事のまま残り,再び常務理事に就任する。その後,代々の常務理事は毎日新聞社のOBが務めた。  このことからも明らかなように,毎日新聞社,毎日新聞東京・大阪社会事業団と東京ヘレン・ケラー協会との関係には,極めて深く大きなものがある。とりわけ毎日新聞東京社会事業団とはその後も強い絆で結ばれ,現在に至るまで絶大な支援を受けている。 ++       ■ヘレン・ケラー女史3度目の来日       1955(昭和30)年 日比谷公会堂にて  1955(昭和30)年5月27日午後8時35分,ヘレン・ケラー女史はマニラからノースウエスト航空機で新装なったばかりの羽田空港に到着した。第1回(1937〔昭和12〕年),第2回(1948〔昭和23〕年)以来,3度目の来日である。女史は75歳であった。  機体にタラップがかけられ,ドアが開けられて最初に姿を現わしたのは女史で,すぐその後ろから寄りそうように秘書のポリー・トムソンが続いた。  出迎えの人々が一段高い送迎場から小旗やハンカチを振り続け,「ヘレン,ヘレン」の大合唱がわき起こる。  その光景をトムソンが伝えると,女史は表情をほころばせ,出迎えの人々に小さく手を振ってそれに応えた。  タラップを降り間もなく空港ロビーに姿を現わした2人を,日本盲人会連合(日盲連,現・日本視覚障害者団体連合)会長鳥居篤次郎氏夫妻と前会長であった故・岩橋武夫氏の妻キヲ氏,それに東京ヘレン・ケラー協会と毎日新聞社関係者が出迎えたが,女史はキヲ氏にまっすぐ歩を進め,やさしく抱きしめた。そして再会を果たせなかった夫の無念を思いほおを涙で濡らすキヲ氏の肩を抱き,その両ほおにキスをした。  その後,品川聾学校の生徒2人から贈られた歓迎の花束を両腕に抱えた女史は,そのまま空港ロビーで記者会見に応じ,次のような第一声を発した。  「桜と緑茶の国,日本に再び来ることができ,大変うれしく思っています。日本の皆様の心からの歓迎と,私に対するご援助と愛情に深く感謝しています。私が今まで行ってきたことを通じて,皆さんと心からのお友だちになれることを喜んでいます。  ただ,日本に着いたら最初に握手をしたいと心から願っていた岩橋氏(1954〔昭和29〕年10月28日に死去した元日盲連会長岩橋武夫氏)ともうお会いできないのは,大変残念です。  日本の身体障害者の収容施設が大変発達したそうで,御同慶の至りです。この機会に,日本の気の毒な人たちの人生に多少でも光明を与えたいと思います」  そして長旅の疲れも見せず,前回の来日と同様,宿舎の帝国ホテルに入った。  今回の来日の滞在日数はわずか12日間ではあったが,以下の日程をこなさなければならなかった。 ++     来日スケジュール  5月28日 午後1時〜5時30分毎日新聞東京本社,東京ヘレン・ケラー協会訪問,帝国ホテルにて毎日新聞社招待パーティー  5月29日 午後1時〜4時日比谷公会堂で公開講演,同4時〜6時帝国ホテルで,カレッジ・ウーマンズ・クラブ招待パーティー  5月30日 午前10時30分皇居にて天皇陛下と会見,午後1時〜4時首相官邸にて厚生大臣を囲む座談会  5月31日 午後2時安井都知事訪問,同2時30分富士見町教会へ,同4時アメリカ大使館訪問  6月1日 午前日航機で大阪へ,午後毎日新聞大阪本社訪問  6月2日 午後中之島公会堂で講演  6月3日 社会事業施設視察,京都へ  6月4日 午前女史歓迎の全国盲人大会へ出席,午後同志社大学で講演  6月5日 午前9時37分京都発 「特急つばめ」にて東京着午後5時  6月6日 休養  6月7日 午後7時45分パンアメリカン航空機で羽田発  (1955年5月28日付『毎日新聞』) ++     実った福祉施設のタネ  ヘレン・ケラー女史は5月28日午後,東京ヘレン・ケラー協会高橋龍太郎理事長をはじめ関係者約100人が待つ東京都新宿区西大久保の同協会を訪れた。  その後,女史は午後4時から帝国ホテルでの盛大な歓迎レセプションにのぞんだ。田中最高裁長官,川崎厚生大臣,紅露同次官,同安田社会局長,益谷衆院議長,河井参院議長,安井都知事,加藤都民生局長,松沢都教育委員長,有馬(株)白木屋代行社長,足立(株)ラジオ東京(現・TBS)社長,高橋東京ヘレン・ケラー協会理事長,松野全国盲学校長会長,古谷全国聾学校長会長,下村宏氏,天田元タイ国領事,松岡駒吉氏,高橋豊治日本盲人会連合副会長,村岡花子氏,米国大使館グレンショウ氏夫妻,毎日新聞東京本社から渡瀬編集主幹,原常務ら約80人が参加した。  グラスを手に同女史をかかえるようにして川崎厚生大臣が「おいでになるのをお待ちしていました」と言葉をかけた。  女史はトムソンの口をかりて「社会福祉施設が一段と改善されているのを知り,喜びでいっぱいです。この前日本を訪れたとき(1948〔昭和23〕年)私がまいた小さなタネが実ったのなら,思い残すことはありません」とあいさつした。 (1955年5月29日付『毎日新聞』) ++     この勲章に恥じないように  第3回の日本訪問を成功裏に終わって帰国するヘレン・ケラー女史に日本政府から勲三等瑞宝章が7日贈られた。伝達式は同日午前10時半厚生省大臣室で行われた。川崎厚生大臣が天皇陛下と国民の名においてこの勲章を贈るという意味の式辞を読み上げてみずからの手で女史の胸に勲章を飾った。  「この勲章は外国の民間の方にお贈りする最高のものです」と説明すれば,女史は勲章を指先でなでまわしながら「この勲章を天皇陛下からいただいた光栄は一生忘れません。この勲章に恥じない行いで余生を過します」とつきそいのトムソンを通じてあいさつした。  (1955年6月7日付『毎日新聞』夕刊) ++     盲・聾児のために立派な設備を作っていただくよう切に訴えます  本社(毎日新聞社)の招きで来日したヘレン・ケラー女史は12日間の日程を終え7日午後7時45分パンアメリカン航空機で羽田を出発,帰国の途についた。米大使代理ハーグロウ夫人はじめ同大使館員,厚生省松本更生課長,高橋日盲連副会長,国立盲学校教授沢田慶治氏,東京ヘレン・ケラー協会,本社関係者ら多数が見送った。  ロビーで見送りの人たちと別れのあいさつをした女史はトムソンに伴われてタラップを上がっていったが,ターミナル屋上の送迎場から「さようなら」「ごきげんよう」という声と拍手に振り返り右手を高くあげて手を振っていた。なお出発を前に同日午後4時,女史は宿舎帝国ホテルで記者会見を行い次のように語った。  「日本の盲聾者に対する教育施設はこの前来たときよりもずっと進歩していますが,幼児に対する施設はまだまだ不足だと思われます。今後とも不幸な人たちのために立派な設備を作っていただくよう切に訴えたいと思います」(1955年6月8日付『毎日新聞』) ++       ■盲大学生との連帯へ ―― 全国盲大学生大会 ――  1951(昭和26)年8月31日から3日間,東日本ヘレン・ケラー財団講堂で第1回「全国盲大学生大会」が開かれた。主催は日本ヘレン・ケラー協会,後援は文部省,厚生省,労働省,点字毎日,毎日新聞社会事業団で,参加者が学ぶ大学は20校以上に及んだ。  東日本ヘレン・ケラー財団は,参加学生と介助者約40人を3日間にわたって東京盲人会館に無料宿泊させ,さらに全員の旅費ならびに食事代,土産代を負担した。  3日間の大会を通じて参加盲大学生から寄せられた切実な要望は彼らの卒業後の就職に関するもので,視覚障害者の雇用促進を訴えるものだった。  第2回全国盲大学生大会は大阪の西日本ヘレン・ケラー財団により行われ,第3回以降は東京と大阪で交互に開催された。  この盲大学生大会はその後も順調に開催され,1955(昭和30)年には第5回を数えるまでに成長し,会合名も「全日本盲人大学生会議」と改称された。  東京ヘレン・ケラー協会で行われた第7回全日本盲人大学生会議は,1957(昭和32)年8月15日から3日間の日程で開かれた。後援は文部省,労働省,厚生省,東京都,日本赤十字社,鉄道弘済会,日本放送協会。参加盲大学生の代表から,卒業後の志望職業,その他について多くの意見が寄せられた。詳細は巻末「資料」参照。 ++       ■ヘレン・ケラー学院の運営  ヘレン・ケラー学院の運営も順調で,1954(昭和29)年度のあん摩科卒業生は22人,この全員が資格試験に合格という快挙。在学生数は80人で,これに対する教職員は医師4人,理療科5人,普通科9人の計18人体制で指導にあたった。そして学院生の実地指導を兼ねて協会に附設された治療部も活況を見せ,低廉な料金であったことも影響し,地元を中心とした外部の患者998人が治療を受けた。 ++     学院授業料一部有料化へ  1955(昭和30)年のヘレン・ケラー学院への入学希望者は多く,定員30人に対して40人もの応募があるほどだった。4月5日に実施されたこの年の選考は,東京都の委託事業である関係から,都厚生課長が代理立ち会いのうえで行われ,試験に参加した38人に対して実施し,定員いっぱいの入学が許可された。  同年4月8日の理事会は招集されたものではなく,提案議題に対して文章による回答を求めるもので,「本協会が中途失明者の更生自立を目的として経営しているあん摩師,はり師,きゅう師の養成施設ヘレン・ケラー学院の入学料授業料の金額を決定する件」の提案がなされた。  ヘレン・ケラー学院は1950(昭和25)年4月1日の開学以来,この5年間にわたって毎年の入学者に対しての入学料ならびに授業料を,一切免除してきた。しかし「経営の合理化」に着手せざるを得ない経営状態に追い込まれつつあったのだ。  この入学料・授業料免除は,厚生大臣の認定に基づく同学院学則23条の「入学料,授業料は別に定めてこれを徴収する。ただし止むを得ない理由のある者に対してはこれを免除することが出来る」をよりどころとして続けてきた。しかし学則にいう「別に定める」ところが明確にされておらず,そのうえ,厚生省更生課,都民生局調査課,同医務課が「適当と思われる料金は,これを徴収することは社会福祉法人として差し支えない」と言明していることから,料金徴収に踏み切った。  入学料ならびに授業料は1955(昭和30)年度入学者から適用されることとなり,入学料は1,000円,授業料は月額500円と定められた。  その算定の基礎は,当時の都立高校における入学料2,000円,授業料月額500円,諸会費月額600円,校債1口5,000円から割り出された。  だがこの金額に学院側としても多少の懸念があったようだ。というのは,一般都立高校ではなく,都立盲学校の授業料が月額50円,国立盲学校が同300円であったことから,それに比しての学院授業料は高すぎると考えられたからだ。しかしそれに対しては,「盲学校には相当の諸会費があることを考慮すれば,本学院の学資は実質上,最低といえる」との判断を下した。このようにして何とか入学料ならびに授業料の徴収とその金額は決まったものの,徴収初年度の1955(昭和30)年度入学者30人のうち,徴収の対象となったのはわずか5人。残り25人は何らかの「止むを得ぬ理由」でこれまで同様,全免の恩典を受けた。  これによっての収入は5人合計で入学料の5,000円と,授業料1年間分の3万円,合わせて3万5,000円でしかなかった。しかし,本人あるいはその家庭に経済的余裕がある場合,それに目をつむって徴収しなければ「悪平等となる」ということで,徴収は実施された。そしてこの徴収への制度変更については,同年度の受験者ならびに保証人の全員に対し,理事会の決定によるものである,と受験に先立って事前に連絡し,そのすべてから了解を取りつけてあった。  なおこの徴収制度の開始について学院事務当局は「これは経営の合理化という意味ではほんの第一歩であるが,生徒指導上のプラスと学則を明確にするという点にある」と意義づけた。  いずれにしろ,無料であった入学料と授業料の有料化は,ヘレン・ケラー学院の性格,体制を大きく変化させたのであった。 ++     都の委託事業軌道へ 私立養成施設として着実な発展  1950(昭和25)年4月1日のヘレン・ケラー学院(あん摩科)の設立。1951(昭和26)年6月26日の厚生大臣によるあん摩師養成施設の認定。1952(昭和27)年3月24日の初のあん摩科生卒業(10人)。1954(昭和29)年5月7日のはり・きゅう科の認可による中卒5年課程の養成施設への拡充 ── と,「私立養成施設」としてのヘレン・ケラー学院は,着実な発展を遂げていった。  これに伴っての東京都の委託生の委託も順調に進んだ。 ++     1961年学院各種学校に認可  1950(昭和25)年に開学した東京ヘレン・ケラー協会附属ヘレン・ケラー学院は,その後厚生省からあん摩師,はり師,きゅう師の養成施設として認可を受け,その学生の育成と資格試験に合格させるため,教育内容を充実させながら運営に最大の努力を続けていた。しかし1959(昭和34)年,通学学院生の鉄道割引の適用を受け,学院生のより安心できる通学環境を整備する必要がでてきた。このためには規則改正によって,「各種学校」としての認可を受けなければならない,という新たな事態が生じた。そこで理事会はその認可取得のための審議を開始,全員の承諾を得ると同時に申請。結局,1961(昭和36)年6月30日付をもって「各種学校」として東京都知事から認可されるに至った。  この1959(昭和34)年当時は,まだ協会としての更生相談と救護事業を継続していたが,更生相談は失明者のうちの特に中途失明者に重点を置いて実施された。相談内容は将来あん摩師,はり師,きゅう師となるための盲学校,あるいは養成施設などへの進学に関するものが多く,この年だけでも666人が相談,中途失明者の就業,開業などの困難性を浮き彫りにし,視覚障害者の就労に関しての社会の未開発な現状を示していた。  これに対し,救護事業は大幅に減少しだした。1959(昭和34)年度の救護事業は,わずかに10件。それも浮浪者に対するものが多く,いずれも食事と旅費などを支給し,それぞれの身寄りや実家に帰還させるという内容のものばかりであった。  こうしたなか,ヘレン・ケラー学院は徐々にその運営基盤を強固なものに成長させた。ちなみに1960(昭和35)年度の卒業生はあん摩科20人,はり・きゅう科13人を数え,この全員が資格試験に合格するという好成績をおさめた。この勢いが認められてか,翌年の1961(昭和36)年度には,あん摩科で23人の入学者を迎えた。  そしてこの新入生のために同年の1月10日から入学直前の3月20日まで,「新入生のための点字講習会」を開き,延べ受講者1,038人に点字を講習,キメの細かい就学前指導を行った。  ヘレン・ケラー学院への自治体からの委託生は,これまでは東京都のみであったが,1963(昭和38)年10月から埼玉県厚生課とも委託制度の契約を結ぶことになり,学院の委託生制度が広がりを見せはじめた。  2003(平成15)年度にはさいたま市とも委託制度の契約を結ぶことができた。 ++       ■待望の協会改築  戦前に建てられた協会の建物は,年年傷みがひどくなってきたが,その当時の建物の状況はどうだったのか。  敷地は,現在の協会敷地と明治通りに面した現在の毎日新聞社早稲田別館までの広さだった。明治通り側に2階建てモルタル造り45.21平方メートル(13.75坪)の建物があり,現在の協会本部,学院の本館と,点字図書館,点字出版局の一部が入っている新館の場所は,同愛盲学校当時の管理者が住んでいた平屋(3部屋)があるだけで,草が繁るにまかせていた。  当時,協会に在職していた佐藤實氏によると,当時の協会の建物は,明治通りに面したモダンな建物で,正面玄関のバルコニーには「東京ヘレン・ケラー協会」と書かれた横看板が掲げられていた。教室,実技室,学院長室,職員室などがあり,2階の会議室は授産所になっており,視覚障害者が作業に訪れて賑わった。これは1953(昭和28)年頃まで続いたという。 ++     建物の老朽化に台風の追い打ち  モダンな建物も年とともに風化が進み,1964(昭和39)年に日本列島を縦断した台風20号により決定的な打撃を受け樹木は倒れ,木製の塀はこわれ,屋根やガラス窓も破損した。  すぐに一色常務理事の陣頭指揮で,一応修理をすませて授業を進めたものの,関係者の間には,建物の改築の必要性が現実味を帯びてきた。  協会改築の動きは,かなり以前から東京都を含め,関係者の間で努力が進められていた。資料によると,1960(昭和35)年初夏,一色常務理事が,協会の改築計画を検討した。  そこで調査してみると,一帯が緑地帯に指定されていることがわかり,西隣(現・高層住宅)にあった男子学生寮である財団法人久敬社と,東隣(現・新宿北郵便局)にあった母子寮に働きかけ,指定解除の要望を東京都に対して行った。この結果,同年8月13日緑地帯指定が解除された。  その後,東京都が協会の隣に計画している戸山団地の住宅建築と並行して,1965(昭和40)年頃には,計画のアウトラインが描けるようになった。その後,久敬社と戸山母子寮は移転したため,現在残っているのは協会だけである。 ++     新本館建設へ  1966(昭和41)年1月21日,千代田区紀尾井町の赤坂プリンスホテルで開かれた第35回理事会で「新本館建設」計画が協議された。  次の第36回理事会では,それまで存在した評議員および評議員会が全面的に廃止され,役員会のスリム化が図られた。  そのうえで前回理事会で議決を得た舎屋(新本館)建設計画の具体策が発表された。 ++     関係各方面からの要望に応え講堂,小集会室なども増築  新本館の概要は,資金の関係から鉄筋コンクリート2階建てで,728.5平方メートルのものとされていたが,工事途中にもかかわらず,思わぬ声が視覚障害者団体等から起こってきた。  これまでの会館利用提供の効果と実績が大きく影響して,従来無償開放してきた講堂と小集会室と同様の施設建設を望む声が出てきたのだ。  要望に応えるべく1966(昭和41)年8月5日の第38回理事会はこの解決策を論じた。  関係方面から熱望された以上,この期待に応えることは身体障害者援護のためにきわめて緊要と認められるので,3階部分300平方メートルを鉄筋コンクリートで増築する。さらに300人収容の講堂と30人程度収容の小集会室や映写室を設備する。ただし,当然,これに伴っての大増築費が必要となる。  建築費総額は1,505万円に上ると予想される。そこで,このうちの912万円を日本自転車振興会の補助金に仰ぎ,自己資金593万円のうちの543万円は毎日新聞社の融資を受け,残り50万円は東京都盲人団体はじめ当協会関係者ならびにヘレン・ケラー学院卒業生,在校生約550人からの寄付金によりたい。  本原案は全役員の賛成で可決された。  これにより,増築工事は1967(昭和42)年4月15日着工,同年10月20日を完工予定とし,総面積1,028.5平方メートルの新施設建築が決定された。  こうして,関係者から大きな期待を寄せられた新本館は,1968(昭和43)年3月に竣工した。そして同4月26日,卒業生をはじめ,多数の来賓を招いて新本館落成祝賀会が開催された。  落成に先立つ1966(昭和41)年5月,当協会に事務所を仮設置していた日本盲人会連合(日盲連)事務局は,東京都新宿区高田馬場1-10-33に日本盲人福祉センターを開設したことに伴い,当協会から退去した。  東京盲人会館の時代から協会内の一室を,東京都盲人福祉協会(都盲協)が使用していた。その都盲協事務所の片隅に,日盲連事務局が,1963(昭和38)年12月20日大阪から移転してきた。  しかし,それに至る前に日盲連の事務局を一手にあずかっていた村谷昌弘事務局長と当協会一色直文常務理事による大男同士の口角泡を飛ばす大音声が協会玄関ホールに響いた。  当時の都盲協には内紛があり,日盲連の東京移転の件で当協会と交渉することになっていた日盲連副会長であった箕田作男都盲協会長が仕事を投げ出していたのだ。このため日盲連事務局が同居する話は当協会に届いておらずくだんの行き違いによる大バトルが起きたのだ。  12月9日に大阪で送別会を開いてもらい,村谷事務局長は東京に乗り込み,机一つに椅子2脚,それに書類の入ったロッカーひとつを当協会に持ち込もうとして,一色常務理事に協会の玄関ホールで「そんな話は聞いていない」と阻止された。  インパール作戦で失明し豪傑で鳴る村谷氏もこの事態には困惑し,日盲連創立の1948(昭和23)年から1960(昭和35)年まで副会長であった大野加久二氏(全盲)に泣きつき,調停を依頼した。  兵庫県芦屋市に住む大野氏はすぐに上京して,旧知の一色常務理事の説得にかかり,日盲連事務局の同居を認めさせた。  一色常務理事は毎日新聞東京本社の地方・社会・事業各部長,北海道総局長,サン写真新聞社代表取締役を歴任。ヘレン・ケラー女史来日時には毎日新聞社事業部長として女史に付き添っていたので,点字毎日編集長であった大野氏とは仕事柄親交があったのだ。  このような事情があり,日盲連の機関紙『愛盲時報』1964(昭和39)年4月25日付(通巻44号)〜1966(昭和41)年2月15日付(通巻52号)の発行所所在地は「東京都新宿区西大久保4-170東京ヘレン・ケラー協会内」となっている(※)。  ちなみに同紙の創刊号〜通巻30号までは大阪市城東区今津中二丁目「ライトハウス内」,通巻31号〜43号は大阪市城東区今津中二丁目「日本ライトハウス内」と記載されている。  (※)「新宿区西大久保4-170」は,1978(昭和53)年の住居表示変更により,「新宿区大久保3-14-20」に変更された。  なお,協会内の一室を使用していた都盲協は,この新本館建設後もそのまま当協会にとどまった。  都盲協に提供されたのは協会1階の1室(29.75平方メートル)で,無償提供であったことはもちろん,電話代,電気代,水道代,ガス代といった経費まで一切無料であった。  しかも1956(昭和31)年からは都盲協の1室の一部に東京都鍼灸按マッサージ師会連合も同居するようになったが,この団体に対しても家賃,光熱費のすべてを無償提供した。  都盲協は1975(昭和50)年に,会員からの醵金を基に世田谷区にマンションの1室を購入し事務所としたため,当協会から退去した。  そして,1985(昭和60)年10月,東京都新宿区高田馬場1-9-23に東京都盲人福祉センターを建設して移転し,現在に至る。 ++     毎日新聞社に土地売却  これまで,協会は毎日新聞社の絶大な支援を受けて運営を続け,その関係はまさに一心同体的なものであった。しかし,この新本館建設によって,その関係の微妙な一線が引かれた。  東京ヘレン・ケラー協会が,所有地の一部を毎日新聞社に売却して基本財産処分を進めたのである。結果としては毎日新聞社側が協会の提案を受け入れてくれたが,土地売却計画は,1967(昭和42)年1月18日の第39回理事会議事録にこう記された。議長は一色直文常務理事が務めた。  先ず基本財産処分の件を提案。協会新会館もほぼ完成したので,第37回理事会(1966〔昭和41〕年5月17日)で賛成を得ていた所有地売却については,かねて分筆した一部(新宿区西大久保4-170-210)826.75平方メートルを毎日新聞社に3.3平方メートル(1坪)当たり金31万円,合計7,751万2,400円で分譲することにつき審議の結果,この収入金をもって新本館建築借入金ならびにその雑費の支払いに充て,残金は基本財産として将来の運営費に充てることに全理事の意見一致し,これを可決。また処分土地は現在借入金の担保設定があるため,これを解除し,改めて新本館所在の土地(新宿区西大久保4-170-48)823平方メートルを担保に提供することについても全理事これを承認,これらの処置について常務理事に一任と決定した。  さらに基本財産である旧館3棟(木造瓦葺2階建て856.83平方メートル,同平家建て45.45平方メートル,同トタン葺物置13.22平方メートル)は運用財産に移し,新本館完成後に取り壊すこととした。そして,新たに鉄筋コンクリート3階建て1,029.5平方メートルの新本館を基本財産に編入することを可決,未完成の3階は本年4月以降に追加工事として着工することを併せて決定した。  この毎日新聞社へ売却された土地が,現在の毎日新聞社早稲田別館が建つ土地で,同別館内の1階,3階で点字出版所が業務を行っている。 ++       ■ヘレン・ケラー女史逝去  新本館完成の喜びに包まれた1967(昭和42)年,協会は新たな第一歩を踏み出した。  だが,その翌年の1968(昭和43)年6月2日には,悲しい知らせが海を渡って電撃的にもたらされた。それは,ヘレン・ケラー女史逝去の報であった。  6月1日の午後3時半(日 本時間同2日午前4時半),米国コネチカット州ウエストポートの自宅においてであった。  享年87。女史の誕生日である6月27日を目前にしての死であった。  この知らせを受け,政府はただちに同女史に勲一等瑞宝章を追贈した。  協会もこの悲しみの報道に,3日午前9時半から新装なった3階ホールで,女史の偉大な生涯を偲び,協会職員,ヘレン・ケラー学院生による追悼式を行った。  ホール祭壇には亡き女史の肖像画が飾られ,白百合の花がそれを囲み,一色直文学院長をはじめ全参列者が還らぬ女史の冥福を祈った。  さらに同15日午後1時から,東京ヘレン・ケラー協会主催,毎日新聞社後援による「ヘレン・ケラー女史追悼記念会」が,やはり協会3階ホールを会場に開催された。  記念会への参加は広く一般にも呼びかけられ,一般弔問者約130人,ヘレン・ケラー学院の1,2年生56人の計186人が参列。女史と親交の深かった毎日新聞社論説室顧問藤田信勝氏の「ヘレン・ケラー女史の思い出」の講演のあと,10歳の時に女史から頬にキスを受けた和波孝禧氏のバイオリン演奏と三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)合唱団のコーラスで,女史に永遠の別れを告げた。  協会は女史の遺徳を後世に伝えるため,1969(昭和44)年から,女史の誕生日である6月27日を「ヘレン・ケラー女史記念日」とすることにした。 ++ 第3章 日本の点字文化とともに歩んだ50年 毎日新聞社から固型点字輪転機を引き継いで  写真:英国シャンボン社製固型点字輪転機  写真:巻取用紙からみた固型点字輪転機(上)  写真:点字原版の交換作業 ++       ■固型点字輪転機導入と点字出版局の開局  毎日新聞社は,『点字毎日』の印刷機更新のために,英国製固型点字輪転機の導入を決めた。しかし導入の実現にはさまざまな障害があった。その障害をクリアするため,毎日新聞社は長く協力関係にあった東京ヘレン・ケラー協会との連携プレーを試みた。  『点字毎日』は世界でも例を見ない日本で唯一の週刊点字新聞である。その『点字毎日』の印刷を東京ヘレン・ケラー協会が受託するというのだ。  1965(昭和40)年頃からその導入が検討され,英国の製造元と頻繁に連絡した。その結果,『点字毎日』の印刷用として,日本自転車振興会の助成を受け,毎日新聞社が輸入し,東京ヘレン・ケラー協会に設置する計画が整った。メーカーは,英国のシャンボン社で,日本向けのものは世界で3番目に製造されたものだった。同印刷機はもともと英国王立盲人援護協会(RNIB,※)が開発したもので,第1,第2号機はロンドンにあった同協会の点字印刷所で使用していた。  (※)RNIBは中途で失明した医師トーマス・アーミテージ(1824〜1890)により,1868(慶応4)年にBritish and Foreign Society for Improving Embossed Literature for the Blind(点字文芸向上のための英国内外協会)として設立された。その後ビクトリア女王の後援を受け,1875(明治8)年にBritish and Foreign Blind Association(英国内外盲人協会)となった。  そして1953(昭和28)年Royal Charter(王室認可)を受けて,Royal National Institute for the Blind(英国王立盲人援護協会:RNIB)と改称。そして組織変更により,Royal National Institute of the Blind(英国王立盲人協会:RNIB)に改称され,さらに2007(平成19)年6月には,Royal National Institute of Blind People(英国王立盲人協会:RNIB)に改称された。  1968(昭和43)年6月8日,毎日新聞社早稲田別館が落成式を行った。  この年は,参議院議員の改選期に当たっていた。そこで,それまでは点字毎日が『点字毎日(号外)』として出していた『参議院議員選挙のお知らせ点字版』を,この点字輪転機で印刷することになり,毎日新聞社から黒崎久,井口淳,柴山幸雄,石井貞国,松本栄三郎の5人が派遣された。  6月16日の立候補締め切りと同時に毎日新聞社の協力を得て,立候補者名鑑を編集・製版・校正し,ただちに印刷・製本,そして投票日の何日か前までに全国の視覚障害有権者の手に届けなければならなかった。  そして見事,納入期日までに「4万7,000部」の『第8回参議院議員選挙のお知らせ(全国区)点字版』を刷り上げたのであった。 ++     点字出版局開局へ  点字輪転機導入の本来の目的であった『点字毎日』印刷の準備が着々と進められていた。東京移転の点字毎日編集部によって発行される固型点字による『点字毎日』第1号は,1968(昭和43)年7月7日号が予定された。  ところが,点字毎日編集部が東京に移転すると関西の盲人運動にとって深刻な打撃になるとの理由から移転反対運動が起こり,固型点字高速輪転機による『点字毎日』印刷が,突然取りやめとなった。  これにより毎日新聞社から派遣された5人の要員は仕事がなくなってしまい,毎日新聞社に引き揚げるという異常事態になった。  その結果,大きな問題が生じた。もしこのまま『点字毎日』の印刷をしないのであれば,点字輪転機導入に巨額の助成金を支出した日本自転車振興会に対し,全く申し開きができなくなるというものだ。点字輪転機を何としても有効活用し,日本自転車振興会の絶大な厚意に報いなければならない。  そこで改めて点字輪転機を活用するために,いったん本社引き揚げとなった5人の要員のうち,松本栄三郎を除く4人が,再び出向の形で毎日新聞社早稲田別館に派遣された。そして1968(昭和43)年10月1日,これまでの協会点字製版室と点字印刷室を統合発展させ,東京ヘレン・ケラー協会点字出版局が開局したのである。  こうして誕生した点字出版局の初仕事は,それまで『点字毎日』が印刷していた『リーダーズ・ダイジェスト(日本語点字版)』(月刊)の印刷で,800部を出版。さらに和歌山県から委託されたいわゆる自治体広報紙の『県民の友 点字版』(月刊)500部の印刷であった。 ++       ■『点字ジャーナル』創刊  『リーダーズ・ダイジェスト(日本語点字版)』の発行で第一歩を踏み出した点字出版局であったが,和歌山県の広報紙点字版,国政選挙の点字公報の印刷・発行の委託受注で,点字出版局の前途にも明るい兆しが見えはじめた。  点字選挙公報で,大量,高速印刷の実力も証明された。しかも世界で5台,日本国内には当協会にしか存在しない超高性能の固型点字高速輪転機である。何としてもこの点字輪転機を生かそう,という思いが沸いてきた。  そして発想されたのが点字による「新雑誌」を作り,“盲界”に新しい点字ジャーナリズムの波を起こそうということだった。 ++     新しい点字メディアを目指して  点字出版局開局から2年後の1970(昭和45)年。この年は,協会の設立20周年の記念すべき年であった。その記念事業として記念出版されることになったのが月刊誌『点字ジャーナル』である。盲界の課題や話題,あるいは問題点をえぐり追求する,をコンセプトに,盲界の新しい点字メディアを目指すこととなった。  『点字ジャーナル』創刊号は,1970(昭和45)年6月号として,ついに創刊された。初代編集長には毎日新聞社『点字毎日』編集長を経て協会職員となっていた長谷川功が就任した。発行人は一色直文。  現役総理大臣が創刊の祝辞を寄せたことも驚きだが,創刊号のコンテンツのユニークさとバラエティーの豊富さにも驚かされる。  創刊号の内容は,次のとおり。 ・発刊の言葉 櫻井安右衛門 ・創刊を祝して 佐藤栄作,灘尾弘吉,金成甚五郎 ・特集「現代医学への課題」(1)神への挑戦 ・金成日盲連会長辞意表明とその周辺 ・株価暴落の背景と今後 新しい投資の知識 ・くらしのサイエンス(1)りんごとうめぼし ・俳句の作り方(1)法師浜桜白 ・人工心臓 池本卯典 ・盲界告知板 電話機に盲人用ダイヤルを無料取付,東京都身障者体育大会 ・随想・わらじと三味線 中川童二 ・私の意見 芹沢勝助,長崎照義,関野光雄 ・盲界マスコミ拝見 ・放送うらばなし NHK宮田アナに聞く ・新聞論調 インドシナ半島の新情勢をめぐって(図・インドシナ半島) ++     「創作文芸懸賞小説」の公募  『点字ジャーナル』は,創刊と同時にユニークな事業企画も合わせて開始した。視覚障害読者の誌面参加と,視覚障害者の創作意欲を高めようと,「点字ジャーナル・創作文芸懸賞小説」を新設,その募集を行ったのだ。年1回の作品公募だが,創刊年の1970(昭和45)年第1回の公募では,中林知哉作の「死の瞳」(選者・中川童二)が選ばれた(敬称略)。 ++     固型点字印刷第2号機導入  順調に滑り出した点字出版事業をさらに拡大させようと,1970(昭和45)年9月10日の第51回理事会で,固型点字高速輪転機の第2号機の導入が以下のとおり決定された。  東京都をはじめ,各県,市の点字広報および月刊点字雑誌『点字ジャーナル』などの印刷をさらに拡充するためには同型の印刷機,製版機,校正機一式を増設する必要がある。これに要する費用として機械総額6,445万8,720円,通関その他諸掛り883万4,387円となるが,機械総額のうち4分の3に当たる4,834万4,040円は日本自転車振興会の助成を仰ぐこととする。残額の自己負担に当たる機械費1,611万4,680円ならびに諸掛り883万4,387円の合計2,494万9,067円は協会財産を充当するが,その一部は毎日新聞社の援助を要請する。  ただちに輸入業務に入り,1973(昭和48)年9月16日,第2号固型点字高速輪転機1台,製版機2台,校正機1台が,同年4月15日に竣工なったばかりの協会新館の1階印刷工場に据え付けられた。これによって点字出版局の印刷能力は飛躍的に増大し,他の点字出版所の追随を許さぬ実力を確保した。  また,協会新館の完成によって,点字出版局の基礎が築かれた。その結果,これまでにもふれてきた東京都をはじめとする自治体広報紙点字版,盲学校用点字教科書などの委託事業は確実に定着していった。 ++       ■生活情報誌『ライト&ライフ』  生活情報誌『ライト&ライフ(Light & Life)』点字版は,1986(昭和61)年4月に創刊された。雑誌名は「あなたのランプの灯をもう少し高くかかげてください。見えない人々の行く手を照らすために」というヘレン・ケラー女史の言葉に由来する。以来今日まで,LL(エルエル)の通称で読者に親しまれている。  発刊の辞は,次のように記されている。  「個人が生活を営む上で視覚から得る情報は,その人の全情報源の約8割と一般にいわれております。視覚障害者は,この重要な情報源を事実上断たれているわけですから,新聞の広告や電車の吊り広告,あるいは街角の看板などから,普通誰でも知り得る生活情報が欠落することになります。このため情報化社会の現在でも『若者は長髪で,いまだにヒッピー風の格好をしていると思い込んでいた』とか『安くて便利な製品が行きつけの店にあるのを知らないばかりに,遠い店まで昔ながらの商品を買いに行っていた』という視覚障害者ならではの苦労があります。本誌はこのようなことから,視覚障害者に身近な生活情報を提供することにより,日常生活を向上させる目的で創刊されました」  点字版の規格は,固型点字半裁で32ページ,1ページは14行,38マスであった。価格は1部200円。固型点字の特性で多少圧力がかかっても点が潰れないため,丸めてバッグに入れて出先や旅先で読むことができたり,何人かで回し読みも可能で,読者には大変好評であった。  創刊当時の誌面構成は,おおよそ次の通りである。  【くらしのインフォメーション】  視覚障害者に使いやすい家電製品の比較,安売りショップ,安売りチケットの店,NICs(新興工業経済地域)製品の販売店などを特集。  【ホットライン】 近い将来商品化されるであろう製品を紹介するコーナー。  【トウキョウ・ナウ】 若者文化の発信源を探り,現代の風俗を紹介する。  【ブック・ガイド】 日本出版販売(株)提供の書籍の売れ筋ベスト10,話題の新刊書を紹介。  【カセットブック・ガイド】 書店に並ぶカセットブックの新刊案内。  【ニュー・フェイス】 話題性の多い新製品や視覚障害者の需要が多いテープレコーダーや楽器などの新製品紹介。  【ライフ・グッズ】 視覚障害者に便利だと思われる生活小物の紹介。  【テープ・マニア通信】 ラジオ放送をテープレコーダーで収録するエアチェック同好者の情報交換のコーナー。  【こだま】 読者からの質問や問い合わせに答えるコーナー。  このような誌面構成で発行が継続され,時代の変化や読者のニーズに合わせて各コーナーはその都度刷新され,今日に至っている。  読者の反応は,極めてよかった。「新鮮な情報をよりスピーディーに!」という声が,多く寄せられた。そこで,創刊から1年半後の1987(昭和62)年10月からは,月2回発行の半月刊となった。  1989(平成元)年4月から(財)日本船舶振興会の助成を受けられることとなり,購読は無料となった。発行部数はピーク時で数千部に達し,英国製固型点字輪転機の高速印刷能力がフルに活用された。  音声版の発行は1992(平成4)年4月にスタートした。月刊でカセットテープ(C-60)1本,A面に1日号が,B面に15日号が収録されていた。内容は点字版と同一であるが,聴いてわかりやすいようにリライトなどの工夫が施されていた。当初,音声版の送付対象は,施設や団体などに限られていた。  (財)日本船舶振興会から事業として自立することが求められ,1999(平成11)年4月からは,個人の読者に対しては,『ライト&ライフ』点字版は1部50円での有料配布となった。また,このタイミングで,音声版は1本100円で個人でも購読できるようになった。一方,点字図書館等のこれまで送付してきた施設分には助成が継続され,引き続き無料で送付した。  2001(平成13)年4月からは助成打ち切りに伴い施設分も含めて完全有料化となり,点字版は1部200円(年間4,800円),音声版は月400円(年間4,800円)となった。なお,この購読料は,現在も維持されている。  次におとずれた変革は,2014(平成26)年4月だった。2014(平成26)年5月1日号(通巻第644号)から点字版作製は,ドイツ製自動製版機PUMA VIIとチェコ製平板点字印刷機GPB-3に切り替えられた。点字版の規格はA4版20ページで,1ページは27行31マスである。また音声版の媒体も,カセットテープからCD-R(デイジーフォーマット)に変更された。  現在の編集方針を要約すると,次の通りである。(1)具体的で役に立つ生活情報をわかりやすく伝えること。(2)点字版はコーナーごとにページ替えをし,商品名や電話番号を探しやすい位置になるようにしていること。(3)新聞や雑誌の記事,インターネットの情報を元に執筆し,情報を確認したり追加して,正確性と質を高めていること。  今日,点字使用者の減少や読者の高齢化で,点字雑誌は厳しい状況に立たされている。それでも,視覚障害者は日々の暮らしを続けており,日常生活で情報が必要なことには変わりない。また,一部の視覚障害者はパソコンやスマートフォンを使いこなしているものの晴眼者と比べると使い方,情報収集のスピードや効率性で歴然とした格差があると言わざるを得ない。『ライト&ライフ』は,インターネットのまとめサイトのように,有益な情報を効率よく読者に伝えていくという点で存在意義を発揮することが求められている。 ++     録音事業開始 ―― 録音課誕生  視覚障害者を取り巻く環境はもちろん,視覚障害となる原因も時代とともに多様化してきた。その一つが中途失明者の増加である。 このため,視覚障害者への情報提供と発信は点字出版物だけではすまない状況へと盲界出版事業は変化していった。  これに伴って,視覚障害者,つまり読者,施設利用者からは点字出版所に対する各種の要望が強く出されるようになった。それは録音事業,つまり録音図書,録音雑誌,テープ化された各種情報の発行であった。  そこで1976(昭和51)年,点字出版局では中途失明者の要望に応えるために録音事業の開設準備に着手した。しかしながら点字出版に関しては確たる地位を築き,その実績を世に誇れるまでに成長したものの,こと録音事業に関しては“後発”組であった。 ++     録音課「声の広報」でスタート  録音事業準備開始から2年目の1978(昭和53)年10月,録音事業開始は現実のものとなった。中央競馬馬主社会福祉財団から助成が受けられることになり,協会新館の地下1階に待望の録音スタジオが建設されることに決定,着工された。  そして翌1979(昭和54)年2月,ついに録音スタジオが完成した。これに伴い,同じく中央競馬馬主社会福祉財団の補助を続けて受け,オープンテープレコーダー,マイク,ミキサーなどの各種機材を導入,設置,録音事業の体制は整った。  これを組織化,点字出版局に「録音課」が誕生した。録音課初の仕事は自治体の声の広報発行であり,その第1号は『声の広報よこはま』(10月号)であった。 ++     「ヘレンケラー・サリバン賞」新設  点字出版局が中心となって新設した新事業が1993(平成5)年からスタートした。それは「ヘレンケラー・サリバン賞」という視覚障害者を支えた晴眼者を顕彰する事業である。  正確には東京ヘレン・ケラー協会としての事業だが,点字出版局創設25周年と海外盲人援護事業開始10周年とを記念しての「賞」である。  その発案者は協会理事であり,点字出版局長兼海外盲人援護事業事務局長の井口淳であった。そうしたことから同賞実施の事務局も点字出版局内に置かれた。  発案者の井口は,常々こう考えていた。視覚障害者は多くの個人からは言うに及ばず,あらゆる社会から大きな支援を受け,それによって生活し,社会活動を可能なものとしている。しかもその支援の大部分は,健常者によるものである。自身も視覚障害者である井口は,「であるならば,われわれ視覚障害者に大きな手を差しのべ,支えてくれる方々に,視覚障害者の立場から感謝の意を表することはできないだろうか,いや,すべきである」と。その思いが,協会の産みの親ともなったヘレン・ケラー女史を支え続けたアン・サリバン先生と重なったのだ。  贈賞は年1回1名。全国の視覚障害者から推薦者を募り,協会が委任した全員視覚障害者による選考委員会で審査決定するシステムとした。  写真:2020(令和2)年度,第28回ヘレンケラー・サリバン賞贈賞式 ++ 第4章 協会に新しい波 評議員会の設置,学院の改革などを実施  写真:1998(平成10)年頃のヘレン・ケラー学院校舎 ++       ■1970年のヘレン・ケラー学院  ヘレン・ケラー学院は1970(昭和45)年4月,設立20周年を迎えた。それを祝い,同月27日,協会ホールで設立20周年記念式典を行った。ちょうどこの年,後述する全日本盲学生音楽コンクールも,第20回という節目を迎え,11月23日,同じく協会ホールで記念コンクールが開催された。出場者79人,参加者250人の盛会で,20周年を記念し,徳江比早子氏のバイオリン特別演奏が行われた。  この年は文化活動も活発で,その一つの調査研究事業として,視覚障害者の新職業開発を目的に「70年代の盲人の職業」と題する研究論文を点字毎日記者・牧田克輔氏を中心とした3人の研究グループに委託,完成論文を関係各方面に配布するとともに,『点字ジャーナル』6月号に同誌創刊1周年記念として掲載した。 ++       ■点字図書館を一般に開放  ちょうどこの頃,ヘレン・ケラー学院で学ぶ学院生のためにと同学院に併設されていた点字図書室の運営に,新たな動きが芽生えだした。  まず1971(昭和46)年度の事業計画として「点字図書館事業については,医療専門点字図書館として基礎を確立し,国の指定施設として独立採算の建て前のもとに拡充を期す。このため,1971(昭和46)年度に準備委員会を設け,その実現に努める」と明記,新しい点字図書館づくりの方向を模索しだした。  これを受けて1972(昭和47)年,その動きは一層具体的なものとして示された。1972(昭和47)年度の事業計画に点字出版施設の増築と点字図書室の増築計画が組み込まれたのだ。  両施設の増築事業資金は,日本自転車振興会から補助金4,147万円が受けられることになった。その資金によって,協会敷地内に地下1階,地上3階建ての鉄骨鉄筋コンクリートの新館を建設,その2階が「医療専門の点字図書館」に充てられることになった。  そして1973(昭和48)年の新館竣工から1年後の1974(昭和49)年4月1日,ヘレン・ケラー学院併設点字図書室は身体障害者福祉法等に基づく点字図書館として独立,開館した。これによって同点字図書館は,これまでの同学院生だけを対象としていた「狭義の点字図書館」から脱却し,開館と同時に全国の一般視覚障害者利用者に開放された。初代館長は佐野晴。点字図書館の性格を,理療書や医療書を主に収蔵する「医療点字図書館」的なものとして位置づけた。  開館当初の保有図書は三療関係図書を中心に点字図書2,500冊,テープ図書は50巻というものであった。これらの図書は,毎日新聞社点字毎日部,および協会顧問であった英語教師で社会事業家のジュヌヴィエーブ・コールフィールド女史(※)からの寄贈によるものだった。  このように蔵書数わずか2,500冊でスタートした点字図書館であったが,開館後の1年間で,大きな実績を記録した。  点字図書保有数は3,294冊に増え,テープ図書も145巻と1年で約3倍の保有数に飛躍した。そして一般の利用登録者は574人,図書借受け者延べ2,323人,閲覧者延べ566人,点字図書貸出数4,610冊,録音図書貸出数112巻というものだった。  写真:Genevieve Caulfield(1888〜1972)  ※ジュヌヴィエーブ・コールフィールド女史は,1888(明治21)年5月8日にバージニア州サフォークで生まれた。彼女は生後2か月のときに医療過誤で失明した。  英語教師として働くかたわら,自身が全盲であったことから日本の視覚障害者の読書環境改善を強く願い,点字図書の充実に力を注いだ。  同女史はその後タイに渡り,タイの視覚障害者に点字を教え広め,同時に私財を投じて1938(昭和13)年にバンコク盲学校を開校し,タイ盲人援護協会を設立した。  ベトナム政府の招待により1956(昭和31)年から1960(昭和35)年までサイゴン(現・ホーチミン市)に滞在し,視覚障害児のための学校と少年のためのリハビリテーションセンターを組織した。  1961(昭和36)年に,ラモン・マグサイサイ賞を受賞。1963(昭和38)年にジョン・F・ケネディ大統領から大統領自由勲章を受章。 ++     「障害者とともに働く」をモットーに  一方,点字出版分野は,固型点字と固型点字印刷による事業拡充に全精力が注がれている時代であったが,固型点字以外の,従来のエンボス印刷式によるB5判点字出版物の発行に力を入れるべきではないか,との見直し論も出るようになりはじめた。そして1975(昭和50)年度を目前に,「B5判印刷については福祉工場的な部門も設置し,軽度障害者援護の道を開くべきである」という方向も検討されだした。  そうした「新方向」は,1974(昭和49)年度の事業計画でも,「第2種事業である更生相談所に専任者を置き,この制度を確立し,中途失明者をはじめとした身体障害者全般の指導,相談にあたることとする」といった形でも反映された。 ++       ■1980年協会設立30周年  1968(昭和43)年10月の開局以来10年を経た点字出版局は,着実に事業を拡大し,その発行する点字出版物は盲界から大きな評価と支持を得るまでになった。その結果,身体障害者福祉法制定30周年にあたる1979(昭和54)年,『点字ジャーナル』をはじめとする点字出版活動に対し,厚生大臣から感謝状(同年12月11日付)が贈られた。  そして翌1980(昭和55)年,協会は記念すべき年を迎えた。協会設立30周年を迎えたことに加え,ヘレン・ケラー女史生誕百周年が重なったのである。 ++     特別試写会「奇跡の人」開催  1980(昭和55)年4月1日午後,協会では櫻井安右衛門理事長,西山隆夫常務理事を中心に,協会設立30周年記念事業の実施について第1回会合が持たれた。  その会では,NHKや民放と協力してドラマなどの企画が展開できるかどうか検討することにした。  その直後の午後4時50分,協会理事でもあった,毎日新聞東京社会事業団森丘秀雄常務理事から耳よりな連絡が入った。  毎日新聞東京本社で,社会事業団と同室だった日本産業映画協議会池田永造専務理事から聞いた話として,ヘレン・ケラー女史の生涯を描いた米映画ポール・アーロン監督作品,「奇跡の人」を,日本ヘラルド映画(株)が,夏休みに日本の子供を対象に上映するという企画があるというのだ。  森丘理事の頭に30周年記念事業に活用できないか,という直感がひらめいた。まさにグッドタイミングで,協会の西山常務理事から了解をとった森丘理事は,早速,池田氏の紹介で日本ヘラルド映画の和田泰弘宣伝プロデューサーと連絡をとった。  日本ヘラルド映画側も,ヘレン・ケラー生誕百年,協会30周年の2つの記念行事として開催に同意,話はとんとん拍子に進んだ。  翌2日午後には,加覧俊吉理事が毎日新聞社を訪れ,森丘理事とともに,山崎栄一事業部長に面会,「奇跡の人」のチャリティー試写会を,毎日新聞社と共催で開いて欲しい旨を申し入れた。山崎事業部長は直ちに応諾,この席で「チャリティー映画会として,九段会館で開いたらどうか。主催は毎日新聞社,東京ヘレン・ケラー協会とする」という線で,日本ヘラルド映画側と交渉することになった。  4月7日には,新宿区の日本ヘラルド映画の試写会に参加した加覧,森丘両理事に和田プロデューサーから「奇跡の人は7月上旬から上映したいので,その前に,ヘレン・ケラー生誕百年,協会設立30周年の記念試写会を開きたい」と,一歩進んだ話があった。  これを受け,毎日新聞社と協会は,4月15日,毎日新聞東京本社5階で,「第1回映画・奇跡の人,上映打ち合わせ会」を開催した。出席したのは,毎日新聞社から事業部副部長尾川堀人,第三広告部副部長馬場正顕,点字毎日部員竹内恒之,編集局編集委員坂巻熙,毎日新聞東京社会事業団から常務理事森丘秀雄,参事正富寿の各氏,協会からは加覧理事が出席した。 ++     日比谷公会堂,2,000席ほぼ満席  こうして毎日新聞社の全面協力の下に計画は順調に進み,5月18日,日比谷公会堂で,「奇跡の人・特別試写会」を開くことになった。  そのための4月23日の毎日新聞東京社会事業団との打ち合わせでは,試写会は,東京,大阪の2カ所,テーマはヘレン・ケラー生誕百年記念「奇跡の人」特別試写会とし,東京では5月18日(日)午後2時半から日比谷公会堂で開き,主催は毎日新聞社,東京ヘレン・ケラー協会,毎日新聞東京社会事業団とすることで合意した。  広告は試写会終了後の6月25日の夕刊で,全国上映を前に見開きで行うことになり上8段をヘレン・ケラーと福祉関係の記事,下7段を「奇跡の人」の全面広告とすることにした。  毎日新聞は,1980(昭和55)年5月6日付本紙夕刊第2社会面で,ヘレン・ケラー女史の写真を入れた2段の社告(下記参照)を掲載,特別試写会への参加を呼びかけた。親子ペアで800組を招待,本文の中には東京ヘレン・ケラー協会設立30周年,さらに翌年の「国際障害者年」にちなんだ催しであることを謳い,後援に総理府,文部省,厚生省が名を連ね,協力日本ヘラルド映画(株)とした。  5月18日,高松宮様をお招きしての特別試写会の日は晴天だった。  昼すぎから招待された親子連れが会場を訪れはじめ,開会20分前の午後1時40分には,約2,000人の席がほぼ埋まった。特別試写会は午後2時から開会,主催者代表として毎日新聞社取締役,事業担当森安太郎氏が開会あいさつ,国際障害者年総理府担当室長花輪隆昭氏,参議院議員八代英太氏(代読)が来賓祝辞を述べた。  翌年の国際障害者年に関連して,第 27回手足の不自由な子どもを育てる運動,友情の作文コンクールで文部大臣賞を受賞した茨城県真壁郡明野町立明野中学校1年の飯泉博之君,全国連合小学校会長賞の栃木県佐野市立佐野小学校3年宮 坂陽子さんが受賞作文を朗読した。  この後,第48回全日本学生音楽コンクールでバイオリン部門1位となった古澤巌氏が島留美氏のピアノ伴奏で,バッハの「G線上のアリア」,サラサーテの「チゴイナーワイゼン」,クライスラーの「愛の喜び」,「愛の悲しみ」などを記念演奏した。  「奇跡の人」は,1歳半のときにかかった病気がもとで,聴くことも,見ることも,しゃべることも失われた三重苦の少女ヘレン・ケラーとアン・サリバン先生の愛と教育への意思,献身を中心に展開,会場ではハンカチを目に当てる人も多く,深い感動がさざ波のように広がった。なお毎日新聞社が場内2カ所で「青い鳥バッジ募金」を行い,寄せられた11万2,719円が協会に寄付された。  「奇跡の人」が7月の学校の夏休みに合わせて全国上映されたのを記念して毎日新聞社は映画「奇跡の人」の感想文を募集した。協会は総理府,文部省,厚生省,毎日新聞東京社会事業団とともに後援に加わった。 ++     記念祝賀会を開催  協会はヘレン・ケラー女史の誕生日に当たる6月27日に,「東京ヘレン・ケラー協会設立30周年記念祝賀会」を行うことを,1980(昭和55)年3月26日の理事会で決定。併せてヘレン・ケラー女史生誕百年の記念事業とすることにした。これに伴いヘレン・ケラー学院の卒業生の自立更生状況調査,高卒3年課程の新設,点字『現代医学百科』(全20巻)の出版などの記念事業を行うことも了承された。  記念祝賀会は,27日午後1時から,ヘレン・ケラー学院の3階ホールで開かれた。招待者は,厚生省,文部省,東京都,埼玉県,視覚障害者団体の代表,一般寄付者などで,98人に上った。晴天に恵まれ,早めに訪れる人が多く,開会前には,ほぼ満席となった。 ++       ■学院に高卒課程新設  協会設立30周年を期して,ヘレン・ケラー学院はその改革に着手した。  これまでの中卒課程に加え,高卒課程を新設して学院の修業課程を「2本建て」とする方向に向かったのだ。  この高卒課程設置計画はかねて学院の懸案事項であったが,1981(昭和56)年9月28日,厚生省のあん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師等中央審議会で審議された結果,その設置計画が了承されたのである。  開設は2年後の1983(昭和58)年4月からとされ,開設に向けての準備作業に入った。  それに伴い1982(昭和57)年5月14日,厚生大臣に認定申請書を提出,それを受けて同年7月30日に厚生省医事課の現地調査を受けたが,一部教室の改修が求められ,夏休みを利用して改造補修工事を行い,8月31日の再度の現地調査で合格した。  そして新高卒課程発足直前の1983(昭和58)年2月17日,厚生大臣から学則などの一部変更が承認され,新学則による学院の修業課程と定員などは以下のように変わった。  1.中卒課程 ── 修業年限5年,各学年1学級15人,合計5学級75人。  2.高卒課程 ── 修業年限3年,各学年1学級20人,合計3学級60人。  これによって高卒以上の学歴を持つ者も,従来であるならば5年間学ばなければならなかったのだが,3年であん摩マッサージ指圧・はり・きゅう科を卒業し,資格試験が受けられるようになった。  その一方で,同時点で設置されていたあん摩マッサージ指圧科(中卒課程,修業年限2年,各学年1学級30人,合計2学級60人)が1983(昭和58)年度以降入学停止,1984(昭和59)年3月をもって廃止となった。  そして新課程による初の入学試験が1983(昭和58)年2月16日に行われ,高卒課程に21人が受験し13人が合格,中卒課程に26人が受験し15人が合格した。 ++     学院,専修学校に  ヘレン・ケラー学院の改革はさらに続き,1986(昭和61)年3月31日,学院が専修学校として新宿区長から認可され,同年4月1日から学院は,あん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師法による養成施設であるとともに,学校教育法に基づく専修学校にもなったのである。 ++       ■盲人用具センター,海外盲人援護事業スタート  1981(昭和56)年6月,協会は定款の一部変更認可を東京都に申請した。それはこれまでまったく手をつけてこなかった新規事業に着手するためだった。  変更された定款に加えられたのは「鍼灸按術等に関係する医療機器および盲人生活用具の開発と普及」,「身体障害者,特に失明の防止ならびにその研究調査」,「国内および国外失明者関係機関との連絡」の3条文。  そしてこれによってスタートしたのが1982(昭和57)年4月3日に開所した「盲人用具センター」であり,同年10月1日発足の「海外盲人援護事業事務局」であった。 ++     海外援護事業は「福祉の輸出」  定款変更により新事業としてスタートさせた海外盲人援護事業は,1986(昭和61)年頃から本格的な事業形態に姿を整えだした。  もちろん,発足した1982(昭和57)年から事業そのものは推進していた。  まず1983(昭和58)年12月4日から同9日までシンガポールで開かれた盲人援護団体WCWB(世界盲人福祉協議会)の第6回アジア太平洋会議に,協会理事・海外盲人援護事業事務局長の井口淳が参加。同会議を利用してアンケート方式による発展途上国の実態調査を実施し,その結果を踏まえ「視覚障害者の指導者養成が特に求められている」と総括した。 ++     1985年国際協力活動スタート  1985(昭和60)年6月,海外盲人援護事業がその支援の重点国と位置づけていたネパールに,同国初の盲人福祉団体であるNepal Association for the Welfare of the Blind:NAWB(ネパール盲人福祉協会)が誕生した。これはNAWBがネパール身体障害者盲人協会から分離,独立したもので,これによって当協会との間で点字教科書ならびに点字教材の供給体制の確立に第一歩を踏み出すことになり,具体的支援活動が動き出した。  この海外支援を確実なものにするため,1985(昭和60)年12月8日,当協会の委託で,ネパールの盲人福祉の実情調査をしようと,同国への第1次ネパール盲人福祉調査団(団長・田中徹二東京都心身障害者福祉センター視覚障害科主任,他2人)を派遣した。同調査団は帰国後の1986(昭和61)年1月18日,協会ホールで調査報告会を開催,ネパールでの点字教科書の不備と劣悪な現状を紹介,日本からの点字印刷設備の供与と技術指導の必要性を強調した。  ここで示された必要な支援内容を確実に実行するには,ネパール側の責任も明確にしなければならないということで,1986(昭和61)年に,当協会とNAWBとの間で事業推進に関する協定書が取りかわされた。  こうした実績を受け,1986(昭和61)年5月30日の理事会で櫻井安右衛門理事長は「海外援護事業を1986(昭和61)年度から正式事業とし,それによって『福祉の輸出』を推進したい」と,海外支援を「福祉の輸出」と位置づけた。 ++     点字製版機・印刷機を寄贈  海外盲人援護事業は急速に進められ,ついに同年12月5日,NAWBに対して協会から点字製版機1台,点字印刷機2台およびその周辺機器と資材が寄贈され,横浜港からインドのカルカッタ(現・コルカタ)経由の船便でネパールに発送された。  続いての1987(昭和62)年3月6日,ネパールへの第2次盲人福祉調査団を派遣,五十嵐信敬広島大学助教授を中心に「ネパールにおける視覚障害児教育の方法論に関する実践的研究」を実施した。  それから3カ月後の6月22日,前年12月横浜港から送られた協会寄贈の点字製版・印刷機器一式約3.5トンがカトマンズに到着。通関手続きなどを経たうえで,11月にカトマンズのヒンドゥー寺院ゴパル寺に設置された。これによってNAWBの点字出版所が開設され,同国での本格的点字印刷が可能となった。  以後,機材の寄贈,バラCBR(各地域の実情に合わせた視覚障害リハビリテーション活動の推進),眼科診療所の開設と治療,点字出版技術指導員の派遣と,ネパール支援は大きな足跡を残し,現在にいたっているが,それによって協会とネパールの視覚障害者は強い絆で結ばれた。 ++       ■協会に新しい時代の波  1990年代になると新しい時代の波は視覚障害者の世界,とりわけ最重要な伝統的職業である三療業界にも及んできた。  あん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師等に関する法律が大幅に改正され,三療の資格免許がこれまでの「知事免許」から「厚生大臣免許」に格上げされることになったのだ。免許のランクが厚生大臣免許となることは,三療業者がかねてから熱望していたものではあった。だがそのための資格試験は格段に難しくなるものと,当然,予想されることだった。それだけに混乱は必至であった。奇しくも,これも1988(昭和63)年が境目となった。  「昭和最後の年」1988(昭和63)年は,新時代の幕開けをも告げていた。  三療業資格取得の大波となるであろう「知事試験免許から厚生大臣試験免許への移行」のための「あん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師等に関する法律」の法改正は1988(昭和63)年5月25日成立,同年5月31日公布,1990(平成2)年4月1日施行のはこびとなり,第1回国家試験は1993(平成5)年2月に実施されることとなった。  このためヘレン・ケラー学院の1989(平成元/昭和64)年度のカリキュラムが,旧課程最後のものとなり,1990(平成2)年度から新法に伴っての新課程の授業に変更され,国家試験に対応することとなった。 ++     国家試験に挑戦,大きな成果  全国統一の初の国家試験は1993(平成5)年2月27日にあん摩マッサージ指圧師試験が,そして翌日の28日にはり師・きゅう師試験が全国一斉に各都道府県会場で実施された。  試験は新法によって誕生した財団法人東洋療法研修試験財団の手で行われ,本試験の前に予行演習ともいえる「国家試験試行テスト」(1992〔平成4〕年5月13日,14日)も実施された。  準備に準備を重ねて行われた第1回国家試験にはヘレン・ケラー学院生も大きな希望をもって挑戦,あん摩マッサージ指圧師に18人,はり師に15人,きゅう師に14人が見事合格し,大きな成果を納めた。  続く1994(平成6)年の第2回国家試験ではあん摩マッサージ指圧師に16人,はり師に18人,きゅう師に18人が合格し,厚生大臣免許による新しい三療師としての道を歩くことになった。 ++     評議員会を再び設置  スタート以来,積極的かつ活発な活動を続けてきた海外盲人援護事業が着実に成果を生み,同時に,社会的評価も大きなものとなってきた。  それを裏付けるかのように1994(平成6)年8月3日,井口淳理事・海外盲人援護事業事務局長がネパールの援護活動に多大な貢献があったとして外務大臣表彰を受け,さらに同年10月1日,同じ理由によって毎日新聞社の「第6回国際交流賞」を受賞,という立て続けの慶事に協会はわいた。  しかしその一方で,同年8月9日,櫻井安右衛門理事長の死去という悲しみも味わった。これに伴い,加覧俊吉常務理事がその職務を代行したが,1995(平成7)年1月24日,第147回理事会で理事の御子柴博見が新理事長に選任された。  それと同時に社会福祉法人定款準則の改正により,協会定款の一部変更を行った。変更が必要となった理由は,(1)地域との連携が重視されている, (2)協会の事業のうち,第2種社会福祉事業以外は,公益事業となる,(3)公益事業を行う法人は,評議員会設置が義務づけられた,というものであった。それによって協会に評議員会が再び設置され,理事定数6人,評議員定数13人の新組織となることになった。 ++     学院国家試験対策に全力  こうした変化のなかヘレン・ケラー学院は,御子柴新理事長のもと,ようやく定着したあん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師資格取得のための国家試験対策に全力を投じていた。  1995(平成7)年度の同学院事業計画でも,現状分析のうえに立ち,次のように危機感をつのらせ,その資質向上の必要性を強調した。  「あん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師の資格取得が国家試験になって4年目になる。学院生徒の第1回,第2回の国家試験合格率は,視覚障害者関係の学校や養成施設の中では1,2位に位置しているが,晴眼者の平均合格率に比べると低い。そこで,できる限り不合格者を出さないよう,教員講師陣も強化して専門学科の学力向上につとめ,特に低成績者に留意して指導に当たる」  この第1回国家試験合格率はあん摩マッサージ指圧師90%に対し,晴眼者は97%,はり師が71%対94%,きゅう師が67%対94%であった。  また第2回は,あん摩マッサージ指圧師は76%対94%,はり師が78%対91%,きゅう師が68%対91%で,晴眼者に大きな差をつけられた。 ++     学院生徒も減少傾向に  そのうえ学院生徒の定員にも減少傾向が出だした。この1995(平成7)年度の定員は中卒5年課程,高卒3年課程ともに各学年15人の計120人だったが,中卒5年課程は過去10年以上も定員に達したことがなく,引き続き減少傾向が予想される状態だった。  このため同年5月30日の理事会は「定員割れ」を危惧,定員は実情に合わせるべきだとして中卒5年課程のみ各学年12人に減ずることを決定した。  その結果1998(平成10)年2月に実施された第6回国家試験では,高卒3年課程のあん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師とも,いずれも合格率80%に達した。  これに対する視覚障害者の全国平均の合格率は,あん摩マッサージ指圧師が76.9%,はり師67.3%,きゅう師66.9%にとどまり,ヘレン・ケラー学院の躍進を印象づけた。  そして1998(平成10)年3月末の学院卒業生の総数は,延べ1,645人となった。 ++     1996年 ── 新組織で新時代へ  前述した1995(平成7)年決定の,定款変更による評議員会設置は1996(平成8)年6月に実施された。  同月12日の第152回理事会で新たに発足する評議員会の評議員候補名簿が示され,理事会の同意を得たうえで御子柴理事長が委嘱した。  新評議員13人は,堀込藤一(兼理事,元毎日新聞東京社会事業団常務理事),葛西嘉資(同,日本身体障害者スポーツ協会名誉会長),御子柴博見(同,東京都社会福祉資金財団理事長),中川幽芳(同,日本心身障害児協会理事長),井口淳(同,東京ヘレン・ケラー協会点字出版局長),藤元節(同,毎日新聞東京社会事業団常務理事),町田英一(東京かたばみ会理事長),苅安達男(日本障害者リハビリテーション協会専務理事),佐藤次朗(東京都社会福祉資金財団常務理事),橋本幸信(東京ヘレン・ケラー協会点字図書館長),長瀬文代(東京ヘレン・ケラー協会経理課長),峯崎幸夫(マンション管理組合理事長),松下明(東京ヘレン・ケラー協会点字出版局総務課長)で,この評議員に久野三千夫(元毎日信用組合理事・東京支店長)と横大路俊一(弁護士)の2監事を加えて役員体制を整えた。  そしてこの日の理事会で,御子柴理事長が任期満了による退任を表明。後任は「理事長一任」とされたため御子柴理事長が堀込理事を推薦し,定款第4条4項によって堀込新理事長を選任した。  さらにヘレン・ケラー学院長として堀込新理事長が就任した。 ----------------------------------------------------- 点字出版局を「点字出版所」に  点字出版局はその開局以来,一貫して「局」と表記してきた。しかし点字出版局は本来,協会が運営するヘレン・ケラー学院ならびに点字図書館と同列の施設であることから,1998(平成10)年4月1日付で,「点字出版所」に改称した。 ----------------------------------------------------- ++ 第5章 伝統と独創性を誇る 点字図書館,海外盲人交流事業,盲人用具センター  写真:点字図書館の書架整理 ++       ■点字図書館  東京ヘレン・ケラー協会点字図書館の前身は,ヘレン・ケラー学院の点字図書室であった。  それは協会発足後の1952(昭和27)年に,毎日新聞社の点字毎日編集部と協会の顧問であったG・コールフィールド女史から寄贈された蔵書類をベースとして,新しい点字図書を加えて学校図書館として発足した。したがって利用者はヘレン・ケラー学院の教員,生徒,職員に限られていた。  東京ヘレン・ケラー協会は,あん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師の養成施設であるヘレン・ケラー学院がその中核であるから,蔵書は当然,東洋医学系のものが主であった。学院の教育が充実するにつれ,教員や生徒から東洋医学関係図書の拡充を求める声が次第に強まってきた。  1970(昭和45)年頃から,理事会でも図書室の充実が話題となり,学院の点字図書室を点字図書館に昇格できないか,という意見も一部の理事から上がった。  しかし協会のある高田馬場には日本点字図書館,日本盲人会連合(現・日本視覚障害者団体連合)点字図書館がすでにあり,新たな点字図書館をこの地域に設立するのは無理だというのが大方の見方だった。  こうした要望に葛西嘉資理事(元・厚生事務次官)が厚生行政の動向を踏まえ,点字図書室を点字図書館に昇格することを提案した。  厚生省の実力者だった葛西理事は,(1)近くに2つの点字図書館があることから,新設の東京ヘレン・ケラー点字図書館は,あん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師関係の技術書と東洋医学系の書籍を重点にする, (2)特に学院の生徒が,移動せずに,手軽に,身近に,従来の図書室と同じように利用できる図書館にする ── との2点の基本方針を立て事業開始の準備を急ぐことにした。  こうして東京ヘレン・ケラー協会点字図書館は身体障害者福祉法に基づく図書館として1970(昭和45)年頃から設立への動きが具体化していった。  一色常務理事を中心に職員,学識経験者などで準備委員会が結成された。記録によると,1971(昭和46)年1月,準備委員会で検討の結果,以下の基本線が決まった。  一.蔵書は理療書に重点を置く。  一.ボランティア活動は,協会本部で行っていたものを新設の図書館に移管する。  一.設立準備室を1971(昭和46)年4月1日から設ける。  当時,図書室の蔵書は,大正時代から1945(昭和20)年頃のものが大部分で,その数は点字図書800冊,テープ図書(オープン)50巻,墨字図書350冊であった。これらの図書のうち半数を占めた理療書から補修に手をかけたが,幸い外装が傷んでいる割に点字はつぶれておらず,そのほとんどが貸し出し用に充てることができた。  この補修作業と並行して,索引カード,貸し出し用カード,図書目録などを作成し,各点字出版所に理療書を注文した結果,翌1972(昭和47)年には,一応図書館らしい体裁を整えることができた。同年7月に,新館建設工事が始まり,カードケース,書架,閲覧台などの,必要事務用品の整備に取りかかった。 ++     新館の完成  1973(昭和48)年4月に新館が完成し,同年7月にその2階に図書をはじめ,諸設備の館内配置を始めた(この2階は,面積117.05平方メートル)。  10月には開館準備はすべて終わり,1974(昭和49)年4月に社会福祉事業法および身体障害者福祉法に基づく点字図書館として,事業開始届を東京都に提出,正式に認可を受けた。  開館当初は,館長,司書,点字指導員,貸出閲覧員,校正員各1人の5人で業務に当たっていた。その後,音訳指導員,情報支援員各1人が増員され,現在は7人体制となっている。 ++     蔵書も着々と増加  1974(昭和49)年4月の開館時には,点字図書2,500冊,テープ図書50巻にすぎなかったものが,新規購入やボランティア養成などによって,1974(昭和49)年度末には点字図書が3,294冊に,テープ図書は145巻に増加,さらに1975(昭和50)年9月末では点字図書3,528冊,テープ図書405巻,ほかに墨字図書1,133冊を備えるに至った。その後,録音図書の製作にも重点をおき,保有図書の著しい増加を見た。  2020(令和2)年3月末現在の図書保有数は次のとおりである。  ・点字図書:2,947タイトル 1万780冊(自館製作2,427タイトル 9,214冊)  ・テープ図書:1,029タイトル 6,572巻(自館製作1,020タイトル 5,999巻)  ・デイジー図書:5,275タイトル 5,324枚(自館製作672タイトル 676枚) ++     増える録音図書の貸し出し  1974(昭和49)年度から2019(平成31)年度までの点字図書・録音図書(雑誌含む)の貸し出し実績の推移は次のとおりである。  ・1974(昭和49)年度:点字図書4,610冊,テープ図書112巻  ・1979(昭和54)年度:点字図書4,527冊,テープ図書865巻  ・1989(平成元)年度:点字図書2,594冊,テープ図書3万5,270巻  ・1999(平成11)年度:点字図書1,859冊,テープ図書5万9,985巻,デイジー図書554枚  ・2009(平成21)年度:点字図書1,007タイトル3,863冊,テープ図書7,807タイトル3万4,226巻,デイジー図書2万4,571タイトル2万4,672枚  ・2019(平成31)年度:点字図書645タイトル2,285冊,テープ図書466タイトル2,123巻,デイジー図書2万184タイトル2万192枚  1980年代に入り点字図書とテープ図書の貸し出し数が逆転し,その後,利便性の高いデイジー図書が普及するにつれ,その差はさらに拡がっている。利用者の障害状況の変化,とくに中途失明者の割合が増え,点字触読者の割合が減少したことが要因と思われる。  なお,利用登録者は,開館した1974(昭和49)年度末は,都内406人,都外151人,合計557人であった。しかし,2019(平成31)年度末では,都内766人,都外1,028人,合計1,794人となった。  2009(平成21)年の著作権法改正を受け,さらに2019(平成31)年のマラケシュ条約批准によって,学習障害や上肢障害・難病等,視覚障害以外でも,印刷物の判別に困難がある人には,デイジー図書の利用が認められるようになった。 ++     点字図書館レファレンス・サービス  1987(昭和62)年2月から毎日新聞東京社会事業団の全面協力を得て,点字図書館は横田館長(当時)の方針で,レファレンス・サービスに力を入れることにした。  このサービスは,点字図書館が全国の視覚障害者を対象に,参考資料の収集や情報提供をしたり,利用者の問い合わせに調査・回答するサービスだが,協会点字図書館の同サービスも歓迎され,多くの卒直な感謝が寄せられた。それは ──  鹿児島のある人から電話で「G5,G7の正式名称と加盟国を教えて欲しい」との問い合わせがあり,調査結果を電話で回答したところ,「さっそくお答えくださり大変助かりました。おかげさまで弟が盲学校専攻科に入学できました。電話料金をお知らせください。今後ともよろしくお願いします」との礼状が届いた。  また,ある利用者からは電話で「私は全盲なのですが,知人から君は何でもよく知っているなあ,と感心されました。(レファレンス・サービスのおかげで)大変勉強になり,うれしいかぎりです」といったものであった。 ++     パソコン点訳・デイジー図書の普及  1980年代に入り注目を集めたのは,パソコンを利用した点訳であった。従来の手打ちに比べ編集能率が格段に上がり,作成した点字データは,点字プリンターで紙に打ち出すことができる。1990年代半ばから導入され,当初はMS-DOSパソコンを使用していたが,2000年代に入りようやくWindowsパソコンへ移行した。  1990年代後半には,録音図書もカセットテープから,国際標準規格のデジタル録音図書であるデイジー(DAISY:Digital Accessible Information System)に移り,パソコンによる編集作業が始まった。1998(平成10)年秋から2001(平成13)年にかけて,日本障害者リハビリテーション協会からデイジー図書約3,000タイトルが配布され,普及の足掛かりとなった。  カセットデッキを使っていた録音作業も,2003(平成15)年からはパソコンを使ったデジタル録音に変わってきた。 ++     ボランティアに支えられて  開館後の1974(昭和49)年と1975(昭和50)年に点訳,朗読(現在は音訳)ボランティアを養成するための講習を行った。その受講生のうち16人がボランティアとなり,従来からのボランティアを加え24人となった。うち点訳関係18人,朗読関係6人である。  その後,点訳ボランティアは,1982(昭和57)年に第1回「点訳者養成教室」を始め,現在に至っている(現在は「点訳ボランティア養成講習」)。2020(令和2)年3月現在で,点訳・校正を合わせて70人程のボランティアの協力を得ている。  1993(平成5)年には,点訳者養成教室に参加した人たちを中心にボランティアグループ「楽点の会」が結成され,東京ヘレン・ケラー協会点字図書館への協力を主とした点訳活動がスタートした。その後,2002(平成14)年に「めてんの会」,2003(平成15)年「ヘキサ」,2004(平成16)年には「グループめめ」が相次いで結成され,現在は4つのグループが,それぞれに特色を持って活動している。  音訳ボランティアは,1981(昭和56)年から音訳指導の専任職員を置くようになり,常に十数人のボランティアが録音図書製作に努めた。1997(平成9)年4月からは,養成講習にますます力を入れ,2020(令和2)年3月現在で,音訳・校正を合わせて28人のボランティアの協力を得ている。  2011(平成23)年には,音訳ボランティアもグループを結成,名称を「まいくの会」とした。グループ内で,図書製作の着手から完成までを一貫して管理し,定期的に勉強会を開催するなど,録音図書製作の効率化と質の向上に尽力している。 ++     全国ネットワークによる情報提供  1994(平成6)年,点訳のパソコン通信ネットワーク「てんやく広場」(運営:日本盲人社会福祉施設協議会)に参加し,他館の蔵書・点訳状況の検索や,点字データの登録・ダウンロードが始まった。「てんやく広場」は,1998(平成10)年に点字・録音図書情報の総合ネットワーク「ないーぶネット」と改称され運営も全国視覚障害者情報提供施設協会に移管された。2001(平成13)年からはインターネットで稼働するようになり,目録も整備され,図書館間相互貸借が飛躍的に増えている。このとき,「ないーぶネット」と連携する図書館システム「N-LINK」を導入し,貸出業務が一気に電子化された。2010(平成22)年には,視覚障害者情報総合ネットワーク「サピエ」となって,デイジー図書の登録・ダウンロードも始まり,「サピエ」と連動する図書館システム「Web図書館」が導入された。現在では,点字図書館の基幹システムとなっている。 ++     生活支援への着実な一歩  2012(平成24)年,専門知識・技術を持つ歩行訓練士を採用し,点字図書館での相談支援・機能訓練を開始した。支援員一人という制約のなかで,ヘレン・ケラー学院生や卒業生を中心に,歩行訓練,日常生活訓練等を着実に重ねている。インフォーマルサービスであることを強みに障害初期の人,障害者手帳を持たない人も含めて柔軟な対応を行い,支援の入口としての役割を担っている。図書の利用や点字講習への問い合わせから情報提供・生活相談に発展することもあり,ニーズに応じて担当者が対応したり,専門的な支援へ繋げるために近隣の支援機関と連携を図ったりして,様々な形での支援を提供している。 ++       ■海外盲人交流事業 ネパールの視覚障害者に愛の灯を  写真:当協会の支援でNAWBが実施したUEB(統一英語点字)ナショナルセミナーの参加者 ++     海外盲人援護事業事務局の開設  同じアジアのネパール王国を対象に,東京ヘレン・ケラー協会が支援事業を開始したのは,国際障害者年(1981年)の翌年,1982(昭和57)年のことであった。  この海外の視覚障害者に対する支援事業は,井口淳理事・点字出版局長の発案によるものであった。井口は日本国内での点字出版事業の発展に腐心する一方,以前から「生活はもとより,満足な教育や医療が受けられない海外の視覚障害者に,何とか支援の手を差しのべられないものだろうか」との思いを強くしていた。  だがこれに対し,「日本国内の視覚障害者福祉さえまだ満足いく状態でないのに,日本の同胞をさしおいてなぜ海外なのだ?」と,反発と疑問視する声も発せられた。だが,井口の思いは揺るがなかった。  そしてこの日本の視覚障害者が海外の視覚障害者を支援するというアイデアが具体的な形となって実現したのは,1982(昭和57)年10月1日のことであった。  同日,協会の事業として,毎日新聞社早稲田別館内東京ヘレン・ケラー協会点字出版局の一角に,「海外盲人援護事業事務局」を開設し,井口が事務局長となり,直ちに広報,募金活動を開始した。  これを受け,同年10月22日の第102回理事会でも事務局開設を承認し,櫻井安右衛門理事長も「主旨は大変結構であり,マスコミ関係などとも連絡をとるなどして具体化していきたい」と発言し,正式な事業としてスタートした。だがその時点では,事業計画など,事業を肉づけする内容は明確なものではなかった。  しかしともあれ,櫻井理事長による以下の事業「趣意書」が公表された。  戦後,三重苦の聖女ヘレン・ケラー女史の来日を記念して当協会が設立され,早くも30有余年がたちました。  ヘレン・ケラー女史の言葉  あなたのランプの灯を,いま少し高くかかげてください。  目の不自由な人びとの行く手を照らすために…… の精神を受け,失明者更生援護事業のひとつとして,あん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師養成施設である「ヘレン・ケラー学院」を設置しました。特に中途で失明し,生きる道さえ見失おうとしていた人びとのために,ささやかな灯をかかげてまいりました。今や,本学院の卒業生は千名を超えています。  さらに当協会では,点字出版,点字図書館,盲人用具開発の諸事業を行ってまいりました。  1981(昭和56)年,国際障害者年が制定され,以後10年間を目途として,障害者の「完全参加と平等」を具体的に推進することが決まりました。  戦後の混乱時代をへて,経済大国となったわが国の身体障害者に対する施策は,不十分ながらも,アジアの国ぐにとくらべるとまだ恵まれています。アジアの国ぐにの中には,その国の事情により,盲人の文字である点字を書く道具(点字器)は言うまでもなく,盲人の目ともなる白い杖でさえ与えられない人たちがたくさんいます。また,予防により失明をまぬがれたり,失明しても適正な治療によって視力を回復できる人びとも大ぜいいます。  当協会では,ささやかながらもアジアの盲人へ,点字器や白い杖を贈ったり,わが国から医師団を派遣して,一人でも多くの海外盲人に愛の灯をかかげたく,海外盲人援護活動を開始しました。心ある人びとの善意を結集して,この運動の輪をさらに広げたいと思います。  あなた様の,ご理解とご援助を,お願い致します。  社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会  理事長 櫻井安右衛門  この新事業に対する社会の反応は,極めて好意的なものであり,高い関心も寄せられた。それは,次の方々からの熱いエールにも如実に表れている。まず当時の日本ネパール協会会長であり,文化人類学者の筑波大学教授川喜田二郎氏は,「人類愛の一環として」と題し,次のような推薦文を寄せた。  東京ヘレン・ケラー協会の今回の事業趣意については,私が常々思っていたことでもあったので,積極的に賛同し,協力することにしました。  全人類は常に理解し合い,凡ての幸福を分かち合う心が大切です。そういう心がいま失われつつあるように思い残念です。  特に不幸にして,人間の活動に必須な五感の一部を失った障害者に対しての理解は,全く悲惨な事情にあると思います。  現在,我々の隣人同胞でもあるアジア地域の障害者の実情は地獄そのものと言えます。  故ヘレン・ケラー女史の「凡ての人に平等の愛の灯をおくる」精神を生かすべく立ちあがり,すくなくとも日本人の真心をおくり,生活への糧となることを念願している,この活動に感激しました。閉鎖的で,また障害者に対して冷淡であった日本民族に,今最も必要なのは,このような活動と信じます。  国連においても,昨年このような状況を考えて,10年間国際障害者年と定めた背景もあり,皆さんの理解と協力をお願いします。(略)  また,当時国立民族学博物館館長であった梅棹忠夫氏も,次のようにエールをおくった。 ++ 真心を,おくろう (略)  日本における盲人の福祉事情も決して満足すべきものではありませんが,海外,とくに,アジアの状況はご存知の通り,誠に悲惨なものです。この事業を通して,できるだけ多くの障害者に,日本人の真心がとどけられたならばと,願っております。  ヘレン・ケラー女史も,三重苦の試練を克服し,世界各地をまわり,積極的に激励の活動を遂行され,世界各地の障害者に力強い感銘をあたえられました。この女史の情熱と誠意を継承しての活動は,かならずやアジアの盲人に感動を与えるものと確信しております。  この事業趣意を充分理解されて,一人でも多くの日本人の心をアジアにおくってあげていただきたいと思っております。  日本においても,国際障害者年を機として,こうした事業を推進することになっておりますので,深い意義があると思います。 ++     支援先はネパールに  新事業を始めるに当たっての事前調査では,アジアの各国で,視覚障害教育を含めた視覚障害者福祉と失明予防医学の分野で外国からの支援・協力を必要としている国は何カ国かあることがわかっていた。しかしそれを詳細に分析し,すぐにでも手を差しのべねばという緊急状況にあるのは,バングラデシュとネパールの2国である,との最終結論に達した。  しかし,当時のバングラデシュには欧米諸国からの援助がすでにかなり寄せられており,それに対してのネパールはほとんどこれからの状態である,ということがわかった。  その実情は,我々の理解の範ちゅうを越えている,といえるほどの極めて苛酷なものであった。それ故に,アジアの中でも最も貧しい国の一つとされ,それによって当然,障害者福祉の歴史も浅い国,と位置付けられていた。 ++     第1次ネパール盲人福祉調査  1年間のプランニング期間を経て,具体的事業に着手したのが1985(昭和60)年の12月8日であった。  同日から16日までの9日間,第1次ネパール盲人福祉調査団を派遣し,カトマンズを中心に調査活動を実施したのである。  海外盲人援護事業の初めてのプログラムとなった派遣調査団のメンバーは,東京都心身障害者福祉センター視覚障害科の田中徹二氏(全盲)を団長に,毎日新聞社写真部の山田茂雄記者,海外盲人援護事業事務局の野崎泰志の3人。ところが偶然にも,この派遣団がネパール入りする直前,ネパールの視覚障害者福祉にとって歴史的な出来事が起きた。NAWB(ネパール盲人福祉協会)がネパール身体障害者盲人協会から分離・独立し,ネパールでの視覚障害者福祉が本格的に始まったのである。  それと時を同じくして協会が調査団を派遣した。この偶然に,NAWBは「これはまさに神の導きである」と,調査団を大歓迎してくれた。「神の導き」とはあまりにも大げさだが,それほどまで支援が望まれていたという証であろう。  現地入りした調査団は,過密なスケジュールに追われながらも,精力的に活動し,NAWB,教育文化省,全国社会事業調整協議会,トリブバン大学本部,トリブバン大学教育病院,国家計画委員会,ネパール障害者盲人協会,トリブバン大学教育学部附属実験高校,アイ・ホスピタル,小・中学校,視覚障害者の家庭を訪問,面会した人々は,政府,医療,障害者福祉関係者の31人に上った。 ++     点字教材の著しい不足  ここで目のあたりにしたのは,障害者福祉に携わる人々による誠実な努力で着実に成果を上げつつある視覚障害者福祉ではあるが,それにもかかわらず,前述したように就学適齢期の視覚障害児約3万8,000人のうち,満足に教育を受けている児童はたったの120人にすぎないという現実であった。  調査団は,この実態の原因は教育に必要な教材や教具の供給が困難な状態にあるが故の結果,と分析。即刻,NAWBと討議を重ね,日本においての点字出版技術者養成を前提とする,点字印刷技術の移転プロジェクトを決定した。そしてこの調査について,団長の田中徹二氏は,帰国後の1986(昭和61)年1月18日に協会で行った調査報告会で,「ネパールを訪ねて」と題し次のように報告した。  トリブバン大学教育学部附属実験高校で見える子供たちと一緒に,地理の試験を受けていた小学6年の女の子は全盲だった。米国製の携帯用の点字器を使って,一生懸命に答えを書いていた。  「地理だと地図に関する問題が出ると思うけど……」と聞いてみると,  「地図に関する問題については,見える子とは違う問題が出ています」と,はきはき英語で答えてくれた。「そうか」と,私は納得した。  ネパール全土から選ばれた子供たちが集まるこの学校で,統合教育(※)を受けている盲児たちは,確かに頭がよさそうだ。だが,その彼らが手にする点字教科書は手作りなのである。盲児担当セクションの先生たちが点訳し,点字複写機のサーモフォームでコピーし,1冊ずつ作っているのだ。触地図などに手が回るはずがなかった。  今,ネパールでは小学校1年から高校3年までの10学年に,200人近くの盲児が統合教育を受けている。その彼らが手にできる教科書は,数人に1冊の割合でしかない。NAWBでは,5年先には,盲児が統合教育を受けられる学校を現在の10校から85校に増やす計画を持っている。点字教科書の出版の必要性が高いことを,私は思い知らされた。  わが国でも古くは杉山和一,新しくは中村京太郎,岩橋武夫など盲目の先覚者の出現は,盲人の世界に大きな刺激を与えた。幾多の盲人が盲学校を建て,盲児の教育に情熱を燃やす一方で,幾多の盲人が福祉事業にも手をそめ,盲人全般の生活向上に寄与した。  ネパールの盲人の世界は,今,黎明期にある。早く盲人の先覚者を育てなければならない。そのようなパイオニアが生まれるための基盤は,幼い頃からの教育にある。その教育を,私たちのささやかな援助で支えてあげることができるのだ。  カトマンズを飛び立つとき,私の網膜にヒマラヤの勇姿は映るべくもなかったが,10年,20年先のネパールの盲人事情がどのように変わっているのだろうかと,私の胸は,雄大な計画が始まろうとする期待にふくらんでいたのだった。  (※)統合教育とは,障害児が盲・聾・養護学校のような障害別特殊学校で学ぶのではなく,健常児と一般学校で共に学ぶ教育システム。  この報告会ではさらに,「ネパールの視覚障害者福祉は緒についたばかりで,特に点字教科書の不備が甚だしい」と繰り返し強調され,その改善策として「点字印刷設備の供与と技術移転」が提言された。 ++     点字印刷技術移転プロジェクト  第1次ネパール盲人福祉調査団の調査結果でも点字印刷技術移転プロジェクトによる点字印刷所の開設が,最優先の緊急課題として再確認された。そしてその開設を可能にするためには,NAWBとの間で合意に至っている「日本においての点字出版技術者養成」の実現が急務となった。  具体的にはNAWB職員を当協会に招き,点字製版,印刷技術の研修を行うことであった。こうした一連の活動に対し,1986(昭和61)年5月30日の理事会で,櫻井理事長は「福祉の輸出として推進したい」と,この事業活動を“福祉の輸出”と位置づけた。これを受け,同年,NAWBと協会との間で,事業推進に関する初の協定書が交わされた。 ++     点字出版技術者の養成  これに基づく来日研修のトップバッターとなったのが,NAWBリソース・プロダクションの主任P・R・パント氏であった。  第1次ネパール盲人福祉調査団の派遣から8カ月後の1986(昭和61)年8月17日,パント氏が日本の土を踏んだ。晴眼者のパント氏はそれから3カ月間,当協会,点字製版機・印刷機の製造メーカーである仲村点字器製作所で研修を重ねた。  それから1カ月,すべての研修を終えたパント氏は,同年11月8日,日本を離れた。そして同氏の帰国後の同年12月5日,点字製版機1台,点字印刷機2台,周辺機および資材一式が,協会からNAWBあてに船便で発送された。 ++     第2次ネパール盲人福祉調査  第2段階のファースト・ステップは,1987(昭和62)年の「第2次ネパール盲人福祉調査」の実施であった。  同年3月6日から4月9日まで,トヨタ財団の研究助成を受けての調査団の再派遣であった。  団長は広島大学五十嵐信敬助教授で,それに東京都心身障害者福祉センター田中徹二氏と国立特殊教育研究所千田耕基氏,および協会事務局スタッフ4人の計7人をネパールに派遣し,NAWBのスタッフと共同で現地調査を行った。 ++     視覚障害教育の現況分析と提言  調査のテーマは,「統合教育を核とする視覚障害児の教育方法論」。調査団は資料や文献の収集,法律の分析,膨大な調査票によるデータの収集,ネパール全土にわたるフィールドワークを行い,視覚障害児教育および視覚障害教師の状況,教育体系の問題点,カリキュラムの実情など,視覚障害教育全般の現況をさぐった。  そしてこの調査・研究結果を踏まえ,4月2日〜4日の3日間,トリブバン大学医学部附属教育病院でK・B・ビスタ教育大臣,金子一夫駐ネパール大使臨席の下,ネパール全国の教育関係者を招き,「視覚障害児の統合教育のためのナショナル・セミナー」を開催,視覚障害者福祉に関する32項目の提言を行った。この提言は現在のネパール視覚障害児教育支援の中で総合的に生かされている。  こうした国際協力は社会に高く評価され,自動車労連,全国老人クラブ連合会などから大きな支持を受けた。 ++     点字出版事業を通して花開いた視覚障害教育支援  大成功をおさめた第2次調査であったが,1987(昭和62)年6月22日,前年の12月に横浜港から発送した点字製版・印刷設備一式が,ようやくにしてカトマンズのNAWB本部に到着した。梱包解体,点検,機械据え付け,整備・調整し,協会寄贈の点字印刷関係機器にスイッチが入れられたのは11月にずれ込んだ。  日本を出てから約1年。しかしこれによって,ネパールにおける点字出版は新時代の幕開けを迎えた。稼働を開始したNAWB点字出版所は,直ちに待望の点字教科書印刷に着手した。さらに翌年の1988(昭和63)年3月,富士記念財団助成によって2台目の点字製版機を,海事国際協力センターの輸送助成で,空路,カトマンズに送った。点字教科書製作体制は確実に整えられていった。  そしてついに,1989(平成元)年7月,全国の視覚障害児統合教育校に点字教科書の無料配布を開始するに至った。同時に,点字器,点字タイプライターなどの教具,教材の配布も実施した。  その一方で,「第2次盲人福祉調査」時点で視覚障害教育を実施している盲学校と統合教育校は合わせて4校(前後して別に6校がスタート)にしかすぎなかったが,この3年間で21校にも増加した。これらの大激変に対応するため,我々は1991(平成3)年6月,NAWB点字出版所を新築,大量点字出版を可能とさせた。  さらにこの1991(平成3)年3月,バラ郡の通学制統合教育校バタラ校を開設,視覚障害児2人に対する統合教育を開始した。その後,統合教育をさらに充実したものにするため,1993(平成5)年1月,同じバラ郡の統合教育校ドゥマルワナ高校に初の「寄宿制」を開設,同年5月30日の寄宿舎落成と同時に,16人の視覚障害児を受け入れた。これによって「通学制」,「寄宿制」共に統合教育システムが構築された。 ----------------------------------------------------- 1999(平成11)年5月,「海外盲人援護事業」の名称を,「海外盲人交流事業」と改称し,文化交流などを含めた事業に拡大していくこととなった。 ----------------------------------------------------- ++     自立のためのリハビリテーションCBRプロジェクト  協会の海外盲人援護事業は,これまでに述べた視覚障害教育支援事業を1本の主柱とし,これと並行してのCBR(Community Based Rehabilitation)事業をもまた,もう1本の主柱として推進してきた。  CBRとは「地域社会を基盤としたリハビリテーション」を意味する。協会は「第2次盲人福祉調査団」の提言を受け,農村僻地に住む視覚障害者の自立を促すためにフィールド・ワーカーの巡回・個別訪問によるリハビリテーションの実施を検討した。  この動きに協調し,1988(昭和63)年2月,香港リハビリテーション協会より資金援助の承諾を得た。この強力な援助を背景に,同年12月,「視覚障害者のためのCBR」を,ネパール南部のナラヤニ県バラ郡全域で実施することを決定し,当協会とNAWBのスタッフが合同でバラ郡CBRプロジェクトの準備に入った。準備は急ピッチで進められ,翌1989(平成元)年2月28日から3月9日まで,協会の櫻井理事長ほか1人がカトマンズ入りし,ネパールの全国社会事業調整協議会(SSNCC: Social Service National Coor- dination Council)との間で「バラCBR」のための協定を締結した。  そして同年6月に,バラCBRプロジェクトは,丸紅基金,庭野平和財団,トヨタ自動車の助成を受けて正式にスタートした。当初は3年計画で着手されたが,同事業はその後,協定を更新しながら結局12年間継続された。  こうしたなか,当海外盲人援護事業事務局の井口淳事務局長が,1994(平成6)年8月3日に外務大臣表彰,同10月1日に第6回毎日国際交流賞,1996(平成8)年3月18日にネパール王国のネパール王章「ゴルカ・ダクシン・バフ」の受章という栄誉に浴した。  また,1986(昭和61)年5月,海外盲人援護事業事務局の機関紙として『愛の光通信』第1号を発刊,活動状況を報告するとともに広報,募金活動の一環とした。  公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会が発行する『新ノーマライゼーション』編集部から,2020(令和2)年3月初旬,当協会の国際協力について紹介していただきたいという寄稿依頼があった。同誌の編集人は,福母淳治先生(日本障害者リハビリテーション協会常務理事)で,当協会の評議員でもあったので喜んで引き受けた。  以下に『新ノーマライゼーション』2020(令和2)年5月号(通巻448号)より,該当記事の全文を転載するが,文体は「ですます調」から「である調」に変えてある。 ++     ネパールにおける教育事業とCBR     東京ヘレン・ケラー協会の国際協力 社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会 海外盲人交流事業事務局長 福山 博  1948(昭和23)年,毎日新聞社の招きで来日したヘレン・ケラー女史は,日本全国で講演を行い,その時集まった浄財で1950(昭和25)年に設立されたのが東京ヘレン・ケラー協会である。名誉総裁である同女史は1955(昭和30)年に当協会を訪れ,講演をされた。  当協会は現在,視覚障害者のためのあん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師の養成施設ヘレン・ケラー学院の他に点字出版所,点字図書館等を運営している。  海外盲人交流事業は,1981(昭和56)年の国際障害者年を契機に1982(昭和57)年10月に発足し,募金活動と国際協力の研究を開始した。ネパールを対象国に決め,1985(昭和60)年12月,東京都心身障害者福祉センターの田中徹二氏(現・日本点字図書館理事長)を団長に,毎日新聞社写真部の山田茂雄記者(当時)と当協会職員の野崎泰志(現・日本福祉大学教授)の3人による盲人福祉調査団をネパールに派遣した。一方,首都カトマンズではその直前に,ネパール盲人福祉協会(NAWB)が発足しており,日本からの調査団を歓迎した。  当時,ネパールにおける就学適齢期の視覚障害児は推計で3万8,000人いたが,実際に教育を受けていたのは120人だった。しかも生徒が手にする点字教科書は,教師が点字タイプライターで手作りしたものだったので,回し読みされ,摩滅してボロボロになっていた。  調査団は,「ネパールの盲人福祉を発展させるためには教育が先決で,そのためには生徒に各教科1冊の点字教科書を提供することが不可欠であり,早急に『点字印刷設備の供与と技術移転』が必要である」と提言した。  点字教科書を発行するための点字出版所をNAWBに設置するためには人材の育成も必要なので,1986(昭和61)年8月にNAWBの職員を当協会に招き,点字製版・印刷機の操作と保守整備等の研修を行い,帰国に合わせて点字製版機1台,点字印刷機2台,亜鉛板4,000枚,B5サイズの点字用紙6万4,000枚,作業用椅子や工具等資機材一式をNAWBあてに船便で送った。  これらの資機材は1987(昭和62)年6月にNAWBに到着し,1989(平成元)年7月から全国の視覚障害児のための統合教育校に点字教科書の無償配布を開始した。  当時のNAWBは古いヒンドゥー寺院内にあり,毎日土埃が舞う室内で点字出版を続けるには無理があったので,郵政省国際ボランティア貯金の配分金を受けて,1992(平成4)年1月に点字出版所の建物を新築した。  その後,国際協力機構(JICA)の支援を受けて,2001(平成13)年に点字出版のコンピュータ化を実現。2017(平成29)年度には在ネパール日本国大使館に申請した8万2,257米ドルの草の根・人間安全保障無償資金協力を受けて点字出版システムを更新した。現在,NAWBが教科書を配布している統合教育校は75校で,これまでに作成した点字教科書はのべ11万セットにのぼる。  当協会は1989(平成元)年3月SWC(ネパール社会福祉協議会)と協定書を交換して,ナラヤニ県バラ郡において「バラCBR(地域に根ざしたリハビリテーション)事業」を開始し,2001(平成13)年6月まで続けた。  バラ郡は,ネパール南部のインド国境沿いに広がる標高100m前後の亜熱帯で,衛生状態が悪くトラコーマ,白内障,ビタミンA欠乏症などによる失明率の高い,東京23区の半分ほどの広さの農村地帯だ。  この地での最初の仕事は,「ホーム・サーベイ」という個別訪問調査で,リハビリワーカーが村々を回り,村落の人口を調べ,視覚障害者を捜し出して失明原因,年齢,家族構成,収入などを面接調査したのだが,これに3年が費やされた。そしてバラ郡の人口が40万9,141人(6万7,943世帯)で,視覚障害者は470人,失明予備軍である白内障とその他の眼疾患者は合計2万3,024人いることがわかった。  この調査結果を踏まえ,リハビリワーカーが自らが住む地域の集落を自転車で巡回して,失明者から更生相談を受け,生活意欲を鼓舞し,白杖を使った歩行訓練,貨幣の識別,掃除・洗濯などの日常生活動作訓練や家畜の飼育指導などを実施して,修了者にはCBRセンターが無利子の資金を貸し付け。そして801人の視覚障害者が水牛等家畜の飼育,雑貨店や精米所経営などで職業的自立を果たした。  バラCBRではリハビリテーションと並行して失明予防プログラムも展開し,1990(平成2)年度外務省NGO補助金を受け,眼科診療所を併設したバラCBRセンターを建設した。こうして1989(平成元)年〜2001(平成13)年に眼科診療所で治療した患者数は6万2,004人。失明予防のビタミンA剤配布(1991〔平成3〕年〜1995〔平成7〕年)は延べ9万9,273人にのぼり,このビタミンA剤の配布は,その後国家プロジェクトになった。また,1992(平成4)年から毎年継続してバラCBRセンターにおいて栄養指導や初歩的な眼科知識のセミナーである失明防止講習会を開催し,1994(平成6)年から毎年バラ郡17の学校を巡回して眼科検診を行った。  バラCBR眼科診療所への当協会の支援は,CBR事業の完了後もさらに1年間継続し,2002(平成14)年6月末に完了し,その後は地元町役場やカトマンズのライオンズクラブの支援を受けて現在もNAWBバラ支部が事業を継続している。  学齢期の視覚障害児のために統合教育も推進し,1995(平成7)年5月,1999(平成11)年7月,2000(平成12)年5月にそのための寄宿舎を3校に建設した。また,1994(平成6)年〜2001(平成13)年には,毎年全国の統合教育担当教師を対象に,カトマンズのNAWB本部で視覚障害教育の質的向上を目的に,理数点字表記法や英語点字等の全国統合教育講習会を1週間前後のワークショップ形式で開催した。  2010(平成22)年4月から日本の篤志家3氏の財政支援でNAWBに設けた3つの育英基金で,毎年19人の視覚障害生徒に教育費と寮費を給付している。  ネパールの視覚障害教育はNGOが主導したため,大学進学へのバリアはない。このため日本とインド,そしてネパールで博士号を取得した視覚障害3博士を頂点に,修士55人,学士150人,10年課程の修了者960人を数え,現在,3,000人余の視覚障害生徒が全国で学んでいる。さらに視覚障害を持つ教師323人,大学講師5人,高級官僚3人を含む国家公務員9人,音楽家45人,その他の施設・団体等の職員も43人いる。しかし2011(平成23)年には394人いた視覚障害教師も減少ぎみで,以前は,比較的簡単に就くことができた教職の道が狭き門になりつつある。  20年余の歳月をかけて英米を中心に英語点字表記法が統一された。そこでNAWBは,2016(平成28)年12月11日と12日の両日,同協会会議場で,当事者団体であるネパール盲人協会(NAB),教育省,統合教育校,視覚障害児親の会代表など点字に関するステークホルダーを集め,UEB(統一英語点字)の導入を検討する第1回UEBナショナルセミナーを開催した。そして,教育省代表をはじめすべての参加者がUEBの導入を承認した。  翌2017(平成29)年12月14・15の両日,NAWB会議場で,全国各地の統合教育校から教師を集め,第2回UEBナショナルセミナーを開催しUEBの点字表記講習を行った。  以上の経費は,当協会が負担した。 ++       ■クリシュナ基金に対する支援  2005(平成17)年8月,当時の藤元節理事長,竹内恒之理事・出版所長,川田孝子経理課長,福山博海外盲人交流事業事務局長を呼びかけ人に組織した「クリシュナ君遺児育英基金」(以下「クリシュナ基金」)という,協会職員有志による国際協力事業があった。役員は代表福山博,会計川田孝子,監事松浦健三(点字出版所総務課長)。  協会がNAWBと共同で実施していたバラCBR事業のスタッフ(眼科助手)であったクリシュナ・ムキーヤ(以下,クリシュナ君)は,2002(平成14)年9月に心臓発作で,インドのババダン寺院巡礼中に客死した。さらに同夫人は,将来を悲観して2004(平成16)年6月に後追い自殺した。  クリシュナ君には4人の遺児がおり,末っ子は5歳以下であったため,NAWBバラ支部の尽力により孤児院に入所した。残りの遺児3人については,地元の寄宿学校にて10年課程の教育が修了するまで,クリシュナ基金が3人分の寮費等の生活費(年間約12万円)を支援し,NAWBの有志が,同様に学費(年間約3万円)を保証することになった。  10年間の教育とは,わが国では高校1年修了に相当するが,ネパールでは後期中等教育修了にあたり,いわば高卒として,小学校の教員や公務員,NGO等への就職が可能になる。  協会の事業はあくまでも視覚障害者を対象にしており,晴眼児を対象にしているクリシュナ基金には,1円たりとも支援はできない。しかし,クリシュナ基金は任意団体なのでネパールへの送金や契約には限界がある。  そこで費用の支出を伴わない,下記のような側面的支援を,協会はクリシュナ基金に対して行うことにした。  @送金手数料も含む費用の全額を同基金が支出することを条件にNAWBあての育英基金の送金を代行する。  ANAWBが責任を持って3人の児童に対する就学機会の提供を行うことを骨子とした「覚書」を交換することにより事業の推進を担保する。  3人の遺児は協会の福山事務局長が2005(平成17)年7月27日に現地調査したおりには,故・ムキーヤ夫人のバラ郡パルサウニ村の実家にいたが,悲惨な環境の中で食事も満足に与えられていなかった。  クリシュナ君はマデシ(インド系ネパール人)で,貧しい低カースト出身でありながら,苦学して10年間の中等教育を修了し,1989(平成元)年11月にバラCBR事業のフィールドワーカーとなり,その中から特に選抜されて,カトマンズのトリブバン大学医学部において眼科助手(OA)になる教育を受け,国家試験に合格して,バラCBR眼科診療所に勤務していた。とても物静かな紳士で,有能なスタッフだった。一方,ムキーヤ夫人は一切教育を受けたことがないため,現地語のボージュプリー語の他はネパール語も話せず,就職もままならない中で絶望して,ヒンドゥー教の因習である殉死(サティー)を選んだ。  彼女の二の舞にならないようにするためにも,残された子どもたちに教育の機会を提供することは重要だった。  NAWBの試算によると,遺児3人の10年課程を受けるための生活費は72万ルピーと見積もられており,これまでにクリシュナ基金は,それを上回る759,550ルピーを送金した(※)。  (※)クリシュナ基金は,2005(平成17)年9月16日に15万円(Rs.95,550),2006(平成18)年5月12日に100万円(Rs.664,000),合計115万円(Rs.759,550)をNAWBに送金した。 ++     クリシュナ+2基金  2015(平成27)年3月ネパール政府によるSLC(学校教育修了)試験が行われ,長女アルチャナは平均点61点,長男ローシャンは75.62点の好成績でともに合格した。  2005(平成17)年のクリシュナ基金創設時にはこれで2人は晴れて社会人になる予定だった。しかし,この10年間でネパール社会は大きく変貌をとげ,10年課程修了では教員にも,公務員にもNGO職員にもなれない,事実上高卒と認められなくなった。  そこで,長女,長男,次女の3人を,ネパールで+2(プラスツー)と呼ぶ,11年と12年の課程に進学させ,国際的にも通用する高等学校卒業の資格を取得する機会を与えることにした。その際,「クリシュナ+2基金」の大口寄付者の藤元節氏から「成績が優秀なローシャンを大学に進学できる道を残してほしい」という強い要望がでた。  NAWBと交渉の末覚書を交換して,2015(平成27)年7月2日に200万円,2017(平成29)年10月19日に100万円をNAWBあて送金した。  ムキーヤきょうだいは2020(令和2)年10月現在,アルチャナはNAWB点字出版所に勤務しながら,首都・カトマンズ市にあるマイルストーン国際大学(Milestone International College)経営学科3年に在籍している。  ローシャンはカトマンズ市に隣接するバクタプール市にあるサマジック大学(Samajik College)の情報処理学科(Computer Science and Information Technology)3年生で,コロナ禍のためZoomによるオンライン授業を受けている。  プジャは,マイルストーン国際大学で,日本の高校2・3年生に相当する「テン・プラス2(+2)」の経営学科2年生である。彼女は+2の課程を修了し,最終試験であるPCL(Proficiency Certificate Level)試験の受験勉強をしている。この試験により,高校の卒業ができ,進学できる大学が決まる。  アーラティは,スペインのバルセロナに本部を置く国際NGOである「Amics del Nepal(ネパールの友)」の財政支援で,ニューチューリップ校(New Tulips School)10年生に在籍している。本来であれば,彼女は今年の4月に州単位で実施されるSEE(Second- ary Education Examination:中等教育修了試験)(※)を受けて10年課程を卒業するはずであった。ところがコロナ禍によりその試験が無期限に延期されている。このためアーラティはいつ実施されるかわからないこの試験に備えて,午前中はニューチューリップ校で補習授業を受け,昼間はZoomによるオンライン授業を受けている。  (※)2016(平成28)年までSEEは,SLC(School Leaving Certificate:学校教育修了)国家試験と呼ばれていた。  写真:ムキーヤきょうだい(2020年10月)  左端から長女・アルチャナ・ムキーヤ(Archana Mukhiya)  三女・アーラティ・ムキーヤ(Arati Mukhiya)  次女・プジャ・ムキーヤ(Puja Mukhiya)  長男・ローシャン・ムキーヤ(Roshan Mukhiya) ++       ■スタディ・ツアー  協会がネパールを中心に視覚障害者を対象としたスタディ・ツアーを企画したのは,海外盲人援護事業(現・海外盲人交流事業)を,当初から熱心に支援していたある視覚障害者から「私たちもネパールに行って,東京ヘレン・ケラー協会が行っている事業を実際に見たり,現地の視覚障害者と交流したい」という,とても強い要望があったからだ。  それには,当時の海外盲人援護事業事務局長で協会理事であった井口淳(全盲)が,ネパールに出向いては,『点字ジャーナル』等で盛んに発信していたことが大きく影響していた。  「井口さんが行ったのなら,私も行けるはずだ,行ってみたい……」  ちょうどその頃,近畿日本ツーリスト(近ツー)の営業マンが偶然飛び込みで営業にきた。このハプニングともいうべき邂逅により,無理だと思われていたスタディ・ツアーが驚くべき速度で具体化していったのである。  もちろん,当初は視覚障害者を中心とした海外ツアーで,それも秘境ヒマラヤの国ネパールに行くということで,近ツーも二の足を踏んだ。  そこでネパール国内は現地旅行エージェントに任せたらいいと紹介して,近ツーは実質的に成田,カトマンズ間の往復とバンコクの手配だけを行うことで大きく前進したのであった。 ++     第1回スタディ・ツアー タイ&ネパール訪問  1988(昭和63)年12月26日〜1989(昭和64)年1月2日の旅程で,まず,バンコクのタイ盲人援護財団(Foundation for the Blind in Thailand)の施設を見学。翌日のカトマンズ行きロイヤル・ネパール航空機が欠航したので1日遅れでネパールへ。首都カトマンズのヒンドゥー教ゴパル寺院内にあるNAWB本部とカゲンドラ・ニューライフ・センターを見学し,カトマンズ観光。ポカラでガルミの丘へミニ・トレッキング,チベット難民キャンプ訪問。カトマンズのL・N・プラサドNAWB会長宅を表敬訪問,12月31日ホテルで越年パーティ。  参加者は,全盲17人,弱視5人,聾者1人,肢体1人,付添6人,毎日新聞社写真部1人,協会職員2人,添乗員1人の合計34人であった。 ++     第2回スタディ・ツアー ネパール訪問  1989(平成元)年12月25日〜香港経由,10日間の旅で,カトマンズのNAWB本部を訪問した後,ドゥリケル高校視覚障害教育セッションを訪問し,カトマンズ観光。景勝地ポカラにあるアマルシン高校視覚障害教育セッションを訪問。その後ペワ湖にレイクサイドからボートに乗り,湖の中の小島にあるヒンドゥー教のバラヒ寺院を見学。その翌日,ヒマラヤトレッキングの「Aコース」とチトワン観光コースの「Bコース」に分かれた。  Aコースは,サランコットの丘への1泊のミニ・トレッキング。  Bコースは,チトワンに移動し,ナラヤニ川をカヌーで渡り,テンプル・タイガーのジャングル・ワイルド・ライフ・キャンプに滞在。インドサイやベンガルトラ,ヒョウ,ヌマワニなど絶滅の恐れが高い動物が保護されているチトワン国立公園を象に乗って見学した。  参加者は,全盲8人,弱視3人,付添7人,協会職員1人,添乗員1人の合計20人であった。 ++     第3回スタディ・ツアー ネパール&バンコク訪問  1992(平成4)年12月25日〜1993(平成5)年1月4日の旅程でバンコク経由でカトマンズへ。NAWB点字出版所見学,カトマンズ観光。ゴルカに移動してトレッキングして山中にてキャンプ。古城・バザールを見学してダマウリ川の河川敷にてキャンプ。ポカラに移動してトレッキング,サランコットの丘で昼食の後,ノーダンダ村でキャンプ。アマルシン高校視覚障害教育セッションを訪問。空路カトマンズへ移動し,バクタプールとパタン観光。空路バンコクへ市内観光。  参加者は,全盲10人,弱視2人,付添11人,協会職員1人,添乗員1人の合計25人であった。 ++     第4回スタディ・ツアー 女史の足跡を訪ねて 米国訪問  1993(平成5)年9月16日〜9月24日の旅程で,パーキンス盲学校,女史の母校であるハーバード大学ラドクリフキャンパス,マサチューセッツ工科大学,ワシントンDC市内観光,航空宇宙博物館見学,米国議会図書館障害者サービス部門訪問,女史が埋葬されているワシントン大聖堂を見学。空路ニューヨークへ。市内観光の後,米国盲人援護協会(AFB)とニューヨーク・ライトハウス見学。  参加者は,視覚障害者16人,付添10人,協会職員2人,添乗員1人の合計29人であった。 ++     第5回スタディ・ツアー ネパール&タイ訪問  1994(平成6)年12月25日〜1995(平成7)年1月4日の旅程で,カトマンズのネパール盲人福祉協会(NAWB)と当事者団体のネパール盲人協会(NAB)を訪問。バクタプール観光,統合教育校のアダーシャ高校訪問。ヘレン・ケラー・インターナショナル(HKI)が財政支援するカブレCBRを訪問。ポカラへ移動しアマルシン高校視覚障害教育セッション訪問,チサパニへトレッキング。空路カトマンズへ,山岳リゾートマッラ・アルパイン・リゾート泊,カトマンズ市内観光。空路バンコクへ,タイ盲人援護財団とタイ・ライトハウスを訪問。  参加者は,全盲8人,弱視5人,聾者1人,付添8人,協会職員2人,添乗員1人,合計25人であった。 ++     第6回スタディ・ツアー ブラジル訪問  1995(平成7)年4月29日〜5月6日の旅程で,ロサンゼルス経由サンパウロへ,市内観光,鬼木市次郎先生が視覚障害者の自立を支えるためにサンパウロに開校した鬼木東洋医療専門学校(Escola Profissionalizante Oniki Terapia Oriental: EPOTO)を見学。サントス市内観光。EPOTO第1回卒業式と祝賀会に参加。イグアスの滝観光。リオデジャネイロ市内観光。  参加者は,全盲11人,弱視3人,聾者1人,付添7人,協会職員1人,添乗員1人,合計24人であった。 ++     第7回スタディ・ツアー 点字の故郷を訪ねて 英・独・仏国訪問  1996(平成8)年3月28日〜4月4日の旅程で,ロンドン近郊ピーターバラにある英国王立盲人援護協会(RNIB)点字出版所を見学。空路ミュンヘンに移動し,ホフブロイハウス等市内観光。空路パリへ移動。GIAA(視覚障害知識人協会)とバランタン・アユイ協会,パリ盲学校を見学。  参加者は,全盲13人,弱視6人,聾者1人,付添14人,協会職員1人,添乗員1人,合計36人であった。 ++     第8回スタディ・ツアー ネパール&タイ  1997(平成9)年2月18日〜28日の旅程でバンコク経由でカトマンズへ,NAWB訪問。空路シムラへ,統合教育校のドゥマルワナ高校視察。ジープでフィールドワーク(視覚障害者家庭訪問),バラCBRセンター訪問。チトワン国立公園観光(象のサファリ)。ポカラへ移動,市内観光,ペワ湖畔でキャンプファイアー,ミニ・トレッキング,チベット難民キャンプ訪問。空路カトマンズへ,市内観光。空路バンコクへ,市内観光。  参加者は,視覚障害者と付添11人,協会職員1人,添乗員1人,合計13人であった。 ++     第9回スタディ・ツアー ネパール訪問  1998(平成10)年11月29日〜12月6日,関西空港からカトマンズへロイヤルネパール航空の直行便で。国内線に乗り換え空路バイラワへ,ルンビニ観光。統合教育校のシャンティ高校視察。チトワン国立公園へ象のサファリ。ポカラへベグナス湖畔でバーベキュー。サランコットの丘へミニ・トレッキング。空路カトマンズへ,パタン,バクタプール,カトマンズ市内観光。  参加者は視覚障害者8人,付添4人,協会職員1人の合計13人であった。  協会がスタディ・ツアーを始めた1988(昭和63)年はバブル景気の最盛期で,特に同年12月から施行された米国訪問時のビザ免除制度などの影響で,海外旅行者が大幅に増加した頃であった。このため旅行会社には障害者を海外ツアーの対象とする考えはなかった。しかし,1991(平成3)年3月にバブルが崩壊すると風向きは大きく変わってきた。  近ツーの添乗員は出発前は不安を隠すことができなかったが,ツアーの途中からは満面に笑みを見せるようになった。帰国後の感想では,「一般のツアーでは必ず問題行動を起こすお客がいて,その尻ぬぐいに忙殺されます。しかしヘレン・ケラー・スタディ・ツアーでは,集合場所と時間を全員がキチンと守るのでこれほど楽な添乗はありませんでした」ということであった。  このため1990(平成2)年も後半になると,一般の旅行会社による視覚障害者を対象としたツアーも企画されるようになった。また,ネパールでは1996(平成8)年から2006(平成18)年にかけて,11年間にわたりネパール政府軍とネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)の間で激しい内戦が繰り広げられるようになり,協会のスタディ・ツアーも行われなくなった。 ++       ■盲人用具センター アイデアと工夫で新製品開発  ヘレン・ケラー学院開設後,学院生が遠方にまではりや灸の道具を買いに行くのは不便だろうと,同学院の一室に盲人用具販売室が設けられていた。それが現在の盲人用具センターの前身となったのだが,同センターは1982(昭和57)年に開設された。  その契機となったのは,次のような会話であった。  「井口さん,盲人の臨床家も血圧を測りたいんですよ」  「そうそう,特にはりを施術する場合は,血圧があまり高いと逆効果になりますからね」  毎月行われる『点字ジャーナル』編集委員会が終わると,おもむろに編集長の井口淳を口説きはじめたのは,神奈川県藤沢市で鍼灸治療院を経営する増田次郎氏と筑波大学附属盲学校で教鞭をとる阿佐博氏であった。  「目が見えていたら迷わず医師を目指していた」という増田氏は,ドイツ語にも堪能で,取り寄せた点字の洋書で,現代医学にも精通していた。その彼が,どうしても実現させたかったのが,音声血圧計の開発だった。  鍼灸を施術する前に,彼は必ず患者の脈を診た。そして,脈で高血圧かどうかを見極めることは,それほど難しいことではなかった。また,看護師数人をスタッフに擁する彼の立場では,血圧や体温といったいわゆるバイタルサインの測定は彼女らの仕事だった。  この日も,そのことを知る井口から「院長自ら血圧を測る必要が,あるんですかね」と,皮肉られた。  すると阿佐氏がすかさず「井口さん,全国に何万といる鍼灸師で,看護婦や助手を雇っているのは何人もいないんですよ。それに彼だって,たまには自分の血圧ぐらいは測りたいですよ」  さまざまな分野から委嘱された『点字ジャーナル』の編集委員の多くは,視覚障害当事者だった。そして当時は,ほとんどが鍼灸マッサージの有資格者で,音声血圧計については,この日ばかりでなく以前から編集委員会のたびに話題になっていたのだ。  この当時,シャープ(株)からは音声時計と音声電卓が発売されていた。これらはいわゆる視覚障害者用に開発されたものではなかったが,結果的に視覚障害者も極めて便利に使うことができる,今でいうユニバーサル・デザインの先駆けのような製品だった。  『点字ジャーナル』編集長であった井口淳は,かつて自分が毎日新聞社の駆け出しの記者であった頃,取材の関係で知遇を得,よく飲み歩いた仲間にシャープの前身である早川電機の若い社員がいた。その社員は出世して今や副社長であった。  井口は自分が失明したこと,毎日新聞社から出向して現在東京ヘレン・ケラー協会で点字雑誌を編集していること,そして視覚障害者が自由に血圧を測ることができない現状などを切々と訴え,この件につき直接面会を願いたい旨の手紙をしたため,シャープあてに投函した。  すると,間をおかず秘書を通じて,「詳しい話を聞きたい」という電話がかかってきた。井口は,約束の日に新幹線で,シャープの本社がある大阪市阿倍野区に向かった。  旧交を温め合う言葉から始まった会談は,井口が驚くほどとんとん拍子に進んだ。元々シャープの創業者早川徳次翁は,養父母が全盲であったため,シャープは伝統的に障害者とりわけ視覚障害者に理解の深い企業であった。  今でこそ企業の社会貢献がフィランソロピーという名前で喧伝されるが,そのような言葉も概念もまだなかった頃からシャープは,早川特選金属工場を興し障害者を雇用していた。  この会談で決まったことは,シャープが音声血圧計を製造するが,シャープには視覚障害者を対象に製品を販売した実績がない。そこで,普及・販売は東京ヘレン・ケラー協会が一手に行うということであった。 ++     盲人用具センターの設立 初の取扱製品は盲人用ミシン  以上のような経緯で音声デジタル血圧計の開発と普及のために,協会内に盲人用具センターが設置されることになった。そして,1982(昭和57)年4月3日ヘレン・ケラー学院講堂において,関係者を集めて盲人用具センター開所式が盛大に行われた。 ++     リッカー・ヘレンケラー誕生まで  点字出版局ではかねて事業の一環として,文部省から委託され盲学校の点字教科書を作成している。その教科書の一つに「技術・家庭科」があり,編纂者の一人に東京都心身障害福祉センター視覚障害課の鈴木文子氏がいた。彼女は,視覚障害者のADL(日常生活動作)の専門家としてよく知られていた。当時,彼女は視覚障害者のためのミシンの研究に情熱を傾けており,リッカー(株)の協力を得て,それは大詰めを迎えようとしていた。  鈴木氏は研究のため,限られた予算で3台の盲人用ミシンをリッカー(株)の研究者と共同で製作していた。そして,研究者の奮闘でできたものは,期待以上の素晴らしいミシンであった。そこで,彼女はなんとかこのミシンが製品化できないかと考えていた。しかし,彼女は研究者であり,しかも都の公務員である以上,詳細な研究論文を作成し,それを発表して終わりとするしか道はなかった。そこに,盲人用具センターが発足するらしいという噂が,彼女の耳に飛び込んできた。  盲人用具センターの所長は,点字出版局長の井口淳が兼務することになっていた。井口と鈴木氏は,家庭科点字教科書が取り持つ縁で,古くからの知り合いだった。このため,話はすんなりとまとまった。双方にとって渡りに船だったのだ。  したがって,音声デジタル血圧計のために発足した盲人用具センターではあったが,真っ先に発売されたのは,実は盲人用ミシン「リッカー・ヘレンケラー」ということになった。  早速,盲人用ミシンには,鈴木氏の指導で,拡大活字,点字,カセットテープによる3種類の取扱い説明書がつけられた。用具センターとはいっても,点字出版局が母体となっているので,これらの作成は,もちろんお手のものだった。 ++     リッカー・ヘレンケラーの反響  1981(昭和56)年12月8日,盲人用ミシン(14万9,800円)が慌ただしく売り出された。すると驚くほどの反響がわき起こった。全国紙はもちろん,共同通信の配信により全国の地方紙も写真入りで報じたのだ。リッカー(株)の中でも,それまでは「あまり商売にならない」と冷ややかに見られていたのが,これで社内の空気は一変したという。特に,日本経済新聞に大きく報道され,リッカーの役員会でも話題になったことが,大きかったという。 ++     ブラザー・ヘレンケラー誕生  盲人用ミシン「リッカー・ヘレンケラー」は,リッカー(株)が会社更生法の適用を受けるとともに,その生産を中止した。そして,数年の空白期間をおいて,改めて今度はブラザー(株)の協力を得て,1993(平成5)年4月14日に盲人用ミシン「ブラザー・ヘレンケラー」としてよみがえった。  盲人用ミシンを開発するということで,ブラザー技術陣と何度も会議を開いた。そこで,最大の問題になったのは,ミシンの回転数のことであった。盲人用ミシンは,一針縫いや超低速縫いができるように設計されている。特に技術者が問題にしたのは,「超低速縫い」についてであった。  和服はすべて直線縫いで仕立てられるが,洋服はそうはいかない。必ず曲線を縫う必要が生じる。視覚障害者が曲線を縫う場合は,あらかじめしつけ縫いをし,それに合わせて指で探りながらソーイングすることになる。その場合,ミシンはかなりの超低速でなければ,失敗する確率が多くなる。  しかし,ブラザーのエンジニアは,それは理論的に不可能だというのだ。  「無負荷で超低速で動かすことはできる。しかし,布を縫いはじめたらトルクが足らず,必ず止まる」と,頑固に言い張るのだった。  それに対して,我々は「リッカーができて,ブラザーができないということはないだろう。理論的にできないなら,リッカーもできないはずではないか?」と,しぶる技術者を説き伏せた。  理論的になぜ可能なのか我々はいまだに知らない。しかし,結果的には超低速縫いはできたのである。この技術開発は思わぬ副産物を生んだ。  ブラザー(株)では,この超低速縫いを学校用ミシンにも生かしたいと張り切りだしたのである。 ++     音声血圧計と和文タイプライター  シャープ・ヘレンケラー音声デジタル血圧計MB-505(10万8,800円)が発売されたのは,公式には1982(昭和57)年4月1日である。しかし,量産体制はまだ整っていなかった。  この血圧計は,協会の独占販売であるから,この時点で全国の盲学校や視力障害者センターなどと取引のある医療用機器販売店から一斉に注文が寄せられた。そしてその契約書は,今では考えられないが,和文タイプライターで打ったものであった。ちなみに日本語ワードプロセッサーは,東芝がJW-10の名前で1978(昭和53)年に630万円で発売したのが初めてである。 ++     盲人用具からユニバーサルデザインへ  盲人用具センターは,こうして音声デジタル血圧計,盲人用ミシン,盲人用電磁調理器,衣類識別シール,弱視者用拡大読書器LV-8の開発の他,米国からパーキンス・ブレイラー(点字タイプライター)やAPH4トラック盲人用テープレコーダーの輸入も行っていった。  一方,この間の科学技術の進歩には目を見張るものがある。特にパソコンの発展とその普及には,隔世の感がある。何しろ,盲人用具センターの最初の契約書は,和文タイプライターでコツコツと打たれたのである。また,盲人用具センター設立の契機となった音声血圧計は,その後オムロンでなじみ深い立石電機(株)から,一般用の廉価なタイプが発売され,シャープは音声血圧計の生産を中止した。音声合成技術が特殊なものではなくなり,高齢者や障害者も使いやすい機器が続々と開発されたからであった。一時的には打撃となったが,協会の果たした役目を考えるなら,これはもちろん喜ぶべきことである。 ++       ■盲学生音楽コンクール ―― 国際的視覚障害音楽家を世に送り出す ――  東日本ヘレン・ケラー財団(現・東京ヘレン・ケラー協会)と,西日本ヘレン・ケラー財団(現・日本ヘレン・ケラー財団)を統括する日本ヘレン・ケラー協会(当時)は,両財団共通の事業として盲学校の児童・生徒を対象とした音楽コンクールを企画し,開催することになった。  ねらいは盲学校で行われている音楽教育の実情を広く知ってもらうことと,視覚障害学生の音楽レベルの向上につなげ音楽家を育てようというものだった。  まだ終戦の混乱が尾を引くなか,視覚障害学生の新しい道として音楽に着眼した両財団幹部の慧眼は,音楽界はもとより,世間の注目を浴び,後に国際的な視覚障害音楽家を生む素地となったことは特筆に値する。  日本ヘレン・ケラー財団(大阪)副理事長山本茂氏(当時・毎日新聞大阪社会事業団兼西日本ヘレン・ケラー財団職員)によると,東日本ヘレン・ケラー財団の一色直文常務理事と西日本ヘレン・ケラー財団の松尾純雄常務理事(毎日新聞大阪社会事業団兼務)が連絡をとりあい,実現にこぎつけたという。 ++     第1回(1949〔昭和24〕年)  第1回は「全国盲学生音楽コンクール」として1949(昭和24)年12月13日,東京有楽町の毎日ホールで開かれた。当時の毎日新聞は,12月12日の紙面で,「第1回全国盲学生音楽コンクール」という1段見出しをつけ「日本ヘレン・ケラー協会最初の事業」として,次のように社告を掲載した。  盲学校音楽教育の実際を知ってもらうためと,声楽家志望の盲学生を世に出すため,都下盲学校音楽会を兼ねて次のとおり開催します(入場無料)。参加校は石川,徳島,宮城ほか17校 ▽種目 童謡,独唱,重唱,合唱,作曲,ピアノ ▽審査員 増沢健美,中川元治,野村光一ほか ▽日時 13日午前9時〜午後4時 ▽会場 毎日ホール(録音放送) ▽主催 日本ヘレン・ケラー協会,東京都教育庁 ▽後援 文部省,日本放送協会,毎日新聞社,点字毎日。 ++     第2回(1950〔昭和25〕年)  第2回の音楽コンクールは,1950(昭和25)年11月,東京・神田のYWCAで開催された。 ++     第3回(1951〔昭和26〕年)  第3回の音楽コンクールは11月24日午前10時から大阪市東区東雲町大阪女学院講堂で開催された。主催は日本ヘレン・ケラー協会(東日本,西日本両ヘレン・ケラー財団)で,後援に文部省,毎日新聞社,大阪中央放送局(NHK)が名を連ねた。  参加校は,東京教育大附属,都立文京,千葉,岡崎,滋賀,奈良,京都,大阪府立,神戸市立,兵庫,和歌山などの各盲学校と横浜訓盲院の計13校であった。 ++     第4回(1952〔昭和27〕年)  第4回は11月16日に東京ヘレン・ケラー協会講堂で開かれた。ヘレン・ケラー学院の歌で幕を開け,協会常務理事一色直文のあいさつ,文部大臣の祝辞に次いで,東京芸術大学教授宮城道雄氏(代理)が盲人の立場から励ましの言葉を寄せ,毎日新聞社社長本田親男氏(代理)が「毎日新聞が協会に寄付したアメリカン・サーカスの売上金により,ピアノが学院に備えられたことは喜ばしい。今日はそのご披露と聞いている。有能な芸術家に育ってほしい」と述べた。  第5回は再び大阪で開くことで,両財団の意見が一致し,準備に着手したが,諸般の事情で,実現に至らず中止となった。 ++     第6回(1954〔昭和29〕年)  第6回は,東京ヘレン・ケラー協会のみの主催で,11月23日,名称を「全日本盲学生音楽コンクール」とし新宿区のヘレン・ケラー学院講堂で開催した。後援は文部省,東京都,NHK,毎日新聞社,点字毎日,審査員は音楽評論家野村光一氏,アルト歌手柳兼子氏,作曲家井上武士氏,文部省初等中等教育局調査官浜野政雄氏であった。  第6回音楽コンクールでは,後に世界的なバイオリニストになる和波孝禧氏が横浜市立盲学校4年生の9歳で出演,ヘンデルの奏鳴曲4番を演奏した。和波氏のバイオリンのレベルは一際抜きんでており,審査員の絶賛を浴び,器楽部門第1位の特賞に輝いた。  この年から開催期日は11月23日の勤労感謝の日,会場はヘレン・ケラー学院講堂が定着した。 ++     第17回(1967〔昭和42〕年)  第17回音楽コンクールでは,後に著名なチェンバロ,パイプオルガンなど鍵盤楽器演奏,作曲家となる武久源造氏が,愛媛県立松山盲学校4年生でピアノの部に出場,第1位となった。曲目は「ソナタアルバムより第1番ハイドン・ト長調第1楽章」。審査員からは「感性豊かで,将来が楽しみ」と絶賛された。 ++     第40回(1990〔平成2〕年)  第40回を迎えた音楽コンクールは,11月23日,会場を東京都新宿区立「新宿文化センター」小ホールに移し,東京ヘレン・ケラー協会設立40周年記念行事として実施した。  そして,1987(昭和62)年の毎日新聞社・NHK主催,第56回日本音楽コンクール,ピアノ部門2位入賞の近藤嘉宏氏が,ピアノソロによる記念特別演奏をおこなった。 ++     第45回(1995〔平成7〕年)  第45回音楽コンクールも11月23日に,「新宿文化センター」小ホールにて開催した。 ++     第47回(1997〔平成9〕年)  第47回音楽コンクールからは,音響効果の優れた新宿文化センターを会場とする方針を決め,同センター事務局の厚意ある協力を得て,48回,49回と続いて開催した。  第47回には,本コンクール出身のバイオリニスト和波孝禧氏が海外の多忙な演奏活動の合間を縫って審査員に加わってくれた。この音楽コンクールからコンクール終了後,演奏者や審査員の先生方から将来の練習の進め方などについて直接指導を受ける個別アドバイス方式を採用した。閉会式で先生方の講評を受け,自分たちの順位発表のあとの指導だけに,参加した児童・生徒や先生方の間では,「きめ細かい指導をいただいた」と好評だった。  以後,毎回この個別アドバイスが続けられ,審査員の先生方の前には長い列が続いた。  第47回になると,発足当時の童謡,独唱,重唱,合唱,作曲,ピアノという種目が,器楽部門「ピアノ,バイオリン,その他(和楽器など)」,声楽部門が独唱一部(小・中学生),独唱二部(高校生),重唱・合唱の部となった。この年はピアノの部で7人,バイオリンの部で4人,その他の部で1人,声楽部門で独唱一部1人,同二部で4人,重唱・合唱の部で4校の参加があった。  審査員は,コンクールの趣旨を生かし,一定のレベルに達しない場合は,入賞該当なしという厳しい態度をとった。この年は,ピアノの部の2位,バイオリンの部の3位,その他の楽器で1,2位,独唱の一部で1,2位,同二部で1位に該当者がなかった。 ++     第49回(1999〔平成11〕年)  第49回音楽コンクールの審査員は,岩井宏之(音楽評論家),寺西春雄(同),藤田由之(同)の3氏だった。  この音楽コンクールには,毎回,文部省,東京都教育委員会,東京都新宿区,全国盲学校長会,毎日新聞社,点字毎日,毎日新聞東京社会事業団が後援,1998(平成10)年の第48回から,NHK厚生文化事業団が加わった。  後援の毎日新聞社,点字毎日,毎日新聞東京社会事業団からトロフィー,参加賞などの寄贈を受けている。  長い歴史を誇る全日本盲学生音楽コンクールの入賞者の中には前述した和波孝禧氏,武久源造氏のように,その後,音楽家として大成した人もいるが,このコンクールは視覚障害児・者に音楽の修練を通して,豊かな人間性や努力の大切さなどを自覚させる点で大きな成果を上げた。 ++     第50回(2000〔平成12〕年)  元東北大学講師で,山形盲学校に30余年にわたって勤務した鈴木栄助氏は,『ある盲学校教師の30年』(岩波新書)で,「第20回全日本盲学生音楽コンクール歌曲の部」(1970〔昭和45〕年)で第1位になったA子さんが,ベッリーニ作曲,歌劇「夢遊病の女」の「信じ得もせば」を,原語で,明るい艶のある発声でまとめたと書き,ともすれば盲学生の歌は,発声に難があるといわれた通評をはねのけたと絶賛。そのA子さんについて,新聞社を通じて審査委員長だった服部公一氏に音楽家としての資質を照会したところ,音楽の道の険しさと,音楽を余技とするようにとの温かい返信をいただいた,と記している。  A子さんは,服部氏の励ましを素直に受け入れ,音楽でやり遂げた自信と達成感を理療に生かすことにしたという。  このように,盲学生音楽コンクールには,入賞者に限らず,その練習過程や発表の成果が視力のない,あるいは視力の弱い人たちに,自らのハンディを克服して,生きる力を与えていることは事実で,その点で,大きな意義のある催しといえるだろう。  50回という年輪を刻んで,今後,普通校に学ぶ視覚障害者にも参加を呼びかけ,次回の第51回から「ヘレン・ケラー記念音楽コンクール」に名称を変更して,新しい時代に即応したコンクールに脱皮することになった(詳細は,巻末「資料」参照)。 ++     第55回(2005〔平成17〕年)  会場として使用していた新宿文化センターの大規模改修工事に伴い,日本たばこ産業が所有するJTホール「アフィニス」に会場を移し,JTと共催で,「JTシチズンシップイベント」として開催した。  審査員は,岩井宏之氏,藤田由之氏,和波孝禧氏,武久源造氏(43回から審査員)が担当した。音楽コンクール演奏終了後に,特別演奏として和波氏が「バッハ:無伴奏バイオリンソナタ」と,ピアニストの土屋美寧子氏の伴奏を加え計5曲を披露した。同年以降,特別演奏を行うことが恒例化した。 ++     第57回(2007〔平成19〕年)  毎日新聞専門編集員(音楽担当)の梅津時比古氏,合唱指揮者・声楽家の淡野弓子氏,和波孝禧氏,武久源造氏が審査を担当した。以降より同氏らによる審査にて実施。  特別演奏は,三浦文彰氏がバイオリン演奏「プロコフィエフ:バイオリンソナタ第2番」など2曲を披露した。 ++     第58回(2008〔平成20〕年)  ソシエテ・ジェネラル証券の協賛により本回から60回までプログラム作成や会場内での飲料提供の支援を受けた。特別演奏は,綱川泰典氏がフルート演奏「ドップラー:子守歌」など5曲を披露した。 ++     第60回(2010〔平成22〕年)  60回の記念コンクール開催にあたり,初の海外参加者として韓国の視覚障害生徒を招いて開催した。特別演奏はロー磨秀氏がピアノ演奏「バッハ:平均律クラヴィーア曲集」など3曲を披露した。 ++     第61回(2011〔平成23〕年)  特別演奏は,大江馨氏がバイオリン演奏「モーツァルト:ピアノとバイオリンのためのソナタ」など2曲を披露した。  来場者増加によりJTホールでは安全性が保てないとのことから新たな会場を模索し始めることとなった。 ++     第62回(2012〔平成24〕年)  参加者や来場者の増加に伴い,会場をトッパンホールに移して開催。あわせて同年から3年の期限付きで,ナチュラリープラスの特別協賛を受けて開催することとなった。  審査員からは,「すばらしいホールですばらしい演奏を聴くことができた。レベルの高いコンクールだった」と称賛の声が上がった。また,同回より審査員による講評コメントを出場者にフィードバックすることとし,出場者からは「次へのステップとして,とても励みになります」との声が届いた。  特別演奏は,澤田理絵氏がソプラノ歌唱「ヘンデル:歌劇」ほか5曲を披露した。 ++     第65回(2015〔平成27〕年)  同回より参天製薬より寄附を受けての開催となる。  審査は,毎日新聞専門編集員(音楽担当)の梅津時比古氏,合唱指揮者・声楽家の淡野弓子氏,和波孝禧氏,ピアニストの花岡千春氏が担当した。  その他の楽器の部に沖縄衣装をまとった出場者による三線演奏や,ホルン,クラリネットなど,多様な楽器演奏が目立った。審査員からは「皆さん本格的な音を響かせ,他のコンクールでは味わえない胸に迫る演奏だった」との声が上がった。  特別演奏として五十嵐薫子氏がピアノ演奏「シューマン:謝肉祭」を披露した。 ++     第66回(2016〔平成28〕年)  審査員は,梅津時比古氏,淡野弓子氏,和波孝禧氏,洗足学園音楽大学客員教授の播本枝未子氏のほか,邦楽器の出場者が増えたことから,『邦楽ジャーナル』編集長の田中隆文氏を迎えての開催となった。  特別演奏は,橋本夏季氏がソプラノ歌唱「ベッリーニ:あなたの優しい声が」ほか4曲を披露した。 ++     第69回(2019〔令和元〕年)  審査は,梅津時比古氏,淡野弓子氏,和波孝禧氏,花岡千春氏,田中隆文氏が担当した。  特別演奏は,樋口一朗氏がピアノ演奏「ショパン:マズルカOP.59」などを披露した。 ++     各界からの祝辞  音楽コンクールには,各界から祝辞が寄せられたが,第4回(1952〔昭和27〕年)には,宮城道雄氏,文部大臣,毎日新聞社社長から「コンクール出場の皆さんへ」とメッセージが届けられた。  今日は皆さんがさぞ熱演される事と思いますが,何れもよい結果を得られるやうにお祈り致して居ります。私共盲人は,耳をたよりに音の世界に生きるものでありますので,このコンクールを機会に皆さんは一層音楽の神髄を究められる事と思います。  実は私が伺って直接応援を致すつもりで居りましたところ,先約のため残念ながらこれを以て応援の言葉にかえたいと思います。  昭和27年11月16日 宮城道雄  東京ヘレン・ケラー協会の主催により,ここに第4回全国盲学生音楽コンクールが盛大に開催されますことは,まことによろこばしいことに存じます。  皆さんも御承知のように,天皇皇后両陛下には明仁親王殿下の立太子礼および皇太子成年式を行わせられるにつき,盲聾その他肢体不自由児に対する教育の資にあてるおぼしめしをもって,金一封を御下賜になりました。まことにありがたいことで,皆さんがたにもどんなにか感激の深いことでしょう。この感激も新たな今日,全国各地の盲学校から皆さんが集まって音楽コンクールが行われるということは,とくに意義深いものであると存じます。  今やわが国は再び独立国として国際社会に仲間入りしたのでありますが,これから他の国々と手をつないで平和な世界の建設に力を尽くすためには,まずひとりびとりがどこの国民とでも肩をならべてみても恥じるところのない,りっぱな人間とならなければなりません。皆さんが平素音楽を勉強するのも,これによって情操教育を豊かにし,教養を高め,やがてりっぱな社会人となるための修養であると思うのであります。どうか皆さんは今日の晴れの舞台で,日ごろ練習したところを存分にあらわして,みごとな成果をあげてください。わたくしは本日の音楽会の成功を祈るとともに,これが契機となって皆さんが今後ますます元気で勉強に精を出し,やがてりっぱな社会人となられるよう望んでやまないのであります。  昭和27年11月16日 文部大臣 岡野清豪  東京ヘレン・ケラー協会の事業が日増しに発展し,漸く全国の盲人各位に徹底されて参りましたことは御同慶に堪えないところであります。中にも全国盲学生音楽コンクールは本年で第4回を重ねその規模またいよいよ盛大となり,今回は四国地方の遠隔な地からも参加され,総出場数は15校,約130名の多きに達しました。初回より後援して居ります毎日新聞社といたしましては大きな喜びであり,また誇りでもあります。盲学校の音楽教育が単なるなぐさみではなく純粋な競技の域に達したことは皆様の勉強心をいやが上にもそそり今日の目覚ましい発展に導いたものと確信して居ります。  本社はさきにアメリカン・サーカスの売上金の中から更生資金として金一封をヘレン・ケラー協会に寄付致しましたが,これを基礎にして立派なピアノが備えられ,今日はそのピアノの御披露でもあると聞いております。  願わくば盲学生諸君におかれては今後益々技をみがき一般音楽者に伍して有能な芸術家がこの音楽コンクールを通して生まれ出ることを期待してやみません。  昭和27年11月16日 毎日新聞社社長 本田親男  写真:コンクールは学院合唱団のリードで「幸福の青い鳥」の大合唱でいつも閉会する ++ 第6章 設立50周年から70周年まで 2000(平成12)年〜2020(令和2)年  写真:チェコ(右端)とドイツの技術者(右から3人目)による協会に設置されたGPB-3の調整 ++       ■会報『青い鳥』からみた協会の20年  Web 『青い鳥』 https://www.thka.jp/about/information.html  この「第6章」では,2000(平成12)年(50周年)〜2020(令和2)年(70周年)の協会の主な事業や活動を紹介する。  この20年間の事業や活動は,その都度,会報『青い鳥』によって一般に公開してきた。さらに2004(平成16)年11月1日発行の『青い鳥』第6号からは,PDF形式とTXT形式において,協会ホームページ上でも公開しており,ダウンロードしてどなたでも読むことができる。  以下は,協会会報の紙面からみた2000(平成12)年〜2020(令和2)年の協会の活動である。  読みやすいようにできるだけ施設やテーマでまとめて掲載するよう工夫した。  原則として役職等は当時のままだが,写真はレイアウトも考慮してより適切なものを取捨選択した。  また,本文に関しては,未来形で記してあったものは,過去形に直したり,初出の際に校正が充分でなかった部分等は,改めて加筆・修正したことをここにお断りする。 ++     協会会報の創刊  1998(平成10)年9月1日付で『協会だより』通巻第1号として協会会報が発行された。  年に1回発行の予定だったが2000(平成12)年には発行されず,2002(平成14)年9月1日付通巻第4号からは題字を『青い鳥』に改めて,発行するようになった。  この第4号までは発行人名が記載されていないが,当時の理事長は堀込藤一氏なので,同氏が発行人である。  2005(平成17)年10月1日付,通巻7号からは発行人は藤元節理事長,編集は広報委員会となり紙面がカラー化された。なお,広報委員会は2005(平成17)年9月に石原尚樹常務理事を広報委員長に組織された。  先に述べたように会報の発行人は理事長で,編集人は広報委員長が務めている。広報委員長は,常務理事/業務執行理事が代々務めている。  2006(平成18)年は,6月12日付通巻8号と,12月8日付通巻第9号が発行され,この年から会報『青い鳥』は年2回発行されるようになった。 ++       ■毎日ホールで50周年式典  50年間の協会事業と活動を支えてくださった個人や施設・団体に感謝し,新たな挑戦を誓う社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会「設立50周年記念感謝のつどい」が,2000(平成12)年11月10日,東京都千代田区の毎日新聞東京本社(パレスサイドビル)内「毎日ホール」で開催された。  「感謝のつどい」は,まずヘレン・ケラー学院音楽講師・勝見友香氏の「ヘレン・ケラーの歌 ―― 幸福の青い鳥」独唱で幕を開けた。  次に厚生大臣代理の福島豊厚生総括政務次官,谷川健次東京都障害福祉部長,八代英太衆議院議員(前・郵政大臣),駐日ネパール王国大使館モハン・K・シュレスタ参事官,本間一夫日本点字図書館理事長,斎藤明毎日新聞社社長らの祝辞が行われた。  続いて,ボランティア活動や寄附などにより,協会を支援していただいている個人と団体に感謝状を贈呈。  そして,長年にわたり盲人用具の研究・開発・製造を継続し,視覚障害者の自立と社会参加に貢献した盲人福祉研究会代表の斯波千秋氏に,第8回ヘレンケラー・サリバン賞を贈った。  休憩をはさんで,ヘレン・ケラー学院の第6回卒業生で,毎日俳句大賞で準大賞となった戸田雅弘氏の講演を行い,最後に,記録映画「ヘレン・ケラー女史を迎えて」を上映した。  このフィルムは協会倉庫に長年保管されていたもので,ヘレン・ケラー女史が初めて日本を訪問された1937(昭和12)年の「ヘレン・ケラー女史歓迎晩餐会」(無声映画,撮影:加地商会)と「お茶会」のフィルムが2本と,協会誕生の原動力となった1948(昭和23)年に再来日され各地を歴訪された際のフィルム「青い鳥のおとずれ」の計3本である。ただ,昔の映画フィルムは,フィルムベースにナイトレートセルロース(硝酸)が使用された「ナイトレートフィルム」というもので可燃性で,とても危険であった。  そこで50周年を機に,協会設立の原点への思いを新たにしたいとの願いを込め,毎日映画社にデジタル化を依頼し,DVDにまとめた。  なお出席者は来賓が150人,職員・教員が約50人で,合わせて200人であった。 ++       ■協会装い新たに ++     1998(平成10)年の外装工事  ヘレン・ケラー学院校舎(本館)と,点字図書館,点字出版所の一部が入る新館の改修工事が1998(平成10)年7月から8月にかけて行われ淡いグリーンにお化粧直しをした。  協会の本館と新館は建築後30年を経過し,外壁の一部が崩れる恐れが出てきたり,鉄製窓枠の動きが鈍くなったり,雨漏りの恐れが出たり,老朽化が目立っていた。  協会では,3月と5月の理事会,評議員会で承認を得,公益財団法人車両競技公益資金記念財団の補助を受け,リニューアルすることになった。  本館,新館の危険箇所の補修,屋上の修理,外壁の塗装,鉄扉や鉄製窓枠を軽量サッシに取り替えるなど竣工以来初めての大工事となったので,学院の夏休みを利用して行った。  改修にあたっては,たとえば弱視者に配慮して点字図書館の階段と踊り場の色を変えて,階段の終わったことがわかるように工夫した。 ++     学院実技室に空調機  ヘレン・ケラー学院の二つの実技室に社会福祉・医療事業団の補助を受けて待望の空調機が1998(平成10)年8月に入った。実技室はあん摩マッサージ指圧,はり,きゅうの授業や,臨床実習に使われ,使用頻度はかなり高い。  実技に力をいれている本学院では特に春休みと夏休み中に1・2年生が,理療科教師の指導のもと,一般患者を対象に治療の臨床を行っている。 ++     1999(平成11)年の内装工事  ヘレン・ケラー学院校舎(本館)の内装工事が学院の夏休みを利用して7月から8月にかけて行われた。  この内装工事は,東京都共同募金会の補助を受け,ドアや床の一部を新しくしたほか,廊下と教室との間の窓も,上半分を透明にした。  また,事務室の玄関側の窓は,従来は小さかったのを大きな透明ガラスにし,各教室,治療室,実習室,事務室,廊下などの壁は白で統一。ドアや窓枠の色はグレイにし,階段の手すりは茶色にした。  最近使用できなくなっていた2階の男子トイレも改修し,2学期から使えるようにした。  バリアフリーの考えを取り入れてドアの敷居の段差をなくし,教室の机と椅子もかんなをかけてニスを塗り直し,温かい木のぬくもりが伝わるようにした。 ++     学院の教材室さらに充実  ヘレン・ケラー学院では,財団法人富士福祉事業団等の補助を受け,1998(平成10)年度は主に解剖,鍼灸の授業等に使用する機器・器具,標本,模型などの充実をはかった。  新たに補充されたのは,電子血圧計,温灸器,人体骨格模型(等身大),ニューロン模型,蝶形骨模型,肝臓構造模型など。 ++     生まれ変わった新館 大改修で機能的に  点字出版所と点字図書館のある協会新館の補修工事が行われた。  1973(昭和48)年の竣工以来初めての全面改修で,機能的で使いやすい施設に生まれ変わった。  工事は2002(平成14)年3月1日から3カ月間,土日と祝日を中心に通常業務を休まず進められた。総工費約2,606万円のうち1,253万円は公益財団法人車両競技公益資金記念財団から競輪・オートレース収益金による助成を受けた。  工事の主な内容は,まず老朽化した建物の補強。各階に補強柱を立て,1〜3階に筋交を入れた。  吹き抜けだった外階段は蹴込部分の空間を鉄板でふさぎ,滑り止めを施した。また,1階入口へのコンクリート製階段上にスロープを取り付け,バリアフリーと荷物運搬の負担軽減を図った。さらに2階点字図書館中央部と本館2階をタラップで結び,避難路を確保した。  内装関係では,点字図書館と新館3階点字出版所印刷室の床面を張り替え,壁と天井も塗り替え,3階は防音を強化し,給湯設備を一新した。  点字図書館は男女各1のトイレのほかロッカー室,ボランティア談笑コーナーを新設した。点字出版所印刷課作業場の給湯室外側に独立した流し台を設置し,「亜鉛版洗浄コーナー」を設けた。  空調は屋上に設置されていた既存の水冷式大型室外機と地下室に設置されていた室内機,それに専用ダクトを撤去し,1〜3階に空調機8台を設置した。照明も蛍光灯はすべて交換した。さらに1〜3階を結ぶ小荷物専用昇降機「ダムウェーター」を新設し,作業効率を高めた。 ++     全教室に空調機が入った!  2002(平成14)年9月,ヘレン・ケラー学院に待望の新しい空調機が設置された。  従来冬期は,全館重油暖房だったが,夏期は,実技室と大ホール,それに事務室のみにしか冷房は効かなかった。  新空調設備は,全教室を事務所で一元管理できる最新式の冷暖房空調機である。  冬期の重油暖房は,煙が近隣に迷惑を及ぼすことも懸念されていたが一挙に解決し,さらにボイラー室は学生の更衣室に生まれ変わった。  従来は,実技などで学生が出払った教室でも暖房が効いていたり,日光で暖かい南側の教室とそれ以外の教室が一律に温められる不合理があった。  しかし,新空調設備は教室ごとに温度調整ができるので,常に適温が保たれるので快適になった。  工事費約1,012万円のうち759万円は東京都共同募金会から助成を得た。 ++     耐震改修工事がスタート 2012年1月,まず新館から  協会は耐震強度の不足が指摘され,緊急の課題となっていた新館の屋外階段の改修工事をスタートさせた。  今回の工事は点字出版所印刷室と点字図書館が入る新館と,1階から屋上に通じる屋外階段。工事は2012(平成24)年5月末までの計画で,期間中は一部の業務を停止するなど安全の確保をはかった。  耐震改修工事は東京都の補助金事業として2011(平成23)年8月に申請。10月下旬に内定の知らせがあった。その後,都と協議を重ねながら一般競争入札手続きを進め,12月中旬には工事請負業者が決まった。  工事は1,2月に1階,3月中旬から4月初旬の間に2階,4月中旬から5月にかけて3階と進め,各階の耐震補強鉄骨を交換して強度を高めた。また階段部分も新館と一体化させ,倒壊の危険を防いだ。  工期が長く,資材や建材が中庭等に運び込まれるため,ヘレン・ケラー学院生や教職員,来訪する視覚障害者やボランティア等に危険が及ばないよう周知徹底し,業者にも最大の安全を確保するよう要請した。  特に点字図書館は,期間中の貸し出し業務やボランティア活動,点字講習,パソコン講習等に大きな影響が出るため,臨時休館も含めて万全の態勢を取ることにした。 ++     耐震工事が完了 強い揺れにも耐える強度に  点字図書館と点字出版所が入る新館の耐震改修工事(東京都補助金事業)が2012(平成24)年5月31日,当初の計画通り終了した。  本工事は,(1)各階東西南北にある8本の補強鉄骨を約2倍の太さに交換し,耐震強度を高める。(2)最も危険と指摘された屋外階段を新館と鉄骨で繋ぎ,構造的に一つの建物とすることで階段の倒壊を防ぐ,という二つの目的があった。  施工業者は2011(平成23)年12月中旬,入札で東京都港区に本社を置く池田建設株式会社に決定,着工は2012(平成24)年1月6日となった。工事は1階点字印刷室,2階点字図書館,3階点字印刷室,屋外階段の順に行った。点字図書館,点字出版所とも業務を中断することが不可能な上,騒音・振動などで支障がないように工事をすることが契約時の条件だったため,1階は1月6日から3月18日,2階は3月4日から4月5日,3階は4月7日から5月18日,屋外階段は5月8日から5月20日までと,階ごとに工期をずらして施工。業者はやりくりに苦慮したが,優秀な作業員が集結してくれたおかげで工事自体は5月20日で終了した。  5月22日には施工業者,工事監理業者,協会の3者で内部検査を実施。また31日には東京都から検査員が書類検査と現場を確認し,いずれも滞りなく終了した。改修後の耐震強度は基準値をクリアしており,地震の強い揺れがきても倒壊する危険が大幅に減ったことで,満足いく結果となった。 ++     本館も耐震補強工事完了 騒音・安全に配慮  耐震補強が急がれていたヘレン・ケラー学院校舎(本館)の工事が,夏休み終了直前の2013(平成25)年8月31日に無事完了した。  前年度に新館の耐震補強工事が終わっており,今回の工事で協会の建物全体が耐震強化されたことになった。懸案だった事業の完了であり,大きな地震が襲っても本館・新館とも簡単には倒れない構造となった。  2008(平成20)年に建物耐震診断を実施した際に,耐震性能が基準以下であると指摘されていたが,資金のめどや施工時期の検討などから新館は2012(平成24)年度,本館は2013(平成25)年度に実施することを決めた。  今回の本館工事は安全性と短期工事を最優先にした。安全性はもちろん学生をはじめとする視覚障害者を考えてのことであり,短期工事は学院の授業を妨げないためである。  このため新館工事を経験した施工業者と監理業者に本館工事も請け負ってもらうことを前提にして,見積もり等をとって検討した結果,妥当と判断し,2社と契約を交わした。  工事は学院の夏休みに入ってすぐ開始する計画だったが,学生の夏休み補講が避けられず,まず音の出ない工事を先行し,補講終了後から壁面破砕など大きな音を出すように工程表を作成した。だが隣接する点字図書館には直接騒音が届くため,職員やボランティアには相当我慢を強いることになった。また,本館ホールを使用する点訳ボランティア養成講習会や音訳ボランティアのスタジオ使用は,この間中止せざるを得なかった。  工事関係者はもとより協会に出入りする多くの方たちや近隣住民の方たちのご協力で,工事は工期内に終了し,2学期始業式の9月2日からは何事もなかったように授業が始まった。 ++       ■協会設立60周年記念 チャリティー「ハッピー60thコンサート」  写真:和波孝禧(バイオリン),武久源造氏(チェンバロ),澤田理絵氏(ソプラノ)  協会設立60周年記念チャリティー「ハッピー60thコンサート」(後援:毎日新聞社,毎日新聞東京社会事業団,点字毎日,特別協賛:(株)ナチュラリープラス,協賛:スタンダードチャータード銀行,カンナム障害者福祉館)は2011(平成23)年1月23日,第一生命ホール(東京都中央区晴海)で開かれ,600人を超す観客とともに,クラシック演奏の数々を楽しんだ。  午後1時半の開場を前に大勢の方が訪れ,公演への期待と熱気がいやおうなく盛り上がる中,午後2時に第1部がオープン。武久源造氏のチェンバロによるバッハの名曲でスタートし,澤田理絵氏のソプラノ歌曲,綱川泰典氏のフルート2曲,韓国からのゲスト,イ・ジェヒョク氏のショパンのピアノ曲など,多彩な演奏を繰り広げた。  第2部では出演者による協演。和波孝禧氏のバイオリンとイ・ジェヒョク氏のピアノによる「スプリングソナタ」の愛称で親しまれているベートーベン作曲バイオリンソナタ第5番ヘ長調「春」第1楽章は,会場を陶酔させた。  みわつゆみ氏の司会で,出演者のインタビューなども折り込み,最後は出演者全員が舞台にそろって,観客との交流を深めた。  会場で募金を呼びかけたところ多くの方が快く応じてくれた。チャリティーの収益と募金は,視覚障害者支援のために有効活用した。 ++     日韓の障害音楽家深い感動を残して交流 ビューティフル・フレンズコンサート  日本と韓国の障害者と障害のないアーティストが,ともに音楽を通して交流するチャリティーコンサート「ビューティフル・フレンズコンサート」が,2008(平成20)年4月9日の夜,東京都千代田区の紀尾井ホールで開催された。  2008(平成20)年が「日韓観光交流年」であることから,韓国の国際文化交流団体であるビューティフル・マインド・チャリティー(BMC)が企画し,韓国の大手製鉄会社ポスコ(POSCO)が,新日本製鐵の協力を得て開催したものである。  協会はBMCの依頼で,ピアニストの辻井伸行氏(1995〔平成7〕年協会主催の全日本盲学生音楽コンクール器楽部門ピアノの部第1位,2005〔平成17〕年第15回ショパン国際ピアノコンクール「批評家賞」の受賞者)を紹介したのが縁で,開催者からチケット収益と当日会場で集められた募金から寄付金がいただけることになり,チケットは『点字ジャーナル』の読者プレゼントとなった。  コンサートは,女優のユン・ソナ氏を司会に,韓国からは「四本指のピアニスト」として有名なイ・ヒア氏,バイオリニストのチーユン氏,18人の団員のうち10人が視覚障害者のオーケストラ「ハートハート・チェンバー・オーケストラ」らが出演した。  日本からは,辻井氏,テノールの樋口達哉氏が出演した。  演奏休憩中の出演者インタビューで辻井氏は,「東京ヘレン・ケラー協会主催の音楽コンクールで1位になり,目は見えなくてもピアノはやれるのだと自信を持つことができました。それが音楽家の道を志す良い契機となりました」と明るく話し,大きな拍手に包まれた。  最後には出演者全員による「アメイジング・グレース」が披露され,コンサートは感動のうちに幕を閉じた。このあと,BMCから協会に寄付金105万2,933円が贈られた。  辻井氏は,本コンサートの翌2009(平成21)年6月7日,米国で開催された「ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」で日本人として初の優勝を飾った。 ++     日韓合同「音楽とシンポジウム」  協会設立60周年記念チャリティー「ハッピー60thコンサート」に協賛した韓国のカンナム障害者福祉館は,2011(平成23)年1月22日,日本点字図書館で,東京ヘレン・ケラー協会と国際視覚障害者援護協会(IAVI)と共催して「日韓友好『音楽とシンポジウム』の集い」を開催した。  第1部はヘレン・ケラー学院の和出野充洪先生をリーダーとした声楽集団「ヴォーチェ・アプリート」がイタリア歌曲を中心に,韓国の有名な歌曲「カゴパ(ふる里に帰りたい)」も織り交ぜて歌い,大いに盛り上がった。  第2部は山口和彦IAVI事務局長の司会で,パネルディスカッション。カンナム障害者福祉館のパク・ジョングン館長ら4人の関係者が同館の役割や韓国での文化芸術活動について報告し,約50人の参加者と熱心な討議を繰り広げた。 ++       ■支援の強化と災害対応 ++     賛助会員制度がスタート 積極的な支援求め,組織を活性化  協会は2008(平成20)年1月に新たに賛助会員規程を設け,4月から賛助会員の募集を開始した。これまで協会は多くの方の善意の寄付金と,各種助成によって施設整備の資金を得るという受け身に終始し,積極的な募金活動を行ってこなかった。しかし,厳しい財政事情から設備改善,新たな事業の開始や質の高いサービスの提供など視覚障害者への十分な支援が取りにくくなり,外部理事からも社会福祉法人としての機能を全うするためには確実な収入の道を探ることが重要だという指摘を受けていた。そこで年初に新たに規程を作り,賛助会員の呼びかけを始めたのである。  まず4月に点字図書館で始めた呼びかけには,多くの図書館利用者が呼応,さらにボランティア等も支援の輪に加わって賛助会員に進んで登録してくれた。もちろん賛助会員にはならないまでも,寄付の形で応えてくれる方々も大勢おり,協会が積極的に動けば熱意は必ず伝わることを実感した。  点字図書館の呼びかけは一段落したので,引き続き,ヘレン・ケラー学院と点字出版所で呼びかけ運動がはじまる。それぞれの施設で事業に対する理解と協力を求めて地道な声かけを進めていく。  協会の賛助会員制度は個人と法人がある。個人会員は年額1口3,000円,法人会員は同1口5万円としており,口数に制限はない。協会発行の振込用紙を使用すると,振込料は当方負担となるので是非利用願いたい。なお,社会福祉法人への賛助金(寄付金)は税法上の特典を受けることができる。  ゆうちょ銀行振替口座:00120-4-168739  口座名:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会 ++     ソシエテ・ジェネラル証券東京支店協会を強力バックアップ     3年間にわたり高額助成申し出  「社会的に弱い立場の方に教育を通じ貢献したい」と,ソシエテ・ジェネラル証券会社東京支店が協会の事業と設備強化を3年間支援することが決まり,初年度がスタートした。  2008(平成20)年7月1日付で交わした「協力に関する契約書」には本年度300万円の寄付と随時追加支援があり得ることのほか,職員による追加寄付の奨励も記されている。使途はヘレン・ケラー学院生の奨学金,教育機器の購入,ヘレン・ケラー記念音楽コンクールの3プロジェクトが対象。  フランス金融大手のソシエテ・ジェネラルは世界82カ国で,毎年6月に「シチズンシップ・ウィーク」を設定し,社会貢献活動を積極展開している。契約に先立ち藤元理事長が同ウィーク中の6月14日に同支店の昼食会に招かれ,協会紹介DVDを上映しながら支援をお願いした。  9月末までに同支店分と職員分を合わせて336万5,000円の寄付金が寄せられ,学院の後期授業に間に合うよう,拡大読書器3台,CD読書器,CDコピー機各1台と学院初の臨床実習用電動ベッドを配備した。さらに点字図書館の自動高速CDコピー機に続いて学院に人体模型3基,実技実習用電動ベッド1台を導入したほか教室のコンセント増設も果たし,安全対策も万全。「こんなに早く学習環境を整備してもらえるとは思わなかった。私たちも頑張らなくては」と,学生たちは感謝していた。  音楽コンクールでは,「私たちに任せて」という同支店CSR担当の佐藤有子氏と広報部の加藤浩子氏の申し出を受けて,墨字と拡大文字のプログラム,ポスターの制作をお願いした。当日は同支店ハンス・ヴァンベーク社長も臨席され,支店職員ボランティア4人が昼食時の飲み物配布に大活躍した。同社長は「素晴らしいコンクールでした」と感激の面持ちだった。 ++     変圧器取り替え工事  新館地下にあるキュービクル(高圧受電設備)内にある電灯用と動力用変圧器が大幅に法定耐用年数,実用耐用年数を超えており,同様に区分開閉器も古い仕様であるため,2014(平成26)年5月11日,変圧器の交換と区分開閉器UGS(地中線用負荷開閉器)を増設する工事を行った。工事総額は税別226万円だった。  キュービクルの改修工事には新館地下に適当な作業空間が必要なため,場所を塞いでいる古い固型点字印刷用製版機3台,同校正機1台,足踏製版機1台,オープンテープデッキ1台,PC用プリンター,その他スチールキャビネットや製本機材など,6トントラック1台分を5月9日に専門業者に依頼して廃棄した。  工事はまず東京電力の作業員が給電を停止し,ヘレン・ケラー学院と新館は停電となった。そこで,施工業者がディーゼル発電機で新館地下をライトアップ。関東電気保安協会の担当者がキュービクル内に通電していないか安全点検を行った。  次いで作業員がキュービクルを空っぽの鉄の箱にするために,チェーンブロックで古い変圧器を慎重につり上げながら搬出。今度は逆の手順で新品の電灯用と動力用変圧器を地下室に搬入して,操作パネルとの結線作業を行い,キュービクル改修工事は完了した。一方,UGSの増設工事もこの間平行して行い,午後4時半に無事終了した。 ++     点字出版所震災対策委員会「職員行動基準」を作成  2011(平成23)年3月11日,未曾有の東日本大震災が起こった。甚大な被害を受けた東北4県とは比べようもないが,協会は大震災の後,広報委員会が発行するメールマガジン『BBメール“エクストラ”』2011(平成23)年5月18日発行(通巻59号)で,3月11日当日,職員がどのような行動をとったかアンケート調査を行い,全員から回収した。すると,点字出版所の職員から「どう行動したらよいかわからなかった」とか,「指示がなかった」という声があがった。  点字出版所の職場は,協会の新館と毎日新聞社早稲田別館に分かれ,しかもそれぞれ1階と3階にも分かれており,大地震の被災下での一元的連絡の徹底は困難であると考えられる。そこで,アンケートに積極的に回答した職員を中心に,各課から委員を募り,震災対策委員会を組織して,来たるべき大地震への対策を考えるため2011(平成23)年度中に6回会議を開いた。  そして,「震災等における職員の行動基準」を作成すると共に,防災用具(ヘルメット,ブルーシート,リュックサック,懐中電灯,電池,ロープ,三角巾,包帯,ローソク,マッチ,ピンセット,カセットコンロ,同ボンベ等)の点検と,3月11日の泊まり込みの際に使用して,クリーニングした毛布13枚を含む,備蓄用毛布29枚を長期備蓄に耐えるように再梱包し,別途購入した食料品と共に備蓄した。  なお,今回の地震を受けて点検した結果,備蓄していた懐中電灯は13本あったが,実際に点灯したのは3本だけで,残り10本は電池切れであった。今後は,このような宝の持ち腐れがないように,防災の日の9月1日前後に,対策委員会で点検することにした。  ところで,「行動基準」はあくまで目安であり,地震には実際に遭遇してみなければわからないこともあるので,臨機応変に各自の判断で行動しなければならないことも当然あるということを前提にした。  東日本大震災で律儀に点呼を行ったために,結果的に逃げ遅れて津波に飲み込まれたという悲劇を教訓にしてのことである。  また,東日本大震災で被害を受けた原発などの運転停止により発電量の総量が落ちていることから,2011(平成23)年の夏は,国を挙げての節電の呼び掛けがあった。点字出版所ではこれに応えて,蛍光灯の間引き等による節電にも取り組んだ。  その結果,点字出版所の毎日新聞社早稲田別館分だけで,2010(平成22)年度の68,082kWhに比べて,2011(平成23)年度の使用電力量は49,141kWhと約28%の節電に成功した。また,点字出版所の2010(平成22)年度の電力料金(新館分も含む)は204万2,788円だったが,2011(平成23)年度は173万5,501円と84.95%になり,30万7,287円も節約することができた。 ++     点字図書館も備蓄  点字図書館は,3・11の教訓から災害発生直後の職員の安全を確保するため,2012(平成24)年度事業として防災用品の購入と,緊急食料品の保管を進めている。「自力で身を危険から守る」ことを第一義としており,職員の人数分をまず調達した。  防災用品と緊急食料品の内容は,ヘルメット,充電バッテリー,ハンマーやバール類,乾電池各種,簡易レインコート,軍手,タオル,マスク,ランタン,LEDライト,ホイッスル,ラジオ,避難用バッグ,キャラメル,クッキー,ビスケット,飲料水,缶詰等である。  また,これらの用品を収納しておくため,協会中庭に物置を設置した。この物置には防災用品を中心に入れておき,災害が発生したときにすぐに取り出せるように万全を期している。 ++       ■ガイヘル養成研修事業開始  協会は,東京都介護員養成研修事業実施要綱に基づいて,東京都から事業者としての認可を受け,視覚障害者移動支援従業者(ガイドヘルパー)養成研修に乗り出した。2004(平成16)年5月の理事会定款を変更して新事業として取り組むことを決め,10月12日から受講生の募集を開始し,11月下旬に実施した。  全国の視覚障害者数は,2001(平成13)年の厚生労働省の調査によると,30万1,000人で横ばいとされる。幼児失明が減少する一方,循環器系疾病や交通事故等による中途視覚障害者が増加していること。1・2級の重度障害者が全体の6割を占め,65歳以上の高齢者の割合が7割以上の高率になっていることが明らかになっている。  自立や社会参加のために外出したいという視覚障害者が増えているが,これに応えることのできるガイドヘルパー(ガイヘル)の数が確保できていないのが実情である。  協会は,このような実情を踏まえて,ガイド技術はもちろん,視覚障害者の身になって考えることのできる質の高いガイドヘルパーの養成が急務と考え,理事会の決定を経て,7月に東京都に事業者指定を申請,9月27日に認可された。  2004(平成16)年度の開講は1回のみで,11月20日〜28日の土日の4日間,講義11時間,演習14時間の計25時間で,受講料は教科書代を含めて3万7,000円。  東京都が定めた事業実施要綱では「講義11時間,演習9時間」だが,「基本をしっかり学び,利用者の個々の状況に臨機応変に対応できるようにする」と,演習時間をたっぷりとっているのが特長である。  講義と屋内での演習は協会ホールを使用し,屋外での演習は東京都交通局バス車庫,JR新宿駅などで行った。 ++     第2回ガイヘル養成研修事業  視覚障害者移動支援従業者(ガイドヘルパー)養成研修は,2年目に入り,まず2005(平成17)年7月23日〜31日の土日の4日間,第2回研修を実施した。前年のカリキュラムを基に講義と実技演習の計23時間,受講料3万7,000円で募集したところ,20人の定員は,またたく間に埋まった。暑いさなかの研修となったが,全員無事,ガイドヘルパーの資格を手にすることができた。  研修は(1)利用者の見え方,移動先によってガイドの方法が異なり,すべてが教科書通りではないこと(2)利用者とのコミュニケーションが大切であることの2点を理解してもらうことがポイント。協会が掲げる「プロにふさわしいガイドヘルパーの養成」の出発点だ。  今回も講師陣は第一級のベテランにお願いした。研修終了後の受講生のアンケートでは「内容が濃く,とても勉強になった」「ヘルパー2級の有資格者なので,介護の講義は不要かと思ったが,受講して視界が広がった」などの声が寄せられた。受講者の7割が介護などの受講を義務付けられていない有資格者だった。 ++     ガイヘル事業,人気の秘密…     厳しさとていねいな授業  視覚障害者ガイドヘルパー養成研修事業が4年目に入った。2007(平成19)年3月時点で修了生は約200人,盛況ぶりは他の事業体に比べても際だっている。なぜ本事業がこれほど評判がよく,人気が高いのか。この3年余を振り返った。  開講当時は手探りで受講生を募集する状態だった。しかし,決して手を抜くことなく,「きちんとした講義と実習こそが,継続への源泉」を当初からのモットーとしていた。このため講師陣を厳選し,必要なことをきちんと教えることのできる方に依頼。講師もそれに応えて,厳しいながらもていねいな授業を進めてきた。実習には専門の技能訓練士を起用して,誘導に必要な動きやその意味を解説,安全なガイド法を体験させチェックするなど,きめ細かい現場実習を積んだ。  これが徐々に評判を呼んで現在に至ったと言っていいだろう。受講生の多くが友人などからの口コミで知ったと言い,紹介者を通して申し込む方が多くなっていった。遠くから新幹線で通学する人,ビジネスホテルを利用したり,都内の親戚に泊まりながら受講するなど熱心な人もいたが,これらの人たちは「東京ヘレン・ケラー協会ならきちんとした授業をやってくれると思い申し込んだ」と口をそろえる。  これまでの受講者は,初心者と有資格者がほぼ半数ずつ。年齢も幅広く主婦や学生,あるいは仕事を持っている人などもいた。  修了後はガイドヘルパーとして働くのはもちろん,ボランティア活動に携わったり,障害を持つ家族のために役立てるなど,さまざまであった。  このガイドヘルパー事業が他施設からも注目されているのは,たとえば都内の派遣事業所から特別研修を依頼されたことでも証明される。  また,区役所の呼びかけで,区民が区から受講料の補助を受けて参加した例もある。  土日を利用した4日間の研修は,フルに出席することが義務づけられ,遅刻も認めないなど,受講生にはある種の覚悟が必要だが,この厳しさこそが講座の信頼を高め,利用者の立場を十分に理解し,的確なガイドができるヘルパーへとつながっていると言っていいだろう。 ++     ガイヘル養成研修事業 「正しいガイド」心掛け9年  2004(平成16)年11月から取り組んでいる視覚障害者ガイドヘルパー養成研修事業は2012(平成24)年で9年目を迎えた。事業は順調に発展し,講習修了者が1,000人を超えている。  2012(平成24)年度は当初の予定より1回増やし7回実施した。また,2013(平成25)年度は9回開催した。  全国各地から受講希望の問い合わせも相次ぎ,他の事業者から無視できない存在となっている。協会の重要事業に成長したガイドヘルパー研修を当初から担当してきた職員が振り返った。  2004(平成16)年4月,当時の堀込藤一理事長から「東京都の提案もあり,ガイドヘルパー研修を立ち上げたい。担当してほしい」と頼まれたのがきっかけだった。定款の変更や審査など東京都との交渉,カリキュラムの作り方,講師の選定などわからないことばかりで,右往左往の連続だった。  そんな時に東京都心身障害者福祉センターに勤務されていた村上琢磨氏(現・NPO法人視覚障害者支援しろがめ代表)からかかってきた電話が,養成研修への取り組みに大きな指針となり,「しっかりした研修をして,いいガイドヘルパーを養成したい。視覚障害者が社会で自立するときに困らないように応援したい」という強い気持ちを抱かせてくださったことに感謝している。  当初の研修は20時間研修だったが,2011(平成23)年10月より「移動支援」から「同行援護」に制度が大きく変わり,内容も一変した。  以前に修了して活動していたガイドヘルパーにも,「同行援護」に対応する力を付けるため,もう一度受講してもらう必要があったのである。制度の移行期で様々な過渡的措置が認められており,協会の養成研修事業も既修了者への対応をいろいろ検討した。  一方,他の事業所でも移行期の混乱が発生し,ガイドヘルパー研修の先駆である協会には相談や問い合わせの電話が殺到した。時には自治体や社協からも質問があり,これに答えるためには自分自身が勉強しなければならない。おかげでこの制度を誰よりもしっかり把握できたと思っている。  過渡期に既修了者向けに実施した7時間講習や12時間講習は結局中止した。これは「既に修了した者の中にはノウハウを忘れている人が多く,きちんと32時間講習を受け直さなければ,本当の意味での利用者サービスに繋がらない」と考えたからである。講師の質を問わない粗悪な研修でオーライとしている事業所もあると聞いているが,実施要綱通りであったとしても,それが「正しい」研修ではないことを実感している。  協会のガイドヘルパー研修の成功を聞いて,新たに参入を図っている事業所もあるようだ。多くの事業所が切磋琢磨し,利用者の信頼を得て,正しいガイドができるヘルパーがたくさん誕生することは喜ばしいが,協会の講師の質や講義・演習内容には自信があるので,一層内容を工夫して先頭を切って走り続けたい。 ++       ■新時代への対応と対策 ++     パソコン教室誕生  ヘレン・ケラー学院3階9番教室に,2004(平成16)年4月,最新型デスクトップパソコン5台(うち1台は教師用)が配置され,パソコン教室に衣替えした。これはあはき師養成施設のカリキュラムが改正され,新たに「情報処理」の教科が加わったことに伴う措置である。IT時代を迎えて,生徒が患者のカルテの処理,新しい治療法の検索などに対処できるようにするのが目的である。  授業時間は1・2年生が週1時間,授業はローマ字入力の方法からスタート。キーボードに慣れ,音声ソフトを使って文章を打ち込む力をつけるのが,当面の目標だ。学生の中にはパソコン処理能力が高く,教師の補助的役割をする者もいて,互いに助けたり,助けられたり,普段の授業とは違った活発な教室風景が展開されている。  このパソコン設備は,付帯工事を含めて総額190万円。うち100万円を,みずほ福祉財団から助成を受けた。 ++     夏休みに「施設1日公開」 ボランティアグループが大活躍  「夏休み施設1日公開」が2005(平成17)年8月24日,協会ホールをメイン会場に開かれ,60人を超す来場者で盛り上がった。  このイベントは,地域の人たちや子供たちに一般公開することで,もっと協会の施設を知ってもらおうと,点字図書館開館30周年を記念して始めたもの。  今年はヘレン・ケラー学院も参加して学院生やOBらによる「マッサージ無料体験コーナー」を新たに始めたこともあって,朝からたくさんの人たちが訪れた。  特に目立ったのは,小学生の姿だった。筑波大学附属小学校2年の子供たちをはじめ,大勢の子供たちが母親らと一緒に訪れ,点字の仕組みや読み方,さらに書き方まで熱心に勉強。最後はきれいなリボン付きのしおりに自分の名前を点字で書いて持ち帰るなど,夏休み最後のイベントをたっぷり楽しんだ。  また,新設したマッサージ無料体験コーナーには20人が訪れ,学院生らのていねいなマッサージに心も体も癒されていた。点字出版所見学も人気の的。午前と午後の2回,各10人を予定していたが,希望者が多く,担当者もうれしい悲鳴をあげていた。  イベントを手伝ってくれたのは点字図書館で活動する「楽点の会」「ヘキサ」「めてんの会」「グループめめ」の点訳ボランティア4グループで,企画から設営まで大活躍。アイデア豊かな人,レイアウトに素晴らしい腕前を見せた人,先生さながらにていねいな指導ぶりを発揮した人など,それぞれが持ち前のセンスでイベントを盛り上げ,成功の立役者になってくれた。  これからの施設公開にも新たな展開が期待できそうだ。 ++     猛暑の中 施設1日公開  協会の「夏休み施設1日公開」が2006(平成18)年8月23日,3階ホールを中心に開かれ,70人近い人が猛暑の中を訪れた。  この日のホールは協会の沿革やヘレン・ケラー女史の生涯を張り出したり,町や家庭で見つけた点字表記の製品の紹介やさまざまな便利グッズを展示した。また点字プリンター,点字タイプライター,点字器,音声パソコンなどの機器類を,ずらりと並べた。  点字の読み書きができる点字体験や録音スタジオを使った音訳体験などのコーナーを設けて参加型のスタイルをさらに充実させたため,子供たちがボランティアから熱心に点字を学んだり,中・高校生が秋の学園文化祭に向けて職員やボランティアに真剣に取材するなど,夏休みらしい光景があちこちで見られた。 ++     協会メールマガジン『Blue Bird メール』創刊  協会の公式会報は,1998(平成10)年9月1日付で創刊された『青い鳥』だが,2005(平成17)年までは年に1回しか発行してこなかった。2006(平成18)年からは年2回発行したが,それでもタイムリーな情報が伝わりにくかった。  そこで広報委員会では,協会内の新鮮な情報を職員に共有してもらう必要があるとして,2006(平成18)年9月から新たに『Blue Bird mail(BBメール)』を発行した。  BBメールは活字媒体を使わないメールマガジン形式の情報誌。メールアドレスを登録した職員に,月に1回程度届ける。風通しの良い組織になるように協会内各施設の出来事や話題,イベント情報を読みやすくソフトに伝えることに重点を置いた。  当面,協会でパソコンを使用していない職員にはプリントアウトして回覧しているが,協会ホームページからもパスワード入力でアクセスできるようにし,自宅でもパソコンで読めるようにしたり,協会からの情報提供を望んでいたボランティアや協会関係者にもパスワードを伝え,BBメールを読んでもらえるように改良していく計画である。  今後は協会報『青い鳥』とメールマガジン『BBメール』,そしてホームページの3本建てで協会の情報を積極的に発信していく。 ++     中庭に盲導犬用トイレ  ヘレン・ケラー学院の学生で,盲導犬ユーザーが登下校時に学院正面玄関脇の植え込みで排泄させていた。しかしこれではさすがにまずいだろうと,近隣住民への配慮や衛生環境を改善するため,2012(平成24)年2月21日,協会中庭に盲導犬用トイレを新設した。壁面にリードフックを取り付け,排泄物を水で流せるようシャワーを設置,床面には防水・防臭加工を施し,傾斜をつけて排水環境も整えるなど盲導犬を利用する学生の意見をいくつも取り入れた。 ++     塙保己一賞貢献賞を受賞  2012(平成24)年12月15日,埼玉県本庄市の児玉文化会館セルディで第6回塙保己一賞の表彰式が行われ,協会に「貢献賞」が上田清司埼玉県知事から贈られた。  聖明福祉協会本間昭雄理事長の推薦によるもので,「1950(昭和25)年にヘレン・ケラー学院を開設し,多くの鍼灸あん摩マッサージ師を養成し,視覚障害者の社会参加及び自立に貢献している。1968(昭和43)年に点字出版所,1974(昭和49)年には点字図書館を開設し,視覚障害者に対する情報提供を通じて社会参加の拡大に貢献している。ヘレン・ケラー記念音楽コンクールからは,国際的に活躍する音楽家を輩出しており,視覚障害のある音楽家の登竜門として高く評価されている」という受賞理由だ。  塙保己一賞は,江戸時代の盲目の大学者塙保己一を記念して,埼玉県が2007(平成19)年に制定した。  受賞の挨拶に立った三浦拓也理事長は「ヘレン・ケラー女史が1937(昭和12)年に初めて来日した折,東京・渋谷にある塙保己一の学問を継ぐ研究所である温故学会を訪ね,塙保己一の像に触れ,『私は塙先生のことを知ったおかげで,障害を克服することができました。心から尊敬する人です』と感謝のことばを述べたそうです。2人に接点があり,今回の受賞は天国のヘレン・ケラー女史に喜んでいただけることだろうと思っています」と挨拶して,万雷の拍手を受けた。 ++     自動感知の防犯灯設置  2015(平成27)年2月9日夜にヘレン・ケラー学院と点字図書館に侵入窃盗があった。警察によると,犯人は毎日新聞社早稲田別館横を通り,夜間は暗い学院の裏口から中庭を通って侵入したと思われるということだった。  そこで6月19日に裏口の門扉に人が近づくと,人感センサーが感知して,一定時間防犯灯が点灯する工事を行った。冬場は,職員の帰宅時には日が落ちているので,この防犯灯が足下を安全に照らし出してくれるだろう。 ++     新館屋上防水・笠木補修工事  2018(平成30)年12月1日〜28日協会新館屋上防水・笠木補修工事を施工した。総工費は税込313万2,000円で,施工業者は,池田建設株式会社。  工事は新館屋上の高圧洗浄と古い笠木の撤去に4日間,防水シートを張り付けるためのプライマー(接着剤)塗布と絶縁シートの取り付け,その上からウレタン防水施工に8日間,新しい笠木を取り付ける工事に3日間,清掃・片付け・検査・手直しに6日間の計18日間かかる計画だったが雨にたたられ,結局,23日間もかかった。  ところが一転して工事後は,今度はまったく雨が降らないので,雨漏り箇所の特定ができず,雨が降るのをひたすら待った。 ++     旧固型印刷室改修工事  毎日新聞社早稲田別館3階の旧固型印刷室の壁面塗装と床工事を,2019(平成31)年1月22日〜2月21日に行った。  本工事は,まずは旧固型印刷室を半分に区切り,従来から設置してある断裁機や紙折機等をまず前方半分に移動し,後方半分の壁面を塗装する。次いで撤去した10トンあった固型点字輪転機を取り付けるためにうがたれていた溝を埋めて,1階印刷室の床と同様,ユータックプライマーレス工法により床をPLコーティングする。それが乾いたのち,今度は前方の機械を後方へ移動して,同様の施工を行うというものだった。  施工業者は,株式会社大東機材で,総工費は税込270万円であった。 ++     防災訓練2016  2016(平成28)年9月1日,ヘレン・ケラー学院・点字図書館・点字出版所合同の防災訓練を行った。  訓練内容は,避難訓練,通報訓練,地震体験訓練の3つ。まず,午前11時,理事長室隣の学院2階湯沸かし室から出火したとの想定で,学院から図書館と点字出版所に火災発生の連絡があり,学院から消防署に「訓練火災」を通報。点字出版所・点字図書館の職員,学院の職員・教員・学生あわせて60人が学院玄関前に避難した。  その後,11時10分頃から12時まで,新宿区立防災センターの起震車を使って地震体験訓練を行った。防災センター係員の指導により,4人ずつ乗り込み体験した。起震車にはテーブルがひとつあり,視覚障害者は,はじめからテーブルの下に潜ってもらい,晴眼者は,はじめ立って揺れを感じたら,テーブルの下に潜った。揺れている時間は36秒。最高震度7まで体験した。 ++     自衛消防訓練2019  2019(令和元)年9月2日午前10時50分,学院2階湯沸かし器を火元に想定して,自衛消防訓練が行われた。  自衛消防隊による初期消火活動が行われると同時に,学院から点字図書館と点字出版所に緊急通報が行われ,視覚障害者を誘導しながらの避難訓練が行われた。次いで,新宿消防署員から消火器取り扱いの諸注意を聞いて,訓練用に水が噴出する消火器を使って消火訓練を行い,学院生と協会職員が実際に体験した。最後に新宿消防署の訓練隊長からの講評,理事長からの挨拶で,消火訓練は終了した。  続いて,消火栓の点検が行われ,点字出版所1階印刷室の消火栓よりホースをのばし,郵便局側の扉を出て,明治通りに向かって実際に放水した。  こちらは点字出版所職員のみの参加で,視覚障害者にも放水を体験してもらい午前11時45分に終了した。 ++     緊急事態宣言下のコロナ対策  新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の急速な拡大を踏まえ,政府は新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言を発出した。  それを受けてヘレン・ケラー学院は,2020(令和2)年4月7日に予定していた入学式・始業式を6月1日に延期し,4月は臨時休校,5月は在宅授業とした。  緊急事態宣言期間中,学院職員は在宅勤務を基本として,平日午前10時〜午後4時に1人が当番出勤。5月7日以降,在宅で授業がスタートできるようCD等による教材の準備を進めた。  点字図書館は,開館時間を午前10時〜午後4時に変更し,館長は平日の午前8時〜午後4時の勤務。他の図書館職員は原則在宅勤務とし,出勤する場合には午前11時〜午後3時の時短勤務にした。  点字出版所は,独自に編集する月刊総合点字雑誌『点字ジャーナル』と半月刊の点字情報誌『ライト&ライフ』の他に,『広報東京都』(点字版)をはじめとする,多くの地方公共団体発行の「広報」点字版・音声版の発行を委託されている。視覚障害者はただでさえ情報障害者でもあると言われており,今般のような緊急事態にこそ,常にも増して正確な情報保障が強く求められるので,次のような対策を行い通常勤務を継続した。  緊急事態宣言の期間中は,各課長の判断で在宅勤務や勤務時間の変更・短縮を認めた。各部署には毎日自由に交換できるだけのマスクを常に用意し,手指消毒ボトルを設置し,トイレには使い捨てペーパータオルを設置した。さらに空調をきかせながら換気を行い,机の移動と飛沫防止パーティションの活用により「密閉」「密集」「密接」にならないようにした。また,後期高齢者と同居する視覚障害者は自宅でのテレワークとし,バイク便で点字校正紙を送り,Skypeの無料通話で読み合わせ校正を行った。  写真:三密を避けた令和2年度入学式  37.5℃以上の発熱等の風邪症状がある職員は,出勤しないように命じ,出勤できるのは,熱が37℃未満に下がったことが確認でき,それが48時間継続した場合に限ることにした。また,新型コロナウイルス感染症陽性者との濃厚接触者および,その疑いがある職員には2週間の在宅勤務を命じた。  協会はCOVID-19対策の一環として,インフルエンザワクチン予防接種に対して,職員に最大3,500円の助成を行うことにした。これはCOVID-19の初期症状はインフルエンザと似ているといわれているからである。  毎日販売協栄(株)は,12月7日に毎日新聞社早稲田別館5階でインフルエンザワクチン予防接種(税込3,500円)を行うので,職員が無料で受けられるよう手配した。また,同予防接種を受けないで,地元等の病院でインフルエンザワクチンの予防接種を受けた職員にも,その時の領収書を持参すれば,最大3,500円の助成を行うことにした。 ++     チャレスポ! TOKYOとコンバットレスリング大会で施術  2017(平成29)年9月18日,ヘレン・ケラー学院は,東京国際フォーラムで開催された「チャレスポ!TOKYO」にマッサージコーナーを出展した。  このイベントは,東京都と東京都障害者スポーツ協会が主催し,多くの方方に障害者スポーツの魅力を知っていただくための参加体験型スポーツイベントとして2012(平成24)年から開催し,東京国際フォーラムでの開催は今回で3回目。マッサージコーナーは今回初めての試みで,第1号として貢献できたことは学生にとって,とても良い経験になったことだろう。  多くの方に体験していただくため,体験時間は15分で,定員70人に設定し,混乱を避けるため事前整理券配布方式で行い,お陰様で満員御礼にて終えることができた。教職員4人に引率されて参加したのは,学生7人とOB2人の9人。  学生達は,すでに社会で活躍しているOBの手技を間近で見たり,手技の意見交換を交わしたりするなど,積極的に学習している姿が印象的だった。また,施術の合間に,パワーリフティングの宇城元選手や,ウィルチェアーラグビーの官野一彦選手など,筋肉隆隆とした選手の身体を直に触らせていただく機会にも恵まれ,とても勉強になったと喜んでいた。  会場には小池百合子都知事も来場され,車椅子に乗って競技体験をするなどしていたが,ちょうど解散総選挙が騒がれた時期であり,多くの報道陣に取り囲まれていた。 ++     コンバットレスリング世界大会  2017(平成29)年10月22日,埼玉県本庄市の本庄総合公園体育館で開催された「第3回コンバットレスリング世界選手権大会」にて,ヘレン・ケラー学院はマッサージの施術を行った。  ヘレン・ケラー学院の職員が,9月18日の「チャレスポ!Tokyo」に参加した話を保健体育の先生に話した翌週,「先週の帰宅途中に,コンバットレスリング大会実行委員長の知人と偶然すれ違い,マッサージ体験ができないか?と提案しておいたわ」と先生から聞いた。  その後,話はとんとん拍子に進み「世界大会にマッサージブースを設けませんか?」とお誘いをいただいた。  コンバットレスリングは,本庄市発祥のスポーツで,1本または,獲得ポイントで勝敗が決まる競技である。本庄市はヘレン・ケラー女史が尊敬した塙保己一生誕の地でもあり,同市の市長から,ヘレン・ケラー学院の出展をとても喜ばしいことだと当日ご挨拶いただいた。  当日は早朝6時半に新宿駅に集合して,解散したのは午後6時。往復3時間半と遠方であることから,すでにあん摩マッサージ指圧師の免許を保持している学生2人と保健体育の先生,そして学院職員の計4人で参加し,筋肉隆々とした23人のアスリートの肉体をほぐした。  日本をはじめ,米国,オーストラリア,ルーマニア,ブラジルやアルゼンチンなど,筋肉構造に違いがあり「骨盤が日本人と全然違う」「脊柱起立筋が盛り上がっている」「長趾伸筋の筋肉が女性の小指より太い」「ふくらはぎの筋肉が2つある!?」と,驚きの連続だった。  全ての疲労が取れるわけではないが,外国選手にも「SHIATSU, so nice!!」と喜んでもらった。 ++       ■就職支援セミナー開催  2017(平成29)年7月21日,ヘレン・ケラー学院は,初の試みとして就職支援セミナーを開催し,夏休み初日にもかかわらず,学生と教職員40人近くが参加した。  テーマは1.視覚障害者の「あはき」就労の現状と具体的な進路先や求められる人物像。2.卒業生講話。3.企業講話の3題。  上記の講師は,東京視覚障害者生活支援センター就労支援担当の石川・宮之原両氏で,内容は将来を見すえて勉学に励む必要性や,業種により手技が大きく異なること,卒業してからがスタートであること,人気の高いヘルスキーパーは50歳をこえると採用率が極めて低いことなどであった。  卒業生講話は,ヘルスキーパー,デイサービス,開業で活躍している卒業生三氏をお招きし,勤務にいたった経緯や,仕事内容,普段から心がけていることなどが中心であった。  なかでも学院を2007(平成19)年度に卒業し,人形町治療院(埼玉県鴻巣市)を経営している佐野雄彦先生はまだ30代だが,卒業後に漢方の勉強もされ,治療院の他に漢方薬局も開業し,鍼灸専門月刊誌『医道の日本』(2017〔平成29〕年5月号)に論文が掲載されるなどして活躍されていることから,学生には強い刺激となったようだ。  講話は,ヘルスキーパー運営についての方針や,訪問医療マッサージの具体的業務など,企業の考え方も垣間見える話だった。  セミナー終了後は,「多くの卒業生や企業担当者と交流ができて,とても良いセミナーだった。次回も期待しているよ」と,学院講師の先生から嬉しい感想もいただいた。 ++     医療面接セミナー  2018(平成30)年入学式・始業式終了後,午前11時30分から,3年生以上を対象に医療面接セミナーを開催し,学生17人と講師5人が参加した。  講師は,元都立盲学校理療科教諭で,日本盲人社会福祉施設協議会が運営する盲人ホーム杉光園技術指導員の菅原徹氏に依頼した。  テーマは「医療面接とコミュニケーション」。以前は,「問診」という形で,主訴に重点を置いて患者と対話することが主流だった。しかし,近年は,治療前に患者の話を聞き,病気や身体の状態を把握するだけでなく,患者の悩み苦しみに寄り添い,また,現在の身体状態を患者自身に理解させるなど,カウンセリングの要素も含めた,医師と患者とのコミュニケーションが強く求められており,それを「医療面接」と表現している。  事前配布したレジュメをもとに,問診と医療面接の違い,コミュニケーションの取り方,基本的技能について専門用語を確認しながら,時折ジョークを織り交ぜての講演だった。  新たに臨床実習を履修する3年生をはじめ,上級生も熱心に耳を傾け1時間という非常に短い時間ではありながらも有意義な時間となった。  セミナー終了後,学院講師の先生から「今日はどうされました?の一言がなかなか言い出せなかったことを思い出した」,「初歩的な内容だったが,とてもよくまとまっており,非常にわかりやすかった」との声が上がった。  学生からは,「患者と向き合う際の基本的部分を再認識できた」,「臨床実習は緊張するけど事前にこういう内容を聞けたので少し気持ちが楽になった」との声を聞くことができた。  昨夏,就職支援セミナーを開催した際,「技術はもちろん,人とのコミュニケーションがとても大切だ」と講師の方々が口にしていたこともあり,「日常生活でのコミュニケーションを始め臨床実習で患者と向き合う際の応対についてセミナーを開催したい」と,企画に至ったが,次回は模擬患者など実践的な内容で開催したい。 ++     就職支援セミナー2018  2018(平成30)年7月21日,ヘレン・ケラー学院は昨年に引き続き「就職支援セミナー」を開催し,学生8人,教職員5人が参加した。  前半は「就職活動における履歴書や職務経歴書の記入方法,自己PRについて」と題し,学院臨床情報処理学講師の新美知枝子先生に,履歴書記載の実態と企業が求めていること,記入のしかたなどをご講義いただいた。  後半は卒業生の大谷重司氏,星野博子氏,村野誠氏に,ヘルスキーパー・開業・治療院・リハビリデイセンター(機能訓練指導員)など,それぞれの業務内容や,学院生活での苦労や現在の職場に至った経緯,仕事における取り組み方などをご講話いただいた。  ヘルスキーパーは,法定雇用率が高まったことから増加傾向にあり,業界人気も高い。しかし,「指が痛い」「腰が痛い」と言って,休職や退職に至るケースも少なくないそうである。それに対して卒業生からは,「それは自身の技術が未熟だからであり,その辺りを考えながら学生生活を過ごしてほしい」という指摘があった。  また,「在校中から,多くの勉強会に参加していた」「国家試験に受からなければ話になりませんよ」と厳しい言葉も聞かれた。  質疑応答では,「就労の際,何を優先に考えるか」について,女性ならではの家庭を持つ働き方のアドバイスがあり,女性にとっては大いに参考になったことと思われる。三氏とも元気で魅力あふれる話術で,何度も引き込まれた。  「熱意のある話で良かった。参加した学生は,将来のイメージが形になったのでは」と先生方からも感想をいただき大盛況に終わった。 ++     就職支援セミナー2019  2019(令和元)年7月20日,ヘレン・ケラー学院は,「就職支援セミナー」を開催し,学生13人,教職員8人が参加した。  テーマは「就職支援会社とは」「盲人ホームってどんなところ」「卒業生講話」の3題。  まず株式会社ゼネラルパートナーズで採用コンサルティングをしている茅原亮輔氏による企業での取り組みをはじめ,急増しているヘルスキーパーの求人状況について聞いた。  続いて,中野区にある社会福祉法人ひかり会の盲人ホーム「盲人自立センター陽光園治療室」の高橋博行施設長(全盲)より盲人ホームの概要について聞いた。  最後に,学院卒業生として須藤憲一,小山直行,吉田隆一の三氏に業界別の講話を行っていただいた。  OBの三氏から,「講義の理解は当然で学生のうちに学ぶ実技はスタートラインである。そこから有資格者として向上心をもって日々精進することが大切である」とアドバイスがあった。  また,「強揉み」を希望する方への対応について,その効果をきちんと説明できる知識が必要であること,そして,どの講師からも「絶対に国家試験に合格してください」とエールが送られた。 ++     卒業生の就業状況アンケート調査     コロナ禍の就職支援セミナーに代えて  4回目となるヘレン・ケラー学院就職支援セミナーは,『コロナ禍における卒業生の活躍状況』と題し「就業状況」「治療,または日常生活においての感染症対策」「コロナ後の意識の変化」などについて卒業生にアンケート調査を行い,その結果を学生と教師に公開しました。 【調査方法等】  対象者:32人(2010年以降の卒業生よりランダムに抽出)。  調査方法:アンケートを送信し,Eメールまたは電話で回答を回収。  調査期間:8月6日から14日の9日間。 【回答の概要】  回答数:20人(回答率62.5%)。  現在の就業状況:ヘルスキーパー11人,開業3人,治療院勤務2人,リラクゼーションサロン勤務1人,教員養成課程在籍1人,盲人ホーム・訓練機関通所2人。  就業状況:変化あり16人(80%)。変化なし3人(15%)。無回答1人(5%)。  収入面について:変化あり4人(20%)。変化なし13人(65%)。無回答3人(15%)。 【質問項目】  1-1.現在の状況をお聞かせください。  例:ヘルスキーパー,特別養護老人ホーム,訪問マッサージ,開業(または開業準備中),学生(教員養成課程在籍),盲人ホームまたは訓練機関在籍,その他。  1-2.勤務している方は,就業年限を教えてください。  1-3.学生,盲人ホームや訓練機関に在籍している方は,在籍期間を教えてください。  2-1.コロナによって就業時間に変化はありましたか。(学生や訓練機関に在籍している場合は,その環境に置き換えてご回答ください)  2-2.変化のあった方に,2点お聞きします。  @どんな変化がありましたか。(時短勤務,出勤日数制限,自宅待機など)  A待遇面(給与や雇用形態)に変化はありましたか。(更新を保留にされている。給与を減額されたなど)  2-3.変化のない方にお聞きします。就業時間に変化がなくても待遇面に変化はありましたか。  3.コロナ禍において,施術や治療行為に制限が生じている場合は,その内容をお聞かせください。  例:企業従業員が在宅となり,施術できる人が少なくなった。鍼治療ができなくなったなど。  4.治療行為において,コロナ対策を講じている内容をお聞かせください。  例:マスクとフェイスシールドを付けて治療している。治療後にベッド類の消毒を行っている。1日の枠を半分に削ったなど。  5.日常生活において,コロナ対策を講じている内容をお聞かせください。  例:移動時は白手袋をしている。外出時は,消毒薬を常備している。自宅に籠るようになったなど。  6.コロナによって生じている,マイナス面,プラス面があれば教えてください。  例:マスクや消毒薬が手に入らない。感染リスクによる患者離れが進んでいる。必要以上に感染対策を講じているため,患者からの信頼が高まっているなど。  7.在校生に対してのアドバイスがあれば教えてください。 以上 ++     アンケートのまとめ ヘルスキーパーとして活躍する方は,「在宅勤務(自宅研修)」という回答が最も多かった。そのような環境下でも,スタッフ同士で主訴を決め,それに対するアプローチを作成したり,コミュニケーション関連の書籍を読んでレポートを提出したり,職場に『健康マガジン』を配信するための原稿を作成したりするなど,マッサージルームで仕事ができなくても,できる業務を探し,あはき師としてできることを積極的にこなす姿勢を強調する例が多かった。 開業している方は,持続化給付金の申請を行い,感染症対策を徹底しながら営業を続けている例が多かった。しかし,予約率の低下が続いているようで,「忍耐の時期」と切り替えている様子がうかがえた。 治療院勤務の方は,予約が入らない日が続くなど苦境を強いられている状況にあるようだったが,メンバー同士で技術を高めあうなど,「腕を磨く時間に充てている」などの回答があった。  設問に対する回答率が高かったのが,「7.在校生に対してのアドバイスがあれば教えてください」で,以下に紹介する。  「様々な情報でいろんな流れが変わってきているが,惑わされず,卒業までは目標達成することだけに集中してほしい。そして,卒業後速やかに世の中の変化に対応できるよう常に勉強を続け,こういう時でも求められる人材になれるよう頑張ってください」。  「今後は,職業の多様性や変化も求められる可能性があるので,パソコン操作に困ることがないよう,操作に慣れておくことをお勧めします」。  「自分次第で職場の状況は変えられるということを伝えたい。技術向上のため,足もみやリンパケアの認定講習を受けるなど,興味のあるものに参加している。すべては,学生生活で培ったベースがあることが前提で今があるということ。基本を忘れず日々の勉強に励んでほしい」。  「こういう時代だから,焦らずに日々を過ごし,与えられた環境でベストを尽くしてください。技術に走らず,基本に忠実にあるべきと思います。学院で学ぶ技術は,全ての根底になります。実技はとにかく真剣に学び,臨床は患者と真摯に向き合うことを心がけてください。卒業後は,そこに肉付けしていくのです。学生,患者,教師,接する全ての人とのコミュニケーションをおろそかにせず,日々を過ごしてください。また,相手の意図を汲み取ることも必要です」などの温かいメッセージが,多く寄せられた。 ++       ■助成による施設整備,機器・器具の整備一覧(学院)  社会福祉法人新宿区社会福祉協議会 備品整備・施設整備株式会社日本財託助成金  以下、申請名:助成額、負担額、完了日の順  畳実技室改装:388,000円、500円、2012/10/26  書庫老朽化に伴う書棚新設:173,000円、250円、2013/11/8  汚水桝・配管老朽化に伴う改修事業:290,000円、9,376円、2014/10/10  OAチェアの購入:200,000円、203,920円、2015/12/7  校舎漏水補修工事:420,000円、129,200円、2017/12/13  視覚障害者用CDデュプリケーターの購入:90,000円、720円、2018/9/10  施術用電動ベッドの購入:133,000円、56円、2019/9/26  スリッパ殺菌ディスペンサーの購入:200,000円、1,900円、2020/10/13  社会福祉法人新宿区社会福祉協議会 地域ささえあい活動助成金  以下、申請名:助成額、負担額、完了日の順  プレクストークポータブルレコーダーPTR2(録音再生機)の購入:382,000円、128,000円、2016/4/25  公益信託障害者愛の福祉基金  以下、申請名:助成額、負担額、完了日の順  教材模型(脳・鼻腔・咽頭断面模型,咽頭解剖模型)の購入:170,000円、45,000円、2002/12/10  プレクストークポータブルレコーダーPTR3およびPTNの購入:200,000円、18,000円、2018/2/1  公益財団法人原田積善会  以下、申請名:助成額、負担額、完了日の順  学習及び指導用パソコンの整備事業:280,000円、4,514円 2017/2/28  教室空調機設備更新事業:500,000円、23,800円、2019/9/10  公益財団法人出光文化福祉財団  以下、申請名:助成額、負担額、完了日の順  校舎1階実技室空調機入替・サーキュレーター取付工事及び3階ホール照明改善工事:1,000,000円、319,262円、2011/3/28  基礎医学実習室空調機入替工事:900,000円、18,000円、2017/2/10  臨床実習室等(5台)空調機入替工事:1,000,000円、180,000円、2019/3/25  公益財団法人森村豊明会  以下、申請名:助成額、負担額、完了日の順  高圧滅菌器及び紫外線殺菌消毒器の購入:491,610円、0円、2017/2/10  財団法人愛恵福祉支援財団  以下、申請名:助成額、負担額、完了日の順  電気温水器購入設置:200,000円、27,850円、2007/5/15  治療用赤外線射出装置の購入:150,000円、50,000円、2008/4/25  公益財団法人倶進会  以下、申請名:助成額、負担額、完了日の順  臨床実習室B空調機入替工事:594,000円、0円、2018/6/11  公益信託村石久二障害者福祉基金  以下、申請名:助成額、負担額、完了日の順  教材模型の購入:140,000円、16,188円、2003/5/22  財団法人みずほ福祉助成財団  以下、申請名:助成額、負担額、完了日の順  パソコン教室の開設:1,000,000円、913,591円、2004/3/26  公益信託宮川子記念障害者福祉基金  以下、申請名:助成額、負担額、完了日の順  点字出版所兼学院共同トイレ改修工事:1,500,000円、96,000円、2003/11/11  公益信託東京日本橋ライオンズクラブ立川福祉基金  以下、申請名:助成額、負担額、完了日の順  ワープロの購入:90,000円、0円、2000/6/12  実技室空調機更新:100,000円、477,500円、2001/4/25  解剖脊髄模型の購入:55,000円、104,600円、2002/4/15  解剖教材眼球模型の購入:35,000円、44,800円、2005/8/24 ++       ■本館の外壁・外構工事 ++     本館一部の外壁改修  2020(令和2)年7月〜9月の休日や夏休み期間などを利用し,本館西側と東側一部の外壁補修工事を行った。本館は,2013(平成25)年に耐震工事が行われているが,それ以来の大規模な改修工事。塗装の劣化やコンクリート内部の鉄筋の腐食・膨張で亀裂が入るなど傷みが激しく,雨漏りも常態化していた。  落下の恐れのある外壁のレンガ部分など,ピンを打ちこんだりネットをかぶせたりして補強し,全体を塗装した。また,鉄製枠が原因でひび割れていた窓ガラスもアルミサッシに取り換えるなどした。  工費は税込約2,000万円で,その2分の1を公益財団法人東京都私学財団の「非構造部材耐震対策工事費助成事業」として助成金を受けた。  施工は株式会社ケルビン(本社・東京都千代田区)。同社のご厚意により,2階部分屋上の防水シートを張り替え,また,緊急時避難路となっている2階ベランダの手すりを,ロービジョンの人が識別しやすいよう濃色に塗り直した。 ++     外構工事  足場を組む本館改修工事に先立ち,2020(令和2)年6月〜8月,外構工事を行った。  本館西側エントランスの植栽を撤去し,出入口や職員通用口に点字ブロックを敷設した。  さらに中庭について,創立50周年記念樹など2本を残し,避難の際の通行を妨げていた植栽を撤去。水はけに難もあった土の代わりに,緩やかな傾斜をつけた土間コンクリートを打って段差を解消しバリアフリーにした。そのうえで,職員通用口や明治通り側門扉に誘導する点字ブロックを設置した。  いずれも,緊急時に複数の避難経路を確保するのが目的。これまで,新館や毎日新聞社早稲田別館と本館との動線となっている中庭に避難誘導路はなかった。  また,中庭にある盲導犬用トイレへ行くための点字ブロックも設けた。  施工は松建工業株式会社(本社・東京都青梅市)。  工費は税込約670万円で,公益財団法人あすなろ福祉財団から300万円の助成金を得た。 ++     雑排水配管一部切替工事  2020(令和2)年8月26日,点字出版所は新館1階の印刷室で,各盲学校への後期用点字教科書発送の大詰め作業を行っていた。すると担当職員がちょっとした異臭を感じた。調べてみると新宿北郵便局側の出入口近くの天井からの漏水を発見するとともに,床にも若干の水たまりがあった。  翌日,水道工事会社に連絡をして水漏れの調査を行うと,新館1階天井裏から地下室まで伸びている排水管に問題があることが判明した。  排水管が詰まってしまった場合,通常は業者に依頼して高圧洗浄機で詰まりを除去する。ところが新館の建設以来47年間配管の清掃等を行ったことがなかったので,配管が経年劣化しており高圧洗浄は不可能だった。さらに屋外排水マスにも不具合があったため,結局,緊急に配管を太くし,排水マスも大きくする必要が出てきた。  このため,新館1階の郵便局側のドアを出たところのコンクリートをはがして掘削する工事を含む,「新館1階点字出版所印刷室天井裏2階点字図書館床下の排水管切替工事」という思わぬ大工事になった。  このため担当者が,毎日新聞社早稲田別館を皮切りに,新宿北郵便局並びに近隣の団地・マンションを騒音工事のチラシを手に説明して回った。  掘削工事は猛暑の中,8月29日と30日に行われた。  新館1階天井裏(2階点字図書館床下)の屋内の配管工事は9月4日と5日に行われた。  1階天井裏から屋外への配管工事は9月6日に行われた。  部材調達の遅れにより,屋外の掘削した箇所の排水マス埋設工事は9月12日と13日に行われた。そして,14日にコンクリートによる埋設工事を行 い,9月15日に業者から協会に引き渡された。  計画では,7日間で終了する予定であったが天候不順もあり,結局,延べ11日間にわたる工事となった。  工費は,税込179万3,000円で,点字出版所と点字図書館で負担した。 ++       ■固型点字輪転機から平板点字印刷機へ ―― 点字出版所の大変革 ――  写真:チェコ共和国での平板点字印刷機GPB-3×2台の出荷前試験  開設以来35年にわたり,足踏み機に頼ってきた点字出版所のエンボス式製版作業が,2004(平成16)年に自動製版体制に移行した。  この移行には,最低,自動製版機3台,点字プリンター4台が必要である。しかし,高額な機械装置なので,長期計画のもとに,財団法人中央競馬馬主社会福祉財団(以下「馬主財団」)から助成を得て,関連機械を1台ずつ揃えてきた。  その仕上げとして,馬主財団から2003(平成15)年度事業で,点字ラインプリンター1台,パソコン13台,総額608万円のうち433万円の助成金が交付され,2004(平成16)年2月に長年の夢だった自動製版体制に完全移行し,点字製版のIT化を実現した。 ++     上海で平板点字印刷機を視察  2007(平成19)年9月4日から7日にかけて,平板点字印刷機(GPB-3)の視察のため,上海虹橋空港近くの上海市盲童学校(盲学校)を迫修一点字出版所長はじめ点字出版所の職員5人で訪問した。  協会の英国製固型点字輪転機は,点字出版所(当時は点字出版局)が開設された1968(昭和43)年から稼働し続けており,1号機が40年,2号機が35年になる。このため点字輪転機の老朽化と環境問題の面から代替機導入が検討され,今回の視察となった。  上海市盲童学校附属盲文(点字)印刷所には,ドイツのマールブルクにあるブリスタ・ブレイルテック社製の平板点字印刷機GPB-3が1台,同ハイデルベルガー3台(自動紙送り2台,手動紙送り1台)の計4台の点字印刷機があった。  見学の主目的であったGPB-3は,残念ながら自動紙送り装置が故障しており稼働していなかった。しかし,実際に点字印刷を行っていたハイデルベルガーのカット紙自動紙送りの印刷機がGPB-3と同じ構造だったため,大いに参考になった。  印刷用紙はA3判の厚めの更紙(わら半紙)で,原板はA4のアルミ板を使用していた。  協会の固型点字輪転機に比べ,点字原板および紙の交換がきわめて容易であったことが強く印象に残った。  GPB-3の印刷速度は1時間あたり1,000〜2,500枚。2,500枚ならその能力は,協会の固型点字輪転機と同等である。実際の点字印刷物は,鮮明で読みやすい点が出ていた。  GPB-3本体の寸法は,長さ2,050×幅1,775×高さ1,835mmで,重量は3,800kgであった。  できれば持参した上質紙の点字用紙と亜鉛原板で印刷を試してみたかったが,調整に時間がかかるので技術的に無理だとのことだった。 ++     期待ふくらむ新型印刷機 ドイツで候補機を視察  点字出版所が受注を希望する自治体広報やお知らせの入札仕様が,エンボス印刷に傾斜してきていることや,固型点字印刷の需要が落ち込んできている現況から,平板点字印刷機導入を視野に,迫修一点字出版所長と藤森昭製版課長は,2008(平成20)年6月1日〜6月8日の旅程で,ドイツのマールブルクにあるブリスタ・ブレイルテック社(Blista-Brailletec gGmbH)を訪れた。  格安チケットのため4泊8日の変則的な旅程となったが,ドイツ在住10年のワーグナー児玉弘美氏や,30年になるという木場健三氏という通訳に恵まれて,技術面から支払方法,輸送に至るまで疑問が解け,大きな収穫を得た。  親切に応対してくれたのは,一昨年からメールでやり取りしてきたフントハウゼン技術部長とラインハルト営業部長の2人。10人を超す技術者の作業ぶりや,部品開発,製作工程も余すところなく見せてくれ,Windowsを組み込んで開発したばかりの製版機PUMA VIIはもとより,1年後を目標に開発中のロータリー点字輪転機も披露してくれた。  3日間で延べ14時間を費やして,当初の疑問はほぼ解消することができた。そして,購入資金は助成に頼るため支払いについて格段の配慮をいただきたい旨を伝えて理解を得た。  騒音を抑え安定した稼働を図るため,印刷機本体の重量が4トンあり,設置建屋の強度調査が必要なことに課題は残るが,生産体制の改善につながるシステムとして大いに期待できた。 ++     平板点字印刷機GPB-3出荷前試験実施  2009(平成21)年11月29日から12月6日までの8日間,同年度(財)JKA補助金による機器の整備補助事業「平板点字印刷機GPB-3および自動製版機PUMA VIIの整備」の出荷前試験を実施するため,藤森昭製版課長,佐々木晃印刷課主任,戸塚辰永編集課主任,兼松KGKの富本直樹氏(輸入代行兼通訳)の4人がドイツ連邦共和国のマールブルク,およびチェコ共和国のツヴィコフへ出張した。  成田空港からの直行便でフランクフルトへ。それから鉄道に乗り換えて,ブリスタ・ブレイルテック社のあるマールブルクへは15時間の長旅であった。  30日,ブリスタ・ブレイルテック社でPUMA VIIの試験を実施した。亜鉛板の厚さ,インターポイントとインターラインの違いによる点の出具合の調節,打ち出し位置の調節などの試験を行い,日本の点字用紙(ドイツに比べ薄い)に適した点の調節が可能であることを確認。GPB-3での印刷試験に使用する原版を作製した。  翌12月1日はチェコへ。ブリスタ・ブレイルテック社のフントハウゼン技術部長の運転で,アウトバーンを旧東ドイツの街ドレスデンをめざし,エルベ川を南下。ドイツ・チェコ国境を通過し,ツヴィコフの隣町ノヴィーボルのホテルへ入った。休憩をはさみながらの8時間の移動だった。  2,3日はGPB-3の試験。ホテルから10分程のツヴィコフにあるグラフストロイ社(GRAFOSTROJ a.s.)へ出向いた。  同社は1884(明治17)年創業の会社(織機工場)で,1946(昭和21)年から印刷機械製造を続けている。大規模な敷地に工場が何棟も建っていたが,現在はその一部で操業し,一部はガラス工場に貸しているという。旧東欧の匂いがまだ残っている街であり工場であった。  2台のGPB-3の試験はすでに進められており,PUMA VII作製の原版で,あわせて4,000枚近くが印刷されていた。  引き続き,一昨日PUMA VIIで作製した原版,日本で作製したA4・B5の原版など計6種類の試験を実施した。実際の印刷物は,A3・A4・B4・B5の4種類。図版・片面の原版も鮮明に印刷された。  我々が驚いたのは,日本で作製していった原版1組で7,000枚以上印刷しても,点の出が悪くならなかったことである。  通常のローラー式印刷機では1,000枚が限度だが,1万枚以上も可能であるとのことであった。  翌日,再び車での移動後,フランクフルトで1泊し,6日成田空港へ無事帰国した。  空と陸の長時間の移動は疲れ果てたが,試験結果の満足感がそれを上回っていた。  2台のGPB-3とPUMA VIIの日本への荷揚げは,船便で1月中旬〜下旬の予定だが,通関・搬送に1カ月くらい要するので,出版所への設置および技術指導は2月中旬〜下旬の予定だ。  なお,技術指導にはブリスタ・ブレイルテック社からフントハウゼン技術部長他1人,グラフストロイ社からミロシュ氏の計3人が来日する。 ++     新点字印刷システムを導入「読みやすい点字」と大好評  2010(平成22)年はヘレン・ケラー女史生誕130年,協会設立60周年,『点字ジャーナル』創刊40周年の記念すべき年。そこで協会は,この節目に(財)JKAの助成を受けて,新点字印刷システムを導入した。  本システムは,平板点字印刷機GPB-3と,ドイツのブリスタ・ブレイルテック社製自動製版機PUMA VIIおよび周辺機器によって構成される。すべて受注生産で,点字製版機はドイツで,平板点字印刷機はチェコのグラフストロイ社で製造され,産業機械の専門商社(株)兼松KGKを通じて輸入した。  協会は,これらの出荷前試験に立ち会うため,点字出版所の職員3人を,2009(平成21)年11月29日〜12月6日の日程で,ドイツとチェコに派遣。これらの機器を船積みした貨物船は,12月29日にドイツ・ハンブルク港を出航し,1月31日に東京港に着船した。  これと並行して,協会新館1階に据え付け後36年間稼働した固型点字輪転機2号機を撤去・廃棄して,新しい印刷機の据え付けのために印刷室を補強・整備し,本年2月11日に同印刷室に平板点字印刷機2台を据え付け,毎日新聞社早稲田別館3階の点字製版室に自動製版機1台を設置した。その上で,2月13日〜2月21日の日程で,ドイツから2人,チェコから1人の技術者を招き,新点字印刷システムの最終調整と,印刷課職員に対する運転・整備等の技術移転を行った。  『点字ジャーナル』は,この新点字印刷システム導入に伴い,2010(平成22)年5月号(4月25日発行)から,固型点字印刷から,A4判エンボス式点字印刷に変更して発行。読者からは「高からず,低からず,とても読みやすい点字である」と大好評を博している。  新点字印刷システムの仕様などを網羅した『点字ジャーナル(号外)』(2010〔平成22〕年4月1日発行)を,下記ホームページ上で公開している。 https://www.thka.jp/shupan/journal_back.html ++     補助事業完了報告     (財)JKA補助事業完了のお知らせ  このたび社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会は,財団法人JKA(旧・日本自転車振興会)より,競輪公益資金による2009(平成21)年度補助金を受けて,下記の事業を完了しました。  ここにご報告申し上げるとともに,謹んで感謝の意を表します。     記  1.事業名:2009(平成21)年度機器の整備  2.事業の内容:平板点字印刷機GPB-3×2台,自動製版機PUMA VII×1台  3.補助金額:2,000万円  4.実施場所:平板点字印刷機GPB-3×2台の設置場所は,東京都新宿区大久保3-14-20 東京ヘレン・ケラー協会新館1階点字出版所点字印刷室。自動製版機PUMA VII×1台の設置場所は,東京都新宿区大久保3-14-4 毎日新聞社早稲田別館3階 東京ヘレン・ケラー協会点字出版所点字製版室  5.完了年月日:2010(平成22)年2月19日 社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会 理事長 藤元 節 ++     PUMA VII 保守・整備ワークショップ  点字出版所は,2019(令和元)年6月9日から11日の3日間,ドイツのブリスタ・ブレイルテック社からライナー・フントハウゼン技術部長を招き,同社製自動製版機PUMA VIIの分解・清掃・組み立て等の保守・整備ワークショップを開催した。  PUMA VIIは2010(平成22)年に導入され,その際には同氏も来日し,操作方法とともにメンテナンスの手順等も当時の製版課長に伝えたようだが,それが十分引き継がれないまま今日に至ってしまっていた。  保守・整備の作業手順は英文マニュアルがあるので当方の製版課でもわかっていた。従って,分解・清掃はできそうだったが,はたして正確に組み立てられるのか,製版課員の誰もが自信がなかった。  点字製版の際に小さな異音がしていたので気になってはいた。しかし,製版自体にはなんら問題はなかったので,高額な機器に手を出す蛮勇は誰にもなかったのである。  しかし,2019(令和元)年は7月に参院選が予定されており,選挙期間中にトラブルが起こったら一大事だ。  そこで,同年2月に協会では,渡航出張費等に約80万円かかるが,新年度事業として,今回の3日間のワークショップを行うことを急遽決定した。  本ワークショップは,製版課職員のスキルアップが目的なので,製版課員が一人ずつ分解・清掃・組み立て作業を,マニュアルに沿って行い,間違った作業を行いそうになったとき,あるいは手間取っているときにのみフントハウゼン氏が助言するという方法をとった。  まず,マニュアルに従いながら6点を刻印する最も重要な部品であるエンボスヘッドの分解を行った。すると早速故障した箇所が見つかった。  製版時に不要な点が出ないよう,エンボスピンのまわりにバネが入ったカバーがあるのだが,それを本体に止めている2本のネジのうち1本が,金属疲労のため途中で折れていたのだ。  これが原因でカバーが浮き,必要以上に原版にあたるせいで異音を発していたのだった。  折れたEUネジと,まったく同じ長さ太さで,ピッチも同じネジが印刷課にあったので,すぐに付け替えることにした。ただ,EUネジは「マイナスネジ」で,当方手持ちのJISネジは「プラスネジ」だったが,もちろん使用上の問題はまったくない。  結果的に不具合はこの1箇所のみで,あとはカバーを取り外し,エンボスピンについた長年の油汚れを清掃して注油し,再度組み立てを行い,最後に点の高さを調整して,エンボスヘッドの分解・組み立ては終了した。  全体的な構造は仲村点字器製作所製の自動製版機ZP Makerと似ているが,部品の配置やスペースの都合で作業を複数人で行わないといけない箇所や,組み立ての際には少々手間取る部品があるなど,分解・組み立ての難易度はPUMA VIIの方が格段に高いように思えた。  続いて,原版を移動させる際に関係するクラッチモーターやセンサー,ベアリング,ゴムなどを点検した。  定期的にメンテナンス・清掃を行うべき箇所は先述したエンボスヘッドの部分で,モーターやセンサーといった部分は異常が起こらない限りメンテナンスをする必要はないようだったが,9年間使っているので念のためベルトなどの交換を行ってもらった。  モーター等に異常がないことを確認すると,最後にPUMA VIIの内部にある,パソコンの内蔵電池を新しいものに入れ替えた。この電池は,パソコン内の日時を記録するために必要で,およそ5年ほどで電池が切れる。  後に調べると,協会のPUMA VIIは2017(平成29)年8月に電池がなくなったようで,それ以降のデータは,電源をつける度にPUMA VIIが製造された2008(平成20)年の0時に戻されていた。電池を新しいものに替え,日時を設定し直すと,電源をつけ直してもきちんと現在の時刻を記憶するようになった。  一連のエンボスヘッドの分解と組み立て作業を初日に2人,2日目に4人が行った。本来は3日目の午前まで,分解から組み立ての予定を組んでいたのだが,研修が順調に進んだため,3日目はフントハウゼン氏の簡単な最終チェックのみで全工程を終了した。  このチェックは,きちんとネジが締められているか,ケーブルは取り付けられているか,インターポイントは適正か,などの簡単な確認であった。  フントハウゼン氏からOKとの返事をもらい,PUMA VIIのメンテナンスワークショップは無事終了したかに思えた。  ワークショップが終わった翌12日,早速,点字生活情報誌『ライト&ライフ』が入稿したので,メンテナンスの確認を兼ねて打ち出すと,どうにも点の具合がおかしかった。点が強く出るせいで,数文字に1つという割合で,原版に穴が開いたのだ。  そこで,点の出を弱くして打ち出してみると,原版に穴が開くことはなくなったが,今度はインターポイントが正しく行われていないという別の問題が見つかった。最初の数行は正しい位置に打たれるのだが,最後の数行になると表の点と裏の点が重なり,文字を消し合った。  結局,原版を固定するY軸の留め具が傾いており,水平に点字が打たれないで,ほんの少しだが右斜め上に打たれてしまっていた。  最終的な確認は数文字打って済ますのではなく,最低でも原版1枚(表と裏の2ページ分)は打ち出して確認する必要があると思い知らされたワークショップであった。 ++     コロナ禍の下で米国から輸入 サーモフォーム真空成型機  文科省著作点字教科書『さんすう1年 第1巻(導入編)』には,7枚のサーモフォームシートを使った点図が使われている。  これは型の上に加熱されて柔らかくなった樹脂のサーモフォームシートを置き,下から吸引してシートを型に密着させ,それを冷却することにより触図や点字をコピーする方法である。  編集委員会主査の筑波大学附属視覚特別支援学校内田智也先生から2020(令和2)年2月末にサーモフォームの一部の触図が「甘い」という指摘を受けた。そこで加藤俊和技術顧問に調査を依頼すると,協会が使っているサーモフォーム・デュプリケーター(真空成型機)は1986(昭和61)年3月10日に購入しているため,「すでに購入から34年間が経過しており,微妙な空気漏れがあり,確かに触図が一部甘くなっているようだ」とのことだった。  そこで,アメリカン・サーモフォーム・コーポレーション(ATC)のホームページで確認すると,デュプリケーターEZ-FORMの本体価格は2,999.99ドルで,予備のフレーム(サイズ11×11.5インチ)も414.99ドルで現在も販売していた。  そこで,見積を依頼すると成田空港までの送料と保険料1,779.65ドルが加算されて,合計金額は5,194.63ドル(56万4,084円)であった。  「成田空港/東京空港」は実際には東京都ではなく千葉県にあり,2020(令和2)年3月23日に東京都知事はコロナウイルス感染症の深刻な拡大を警告していた。  そこで我々は航空貨物の到着空港を,成田空港から東京都にある「羽田空港・東京国際空港」に変更してほしい旨ATCに要請した。  それに対する返事は,「羽田行きは全便が欠航しているので無理である」ということであった。  そこで,ぐずぐずしていると状況はさらに悪化すると判断し,4月1日にATC宛に送金した。  入金を確認したATCは4月11日にデュプリケーターを中華航空機で台北に向けて送り,4月14日に台北から成田空港に向けて送られてきた。  成田空港での通関等の業務はフォワーダーである(株)三協に依頼し,通関手数料と成田空港から協会までの送料等に4万4,485円かかり,関税は0円だったが,消費税に2万8,700円と地方消費税に8,000円がかかり,混載便で4月17日に協会に納品された。  以上総額は65万4,769円であった。 ++     点字出版所空調設備改修工事  2016(平成28)年5月28,29の両日,毎日新聞社早稲田別館1階にある点字出版所事務所の空調設備の改修工事を行った。この工事を行うきっかけになったのは,2016(平成28)年1月中旬の雪が降った朝に,室外機が凍結してつららができたことからだった。それに気付かず出勤した職員が暖房を入れたため,ファンがつららに当たって激しい騒音が出たと,隣接マンションの住人から苦情が出た。  室外機のファンが天を向いた形状であったため起こったことで,「室外機に屋根をつけろ!」との声も聞こえてきた。が,調べてみるとこの空調設備はなんと30年以上も前の1983(昭和58)年に設置されたもの。動いているのが不思議なほど老朽化していたのだ。それに追い打ちをかけるように,この春には早稲田別館の大家である毎日新聞社から,この空調設備はフロンガスを使用しているので2013(平成25)年に「フロン回収破壊法」が改正され,フロンガス使用の業務用空調設備については日常的に行う簡易点検を四半期に1回,専門業者による定期点検を3年に1回行うよう強く指導されていた。  そこでこれ以上老朽化した空調設備に投資するのは無駄金になるとの判断で,今回の改修工事を行うようになったのである。  工事は,床にはブルーシートを敷き,ビニールで仕切ったり,机等にかぶせたりして,万全の体制で行われた。 ++     固型点字輪転機の撤去工事  1968(昭和43)年4月,毎日新聞社早稲田別館3階に据え付けられた協会の固型点字輪転機が,2016(平成28)年10月1日に撤去された。  工事は9月24日・25日,10月1日・ 2日の4日間にわたり行われ,9月24日・25日は,固型点字輪転機とロートクロン,それをつなぐダクト(配管)等の分離・解体。輪転機やダクトの上には48年間のホコリが堆積しており,作業員は使い捨ての白い防護服(タイベックスーツ)にマスク,ゴーグル,手袋を着用しての作業となった。  10月1日,早稲田別館と郵便局の間の通路にはまず大型クレーンを設置。次いで大型トラックを横付けし,三段のステージ(やぐら)用の長方形鉄骨をクレーンで降ろしながら,地上から3階まで積み重ねた。  一方,室内では分割された本体をウインチで吊しながら,とび職が窓からステージに搬出。そこから大型クレーンで地上に降ろすのだが,地上から見ていても目がくらみ心臓が高鳴る作業であった。  かくして分割したとはいえ,総重量10トンもある固型点字輪転機は順序よく,しかも手際よく搬出され,最終日にステージの解体が行われて作業は無事完了した。 ++     3階会議室増設工事  点字出版所は,2019(令和元)年5月14日〜22日の土曜日を除く8日間,「毎日新聞社早稲田別館3階,元固型印刷室内会議室増設工事」を行った。  会議室なので本来の使用目的は「点字選挙公報」等の立会校正,見学や各課で行われる打ち合わせなどだが,ドアの開き方やコンセントの位置などを工夫して,「点字選挙公報」等における大量印刷物の作業や,点字教科書原版の点検や一時保管等にも多目的に利用できるようになっている。 ++     製版課の大阪・東京研修  仲村点字器製作所が2008(平成20)年3月に工場を閉鎖し,2012(平成24)年に点字器と製版機の販売中止を決定し,事実上の廃業を宣言した。このため同社製の自動点字製版機ZP Makerを使っている施設は,その保守・整備に苦慮している。協会点字出版所はZP Makerを3台所有しており,これまで何とか独自に修理してきたが,点字製版機の心臓部となる6点ピンボックスの分解・整備はできないでいた。  日本ライトハウス点字情報技術センター(TeCTI)は,過去に6点ピンが折れたことから,6点ピンボックスの分解・整備の技術を確立していた。そこで,協会は日本ライトハウスに協力依頼し,大阪と東京で研修を行うことで同技術の習得を行った。 ++     大阪研修  2017(平成29)年9月5日に製版課の山本令子,佐藤尊礼,岩屋安昭,佐久間朋の4人で東大阪市のTeCTIへ行った。予定より30分ほど早く着いたが,講習をお願いしていた金子研一主任も「早く来ていただいて助かったかもしれない」と,予定よりも早く研修会を始めてくださった。  ZP Makerの分解・整備は,ピンのウケや亜鉛板を動かす可動部・基板などについたゴミを,強力なエアダスターで吹き飛ばすことから始まり,ZP Makerの構造説明,点を打ち出すクランク等の各可動部へ注油する際の注意点が解説された。  一番の要である6点ピンボックスの内部は,それぞれ1〜6の点に対応する6つのピンがあり,1・4の点と2・5の点,2・5の点と3・6の点の間に仕切り板が1枚ずつあり,これらの上にピンをおさえるブロックが1つ入っていた。金子主任は「自分でやるときは一気に外す」と言われたが,我々が実際に取り外してみると一つひとつ外そうとすると手前2つのピンはともかく,残りはブロックまで届く仕切り板に阻まれうまくいかない。外したピンと仕切り板をボックス内に戻す作業も簡単にはいかず,1枚ずつ入れようにも2枚1組ずつ入れようにも引っかかったり落としたりと,ピンと仕切り板を戻した後も,ピンボックスを閉じた際のネジ止めが強いとピンが動かず,弱いとピン(凸部)がウケ(凹部)から外れかねないと,難儀しながらも何とか習得することができた。 ++     東京研修  2017(平成29)年9月7日,今度は金子主任に上京していただき,協会が所有する3台の自動製版機の分解・整備の指導をしてもらった。はじめは小型のB5タイプ(1号機)を分解・整備した。内部にはホコリがかなり溜まっており,エアダスターを使うと盛大にホコリが舞い上がった。購入してから20年間,1度も内部の清掃をしていないので,金子主任は身構えていたようだったが,意外にも内部は比較的キレイであった。  金子主任はZP Makerの初期型の構造にも興味津々で,B5タイプはとてもていねいに作り込まれていると評していた。具体的には,打ち出す際に原版が上下に動かないようにする押さえに,比較的新しいA4タイプはネジで留めてあるだけだが,B5タイプはスプリングが取り付けられていた。  残りの2台のA4タイプZP Makerも同様に分解・整備を行ったが,こちらではヒヤッとする事案があった。点検後の試験モードの一つであるすべてのピンとウケを動かして「メ」の字を打つ試験の際に,原版に「メ」の字が刻印できなかったのだ。「点検・整備のつもりで,壊してしまったんじゃないか」と一同青ざめたが,結論はTeCTIが所有するものと,当方が所有するZP Makerでは試験モードのシステムが異なっていただけで,実際には問題なく点字製版をすることができた。  金子主任は,同じA4タイプで試験モードの仕様が異なることを不思議がりながらも,「徹夜作業にならなくて良かった。これでホテルを探さなくてすむ」と安堵の表情を浮かべて帰阪された。 ++     新館屋上建屋撤去  点字出版所の新館屋上建屋は,(財)中央競馬社会福祉財団の助成金を受けて,放送大学受信録音装置とそのダビング装置を設置するために,1984(昭和59)年12月に建てられた。  放送大学は現在でこそ日本全国どこでも受信できるが,1985(昭和60)年の開始から1997(平成9)年までは全国放送ではなかった。  そこで放送大学で学びたいが,受信できない地域に住む,向学心に燃えた視覚障害者に情報提供をするためのエアーチェックやダビング機器を設置したのがこの建屋である。  当時はスチール棚に受信機とビデオレコーダーがずらりと並んでそれは壮観であった。  だが開始から4・5年たつと,当然のことながらとても熱心であったユーザーは優秀でもあったので,次々と放送大学を卒業していった。かくして機器の劣化と共に同事業は終焉を迎えたのであった。  そのような事情を知る人も少なくなり,ここ最近はほとんど使われていない男子更衣室が左半分,もう右半分は図書館のスタジオが占めていた。  2018(平成30)年2月26日午前9時から開始された撤去工事で最初に行ったのは電気配線の撤去だ。この配線は新館地下倉庫にあるキュービクル式高圧受電設備横の分電盤から直接伸びてきて建屋の中に入っており,メーター,ブレーカーを通り,各照明等に配線されていた。  次に電話回線の撤去を行ったのだが,ここで誤算が生じた。建屋の電話は休止状態となっていたが,実はそこからまた2口の回線(17番の経理と61番の1階印刷室)が増設されていたのだ。それを知らず切断したので,1階事務所の三つに分配されている回路のヒューズが飛び,電話が使えるところと使えないところが生じた。  2月27日からは撤去のための解体作業が始まり,28日と3月1日にはほぼ解体が終わった。その途中で,撤去業者から「屋上の防水が経年劣化で所々剥がれており,早急に防水の張替え工事を行った方がよい」という助言があり,急ぎ見積をとることとなった。  その後は順調に進み,3月3日午前9時からクレーンによる積み下ろし作業が始まり,午前中で半分以上が降ろされ,山積みされた4トントラックが合計2台分往復した。  同日,午後4時半には後片付けと清掃に入り,最後に防水工事を行うまでの取りあえずの養生として,屋上全面にブルーシートが張られて,工事は無事完了した。 ++     リソグラフSF935講習会  2018(平成30)年5月11日午後2〜 3時,毎日新聞社早稲田別館3階点字出版所印刷室において,高速デジタル製版・全自動孔版印刷機リソグラフSF935(税込99万9,000円)の使い方講習会が開催された。  講師は理想科学工業(株)首都圏第二営業部(理想新宿支店)の協会担当者で,受講者は印刷課と録音課の関係者7人。  リソグラフは,少部数の地方自治体点字広報の表紙や封筒等を印刷するために今や欠かせないもので,2008(平成20)年3月4日に,清水基金の助成を受けて112万8,750円で導入したが,2017(平成29)年9月末に部品供給が停止されたので,購入から10年たつことから後継機種として導入したのが,このリソグラフSF935だ。  理想新宿支店は,協会から徒歩10分の至近距離にあるので,不具合やトラブルがあれば担当者がすぐに駆けつけてくれるということだった。 ++       ■点字以外の出版物 ++     『近代日本盲人史』発行  サブタイトル:「業権擁護と教育・福祉の充実を訴え続けた先人達」  著者:久松寅幸(元長崎県立盲学校教頭)  発行:2018(平成30)年7月1日  本文:ヒラギノUD角ゴ14P  附録:TXTファイルCD(複写厳禁)  価格:税別2,600円  本書は視覚障害者の業権擁護と教育・福祉を中心に,その充実を訴え続けてきた先人の取り組みを,著者が『点字ジャーナル』に連載したものに加筆・修正して単行本にまとめたものである。  第1章は,按摩・鍼・灸業を中心として,視覚障害者の業権擁護運動と実践の特質を述べている。  整理・分析に当たっては,『点字毎日』,官立東京盲学校同窓会誌『六星の光』(点字)等,当事者自身の記録を多く引用した。  第2章は,盲学校や施設における職業教育の充実と新職業開拓の取り組みについて述べた。その際,戦前の視覚障害教育における当事者団体の動向を把握する資料としては『帝国盲教育』等を整理・分析した。  第3章は,福祉の充実に向けた戦前の盲人保護法制定の運動とその要求の特質と,戦後の身体障害者福祉法制定を整理・分析している。 ++     川島昭恵語りCDリリース  協会は全盲の語り部川島昭恵氏のCD『新美南吉&宮澤賢治』(66分57秒 MONO)を2018(平成30)年7月20日,税別2,600円で発売した。  収録内容は,@新美南吉「手袋を買いに」:ある雪の日,子狐は人間の町に手袋を買いに出かけていきます。そこで出会ったものは……。  A新美南吉「狐」:夜新しい下駄をおろすと狐につかれる。それを聞いた少年は,寝床でお母さんにたずねます。  B宮澤賢治「虔(けん)十(じゆう)公(こう)園(えん)林(りん)」:まわりからばかにされていた少年が植えた杉林。20年後,杉林はどうなったでしょうか。 ++     川島昭恵語りCD第2弾  2019(令和元)年12月20日に川島昭恵語りCD2『有島武郎 新美南吉 芥川龍之介』(税別2,550円)をリリースした。これに伴い『新美南吉&宮澤賢治』も同日から50円値下げして税別2,550円で販売した。 ++     教科書の製作・発行     『地域理療と理療経営』(第4版)  2013(平成25)年3月20日発行の『地域理療と理療経営』(第3版)が,法改正などにより内容に問題が出てきた。そこで同書の改訂版(第4版)を2019(平成31)年3月20日に発行した。  同書は盲学校の理療科で教科書として使われており,拡大活字版,点字版,音声DAISY版の3媒体での発行となる。点字版,音声DAISY版は点字出版所において内製化しているが,拡大活字版は外部の印刷所に委託しての印刷となる。このため最後に発行する音声DAISY版が校了しなければ,真っ先に編集作業を行った拡大活字版を外部の印刷所に出稿できない。実際に,音声DAISY版をモニターした著者から必ず修正が入るのだ。 ++     『生活と疾病 IA』(追補版)  2013(平成25)年3月20日発行の『生活と疾病 IA』(初版)は第4章第7節で終わっているが,そこに第4章第8節を追加したいとの著者からの要望があった。初版の拡大活字版は在庫はたっぷり残っており,第4章第7節までは一切手をつけないということだったので,拡大活字版は別冊の追補版を作製することにした。ただ,点字版と音声DAISY版は内製化しており,ほとんど在庫を持っていないので,こちらは別冊ではなく第1章から第4章第8節まで一体として,タイトルは『生活と疾病IA』(増補版)とすることにした。 ++     点字教科書『中学部 道徳』  2018(平成30)年10月25日午後1時半から文科省7階検定連絡室1で,文科省著作点字教科書『中学部道徳』(1〜3年)の入札が行われた。  10月5日に一般競争入札公告があり,10月16日提出期限の参考見積には,教科書に必要な材料,表紙の作製費用,本文に使われる点字用紙の金額,校正回数とその金額,製版に関しては,点図作製の金額,点訳回数と金額,印刷,製本にかかった金額を記入し,文科省へ提出した。  これが入札への参加意思表明となり,入札保証金を納めなければならない。この保証金も重要で,出版社は納めた保証金より安いページ単価を出さなければならないのだ。過去に納めた保証金より高いページ単価を出して失格になった点字出版所もあるので気が抜けない。  当日も当方は,今後のこともあるのでなるべく高く出したいが,文科省側は安く決めたいので,腹の探り合いになる。お互いの思惑が一致すればよいのだが,そうでない場合がほとんどで,展開が読めないと幾度となく入札回数を重ねる。しかし今回は,10月25日午後1時40分に無事に2回目で『中学部 道徳』を協会が落札した。  編集委員は,筑波大学附属視覚特別支援学校と愛知県立大府特別支援学校の先生だったので,冬休みに東京で集中して校正したいという要望だった。  そこで協会点字出版所は総力をあげて,12月23日には『中学部 道徳』(1〜3年)各学年2巻(全6巻)の点訳を行い,学校の冬休み期間中に初校を終えることができた。 ++       ■海外からの訪問と交流 ++     韓国視覚障害者図書館協会  2017(平成29)年9月12日〜15日の旅程で,韓国視覚障害者図書館協会(キム・ホシク会長)一行24人が来日。協会には9月13日午後1時15分〜3時15分,同一行に通訳2人と添乗員1人を加えた27人が訪れ,馬塲敬二理事長による歓迎挨拶と協会の説明,加藤俊和技術顧問(全視情協参与・サピエ図書館担当)による「サピエ図書館誕生から現在までの実績の推移」のレクチャーを行った。  施設見学では,編集課では戸塚辰永主任による編集工程の説明,点字製版課では山本令子主任によるドイツ製PUMAZ自動製版機の実演,印刷課では佐々木晃技師によるチェコ製GPB-3の実演を行った。  韓国では亜鉛板による点字製版は行われていないので,使用済みの点字亜鉛原版を,争うように見本として持ち帰った。 ++     韓国・全州大から女子大生5人組  2018(平成30)年8月17日午後2時40分〜4時,韓国・全州大学の女子大生5人と通訳1人の計6人が,点字出版所の見学に訪れた。  彼女たちは大学で特殊教育を学んでおり,授業の一環として大学から助成金を貰って来日した。このため帰国後,レポートを書き,大学で発表しなければならないが,日本での見学の予約が取れず苦労したこと,見学に応じてくれたところも形ばかりの説明に終始したこと。しかし,協会点字出版所だけは,「詳しく説明していただき,資料も貰うことができて,大変助かりました」と感謝の言葉を述べていた。  そこで,「韓国にもお盆がありますよね。今週は日本のお盆休みであることを知っていますか?」と言った。すると「あっ!」と一斉に声があがり,「韓国では旧暦で行うので知りませんでした。韓国でもその期間中は帰省したり,旅行に出かけるので忙しいです」と言って驚いていた。 ++     フィリピン・セブ島からCBCI  編集課で使っている点字ディスプレイやブレイルメモのメーカーであるKGS(株)は,フィリピンのセブ島に子会社を持っており製品の組み立てを行っている。その縁で2018(平成30)年10月17日,KGSの手配で,セブ・ブライユ・センター・インコーポレーテッド(CBCI)から4人の関係者(検眼専門医2人にソーシャルワーカーと看護師)が協会点字出版所を見学に訪れた。  CBCIは1979(昭和54)年に設立され,フィリピン教育省によって正式に認可された非営利団体で,セブ市の財政支援で運営されている。その事務所と学習センターは,セブ師範大学(Cebu Normal University)の多目的ビルの2階にある。  セブ島(州)の面積は山梨県とほぼ同じで,人口は336万人で,これは静岡県より少し少ないが茨城県,広島県,京都府より少し多い人口だ。しかし盲学校はないので,視覚障害者は統合教育を受けている。また,別途職業教育を受ける視覚障害者もおり,それらの就学前教育として点字やパソコンを教えているのがCBCIで,現在,40人の利用者がいるそうだ。  教育予算不足で統合教育校では,点字教育などの視覚障害者に対する適切な指導がなされておらずCBCIの存在意義は高い。だが,そのCBCI自体予算が逼迫しているのが悩みの種だという。  今回の来日に当たって,9月中旬のKGSの担当者の話では10人が来日するということであったが,10月9日にはビザの関係で5人に減り,実際に2人のKGS社員に引率されて当方を訪問したのは4人で,全員女性だった。全盲の参加予定者は体調を崩して,ドタキャンになったのだという。 ++     韓国の点字教科書会社から  2018(平成30)年11月14日午後2〜4時,韓国教育部(省)から委託され点字教科書等を製作している(株)エクスビジョン・テクノロジーのキム・ジョンホ理事(視覚障害学生教科書製作事業統括・全盲),ソン・ミンヒ団長(視覚障害学生教科書製作事業実務責任者),ナ・ヒャンソン責任者(拡大教科書製作責任者・日本語通訳)が点字出版所を訪れて,日本における点字教科書,拡大教科書,DAISY教科書の製作の実際について,予定時間を1時間も超過して熱心に見学していった。  わが国の文部科学省著作点字教科書の場合,10月〜2月で,当該教科書の半分に当たる前期分を製作し,その後(3月〜7月)で,残りの後期分を製作している。しかし,これでも非常に厳しい作業スケジュールである。  一方,韓国教育部委託点字教科書の場合は,12月〜2月で全巻製作しなければならないという。このため時間に追われて,点図等はていねいに作製することが不可能で,どうしても粗雑になってしまうと,悩みを打ち明けていた。 ++     UAEザイード高等組織機構から  日本国際協力センター(JICE)のアレンジで,アラブ首長国連邦(UAE)のザイード高等組織機構(ZHO)から全盲1人を含む10人の代表団が2019(令和元)年6月15日〜22日の旅程で来日した。  ZHOは,UAE最大の国であるアブダビ首長国の法律に基づいて,2004(平成16)年4月に設立された障害者のための総合施設である。  同一行には通訳2人とコーディネーター1人がついて,内閣府,東京大学先端科学技術研究センター,東京2020オリンピック・パラリンピック組織委員会,日盲連・日盲委,国立障害者リハビリテーションセンターなどの視察の一環として,6月18日午後,協会点字出版所を訪問した。  視察団にはZHO点字出版施設長と全盲の触読校正者も加わっていたので,当出版所ではとくに点図の作製に興味を示し,『中学部 歴史』教科書の資料編に掲載されていた中東の地図を探して,団長である事務総長と通訳がUAEがどこにあるか同行していた触読校正者に熱心に教えていた。  「海外に出れば誰もが愛国者になる」というが,ZHO視察団もその例外ではなく,満面の笑顔で祖国の点図を撫でさすっていた。  UAEはもちろん開発途上国ではないが,点図に関しては「あまりに地道な作業であり,きちんと教育を受けた人間がやる仕事ではない」という,職人芸を軽視する開発途上国同様の問題を抱えているようであった。  点図作製はきちんと教育を受けた人でないと作れない。どのような学習効果を期待してこのページにこの図があるか理解し,その教育的意図と背景を充分理解した上で,何を省略し何を強調して作図するか。場合によっては,地図を大胆にデフォルメする必要さえあるからだ。  教育的意図を充分理解していないと,イランやサウジアラビアという大国は小さな町の名前まで書き,カタールやバーレーンという小国は首都さえ無視するというような,珍妙な中東の点図地図ができかねないからである。 ++     韓国・仁川市から教員グループ  障害分野では,アジア太平洋障害者の「権利を実現する」インチョン(仁川)戦略が策定された場所として,また,韓国第3の都市で,国際空港があることでも有名な仁川市から2019(令和元)年8月2日午後1時10分,7人の女性教師グループ(ファン・ミンヨン代表)が,男性の通訳兼ガイドのイ氏に引率されて協会点字出版所を視察のために訪れた。  今回来日した7人の教師は,知的障害児などの教師ではあったが,教員免許は「特殊教育」なので,視覚障害教育についても知っておく必要があり,熱心に質問していた。  彼女たちは仁川市内のさまざまな特殊学校で教えており,仁川広域市教育庁のプログラムに応募して,夏休みに日本の障害児関係施設を見学して報告書にまとめ,後日,発表会を行うとのことだった。  そこで点字亜鉛原版や『点字ジャーナル』と『ライト&ライフ』の見本誌,それに『算数1年(点字版)導入編』1巻を提供したらとても喜ばれた。 ++     パキスタンの盲人協会から  日本盲人福祉委員会(日盲委)のアレンジで点字出版所は,2020(令和2)年2月4日午前,パキスタン盲人協会の関係者3人と通訳の鉾林さゆり氏(日盲委)の施設見学を受け入れた。  代表のアブドゥル・ラザク氏(全盲)は,元パキスタン盲人クリケットチームのキャプテンやヘッドコーチとして12年間プロとして活躍し,盲人クリケットワールドカップ(WC)でパキスタンが2度優勝することに貢献した。1998(平成10)年から現在まで同WCは5回行われたが,パキスタンは残りの3回でも準優勝しており,ラザク氏はその功績によりパキスタン政府から勲章を受章した。  ネパール盲人福祉協会(NAWB)の常務理事であるパワン・ギミレ氏は,ネパール盲人クリケット協会(CAB Nepal)の会長だが,ラザク氏もよく知っていた。  ギミレ氏は,ネパール国軍の軍人(現・少佐)だが,ネパール共産党毛沢東派(マオイスト)との内戦で2003(平成15)年に失明。その後生きる希望を失っていたが,2006(平成18)年にパキスタン盲人クリケット代表団がカトマンズを訪問したことにより,失明してもクリケットができることを知り,生きる目標を見つけてCAB Nepalを組織した。  ラザク氏は,現在パキスタンのラホールにあるサンライズ盲学校の社会科教師で,「日本では薄い点字用紙を使っているが点字がつぶれない。パキスタンでは厚い点字用紙を使っているので,子供達は重くて大変だ」と言って,日本製紙(株)製NPI上質の品質にいたく感心した。また,日本の触地図の細かさに驚くとともに,日本では盲学校に入学すると「さんすう」の教科学習の前に学ぶ導入編の触図に高い関心を示した。そこで小学部の点字教科書はこの春から改訂されるので,現在使われている『さんすう1-1』をプレゼントしたらとても喜ばれた。  さらに独ブレイルテック製点字製版機と印刷機を見学しては,「これが見たかったのだ」と関心を示し,盛んに質問を投げかけていた。 ++     全盲の人権活動家陳光誠氏来訪  2012(平成24)年5月,中国当局により軟禁されていた全盲の人権活動家陳光誠氏が,活劇を思わせる脱出劇の末,米国に亡命した事件があった。  2012(平成24)年4月,陳氏は軟禁されていた中国山東省臨沂市の寒村・東師古村の自宅から16時間かけて8カ所の塀を乗り越え,その途中,足を3カ所骨折したためその後は這って計20時間以上かけて壮絶な脱出を行う。しかもそれは,米中戦略・経済対話のためにヒラリー・クリントン国務長官が北京にやって来る直前だった。そして紆余曲折の末,陳氏は米国へ亡命したのだが,その間の奇跡の脱出は驚きとともに当時日本でも大きく報じられた。  アムネスティ・インターナショナル日本の招きで2017(平成29)年10月18日に来日した陳光誠氏(45歳)は,26日には協会を訪れ『点字ジャーナル』のインタビューに応じた。  同氏は11月7日まで滞在し,札幌市,盛岡市,鎌倉市,千代田区,徳島市,広島市,京都市,名古屋市の全国8カ所で講演したほか,盛岡市の桜井記念視覚障がい者のための手でみる博物館,アイメイト協会,日本点字図書館等も訪問した。  「日中友好を声高に言う人々は,人権等には触れない場合が多いが,障害者には自分の身の回りのことだけでなく広い視野で見てほしい。中国の盲人協会や障害者連合会は,共産党の組織で,障害者を管理する機関であり,視覚障害者の権利を守り福祉向上を目指す日本や米国の盲人協会とはまったく違って,障害者は軽んじられ,役職には定年間際や左遷された共産党員が就いている。  人権や言論状況の改善には,中国の民間に広がる庶民の力とインターネットの力に加え,国際社会の役割が重要。遠い場所で起きているように見える人権侵害に無関心でいれば,問題は拡大し続けて自分たちにも影響を及ぼす。アジア全体が民主化する過程で,日本はとても重要な役割を果たすだろう。民主的で自由な国家を建設できないまま中国が強国化すれば,全世界の災難になり,隣国の日本は悪影響を受けるはずだ。  中国の人権状況は悪化しているが,共産党の激しい弾圧を受けながらも社会の変革を求める民間レベルの運動は着実に広がっている。すでに民主化の土台は整っており,将来間違いなく変革が起き,民主的な体制に変わるだろう。  札幌,盛岡と講演してきたが,学生だけでなく一般市民も熱心に聞いてくださった。関心をもち,少しでも支援の気持ちがあることを表明するだけでも大きな力になる。経済大国・日本には『人権大国』としての役割も担ってほしい」と陳氏は強い期待を寄せた。 ++       ■ネパールとの交流事業 2015年9月4日,協会ホールにおいて行われた「ネパール地震2015被災者支援報告会」で,支援への感謝とNAWBの活動を報告するクマール・タパ NAWB会長。ネパール語の通訳は,小島純子八王子盲学校教諭 ++     「安達禮雄育英基金」創設     2010(平成22)年4月からスタート  協会がネパールで実施する事業の熱心な後援者であった安達禮(れ)雄(お)氏が,2007(平成19)年秋に逝去され,遺族から同氏を記念した奨学金をネパールに創設したいとの申し出があった。そこで協会は寄せられた200万円を「安達禮雄育英基金」としてネパール側関係者と協議,2010(平成22)年4月からスタートすることで合意した。  海外盲人交流事業福山博事務局長は,2008(平成20)年8月ネパールを訪れ,この件についてネパール盲人福祉協会(NAWB)会長をはじめとする同協会幹部と協議した。  NAWBからは「ネパールには貧しさゆえに就学できない視覚障害児が大勢いる。大変ありがたい申し出であり深謝する。NAWBには同様の奨学金が3件,事業基金が4件あり,長年の運用実績を誇っており,問題点はない。具体的内容に関しては,後日文書で提示したい」と,申し出に対する心からの謝意と,この基金を確実にネパールの視覚障害児のために役立てることへの強い決意が表明された。  NAWBは,その後育英基金の内容を文書で提案してきたが,その骨子は以下のとおり。  ・奨学金の名称は「安達禮雄育英基金(Reo Adachi Scholarship Fund)」とする。  ・同基金を保証するため,安達家,NAWB,当協会の3者が「覚書」を交換する。  ・NAWBは200万円に相当するネパールルピー(以下,ルピーと略す)をカトマンズの信頼できる銀行に定期預金として預け,2010(平成22)年の4月からその利息の中から奨学金を給付する。  ・NAWBは,定期預金から得られる銀行利息だけを使い,元金は定期預金の口座に常に保たれ,同基金は永続するものとする。  ・支給対象者は小学校から高校までに就学する視覚障害児童・生徒5人を予定しており,1人あたりの奨学金は年額1万5,000ルピーとする。  ・奨学生が高校教育を修了すると同基金は新しい視覚障害児に与えられるものとする。  ・NAWBは奨学金総額の5%を超えない金額を管理費として使用できる。  ・NAWBの年次総会において,同基金の事業報告と会計報告を行う。  ・NAWBは毎年12月末に,安達家と当協会に対して,奨学生の学業報告と会計報告を行う。  安達禮雄育英基金を保証するため,安達家,NAWB,当協会の代表が2008(平成20)年11月9日付で「覚書」を交換し,11月27日,「安達禮雄育英基金」を創設するため,安達家から預かっていた200万円をNAWBに送金した。なお,同基金の設立を提案したNAWBからの英文の手紙と育英基金に関する英文の「覚書」と,その和訳は,下記,協会のホームページ上で公開している。 https://www.thka.jp/kaigai/adachi.html ++     NAWBから協会に感謝額  2012(平成24)年9月4日,首都カトマンズの副大統領公邸において,ネパール盲人福祉協会(NAWB)設立25周年記念式典が,パラマーナンダ・ジャー副大統領臨席の下で開催され,当協会に「感謝額(Token of Apprecia- tion)」が贈られた。本来なら,海外盲人交流事業事務局長が出席すべきだが,点字出版所長を兼任しているので衆議院解散・総選挙が噂されており,身動きがとれなかった。そこで,現地ボランティアであるホーム・ナット・アルヤール氏(元NAWB事務局長)に代理出席してもらい感謝額を受け取ってもらった。  感謝額は,表彰委員会コーディネーターのカマル・ルパケティ(元NAWB会長),25周年記念式典委員会委員長マダン・ウパディア教授(元WHO南東アジア地域相談役,元NAWB会長),NAWB会長クマール・タパ(国立トリブバン大学講師),チーフ・ゲストであるネパール国副大統領パラマーナンダ・ジャー(元最高裁判所判事)の連名により,「25年間の福祉事業の記念に,NAWBに与えられた貴重な貢献と協力を認めて,東京ヘレン・ケラー協会(日本)に『感謝額』を捧げます。2012年9月4日」と英文で記してあった。  その感謝額を持って10月,NAWB相談役であるガジェンドラ・シュレスタ氏を代表とするカスタマンダップ・ロータリークラブ一行が来日した。  2010(平成22)年の12月,同クラブは姉妹クラブである下館ロータリークラブと共同で500万円を集め,茨城こども病院に超音波診断装置を寄贈した。その縁もあり,同病院や福島県の被災地を視察した他,筑西市長や茨城県知事,それに麻生太郎元首相をも表敬訪問した。  ガジェンドラ氏は,1978(昭和53)年にネパール青年会議所(JC)の会頭をしていた。その時の日本JCの会頭が麻生太郎氏で,フィリピンから日本まで青年の船で一緒に航海して以来,今もガジェンドラ氏と麻生氏の親交は続いているのだ。  10月8日午前11時半,福山事務局長は中央区勝どきにあるオーナーズホテル東京BUCでガジェンドラ氏たちに会い,NAWBからの「感謝額」を受け取り,その後,銀座の日本料理店で,歓迎昼食会を主催した。 ++     ネパール地震で緊急募金     救援金155万3,000円を送金  2015(平成27)年4月25日午前11時56分(日本時間午後3時11分),ネパール中部で発生した「ネパール地震2015」により被災した視覚障害者を支援するため,協会は募金活動開始。  まず点字と墨字を併記した『愛の光通信・号外』を作製して,ゴールデンウィーク前の5月1日に海外事業の支援者等に呼びかけた。  この結果,海外盲人交流事業事務局には短期間に70万円以上が集まり,5月18日に現地へ60万円を送金。これによりネパール盲人福祉協会(NAWB)が拠出した50万ルピー(約59万円)の「障害者災害救援基金」と合わせ基金総額は100万ルピーとなった。  送金した60万円は,次のようにカブレ郡の被災障害者救援に使われた。 (1)一時避難住宅の屋根を葺くために,トタン波板1セット(8枚組)を25世帯の被災家族に提供した。 (2)被災した統合教育校サンジワニ・モデル校の被災視覚障害児童・生徒13人に制服を配布した。 (3)上記の配布に加え,カブレ郡開発委員会から提供された毛布や米,ヘルプ・ネパールネットワークから提供された衛生キットを配布するための運送費も支出した。なお残金はヌワコット郡の被災障害者支援に使われた。  2015(平成27)年6月23日現在,協会へ寄せられた救援金は合計約130万円。その内の60万円は既に送金済みなので,残額の約70万円を7月2日にNAWBに送金した。  NAWBのタパ会長等は,9月1日〜3日に東京・京王プラザホテル新宿で開催する第3回アジア太平洋CBR会議に参加するために協会の招きで来日していた。  そこで,同月4日午後4時から協会ホールにおいて,「ネパール地震2015被災者支援報告会」を開催して,支援者への感謝とNAWBのこれまでの活動を,その背景と共に報告した。  一方,日盲社協,日盲連,全国盲学校長会で構成する日本盲人福祉委員会(日盲委)もネパール地震救援募金を開始。そこで,協会発行の『点字ジャーナル』6月号(5月25日発行)で広報すると共に,日盲委に対して積極的にネパールからの被災情報を提供した。  10月21日にNAWB宛,ネパール地震救援金25万3,000円を送金。これにより協会がNAWBに送金した救援金総額は155万3,000円となった。  NAWBはこれを原資に,まず被災直後には,取りあえず雨露をしのぐテントを作るためブルーシートを障害者全体を対象にして配布した。  その後は,冬を迎える前に被災障害者が自力で仮設住宅を建設するためにトタン波板を配布するとともに,毛布を配布した。  なお,日盲委からの救援金は,視覚障害当事者団体であるネパール盲人協会(NAB)の会員である被災者に限って,主に毛布を提供した。 ++     ネパール地震 支援校全壊  地震発生直後の2015(平成27)年4月25日,ネパールへは電子メールも電話も通じず,日曜日の26日午前10時頃,ようやく協会のボランティアであるホーム・ナット・アルヤール氏とネパール盲人福祉協会(NAWB)のクマール・タパ会長(全盲)に連絡がとれ,関係者の全員無事が確認された。また協会がこれまでにネパールに建設してきたバラCBRセンターと附属眼科診療所,点字出版所,3校の寄宿舎はいずれも無事だった。  ただNAWBの理事4人と職員5人の自宅のうち7棟が全壊,2棟が半壊した。また協会が支援する統合教育校のアマル・ジョティ・ジャンタ校の校舎は全壊した。  NAWBはただちに「障害者災害救援基金」を作り,5月2日から,首都カトマンズに隣接するラリトプール郡で地震被災障害者へ救援物資として防水シートの配布を行った。また,5月8日には当事者団体であるネパール盲人協会(NAB)と救援活動合同会議を開催し,クマール・タパ会長を委員長に選出して「震災救援対策調整委員会」を結成した。そして,被災した10郡を2分割して,それぞれ5郡をNAWBとNABが担当して,支援することにした。 ++     再建が進む被災校舎     2018ネパール現地報告 海外盲人交流事業事務局長 福山博  日本盲人福祉委員会の助成を受けて私は,2018(平成30)年12月14日〜31日の旅程でネパールにおける支援事業視察のために出張してきた。  吉報としては,「ネパール地震2015」で全壊した震源地ゴルカ郡のアマル・ジョティ・ジャンタ校の本館校舎再建工事が行われていたことである。  同校は不便な山の上にあるが,首相や大臣等を輩出した有名校であるため地震発生時にはインド政府の財政支援により,高校2・3年生用の校舎を建設し完成していた。しかし,地震の影響でその新しい校舎壁面には無数の亀裂が生じたが,その校舎補修工事が2018(平成30)年12月には完了し,あとは仕上げの塗装工事を残すだけになっていた。  以前同校を訪れたときは,「ゴルカ郡では約500教室が被災したが,同校には使える教室も残っているので校舎再建の優先順位は低い,再建工事はいつになるかわからない」と副校長は嘆いていた。  ところが実際には2018(平成30)年5月18日には税込総額2,147万4,309.14ルピーによる12教室を含む校舎本館建替工事の契約が締結され,2018(平成30)年7月30日から建設が開始され,2020(令和2)年4月12日に完工する予定である。  この工事はネパール政府復興庁(NRA)が実施するが,トントン拍子に進んだ裏には,建設資金をゴルカ財団が提供したことが関係している。  同財団は米国で高等教育を受けたゴルカ出身のネパール人たちと,ゴルカ郡で文化人類学の現地調査を実施した米国人など同郡と関係のある人々が,ゴルカ郡における貧困層の生活環境を改善することを目的に活動する,米国の首都ワシントンDC郊外に本部を置く非営利団体である。同財団の意向によって同校の建替工事は一気に進んだものと思われる。  同じ仮設教室でも財政基盤のしっかりした都市部の学校のそれには床があり,山間部の学校はドアもない掘っ立て小屋同然で明らかな違いがある。そういう意味で,アマル・ジョティ・ジャンタ校校舎再建が前倒しになったことを喜びたい。 ++     再建が進む被災地の学校     2019ネパール現地報告 海外盲人交流事業事務局長 福山博  日本盲人福祉委員会の助成を受けて私は,2019(令和元)年12月13日〜31日の旅程でネパールにおける支援事業視察のために出張してきた。  今回最大の吉報は,2018(平成30)年12月時点では「ネパール地震2015」の被害からまったく再建計画の目途さえ立っていなかった,カトマンズに隣接するパタン市にあるナムナ・マチェンドラ校に定員40人の視覚障害者用寄宿舎がJICA(国際協力機構)の手で建設中だったことである。  協会はこれまでにネパールの農村僻地の学校3校に視覚障害児のための寄宿舎を建設してきた。それは現地の学校の要請に基づいたもので,現地の生活レベルに沿ったものであった。このため見積段階から個人的にはもう少し余裕のある快適な住環境を提供したいと考えていた。  その点,今回は生活レベルがネパールの中でトップクラスの土地柄であり,しかも,耐震性を十分配慮すべき建築であることから,十分な予算をかけて,見るからに立派な寄宿舎が建設されていた。  しかも,寄宿舎完成の後,やはりJICAが校舎をも建設してくれるということで,学校関係者は満面の笑みでわれわれを迎えてくれた。  同校は小学校1年から高校3年までの12年課程がある児童・生徒数3,000のマンモス校である。公立の伝統校で,増築に増築を重ねた校舎は古く,地震により,ほぼすべての建物がなんらかの被害を受けていた。しかし,立地がバスターミナルの隣という,商業地のど真ん中であるため問題は山積していた。  再建工事を行うためには最新工法による難工事が必要で,総工費がいくらかかるかわからない等,設計段階から難航しており,少なくとも2018(平成30)年12月時点では,校長以下関係者は頭を抱えていた。  長年,NAWBとJICAや在ネパール日本国大使館との関係は良好で,それを陰に陽に協会は支えてきた。  そして,思わぬ朗報にネパール人でなくとも神仏のお導きに感謝したいところだ。ちなみにパタンには,さまざまな規模や形の仏教の記念物が1,200以上存在する仏教徒の多い土地柄でもある。  次に紹介するのは,『青い鳥』2019(平成31)年2月4日号で詳しく報じた震源地のゴルカ郡にあるアマル・ジョティ・ジャンタ校である。既報では「仕上げの塗装工事を残すだけ」となっていたが,きれいに補修された校舎となっていた。そして実際に授業がされ,放課後は児童・生徒が一斉に元気に飛び出してきた。また,用済みになった一部の仮設校舎は撤去され,本館の工事も進んでいた。  次に紹介するパタン市に隣接するキルティプール町にあるラボラトリー校は1956(昭和31)年に,米国の支援により「公園の中の学園」をコンセプトに,国立トリブバン大学によって設立された12年制の学校である。  校舎や講堂,事務棟など米国人により設計された建物は,すべてれんが造りの平屋建てである。ところが,後にネパール人により設計された寄宿舎は女子用が2階建て,男子用が3階建てであった。そして「ネパール地震2015」では,この男子用寄宿舎のみが全壊した。そこで少なくとも2018(平成30)年12月までは講堂を区切って仮住まいにしていたのだが,今回訪れてみると,さすがに懲りたのか,今回は平屋建てのそれも質素な男子用寄宿舎が完成していた。  ところで,ネパール盲人福祉協会(NAWB)に隣接するカルモチャン寺院は完全に倒壊したが,国宝級の宝物を収蔵していたことから,すぐに警察の臨時派出所ができ,早くから再建の青写真ができこのたび見事に再建された(下記写真)。しかし,れんがとれんがの接着にはセメントモルタルを使わず,昔ながらの赤土に石灰を混ぜたモルタルを使っていた。 ++     『UEBハンドブック』点字版贈呈式  2018(平成30)年12月18日,インド国境沿いの農村僻地にあるドゥマルワナ校を訪問した。これまで同校へは川の水が引いた乾期に4WDで川を渡らなければならなかったが,2018(平成30)年に橋が完工しており,ドゥマルワナ村は陸の孤島を返上していた。  1年前の2017(平成29)年12月に同校を訪問したとき,旧知の全盲教師のクリシュナ・ティミルシナ君から『UEBハンドブック』の墨字版が発行されたことは喜ばしい,次は点字版をぜひ発行してほしいと陳情された。  彼は就学前の点字クラスから10年課程を修了するまで協会の丸抱え支援で勉強した1期生である。その後,独自に奨学金を得て大学を卒業して母校の教師になったので,彼とは25年前からの知り合いである。  そこで2018(平成30)年度予算に『UEBハンドブック』(点字版)製作 費として40万円を組み,昨年8月にNAWB宛送金した。その点字版が完成したので,我々が車で統合教育校に運んで贈呈式を同校で行った。  12月20日シャンティ校を訪問。同校でも2017(平成29)年12月に,やはり旧知の全盲教師のティカラム・ブーサル君から『UEBハンドブック』点字版を発行してほしいと陳情されていたので,ここでも校舎本館前で贈呈式を行った。 ++     在ネパール日本国大使館で署名式  ネパール盲人福祉協会(NAWB)が,日本政府の2017(平成29)年度「草の根・人間の安全保障無償資金協力」に申請していた総額82,257米ドル(約946万円)にのぼる「点字教科書発行用点字プリンターおよび付属装置(Braille printers and ancillary equipment)」の供与が認められ,その署名式が12月18日午前11時からカトマンズにある在ネパール日本国大使館において,小川正史ネパール駐箚特命全権大使とクマール・タパNAWB会長によって行われた。  同署名式には,カマル・ラミチャネ筑波大学准教授が主賓として,日本の識字率は200年前から世界最高水準であったこと,国の発展には教育が不可欠で,今度の供与は視覚障害者教育の核となる点字教科書発行に極めて有益であると述べた。  同署名式には別途,NAWBの役職員,同申請のために推薦状を出した東京ヘレン・ケラー協会を代表して,ネパール出張中であった福山博海外盲人交流事業事務局長も参列した。  本署名式はネパール国内での関心が強く,国営放送のネパールテレビジョン(NTV)や民放の24ニュース,政府系ネパール語日刊紙『ゴルカパトラ』をはじめとしたネパールのマスコミが多数取材に来ており,同日から翌日にかけてネパール国内で大きく報じられた。 ++       ■点字図書館の新たな活動 ++     ボランティア懇親会開催     30人に感謝状贈呈     藤原章生記者の講演に感銘  第32回点字図書館ボランティア懇親会を,2006(平成18)年10月25日,協会ホールで開催した。  この懇親会は,点字図書館で奉仕活動をしているボランティアの皆さんに感謝を込めて長年開催してきたが,今回の出席者は70人と盛況であった。  奉仕活動を5年間務めてきた人が対象の感謝状贈呈該当者は30人。これも例年にない多さで,藤元節理事長が一人ひとりに直接手渡した。  記念講演は,毎日新聞社の藤原章生記者にお願いした。藤原氏は2006(平成18)年春まで,メキシコシティ支局長をされており,その前は5年間にわたってアフリカのヨハネスブルグ特派員を経験している国際報道記者である。そのアフリカ時代の取材を通じて「偏見を持たず等身大で見ることの大切さ」を,スライド映写やCDによるアフリカの音楽をかけながらのトークショーで訴えた。  藤原氏は2005年に上梓した「絵はがきにされた少年」で開高健ノンフィクション賞を受賞しており,参加者は実体験に基づいた講演を興味深く聞くことができ,感銘を受けていた。 ++     ボランティア懇親会開催  点字図書館ボランティア懇親会を,2007(平成19)年10月24日,協会ホールで開催した。33回目の今回は,出席者が約50人だった。  奉仕活動を5年間務めてきた人が対象の感謝状贈呈該当者は13人。藤元節理事長から出席した一人ひとりに心をこめて感謝状が手渡された。  記念講演はノンフィクション作家の黒岩比佐子氏による「明治の“食育”小説 ―― 村井弦斎の『食道楽』」。  今ブームの「食育」という言葉が,すでに“忘れられた作家”村井弦斎によって語られていたことや,当時の大ベストセラー作家であった弦斎にまつわるエピソード等が楽しく語られた。 ++     叙情歌を楽しみ,口ずさむ ボランティア懇親会でミニコンサートも開催  点字図書館主催第34回ボランティア懇親会が2008(平成20)年10月28日,協会ホールで開かれ,日頃点字図書館を支えている点訳・音訳・図書整理のボランティア約50人が参加した。  前半は,5年間ボランティア活動を続けてきた11人(当日出席5人)に藤元節理事長から感謝状が贈られた。  恒例の特別イベントは,歌手の大村みのり氏を迎えてのミニコンサート。同氏は自然・環境,癒しをテーマに叙情歌を歌って国内外でコンサートを開催しており,忙しい中,時間を割いて今回ミニコンサートを引き受けてくださった。  会場にはヘレン・ケラー学院の学生らも集まり,大村氏は軽快なトークと叙情歌17曲を披露,最後は全員で唱歌「ふるさと」を大合唱して1時間たっぷり楽しんだ。 ++     ボランティア懇親会 盲導犬の役割を学ぶ  点字図書館ボランティア懇親会を2011(平成23)年10月27日,東京都盲人福祉センター(東京・高田馬場)のホールで開催した。  この懇親会には,点訳,音訳,図書整理の33人のボランティアの皆さんが参加し,三浦拓也理事長が5年活動を続けた4人の方に感謝状を贈った。  点字図書館を取り巻く情勢や東日本大震災での視覚障害者の支援態勢の報告がおこなわれた。その後,特別イベントとして日本盲導犬協会の職員による「視覚障害者の自立と盲導犬の役割」と題した講演が行われ,PR犬2頭のパフォーマンスも加えて,実際の訓練の様子や障害者をサポートする盲導犬の特性などについて理解を深めた。  最後に,ボランティア同士の懇談に移り,和やかに過ごした。 ++     ボランティア懇親会節目の40回  第40回点字図書館ボランティア懇親会を2014(平成26)年10月27日午後,協会ホールで開催した。今年は点字図書館開設40周年に当たり,節目の懇親会となった。約30人のボランティアが参加し,活動歴5年を迎えたボランティア4人に感謝状を贈った。  記念講演をお願いした日本盲人社会福祉施設協議会理事長で,ぶどうの木ロゴス点字図書館館長の橋秀治氏は「私の歩んだ道」と題して自らの人生を振り返り,視覚障害者の社会参加や自立に向けた長年にわたるご自身の関わりを話し,深い感銘を与えた。 ++     第42回ボランティア懇親会開催  2016(平成28)年11月1日,第42回点字図書館ボランティア懇親会を,協会ホールで開催した。  ボランティア活動を5年継続された方には,その貢献に対して感謝状が贈られているが,今回は点訳ボランティア9人の方に贈呈した。  懇親会の特別イベントは,現在国際的に活躍している活動写真弁士片岡一郎氏をお招きし,チャップリンの音楽付きサイレント映画「街の灯」を体験した。  片岡氏独自の脚本と演技で見事に活写された名作に,ボランティアは大いに笑ったり感動したり。滅多に目にすることのない無声映画のおもしろさを味わった。  上映の後,片岡氏を囲んで懇談。無声映画に関する質問や話題などが飛び交った。 ++     第43回ボランティア懇親会開催  2017(平成29)年11月7日,第43回点字図書館ボランティア懇親会を協会ホールで開催して,ボランティア活動を5年継続してくださった音訳ボランティアの方2人に感謝状を贈呈した。  今年のメインイベントは,バリアフリー映画鑑賞推進団体シティ・ライツ代表平塚千穂子氏による講演,「見えなくても,映画はみえる」というテーマで,これまでの活動や今後の夢についてお話いただいた。  実際に音だけの鑑賞,音声ガイド入りの鑑賞,映像の入った鑑賞の3パターンを体験し,音声ガイドの重要性を実感することができた。今まではあまり関心を持たれなかった障害者の文化活動という分野に貢献してくださる平塚氏のような方は,とても貴重な存在だと感じた。  講演後は平塚氏を囲んでの懇親会。普段ゆっくり話す暇のないボランティア同士の交流ができ,とても和やかな時間となった。 ++     第44回ボランティア懇親会開催  2018(平成30)年11月6日,第44回点字図書館ボランティア懇親会を,協会ホールで開催した。  ボランティア活動を5年継続してくださった方,今年は点訳ボランティア14人,ランプの灯ボランティア3人の計17人に感謝状を贈呈した。  今回の講師は,「ポップ王」として知られ,本屋大賞の創設メンバーでもある(株)三省堂書店の内田剛氏にご講演いただいた。テーマは「本の力を信じて 〜 書店人生活25年を本屋大賞を中心に振り返る」。  本が最も売れたのは1996(平成8)年で,当時は2兆円産業と言われていたが,その後売り上げは激減,今では半減するまでに落ち込んでしまっている。  どうすれば人が本屋に来てくれるのか。2000(平成12)年当時は禁止されていた「手書き」によるポップを店内に掲げ,2003(平成15)年には本屋大賞を設立。年間600冊もの本を読むという内田氏の,本に対する熱い思いが会場を沸かせていた。  軽妙な語り口で会場と一体になった1時間半は飛ぶように過ぎ,その巧みさで確実に皆の心をとらえた。「話しきれなかったことがまだまだある」と内田氏ご自身が講演の最後におっしゃっていたが,聴衆もまだまだ聞きたいと感じていた。  講演終了後は,内田氏を囲んで懇親会が行われた。講演では話しきれなかったという,本を取り巻く現状の奥深い部分を,さらにほんの少しうかがうことができた。 ++     第45回ボランティア懇親会開催  2019(令和元)年11月12日,第45回点字図書館ボランティア懇親会を,協会ホールで開催した。  ボランティア活動を5年継続してくださった方には感謝状が贈られているが,今年は点訳ボランティア1人に贈呈された。  そして,メインイベントは元協会理事長の藤元節氏による講演。テーマは「ヘレン・ケラーと私たち」。来年協会設立70周年を迎えるにあたり,ヘレン・ケラー女史の事を改めて学ぼうという試み。  講演の中では,ヘレンの肉声を聞くことができた。ヘレンの肉声は一般人には言葉の判別は困難で,秘書のポリー・トムソン女史の通訳があって初めて理解できるという状態である。  講演終了後は,藤元氏を囲んで懇親会が行われた。活動期間の長いボランティアとの懐かしい会話が弾み,和やかなうちに閉会となった。 ++     初のロービジョンケア相談会開催  点字図書館は弱視者の見えにくさを改善するために,2007(平成19)年3月7日,学院の教室を使ってロービジョンケア相談会を開催した。  相談会には朝倉メガネの全面的な協力があった。同社の3人が器具を持って待機,ヘレン・ケラー学院に入学を予定している7人を対象に,時間をかけてゆっくりと相談に応じ,それぞれの症状に応じたアドバイスをした。  今回が初めての試みだが,今後,中途視覚障害者をサポートする一環として,入学対象者から枠を広げ,多くの人が相談できるように継続して開催することにしている。 ++     点字図書館が「関点協」会長館に  関東地区の17館が加盟する関東地区点字図書館協議会(関点協)の2007(平成19)年度総会・春期研修会が2007(平成19)年6月1日,日本点字図書館で開かれ,協会点字図書館が平成19,20年度の会長館を務めることが決まった。  会長館は慣行で2年ごとの持ち回りとなっており,2005(平成17)年度と2006(平成18)年度は北関東ブロックのとちぎ視聴覚障害者情報センターが担当,今年度から東京ブロックの選出となっていた。  新たに関点協会長となった石原尚樹館長は,自動的に全国視覚障害者情報提供施設協会の理事となる。関点協拡大事務局として,川西幸治点字図書館職員が事務を取り扱う。 ++     点訳ボランティア養成講習会     13人が修了,仲間入り  5月8日にスタートした2007(平成19)年度点訳ボランティア養成講習会が,9月4日に全16回の日程をすべて修了した。前年度に引き続いての点訳講習会だったが,今年は応募者が多く予定枠より1人増やして16人が受講,途中やむを得ない事情で断念した人もいたものの,結局13人が最後までやり遂げた。  半年近い講習ですっかりうち解けた講習生はすでに同期意識が芽生えたようだった。  修了者はさらにブラッシュアップするために,引き続いて点字図書館職員の個人指導を受けるが,実力がある程度ついたと判断した段階で,図書館のボランティアグループに加わり,点訳本の製作に取り組むことになる。 ++     音訳・点訳ボランティア養成講習会     同時並行で開催  点字図書館は2011(平成23)年春,音訳ボランティア養成講習会と点訳ボランティア養成講習会を相次いでスタートさせた。二つの講習会が並行して開かれるのは珍しい。  点字図書館には実働する協力ボランティアが114人在籍している(音訳44人,点訳59人,図書整理11人:ボランティア保険登録者数)。これらのボランティアの支えで点字図書館が動いているといっても過言ではないが,ボランティア数は年々減少する傾向にある。家庭の事情や高齢化などで活動が難しくなるなど,やむを得ない事情がほとんどだが,読書を楽しむ利用者のために,たくさんの図書を提供するボランティアの充実は,点字図書館の大事な仕事だ。そこで,点字図書館ではボランティア養成が義務づけられている。  先行してスタートした音訳ボランティア養成講習会は,2011(平成23)年2月にホームページで告知を開始,新宿区広報も使って受講者を募った。十数人が申し込んできたため4月20日に説明会及び選考が行われ,最終的に8人(うち男性1人)が受講生となった。8人はやや少ないが,音訳ボランティアとして継続して活躍していただくには,厳しい条件をつけざるを得ず,少数精鋭型の講座となってしまうのはやむを得ない。  講師は点字図書館の堀江達朗職員があたる。堀江職員は全視情協や日盲社協の録音関連プロジェクトでも活躍していて多忙の身だが,評価の高い同館の録音図書の質を落とさないよう,受講生を厳しく指導している。講習会は隔週水曜日に設定しており,最終は2012(平成24)年3月までという長丁場になった。  後発の点訳ボランティア養成講習会は6月7日に第1回の講習会を開催した。実は点訳関係は昨年も開催したのだが,もう少し補充する必要があり,講師の千葉一郎職員が「今年もやります」と声を上げた。受講生は14人で,男性は2人。今回は通信教育などで点字に触れた人も数人おり,改めて点字の基礎から学び直したいと意欲的だ。  点訳講習会は毎週火曜日に開催するので修了は9月下旬の予定。その後,腕を上げた人から順次点訳グループに入ってもらい,活動を開始する。 ++     点訳ボランティア養成講習会修了  2011(平成23)年の6月7日にスタートした今年度の点訳ボランティア養成講習会が9月27日修了した。  14人の受講生でスタートしたが1人が欠けただけで,無事卒業した。毎回大量の宿題が出され,四苦八苦した受講生もしっかり成長,修了式では改めて「学ぶことの楽しさ」を実感していた。  修了後は点字図書館の複数の点訳ボランティアグループに分かれ,点訳奉仕活動に入った。 ++     新規養成講習会10人でスタート     名付けて「ランプの灯ボランティア」  点字図書館では現在活動している点訳,音訳,図書整理ボランティアとは違う新しいボランティアを養成する事業をスタートさせた。図書館は「行動する点字図書館」をスローガンに,職員が館外に出て視覚障害者への情報支援を行っているが,この体制をさらに強化するために立ち上げるボランティア組織である。  新しい形のボランティアは「ランプの灯ボランティア」と名付けた。これは協会の精神的支柱であるヘレン・ケラー女史の「あなたのランプの灯をもう少し高く掲げて下さい。見えない人の行く手を照らすために」という有名なメッセージからとった。ボランティアは情報支援員のもとで,様々な場面で障害者をサポートする。例えば各種イベントでの手引きや図書館での点字講習のお手伝い,館外で開く事業のサポートなどであり,幅広い活動が期待される。  こうしたサポートはしっかりした訓練を受けてから行う必要があるため,図書館ではボランティア希望者を募集,応募してきた10人に2015(平成27)年5月19日から養成講習会を始めた。全16回のコースは10月に修了する予定で,この間,視覚が不自由な方たちへの理解を深め,ガイドの基本や食事のサポート,アイマスク体験などの講習を行う。点字の習得も必要なため,並行して点字学習も続けている。  10人の小さなランプの灯が核となって,多くの人たちに輪が広がり,街で苦労している視覚障害者に気軽に声を掛けられる……そんな期待が膨らむボランティアグループの誕生も間近である。 ++     音訳でも養成講習会  点字図書館は,2015(平成27)年度は,音訳ボランティアの養成講習会も開催した。 今回は応募者が18人もいたが,少数精鋭での講習を行うために,厳正な選考会を実施して絞り込み,8人が講習生に選ばれ,5月9日に,音訳ボランティア養成講習会は開講した。 本講習会は隔週で開催したため修了は3月になったが,受講者は音訳図書の完成が出来る日を目指して,熱心に取り組んでいた。 ++     ボランティア養成講習会     点訳/音訳/「ランプの灯」で  点字図書館は2015(平成27)年初めて実施して評判の良かった「ランプの灯」ボランティア養成講習会を2016(平成28)年も実施した。昨年は手探りの講習だったが,今回は短期講習が可能と判断。全5回コースで前半3回は視覚障害者理解とガイドの基本を学び,後半2回は点字の基礎を学ぶことにした。今年の受講者は6人。  2016(平成28)年の5月17日にスタートしたとたんに仲間意識が芽生えて全員講習を終えた。  引き続き点訳ボランティア養成講習会も6月21日からスタート。3年ぶりの開講には9人が受講した。  一方,音訳ボランティア養成講習会は2年連続で実施。今年は8人が5月から3月までの長期講習に通っている。 ++     図書館書架を更新     メイスン財団が多額の助成  長年更新されていなかった点字図書館の書架がようやく新しくなり,手狭な館内もややスペースが広がった。東京メソニック協会(メイスン財団)の高額な助成によるもので,図書館らしい体裁も整い,これまで以上に利用者への便宜が図れると,職員は張り切っている。  これまで図書館は増える一方の各種図書の置き場に四苦八苦していた。書庫の隙間スペースに山積みしたり,段ボールに入れて保存していたため,足の踏み場もない状態だった。さらに心配だったのは,設置が不安定で,大きな地震に見舞われたら,たちまち転倒事故が起きるおそれがあったこと。そのため堅牢な書架への更新は大きな課題だった。  この難問に朗報が飛び込んできたのは,2007(平成19)年2月初旬。メイスン財団から「助成の用意がある」と連絡があり,施設間で協議したところ,図書館の書架更新を申請することになった。2007(平成19)年3月12日,同財団から「全額助成」の決定。220万円近い助成金を得た。  工事業者と折衝した結果,施工日はゴールデンウイークの谷間の5月1,2日と決めた。しかし,その前に図書の引っ越し作業が苦労で,学院の実習室を借りて運び出し,出版所の人手を頼んで古い書架の解体,移送とてんてこ舞い。連休期間中は図書貸し出しを停止したものの,連休明けの再開に間に合うか綱渡りの作業が続き,ようやく図書を新しい書架に納めることができた。地震の不安からも解放された同館は,さらにスペースを確保するため早くも次のステップを検討している。 ++     図書館に多目的室     メイスン財団から助成受け  点字図書館の長年の懸案だった多目的ルームが,館内のレイアウトを一部変更して2015(平成27)年8月に新設された。完成後は視覚障害者への点字やパソコンの指導,ボランティアの打ち合わせ,ミニ会議など様々に活用されている。  狭い図書館を上手に使うには困難が伴う。以前から職員の空きデスクや丸テーブルを使ってやりくりしてきたが,「小さくてもいいから独立した部屋がほしい」という声は上がっても,現実を考えるとなかなか踏み切れなかった。  2014(平成26)年度事業計画には新ルームの設置を載せたものの資金の目処がたたず断念。2015(平成27)年度こそ実現させる意気込みで事業計画に再び入れたのであった。  ルーム設置に踏み切った第1の要因は資金の目処が立ったことである。数年前,書架の更新に高額の助成を認めてくれた日本メイスン財団に再びお願いすることにし,直接日本本部を訪ねて援助を訴えた。見積額全額はかなわなかったが,総経費7割の助成を得ることができたのは,資金難の図書館にとっては大きな力となった。  レイアウトは,当時の川西幸治図書館次長が緻密な配置を考えた。図書館南端のスペースはそれまで書架に囲まれた中に丸テーブル,テレビ,情報機器類を置いていたが,そのスペースを多目的ルームとして利用するプランである。このため書架を移動したり,使われなくなったカセットテープを大量に処分してスペースを確保。職員のデスクの移動等で動きやすい配置を目指した。  工事はヘレン・ケラー学院の夏休みにあたる2015(平成27)年8月22日,23日の2日間とした。当日が休館のため利用者に不便をかけることがないように配慮したのである。  新しい多目的ルームはパーティションで仕切って独立性を保ち,音漏れがないようにしてある。個人的な相談もここではOKだ。室内には角テーブルと椅子4脚。場合によっては6脚までおける広さを確保。エアコンと火災感知装置も完備した。パソコン指導も点字指導も周囲に気兼ねなく教えることができる。誰もが自由に使える空間を確保したことは点字図書館にとって今年度一番の成果だろう。 ++     点字図書館リニューアル  2018(平成30)年6月16日に,点字図書館の事務スペースのデスクを新しいものに入れ替え,レイアウトも一新した。  今までは,職務ごとにそれぞれの席が衝立などで仕切られ点在していたが,思い切ってひとつの場所に集めたことで,想像以上に空間の余裕ができ圧迫感がなくなった。真っ白な新しいデスクが整然と並ぶことと相まって,訪れた人にも好印象だ。仕切りが無くなったことで職員同士の業務連携,コミュニケーションも円滑になったように感じられる。  心配なのは,点字の読み合わせ校正や電話応対,CDの検聴作業などが隣り合わせとなる音の問題である。この先,冬の暖房効果も思いやられ,しばらくは様子を見守るしかない。  入り口から3mほど進んだ右手にある衝立は,事務スペースとトイレ・給湯室を区切ると共に,奥の多目的室への誘導を兼ねて設置した。  本事業は,そもそも2015(平成27)年の多目的室開設に続く一連の事業として計画されたものだったが,今年(2018〔平成30〕年)になってようやく実現できたものである。 ++     助成事業報告(点字図書館)  下記の通りご助成を受けて,完了いたしました。ご支援,誠に有難うございました。  社会福祉法人丸紅基金  一,事業名 新規点字プリンターの購入  一,総事業費 1,221,480円  一,助成額 1,000,000円  一,完了日 平成29年2月24日  公益信託東京日本橋ライオンズクラブ立川福祉基金  一,事業名 デジタル録音図書製作拡充事業  一,総事業費 261,314円  一,助成額 180,000円  一,完了日 平成29年7月5日  公益信託障害者愛の福祉基金  一,事業名 「プレクストークポータブルレコーダーPTR3」「プレクストークPTN3」の購入  一,総事業費 218,000円  一,助成額 200,000円  一,完了日 平成30年2月1日  公益信託久保記念点字図書援助基金  一,事業名 点字図書製作のための点字用紙,点字編集ソフト,点訳用パソコンの購入  一,総事業費 347,311円  一,助成額 340,000円  一,完了日 平成30年3月26日  公益財団法人森村豊明会助成金  一,事業名 デジタル録音図書製作用機器の購入  一,総事業費 279,034円  一,助成額 279,034円  一,完了日 平成31年2月28日  公益信託久保記念点字図書援助基金  一,事業名 デイジー再生等機器及び点字用ファイルの購入  一,総事業費 358,060円  一,助成額 350,000円  一,完了日 平成31年3月28日  公益信託久保記念点字図書援助基金  一,事業名 点字図書製作用ソフト及び録音図書製作用パソコンの購入  一,総事業費 348,260円  一,助成額 340,000円  一,完了日 令和2年3月28日 ++       ■サポートグッズフェア ++     サポートグッズフェア2005秋 初の試みは大盛況!  視覚障害者のためのさまざまな機器や用具を一堂に集めた第1回「サポートグッズフェア2005秋」(点字図書館主催)が2005(平成17)年9月16日,協会ホールで開催された。  この催しは,視覚障害者が日頃触れる機会の少ない福祉機器等を,製作・販売している企業に集まってもらい,視覚障害者のための機器や用具を一堂に展示して,来場者に手にとってもらい紹介するというものだ。  【出展】シナノケンシ(株),(株)アメディア,(株)大活字,KGS(株),(株)メルコム,(株)NTTドコモの6社と協会の盲人用具センター。  各社が持ち寄った話題の製品やこの秋新発売の機器,あるいは意外なアイデア商品など,視覚障害者に役立つグッズがずらりと並んだ。  ヘレン・ケラー学院の放課後に合わせて午後3時からオープンしたこの催しは,たちまち大勢の人たちが集まり,製品を手に取ったり,担当者に説明を求めたりと大にぎわいだった。  即売で商品を求める人や高額機器の見積を依頼する人もいて,さわやかな秋風が吹いたこの日,会場内には熱気があふれた。 ++     サポートグッズフェア2006春  第2回「サポートグッズフェア2006春」(点字図書館主催)が,2006(平成18)年3月7日午後1時から協会ホールで開かれ多くの来場者でにぎわった。  出展企業は前回より3社増え,協会の盲人用具センターも加えた10社が,話題の新製品や最新機器,便利グッズなど多彩な展示物を並べた。  今回の特徴は,パソコン関連の機器やソフトの紹介に各社とも力を入れていたことだ。「もっと便利に,もっとやさしく」を求めてさまざまな工夫がこらされており,訪れた人たちは各社のブースで製品を手に取り,熱心に説明を聞いていた。  さらに弱視者のためにマンツーマンで最適なレンズの選び方をアドバイスする新コーナーも設け,盛況だった。  【出展】アイネット(株),(株)朝倉メガネ,(株)アメディア,ドコモ・サポート(株),KGS(株),シナノケンシ(株),(株)大活字,NEC(株),(株)ラビット,協会盲人用具センター ++     サポートグッズフェア2006秋  第3回「サポートグッズフェア2006秋」が,2006(平成18)年10月14日,協会ホールで開催された。  3回目になるサポートグッズフェアだが,今回は要望に応えて土曜日開催としたため,仕事を持っている人や,休日にじっくり回ってみたいという人が訪れ,終日にぎわった。  午前10時の開場前から訪れた人をはじめ約100人が来場,中には高知県から駆けつけた人や外国人の姿も。それぞれのブースでは興味を持った展示品について熱心に話を聞いていた。  今回は3階の展示会場入口と2階男女トイレ前通路に,島根県に本社があるトーワ(株)が開発した歩行誘導ソフトマット「歩導くん」が敷かれ,各ブースには(株)計画技術研究所の音声案内システム「てくてくラジオ」が取り付けられた。この二つの装置のおかげで,視覚障害者は快適に会場を回ることができたと好評だった。  【出展】アイネット(株),(株)朝倉メガネ,(有)アットイーズ,(株)アメディア,NEC(株),(株)NTTドコモ,(株)計画技術研究所,KGS(株),シナノケンシ(株),協会盲人用具センター,トーワ(株),日本福祉サービス(株),(株)ラビット  【特別出展】NPO法人世田谷区視力障害者福祉協会 ++     サポートグッズフェア2007春 はりやもぐさも展示  第4回「サポートグッズフェア2007春」が,2007(平成19)年3月6日,協会ホールで開催された。  平日の午後1時から4時までの3時間という限られた時間だったが,約90人もの来場者で,とぎれる間もなく盛況だった。  今回は鍼灸治療用のはりやもぐさなどの製品が初めて登場し,三療関係者は「直接手にとって確認することができて,助かる」と好評だった。  また,ベトナムの視覚障害者にマッサージを教えている佐々木憲作氏がたまたま里帰り中で,各ブースを回って新しい情報を熱心に集めていた。 ++     サポートグッズフェア2007夏 with マッサージ体験  第5回「サポートグッズフェア2007夏」とヘレン・ケラー学院の「感謝DAY あん摩マッサージ指圧30分無料体験会」が2007(平成19)年8月23日に同時に開催された。  今回のサポートグッズフェアは,音声サービスやスポーツイベントで活躍する団体にも参加してもらい,バラエティあふれる催しとなった。  音声サービスではデイジー版週刊誌や書籍を作るテープ版読書会,新聞代読サービスのNTT東京福祉文化事業団ゆいの会,音声ガイド付き映画を製作するCAP/シティ・ライツが出展。またスポーツ団体はフリークライミングを楽しむNPO法人モンキーマジックが活動を紹介した。  一方,ヘレン・ケラー学院主催の「感謝DAY あん摩マッサージ指圧30分無料体験会」は,近隣の方への感謝を込めて,学生がサービスした。  例年にない猛暑続きのせいで,疲れ切った体をマッサージしてもらった人たちは大喜びだった。 ++     サポートグッズフェア2008夏  第6回「サポートグッズフェア2008夏」は,2008(平成20)年8月20日,点字出版所のある毎日新聞社早稲田別館の地下食堂を借りて開催した。  最終的な来場者数は,前年の80人を大きく上回る過去最高の123人となる盛況だった。  今年度は,相次いで発売された携帯型デイジープレーヤーと拡大読書器に的を絞って目玉展示にし,関係各社に出展を依頼した。また,新たな試みとして協会の事業内容などをPRするために,協会のブースを用具センターとは別に設けた。ポイントは「ヘレン・ケラー女史の生の声試聴」とし,女史が1955(昭和30)年に来日した際の貴重な肉声をテープで流しヘッドフォンで聴いてもらった。  前宣伝が効いて,来場者は開場前から膨れあがり,急きょ開始時刻を繰り上げてのスタートとなった。「ヘレン・ケラー女史の声試聴コーナー」では,年配の方を中心に「実際に来日した時に,スピーチを聴いたことがあるんだよ」「50年以上も前だけど,声を聴いて当時の思い出が蘇った」などと感激に浸っていた人も見受けられた。他のブースも盛況で,新型製品に触れたくてしばらく待たされる人もおり,会場は終始熱気に満ちていた。  今年は主管をこれまでの点字図書館から盲人用具センターに移行して,体制をガラリと変えての開催となった上,東京メトロ副都心線西早稲田駅開業で交通の便が格段に良くなったことや話題の商品を集めたことが集客に繋がった。来年度もさらに生活を楽しく便利にする商品や新商品を紹介していきたいと考えている。  【出展】アイネット(株)▽(株)アメディア▽(有)エクストラ▽(株)NTTドコモ▽KGS(株)▽シナノケンシ(株)▽(株)タイムズコーポレーション▽(株)TNK▽(株)日本インシフィル  【特別参加】NPO法人シネマ・アクセス・パートナーズ/バリアフリー映画鑑賞推進団体シティ・ライツ▽日本点字図書館  同日,ヘレン・ケラー学院では日頃の協力に感謝を込めて地域の方へ「感謝DAY あん摩マッサージ指圧30分無料体験会」を開催した。  マッサージにあたったのは学院の2,3年生。午前10時の開始前からすでにマッサージを希望する人が訪れ,早速心地よいあん摩マッサージ指圧を受けた。この日訪れた方は41人にも上り,学生の腕の良さを改めて感じてくれたようだった。 ++     サポートグッズフェア2009春 テーマは「オーデコ」と裁判員制度  第7回「サポートグッズフェア2009春」は,2009(平成21)年3月18日,協会ホールで開催された。最終的な来場者数は,昨年8月開催の123人の最高記録をさらに上回り,157人という盛況ぶりであった。  今回の開催でとくに目玉と位置づけたのは,(株)アイプラスプラスが開発した額感覚認識システム「オーデコ」の出展と,5月21日にスタートを控えた裁判員制度の講演会だった。  オーデコは,広島・石川・宮城など全国各地から「見に行きたい」という問い合わせがあり,期待の大きさがうかがえた。実際,当日はアイプラスプラスのブース前には開場と同時に,二重にも三重にもなる人だかりができた。整理券を配布するなど対応に追われたが,順番待ちは閉会の午後4時まで続き,延べ65人の来場者が体験した。  裁判員制度の講演会は,制度開始を2カ月後に控えていたが,全国各地で実施されている説明会に参加していた人も多く,当日の参加者は15人に留まった。参加者は,講師に迎えた最高裁判所主任書記官の話に熱心に耳を傾け,質疑応答では時間を大幅に越えて,不安や疑問点を質問していた。  今回は,平日の開催にもかかわらず多くの方に足を運んでいただいた。その理由としては,前述した内容のほかにも関心の高かった出展企業と企画を用意したこと,そして,協会発行の雑誌・ホームページでの告知以外に,他施設・団体のメーリングリスト等を通じ,繰り返し告知を行ったので,サポートグッズフェアが浸透してきたと考えている。今後も,新たな企画を用意したり,関心の高い製品を出展することで,小さい規模ながら注目される展示会として継続していきたい。  【出展】(株)アイプラスプラス,(株)朝倉メガネ,(有)アットイーズ,(株)アメディア,シナノケンシ(株),(株)タイムズコーポレーション,(株)日本インシフィル,(株)NTTドコモ,KGS(株)  【特別参加】NPO法人ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパン,日本点字図書館,日本盲人会連合,NPO法人モンキーマジック  【協賛】ソシエテ・ジェネラル証券 ++     サポートグッズフェア2009秋 テーマは地デジ放送ガイド  視覚障害者向けの機器や用具,便利グッズなどを集めた第8回「サポートグッズフェア2009秋」は2009(平成21)年10月4日,協会ホールで開催した。開催日を従来の平日から日曜日に移し,より多くの方に来場してもらおうという計画は外れ,前回を下回る来場者数となってしまった。しかし,来場者から「時間を気にせず,ゆっくりと説明を聞くことができた」との声を多数聞くことができた。  今回は,(株)日本テレソフトと(株)エクシングが共同開発した「点字カラオケシステム」が初出展。このシステムは,カラオケ画面の歌詞を点字に自動翻訳し,曲の進行に合わせて点字ディスプレイで表示。実際に体験した来場者からは「これで毎回歌詞を憶えたり,歌詞集を持ち込まなくてもいい」と評判は上々だった。システム導入にはカラオケ店に点字ディスプレイやパソコンなどの費用負担がかかるため,現在全国で数店舗にしか設置されていないが,高田馬場では「カラオケ館高田馬場2号店」に導入済みである。  今回は展示会にあわせて,特別セミナー「地デジの準備は大丈夫? ―― 地上デジタル放送導入ガイド」も開催した。  2011(平成23)年7月24 日にアナログから地上デジタル放送へ切り替わることについて,総務省認定地デジ支援説明員である協会点字出版所の職員がわかりやすく説明した。  14人の参加者は,熱心に聞き入りデジタル放送移行へ必要な情報をしっかりと集めていた。  【その他の出展】(株)朝倉メガネ,(株)アメディア,(株)NTTドコモ,KGS(株),シナノケンシ(株),(株)タイムズコーポレーション,(株)日本インシフィル,ユーディ・クリエイト(株),日本盲人会連合 ++     サポートグッズフェア2010夏  これまでは点字図書館主催であったが,今回からは盲人用具センターとの共催で,2010(平成22)年8月18日,協会ホールにおいて第9回「サポートグッズフェア2010夏」が開催され,終日来場者でにぎわった。  猛暑の中,開場の午前10時前には早くも数人の方が来場,説明員も期待に応えようと汗みずくで応対した。この日は,発売されたばかりの携帯電話「らくらくホン7」,人気の視覚代行システム「オーデコ」,初めてお目見えした超音波センサー付き白杖「スマート電子白杖」などの出展の他,芝浦工業大学大倉研究室からはサイクリングゲーム「サウンドハンター」も登場し,約130人の来場者は直接手に触れたり,ゲームに参加したりして楽しんだ。協会もペットボトルの飲料水を配るなど,暑さ対策も万全にして真夏のイベントを盛り上げた。  また,今年7月に切り替わる地上デジタル放送を多くの方に理解してもらうため,前回に続きセミナー「地デジの準備は大丈夫? ―― 地上デジタル放送導入ガイド」を開催し,総務省認定説明員である協会職員が2台の音声対応テレビを使ってわかりやすく解説し好評だった。 ++     サポートグッズフェア2011夏 with マッサージ体験  第10回「サポートグッズフェア2011夏」とヘレン・ケラー学院の「感謝DAY あん摩マッサージ指圧30分無料体験会」が2011(平成23)年8月24日,同時に開催された。  サポートグッズフェアは午前10時のスタート前からすでに入場を待つ人が現れ,会場の協会ホールは熱気に包まれた。出展した企業・団体は15。それぞれが新製品や売れ筋の商品を展示した。じかに手で触れることができるうえ,専門の担当員がていねいにわかりやすく商品を説明するため,目の不自由な人たちにとっては機器・用具の情報を一度に得ることができる格好の機会だ。  100人を超す来場者は,生活を快適にしてくれる電子機器や便利グッズに触れて,その場で購入したり,予約をしたり熱心に各ブースを回った。  一方,あん摩マッサージ指圧無料体験会はヘレン・ケラー学院の2年生9人が担当した。「だいぶこってますね」「とても気持ちがいい」など会話を弾ませながら,地域の人との交流を深めた。 ++     サポートグッズフェア2013 with 学院感謝DAY  視覚障害者向け機器・用具の展示会「サポートグッズフェア2013」とヘレン・ケラー学院の「感謝DAY あん摩マッサージ指圧30分無料体験会」が2013(平成25)年9月7日,同時に開催された。今年は学院校舎の耐震補強工事のため開催時期を8月平日から9月土曜日に変更したこと,連日の猛暑が一段落したこともあり,「サポートグッズフェア」の来場者は約140人を数え,会場の協会ホールは終始熱気に包まれた。出展企業・団体は14。説明員は休憩時間を取る暇もないほど押し寄せる来場者に「今年は凄すぎる」と圧倒されていた。  一方,「感謝DAY あん摩マッサージ指圧30分無料体験会」は,ヘレン・ケラー学院の3年生10人が,2人の講師の指導のもと施術した。  近隣の方やサポートグッズフェアの合間に来た来場者は,首や肩,腰のこりをほぐしてもらい学生たちの日頃の成果を体験した。こちらも順番待ちが出るほどの大盛況であった。  終わってみれば76人もの“患者さん”を診た学生たちは,「気持ちよくなっていただき,やり甲斐がありました」と心地よい疲労に浸っていた。 ++     サポートグッズフェア2014  協会恒例のサポートグッズフェアが2014(平成26)年8月30日,協会ホールを主会場に開催された。好天の当日,午前10時の開場から引きも切らずに来場者が訪れ,午後4時の終了までに約200人の方が各ブースを巡回してゆっくりと商品を手に取るなど,これまでにない盛況で,フェアを楽しんだ。  出展したのは16企業・団体。メーカーや代理店がそれぞれ特徴のある製品を展示して利用者の疑問や相談にきめ細かく応じ,中には高額な商品の予約を取り付けた企業もあった。  初登場は,畳教室でのヨガ体験コーナー。インストラクターが,ポーズのイメージや作り方をわかりやすい言葉を使い,体に触れながら進める「チャレンジド・ヨガ」だった。挑戦したのは約30人。目が不自由でも先生の説明とアシスタント2人のサポートで汗びっしょりになりながら「気持ちがいい」「ヨガなんて初体験。でもやってよかった」と評判だった。  また,学院の教室を利用して休憩室を設けたのも成功だった。NPO法人「多摩草むらの会」が運営している飲食店がお茶やジュースを提供した。お店で売っている有機野菜やおまんじゅう,かわいいグッズも即売され,混雑した会場から足を運んだ観客はゆっくりと長いすに座って,しばらく休んだ後,改めて会場に向かわれた方がたくさんいた。  今回も多くのボランティアが手引きや案内のお手伝いをしてくださった。 ++     マッサージ指圧無料体験会  2014(平成26)年8月30日は,ヘレン・ケラー学院主催のあん摩マッサージ指圧無料体験会も同時に行われ,学院生が汗びっしょりになって施術に挑んだ。  事前の告知で広まったため,午前10時のスタート前から15,6人の患者が訪れ予約表に名前を記入し待合室は混雑し始めた。対応したのは臨床実習を学んでいる3年生以上の16人。これに受付や連絡役に回った1,2年生も参加して総勢25人体制で受け入れた。  1階教室と3階教室を治療室にし,トランシーバーを使って患者を割り振るなど適切な応答で患者を誘導。待合室で長時間待たせることもなく,95人もの患者にうまく対応することができた。 ++     サポートグッズフェア2015 with 学院感謝DAY  2015(平成27)年8月29日,点字図書館と盲人用具センター共催の恒例イベント「サポートグッズフェア」とヘレン・ケラー学院主催の「感謝DAY あん摩マッサージ指圧30分無料体験会」が開催された。  サポートグッズフェアには215人,マッサージ体験には105人も訪れ,会場整理やガイド等で多くのボランティアにご協力いただいた。  出展したのは,14の企業・団体。会場の協会ホールでは午前10時の開場とともに多くの方が入場し,ロービジョンのための拡大読書器やめがね,点字使用者はIT対応のピンディスプレイなど,年々進歩する機器や用具についてていねいな説明を受けていた。  また,去年開催したヨガの体験や休憩室での茶菓の接待などを今年も企画し,来場者に心のこもったおもてなしをした。  ヨガ体験は「チャレンジド・ヨガ/視覚障がい者のためのヨガクラス」のインストラクターの指導で3回に分けての講習。各回とも予約で満員となり最後は予定人数を超えてしまった。  同時開催のヘレン・ケラー学院生による「無料マッサージ体験」もフェアに劣らない人気で盛り上がった。午前10時からの施術には近隣の人やフェアに来場した視覚障害者等が整理券をもらって待機。学生がトランシーバーを使って1階と3階の治療室に連絡して上手に誘導するなど,スムーズな運営で患者に喜んでもらった。今年は1年生から5年生まで全学年から20人が参加して2人の講師の指導で,たっぷり施術に汗を流した。 ++     サポートグッズフェア2016 with 学院感謝DAY  視覚障害者向け機器・用具の展示会である第15回「サポートグッズフェア2016」が,2016(平成28)年8月27日にヘレン・ケラー学院で開催された。  協会ホールでは拡大読書器,点字ディスプレイ,デイジープレイヤー,それに便利グッズや防災用品の展示と一部商品の即売会が,2階では30分のチャレンジド・ヨガ体験,冷たい飲み物の無料サービスなどが行われた。  断続的に一日中雨が降るあいにくの天気だったが,約200人の参加者で盛況だった。  盲界の長老である東京都青梅市にある盲老人ホーム聖明園を経営している聖明福祉協会の本間昭雄理事長もわざわざ見学にこられ,無料マッサージも体験された。  1階と3階では,同時に「学院感謝DAY」として午前10〜午後2時,ヘレン・ケラー学院生による「あん摩マッサージ指圧30分無料体験会」が行われた。今回は学生の発案で,実習室を含む3教室をぶち抜きにして,そのなかの1教室を待合室にした。従来は狭い実習室も使っていたので,施術者と患者の動線に難があったが,今回はそれが解消されてスムーズな運営ができた。患者数も94人と悪天候の割りには好成績だった。 ++     サポートグッズフェア2017 with 学院感謝DAY  2017(平成29)年7月29日,協会主催「サポートグッズフェア2017」とヘレン・ケラー学院主催「感謝DAY あん摩マッサージ指圧30分無料体験会」が開催された。7月下旬の開催は初めてだったが天候にも恵まれ約250人が来場した。  サポートグッズフェアは,初出展も含め20社の視覚障害者向け機器・用具の企業・団体が,それぞれの人気商品や新商品などを展示。来場者は商品を手に取って確認し,説明を受けることができるため,どのブースも盛況だった。ここ数年,出展しているヨガや茶菓のサービスコーナーはもちろん,初出展の化粧品会社では,メイクアップ体験などもあり,女性の姿が多く見受けられた。  新発売されるデイジー再生機PTR3やPTN3の展示ブースでは,操作などの質問をする姿が多くみられ,興味の高さがうかがえた。  「感謝DAY あん摩マッサージ指圧30分無料体験会」は,ヘレン・ケラー学院の2年生8人,3年生9人が2人の講師の指導のもと,30分の施術を担当し,1年生4人が受付や誘導を行った。今年は,過去最大となる16台のベッドを用意して体制を整えたが,予想を上回る123人の方が訪れた。待ち時間が長くお帰りになる方も数人いた。しかし,多くの方から「体が軽くなった」「もっと体験したかった」とのお声を頂戴した。初めて体験する2年生も,施術しながら積極的にコミュニケーションをとるなど,地域の方たちとの交流を深めた。 ++     サポートグッズフェア2018 with 学院感謝DAY  2018(平成30)年8月25日,協会ホールで「サポートグッズフェア2018」が開催された。前々日から吹き荒れた台風が去り,当日は雨が降らなかった代わりに朝から気温がぐんぐん上がりたいへんな猛暑。客足が鈍るのではと心配しながら準備をしていると,開場と同時に大勢のお客さんがお見えになった。  会場には拡大読書器や画面読み上げソフト,白杖などを取り扱うブースや,iPhoneやiPadの体験や相談ができるブースなど20社の出展があり,担当者の説明を聞いて質問して,熱心に話しこまれていた。  また,メイクのアドバイスを受けられるブースもあり,こちらは若い女性やカップルなどで賑わっていた。  点字出版所のブースでは絶賛発売中の全盲の語り部による『川島昭恵語りCD』と活字版でTXTファイルCDのついた『近代日本盲人史』,それにグレー地Tシャツの胸に,青い鳥の刺繍が入った「青い鳥Tシャツ」を販売した。  3階以外の階でもワンコイン(500円)でのヨガ体験や盲導犬の歩行体験,それにヘレン・ケラー学院主催「感謝DAY あん摩マッサージ指圧30分無料体験会」が催された。  休憩室で遅いお昼を食べていた学生によると「朝から7人施術して,このあとも予約でいっぱい」とのことであった。結局,約250人がご来場くださって盛況であった。 ++     ヘレン・ケラー学院感謝DAY 単独イベントとして開催  2019(令和元)年8月24日,ヘレン・ケラー学院主催の「感謝DAYあん摩マッサージ指圧30分無料体験会」が開催された。  例年,サポートグッズフェアと同時に開催していたが,今年は単独イベントであった。  講師2人が立ち会い,12人の学生が施術を担当し,1年生有志6人,職員4人が手伝いとして洗濯や受付などの裏方をこなした。  今年は事前予約制を導入。午前10時から30分ずつ,10分間のインターバルと,45分の昼食休憩を挟みながら午後2時半まで6クール,72枠を設けた。  事前予約は,初めての試みということもあり,夏休み期間中に近隣施設へのチラシを配布するほか,毎年避難訓練でお世話になっている戸塚消防署や近隣施設への声掛けのほか,臨床実習に足が遠のいている方の情報を洗いだし,電話で直接勧誘する等の努力が実り,大盛況のうちに終了した。  施術担当は2年生から5年生。30分という短い時間だったが,学んできた技術で来場された方に熱心に応対した。1年生は,「先輩のような知識・技術を早く身に付けたい」と,先輩が施術しながら会話している様子を聞いたり,講師から直接指導を受けたりするなど有意義な時間を過ごした。  施術を体験された方のアンケートは,おおむね好評だった。学生たちは,「2学期以降の学院生生活に活かしたい」と気を引き締めていた。  2020(令和2)年は,コロナ禍のため「サポートグッズフェア」も,ヘレン・ケラー学院主催「感謝DAY あん摩マッサージ指圧30分無料体験会」も開催しなかった。 ++       ■『点字ジャーナル』講演会       ―― 『新版 絵はがきにされた少年』とコロナ下の世界 ――  2020(令和2)年11月11日午後4時〜5時半,協会ホールで,毎日新聞記者の藤原章生氏による講演会(トークショー)を開催した。  協会ホールの定員は70人だが,密集を避けるため35人に限定。参加者はマスクを着用し,協会玄関で体温を測定し,手指をアルコール消毒し,抗菌スリッパに履き替えてもらった。  毎日新聞ローマ支局長当時の藤原氏に依頼して,『点字ジャーナル』2009(平成21)年7月号から,「自分が変わること」のコーナータイトルで連載していただき,以来11年余が過ぎた。  藤原氏は2005(平成17)年11月に集英社から上梓した『絵はがきにされた少年』で,開高健ノンフィクション賞を受賞されたが,このたび同書を改稿し,『新版 絵はがきにされた少年』として,10月28日に柏艪舎から出版された。  コロナ下の米国で始まり,世界に広がり続ける反差別運動「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」からも明らかなように,差別や人種偏見は一向に改まりそうにない。むしろ,悪化したという声もある。  肌の色や骨格,言葉,宗教,文化の違いや障害などを理由にした差別。この不寛容さ,人間の悪弊がなくなる日は来るのだろうか。そもそも差別する心はどこで生まれるのか ――。  そんな人類史的な問いをベースに,アフリカの賢者とさえ思える人々の語りを中心に藤原氏が紹介することで,人間について考えた。 ++ 資料  社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会の沿革  全国盲大学生大会 ―― 盲学生をとり巻く諸問題の環境改善を目指して ――  (インタビュー)『盲人と大学 門戸開放70周年』を刊行した橋實氏に聞く  全国盲学生音楽コンクール/全日本盲学生音楽コンクール/ヘレン・ケラー記念音楽コンクール 歴代1位・ヘレン・ケラー賞・審査員特別賞受賞者  『点字ジャーナル』創作文芸懸賞小説入選者  ヘレンケラー・サリバン賞受賞者  協会の組織と職制の英文表記  財団法人東日本ヘレン・ケラー財団役員  社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会歴代役員  歴代ヘレン・ケラー学院長  歴代点字図書館長  歴代点字出版局長/点字出版所長  歴代『点字ジャーナル』編集長  歴代『Light & Life(ライト&ライフ)』編集長 ++       ■社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会の沿革  1948(昭和23)年: ヘレン・ケラー女史2度目の来日。毎日新聞社がヘレン・ケラー・キャンペーン(H・K・C)委員会設置,愛盲運動募金を呼びかける。「ヘレン・ケラーの歌」募集  1949(昭和24)年: 東日本,西日本ヘレン・ケラー財団設立準備開始。両財団を統括する日本ヘレン・ケラー協会が組織される  1949(昭和24)年: 第1回全国盲学生音楽コンクール開催(於:毎日新聞東京本社毎日ホール)  1950(昭和25)年: H・K・C委員会の寄付などにより東日本ヘレン・ケラー財団設立,ヘレン・ケラー学院あん摩科開設  1950(昭和25)年: 昭和天皇・皇后両陛下が東日本ヘレン・ケラー財団をご視察  1951(昭和26)年: ヘレン・ケラー学院が厚生大臣の認可を受け,あん摩師養成施設となる  1951(昭和26)年: 東京盲人会館改修,日本家屋1棟と物置を新築  1952(昭和27)年: 社会福祉事業法施行に伴い「社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会」に改組  1954(昭和29)年: ヘレン・ケラー学院はり・灸科開設  1955(昭和30)年: ヘレン・ケラー女史,3度目の来日,協会を訪れ名誉総裁として講演される  1961(昭和36)年: ヘレン・ケラー学院が東京都知事より各種学校認可  1967(昭和42)年: 新本館竣工(鉄筋コンクリート2階,一部3階)  1968(昭和43)年: 点字出版局開局(現・点字出版所)  1970(昭和45)年: 点字総合雑誌・月刊『点字ジャーナル』創刊  1973(昭和48)年: 新館竣工(地上3階,地下1階)  1974(昭和49)年: 点字図書館開館  1979(昭和54)年: 点字出版局で録音事業開始。点字出版活動に対し厚生大臣から感謝状  1980(昭和55)年: ヘレン・ケラー女史生誕100年記念として毎日新聞社,毎日新聞東京社会事業団および当協会主催で映画「奇跡の人」特別試写会を,高松宮様をお招きして日比谷公会堂で開催  1982(昭和57)年:点字出版局に「盲人用具センター」開設。海外盲人援護事業開始  1986(昭和61)年: ヘレン・ケラー学院,東京都新宿区より専修学校認可,点字生活情報誌『Light & Life』創刊  1991(平成3)年:ネパール視覚障害者福祉支援のため眼科診療所を併設したCB Rセンターを建設(バラ郡)  1992(平成4)年:ネパール盲人福祉協会(NAWB)点字出版所建設。海外盲人援 護事業10年の実績が評価され外務大臣表彰を受ける  1993(平成5)年:「ヘレンケラー・サリバン賞」創設,視覚障害福祉向上に貢献した晴眼者に贈呈  1995(平成7)年:ネパール視覚障害者福祉支援のためドゥマルワナ統合教育校 寄宿舎建設(バラ郡),第45回全日本盲学生音楽コンクールピア ノの部 辻井伸行氏(小1)史上最年少優勝  1999(平成11)年: ネパール視覚障害者福祉支援のためシャンティ統合教育校寄 宿舎建設(ルパンディヒ郡)  2000(平成12)年: ネパール視覚障害者福祉支援のためジュダ統合教育校寄宿舎 建設(ロータート郡)  2001(平成13)年: 全日本盲学生音楽コンクールから「ヘレン・ケラー記念音楽コン クール」に改称  2004(平成16)年: 視覚障害者移動支援従業者(現・同行援護従業者)養成研修事 業開始  2010(平成22)年: 協会設立60周年記念チャリティー「ハッピー60thコンサート」開催,点字出版所 新型点字印刷機・自動製版機新設  2012(平成24)年:ネパール盲人福祉協会(NAWB)への貢献により同協会から感謝状  2012(平成24)年: 埼玉県知事から「第6回塙保己一賞 貢献賞」受賞  2015(平成27)年: 「ネパール地震2015」により被災した障害者支援のため救援金 (155万3,000円)を送金 ++       ■全国盲大学生大会       ―― 盲学生をとり巻く諸問題の環境改善を目指して ―― 第1回大会(1951年)  1951(昭和26)年8月31日〜9月2日,東京都新宿区西大久保の東日本ヘレン・ケラー財団本部で「第1回全国盲大学生大会」が開催された。  同大会は本来は東日本ヘレン・ケラー財団の主催であったが,全国規模の事業であることから「日本ヘレン・ケラー協会」名主催とされた。後援は文部省,厚生省,労働省,点字毎日,毎日新聞社会事業団。参加大学生は東京教育大学,広島大学,広島教育大学,早稲田大学,慶應義塾大学,明治大学,日本大学,上智大学,青山学院大学,大正大学,ルーテル神学校,日本聖書神学校,立教大学,東京女子大学,同志社大学,立命館大学,関西学院大学,関西大学など20校以上に及んだ。  当時,向学の志に燃える盲学生の職業分野は非常に狭く,学制改革により盲人に対しても大学の門戸が開放されたとはいえ,点字による答案が許可されなかったため,盲学生は晴眼者の学生に比べ大きなハンディキャップを負わされていた。  このような状況下で全国で学ぶ盲学生に勉学に関する一般学生との相互研究の機会を提供することにより,盲人文化の向上を図ることを目的に開かれた第1回大会は,大会議長を岩橋武夫氏(ライトハウス〔現・日本ライトハウス〕),副議長を鈴木三郎東日本ヘレン・ケラー財団常務理事が務めた。欧米諸国の視察から帰った厚生省松本征二更生課長の「欧米の身体障害者の更生事業を視察して」の講演ののち,参加学生が分科会を開いて研究討論を行った。  大会の2日目には日本ヘレン・ケラー協会の高橋龍太郎会長,天野貞祐文部大臣,橋本龍伍厚生大臣らが祝辞とあいさつを述べた。その後,関係各官庁や各団体から数十人が参加し,盲学生とともに,視覚障害者の入学資格問題,学生生活に関する問題,ヘルパーの問題,卒業後の問題,など活発な討論が行われた。また,夜は「一般盲界諸問題について」と題する参加者自由討論が行われた。  昼の議案審議では,次のような質疑応答が交わされた。  辻原一(広島大学):点字の入学試験を実施してほしい。  関野文部省視学官:入学試験が秘密を要することや,点字を読む人が得難いことなどで,技術的に困難が伴うため,なかなか難しい。将来,特殊な教育大学で,点字を読める人が出れば,そうした障害を突破することができよう。  永井昌彦(同志社大学):盲学生卒業後の就職について一案がある。盲人の社会福祉司の任命と盲学校職員,公務員の採用をお願いしたい。  中川厚生省事務官:各種社会福祉司に任命の件は同感である。  諸澤労働省補導課長:身体障害者には,まず技能を養ってのち,就職できるよう,学校卒業後の職業教育を重視していく一方,障害者の雇用促進運動を推進していかなければならない,と考えている ──  審議ではこのほか,入学資格認定問題,受験方法の問題,大学側の受入れ態勢,単位取得に関する問題,試験答案に関する問題,点字図書館利用,育英資金の拡充,学生生活,留学生問題,ヘルパーの問題,盲人施設に盲人職員を採用する問題,などについて多様な意見が出され,それぞれについて厚生省,労働省,文部省側から誠実な答弁がなされた。 切実な要望 ── 雇用促進  3日間の大会を通じて参加盲学生から寄せられた切実な要望は彼らの卒業後の就職に関するもので,盲学生に国家公務員,社会福祉司,盲人福祉施設への盲人職員の採用などへ積極的に就職の門戸を開いてほしいなど,視覚障害者の雇用促進を訴えるものだった。  また出席盲学生から日本育英会に対し,全国の大学で学ぶ盲学生にもっと奨学金の枠を広げてほしいとの要望が寄せられた。 第2回大会以降  第2回全国盲大学生大会は主催者を大阪の西日本ヘレン・ケラー財団に移して行われ,第3回以降は東京と大阪で交互に開催された。 第5回(1955年) 「全日本盲人大学生会議」に改称  東京で開かれた第5回大会(1955〔昭和30〕年)から大会名を「全国盲大学生大会」から「全日本盲人大学生会議」と改称した。  失明者でありながら一般の大学で学ぶ盲学生は当時,全国で42人に達し,先に来日したヘレン・ケラー女史を「どの国もかなわない」と驚かせた。また同女史は次のようなメッセージを寄せた。 ----------------------------------------------------- 日本盲人大学生会を,世界盲人大学生連合へまで発展させたいというあなた方の考え方は,碧空に聳え立つ新緑の山脈の中の最高峰といってもいいすばらしい企図です。あなた方の手は,下へ向かってはまだ教育の機会に恵まれていない盲人大衆へ。上へ向かってはものの道理のわからない晴眼者へ延びて行く。あなた方の努力なくしては高い理想へ進むことはできません。 -----------------------------------------------------  第5回全日本盲人大学生会議は,1955(昭和30)年7月19日,午前10時から東京都新宿区の当協会の講堂で開催された。主催は東京ヘレン・ケラー協会と毎日新聞社会事業団。そして文部省,厚生省,労働省,日赤都支部,全社協,鉄道弘済会,点字毎日の後援を得た。  当事者である盲学生と行政,あるいは盲人福祉関係者は会場内にコの字型に配置された机を前に座り,盲学生の修学に必要な点訳問題や,読書,就職問題,その他の福祉に関するあらゆる問題を熱心に協議した。  会議に出席した盲学生は,盲人として初めて大学院に入学して注目された東京教育大学大学院尾関育三氏(文京区)をはじめ,東京神学大学大学院神学部青木優氏(三鷹市牟礼),東京教育大学春日満治氏(品川区),日本大学金慶環氏(練馬区),日本聖書神学校斎藤良雄氏(中野区),東京大学増井満氏(墨田区)ら25人,当局側から厚生省,文部省,労働省関係代表と武田人事院東京事務所第二課長,紺野都民生局保護部長,石井同厚生課長らが,さらに高島一橋大学教授,国立東京光明寮松井教務課長,小野東京都盲人福祉協会長,本間日本点字図書館長など多数が出席,東京ヘレン・ケラー協会総務の松井彰を議長として議事が進められ,会議後,以下の決議を行った。   1.盲人学生進学に際しての全大学の門戸開放を要望  2.点訳,読書など,学習上直面する問題の向上と解決  3.勉学のための経済問題の解決  4.就職の機会がより多く与えられるよう要望  5.福祉増進のため盲人学生センター設立  6.世界盲人大学生連盟の結成と同学生の文化的促進 第7回(1957年) 学生側による議事進行  東京ヘレン・ケラー協会で行われた第7回全日本盲人大学生会議は,文部省,労働省,厚生省,東京都,日本赤十字社,鉄道弘済会,日本放送協会の後援を得て1957(昭和32)年8月15日から3日間の日程で開かれ,参加盲学生の代表から,卒業後の志望職業,その他について多くの意見が寄せられた。  第7回大会では例年と大会の進行を改め,学生側の議事進行によって行われ,全日本盲人大学生会議から以下のような決議文が表明された。  1.身体障害者学生のため,特別の育英資金制度設置を要望します。  2.盲人学生のための点字出版および点字図書館のなお一層の充実を要望します。  3.盲学校における普通科教員として,盲人の大学卒業者を優先的に採用されるよう要望します。  4.盲人福祉施設の拡充をはかり,これに盲人職員を採用するよう要望します。  5.関係各官庁ならびに民間諸団体などによる盲人の大卒職員を採用するよう要望します。  この盲大学生大会は,この第7回大会をもって終了したが,これ以後の盲人福祉向上に,大きな一石を投じた。  当時の全国盲大学生大会に視覚障害当事者として参加した橋實氏(視覚障害者支援総合センター創設者)が,『点字ジャーナル』2020(令和2)年5月号のインタビューで,当時の経緯や思い出を語っているので,ここに転載する。 ++       ■(インタビュー)       『盲人と大学 門戸開放70周年』を刊行した橋實氏に聞く  写真:昭和32年当時の大会で挨拶する橋實会長  【2020(令和2)年4月1日に橋實氏は,日本点字図書館にボランティアを集めて標記書籍の発送を行う予定だった。そのために同氏は3月31日に大阪から上京するので,午後4時に当協会でインタビューをお願いした。しかし,折からの新型コロナウイルス感染の拡大に伴い,上記の発送作業は中止となり,上京自体見合わせることになった。そこで4月1日午後,電話でのインタビューに急遽切り替えることになった。取材・構成は本誌編集長福山博】  福山:このたびは『盲人と大学 門戸開放70周年』(以下「70年史」)の刊行おめでとうございます。橋先生が実行委員長で,実行委員は榑松武男視覚障害者支援総合センター(以下,「支援総合センター」)理事長,田中徹二日本点字図書館(日点)理事長,本間昭雄聖明福祉協会会長,茂木幹央日本失明者協会理事長というそうそうたる顔ぶれです。各実行委員の施設から職員を1人ずつ出して,ボランティアとして発行に協力したそうですが,墨字B5判全250ページの書籍を,発行資金を集め,執筆者を探し,編集・校正・レイアウトから版下作成まで段取りをつけたのはすべて橋先生で,大変だったのではないですか?  橋:いやはや難儀しました。支援総合センターを退任して大阪に戻って2年,わたくしは事実上無役なわけです。そういうわたくしの提案に皆さんが賛同して,ご寄付下さいました。わたくしは支援総合センターとの関わりがあるから,「70年史」の資金調達では個人には一切お願いしませんでした。支援総合センター時代の800人の支える会の皆さんにご迷惑をかけちゃいけないので施設にだけお願いして,幸いにして272万円も口座に振り込んで下さったわけです。だからこれは本当に皆さんが支えて下さったからこそ「70年史」ができたわけです。確かに前史とか,40年史はあっても,その後の30年史はないから,やっぱり少しでもこれからの研究者のとっかかりになればと,「70年史」を作ったわけです。  福山:発行資金は寄付,実際の編集作業はボランティアというわけですね。  橋:そうです。ほんとうに手足になってくれる職員がいないということは,これほど大変なことかと,改めて身に染みました。けれども,それほどにわたくしたちには晴眼者の協力がなければできないから,何事をするにしても晴盲一体でできるような活動をしていかなくちゃいけないなと,改めて教えられましたね。  福山:本誌でも関由紀夫氏のレポートで,昨年(2019)の9月号で報じましたが,昨年7月20日(土)午後,日点で「視覚障害者の大学進学と職域開拓の流れ ―― 現状と未来を考える」をテーマにした,5人の方の講演と質疑による視覚障害者の大学門戸開放70周年「記念講演会」が開催されました。その直前に橋先生から「あなたはいいカメラを持っているそうじゃないの? 悪いけど『記念講演会』の写真を撮ってくれないか?」と言われました。そしてそのときの写真は,11月下旬に全国視覚障害児童・生徒用教科書点訳連絡会(教点連)の理事である鈴和代氏に送りました。  橋:その節はありがとうございました。  福山:いえいえ,先生から「70年史」の編集をやってもらえないか?と打診されたとき,「教点連が発行した『教科書点訳の手引』を実際に編集したのは鈴氏なので,彼女なら『70年史』の編集もできます」と太鼓判を押しました。そんな因果があって,「70年史」の編集を彼女が引き受けられたので,「70年史」の校正を鈴氏から頼まれると断ることができません。鈴氏がものすごく大変だったことは想像に難くなかったからです。橋先生は教点連の元理事ですから,その頃から鈴氏とは昵懇でした。しかし原稿が五月雨式に届くばかりか,古い資料も掲載しなければならないので,どこまで,どのように文言や漢字を統一したらいいのか鈴氏は悩んでおられましたよ。  橋:鈴氏にはいろいろとご迷惑をお掛けして,感謝しかありません。記念誌の構成は,文科省青木隆一視学官と本間昭雄先生の「祝辞」に続き,第1部は,先ほどあなたが言われた大学門戸開放70周年「記念講演会」。第2部は谷合侑氏にまとめていただき1991(平成3)年に盲学生情報センターから発行された『門戸開放40年の歩み』を転載。第3部は国立特別支援教育総合研究所名誉所員の大内進先生に門戸開放40年後から今日までの「30年間」の背景と流れを当事者への取材を通して知ることができるようにして,最後が「巻末資料」です。この構成を考えたとき,第1部と第2部は簡単に思いついたのですが,40年史の後の直近30年間は全く個人情報という壁に阻まれて,誰がどこの大学に入ったのか,どんな大学が門戸を開いたのか,どこに就職したのかがほとんど報じられていません。それで頭をひねっていたときに板原愛氏が司法試験に合格したり,菅田利佳氏が東大に推薦入学したりしました。それじゃ30年というのはどういう背景と流れがあったんだろうと思って,実はある人を想定していたんですが,それがわたくしの見込み違いでだめになりました。そこで最後の望みとして大内先生に頼み込んで,本当はもう少し大学を増やし,地域も広げて15・6人の方の取材を通して30年を振り返りたかったので,結局,わたくしは十数人を推薦しました。大内先生も突然そんなことを頼み込まれて,しかも時間が制約される中で,結局8人の方にインタビューしてまとめてくださいました。ほんとうに大内先生には大変なご迷惑をおかけしました。  福山:でも,結果的にはよくまとまった立派な本ができたと思いますよ。  橋:それはそうです。一時期はどう直近の30年を皆さんに知っていただこうかと悩み,それこそ藁をもつかむ思いで大内先生に三拝九拝してお願いをしたわけですが,時間の制約の中で,あれだけのものをまとめていただき感謝しています。  福山:ところで「70年史」のゲラを読むと,時間軸に沿って正確に書いてあるのですが,解説を加えないとわかりにくいと感じたところがありました。それは,1948(昭和23)年にヘレン・ケラー女史が来日され,毎日新聞社のキャンペーンで多額の浄財が集まり,東京に財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(1952〔昭和27〕年5月に「社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会」に改称),大阪に財団法人西日本ヘレン・ケラー財団(1952〔昭和27〕年5月に「社会福祉法人日本ヘレン・ケラー財団」に改称)が設立されます。そして,この東西の両ヘレン・ケラー財団の全国的事業の連絡と指導統一等を行うための組織として,毎日新聞東京本社内に日本ヘレン・ケラー協会が設立されました。会長は東日本ヘレン・ケラー財団理事長の橋龍太郎先生で,幹事長はヘレン・ケラー女史招請功労者の岩橋武夫先生(1898〜1954)でした。これを若い読者に誤解されないように書くためには,1・2カ所の追記では済まないので,最終段階でもあったことから先生には言いませんでした。ところで1951(昭和26)年8月31日(金)〜9月2日(日),東日本ヘレン・ケラー財団本部において,岩橋武夫先生が議長となり「第1回全国盲大学生大会」が合宿形式で開催され,当時日本大学の大学院生であった松井新二郎氏(1914〜1995)が初代会長に選出され,日本盲大学生会(以下,「学生会」)が設立されました。この時の主催は日本ヘレン・ケラー協会でしたが,参加学生と介助者約40人を3日間にわたって無料宿泊させ,さらに全員の旅費ならびに食事代,土産代を負担したのは東日本ヘレン・ケラー財団でした。また,この年から盲人を含む身体障害大学生に返済義務なしの奨学金年額1万円を20人の学生に贈っています。ちなみに同年の国家公務員(大卒)の初任給は5,500円で,松井新二郎氏も奨学金を受け取っておられます。これらの大盤振る舞いはすべて岩橋武夫先生の差し金だと聞いているのですが,この件,聞いておられますか。  橋:そうなんです。すべて岩橋武夫先生がなされたことです。今あなたが言われた第1回全国盲大学生大会が開かれる5カ月前にわたくしたちの先輩である緒方一誠氏と勝川武氏らが岩橋先生を訪ねて,盲学生としていろいろと問題を抱えており,お互いに話し合って助け合っていくために,ぜひ組織が欲しいと訴えました。そうしたら岩橋先生が承諾されて,東日本,西日本両ヘレン・ケラー財団に呼びかけて,費用一切主催者持ちで全国盲大学生大会を開くから,君たちが希望する学生会を作ったらどうなんだということで,初代会長が後に日本盲人職能開発センターを創設された松井新二郎氏,2代目が緒方一誠氏で,3代目が青木勝氏,4代目が後に附属盲で数学教諭を長年勤められる尾関育三氏,そして最後の5代目がわたくしでした。岩橋先生のおかげで費用は丸抱えで,しかも当日の盲大学生大会で開会の挨拶をしたのは日本商工会議所会頭で通産大臣だった橋龍太郎氏ですが,これは日本ヘレン・ケラー協会会長だったのである意味当然です。しかし来賓挨拶は第一高等学校校長,日本学生野球協会会長,日本育英会会長を歴任した天野貞祐文部大臣と橋本龍伍厚生大臣でした。第82・83代内閣総理大臣を務めた橋本龍太郎氏の父親ですね。大臣が3人も出席して激励の言葉をかけて下さったということですから大変なものです。ちなみにわたくしも奨学金をいただいた口で,大金でしたからなかなか飲み応えがあり,ありがたかったですね(爆笑)。また,学生会の事務所があったものですから,東京ヘレン・ケラー協会には4年間入り浸っており,その途中に日点があったので本間一夫館長(当時)にもずいぶんお世話になって,いろいろと盲界の事情を教えていただきました。しかしせっかくそういう風にスタートしましたが,わたくしが日大に入学したのは1954(昭和29)年ですが,わたくしたちが入るまでは,大学に進学する盲人は毎年3〜5人だったのです。先に述べた緒方・青木両先輩はともに牧師になられたので,大学入学前から卒業後の道は決まっていました。また,盲学校の英語や理療科の先生になられた方もいました。人数が少なければなんとかなったのかもしれませんが,1954(昭和29)年には16人,翌1955(昭和30)年には15人も盲人が大学に進学したので就職問題がとても深刻になりました。進学に重きを置き過ぎて,卒業後の就職を真剣に考えていなかった付けが出たのです。ただ,盲人の職域を開拓しなければならないという声はたくさん上がっていて,岩橋武夫先生も1953(昭和28)年9月に出された『新時代』創刊号の巻頭言で「新職業の部門において,並々ならぬ努力と苦心のいることは,それが種まきの仕事であり,開拓者の事業であることにおいて,まちがいない。故に私は『新時代』が意味するものは,甘い青春の夢ではなく,汗と涙をもって築きあげねばならない,新しき日の生活の根拠であることを力説したい」と激励しておられます。  福山:『新時代』というのは学生会の機関誌ですか?  橋:はい,そうです。岩橋先生が名付けられた『新時代』という点字会報で盲学生がいろいろな意見や研究を発表したりするのに必要だが費用もかかる。しかし,編集だけは君たち学生がやって,印刷とか発送とか,一切お金のかかることは日本ライトハウスが引き受けるからということで,岩橋先生が亡くなった後も学生会が消滅する1958(昭和33)年の『新時代』6号までは,日本ライトハウスが印刷・製本・発送一切を面倒みてくれたのです。  福山:その1958(昭和33)年3月に橋先生は日大を卒業されて,就職浪人をされるわけですよね。  橋:2年間浪人しました。わたくしは「点毎」には入れるものだと思って,晴眼の記者に負けないように,卒業する前に結婚して,妻が僕の目の代わりをして,二人三脚で仕事をするつもりでいたのです。それで卒業の時に本間先生と一緒に3人で,4月からチャレンジさせて欲しいと訴えたんですが,点毎にはその当時定員増も,異動もないから「そりゃ君の力量は買うけれども無理だ」と断られちゃったんです。落ち込んでいると,本間先生が帰りがけに「橋さんは絶対記者になる人だし,なれる人だ。なれるまでは私たち夫婦と聖明福祉協会の本間先生ご夫妻と4人で,生活はきちっと支えるから記者以外のことは考えちゃだめですよ」と念を押されて,2年間わたくしは日点の仕事や聖明福祉協会の仕事をいただいて,家庭教師やら家庭訪問やら点字校正等やらせていただいて2年間食いつないだわけです。  そして1960(昭和35)年の4月に毎日新聞に入社し,「程度の差こそあれ僕みたいに進路とか大学進学とか,学習環境とか,卒業してもUターンして三療に就くとか,目標を達成できなくて悩んでいる同輩や後輩がいっぱいいる。そういう人たちの問題解決のために僕は公私共に努力したいので,それを認めて欲しい」と当時の上司に訴えると,「ひいては点毎のプラスにもなるんだから,そりゃいいよ」と快諾してくれました。それで入社1年後に,当時苦悩していた27人が集まって全国組織を作ろうということになり,学生会当時の目的を踏襲して京阪神の仲間と文月会を1961(昭和36)年の7月に作ったわけですよ。  福山:毎日新聞に入られて経済的にも安定したことも大きかったでしょうね。  橋:そりゃあそうです。わたくしが入ったときには給料が2万円で,飛び上がってよろこんだものです。  福山:1960(昭和35)年の国家公務員上級職(大卒)は1万800円ですから,それの1.85倍ですからね。  橋:その後愛知県と東京を回り全国組織を作ろうということで1964(昭和39)年7月に日本盲人福祉研究会,愛称「文月会」を本間一夫先生を会長に頂いて,わたくしが代表委員で発足しました。その際,学生会を踏襲しようということで,目的は大学の門戸開放,学習条件の整備,卒業後の職域開拓というところまで同じで,それに加えたのが社会啓発のための出版活動で,雑誌名も当初は『新時代』を継承したわけです。学生会が消滅した1958(昭和33)年の最後の『新時代』に当時の日盲連会長であった鳥居篤治郎先生(1894〜1970)が,学生会は東京ヘレン・ケラー協会に依存して運動を進めてきた。今後は盲学生も自立しなくちゃいけないと喝破されました。確かにそれまではわたくしたちは事務所もただで,点字製版も全部お願いしてなにもかも東京ヘレン・ケラー協会におんぶにだっこだったわけです。そろそろ君らも自立してOBに相談して,OBと一緒にやって,OBもちゃんと後輩の面倒を見る。初めてそこから対外的な援助を要請したりすることが望ましいんだということを,鳥居先生が書いていらっしゃるわけですよ。わたくしも全くそれに同感で,1961(昭和36)年の文月会立ち上げにもそれはわたくしの後ろ盾にもなったと思います。また先輩に恵まれ,わたくしが大学に入る前に亡くなっている盲女子の母・斉藤百合さん(1891〜1947)には会っていませんが,石松量蔵牧師(1888〜1974)にも熊谷鉄太郎牧師(1883〜1979)にも,そして岩橋先生は1954(昭和29)年の10月に亡くなったわけですが,その年の7月に京都で第4回全国盲大学生大会があって,そのときに岩橋先生がわざわざ来られて,「君のことは岩手盲学校の大堂他人校長から聞いている。これからの日本は君らがしょって立つ覚悟をして勉強しなくちゃいけないんだ。君,がんばりたまえ」と言って固い握手をして下さったんですよ。それも一つのわたくしの今日を作ってくれたんだろうと思っています。この固い握手が,わたくしたちの文月会運動を支えてくれたんだろうと思いますね。  福山:文月会が発展的に解散したときに,文月会の事業は支援総合センターが引き継いだことになったのですか?  橋:本当はそうなんです。文月会が解散するときに支援総合センターがビジョンと理念を引き継ぎました。しかし,支援総合センターも歴史的には学生会から日本盲人福祉研究会(文月会)そして盲学生情報センターと移ってきましたが,社会福祉法人化するためには視覚障害全般で,どこの施設も手を染めていない職業教育,福祉文化を取り上げようということで,視覚障害者支援総合センターにしたわけです。けれど時代の流れとともにそう簡単に踏襲継承はできないこともわかるようになりました。ただわたくしは盲学校の存続が問題になったり,あはき法19条が裁判になったりしており,職業問題もやはり十分取り組まなくっちゃいけない課題だと思っているのです。  盲人すべての人たちが,できるだけ多くの仕事に就けるような世の中を作っていかなければいけない。そのために国会請願もわたくしたちは4回やって,1回は請願が採択されたわけです。衆参両院の全会一致で通って,後にも先にもこのような事例はないわけですから,やはりそのように国会も動かし,国も動かすような運動ができるようなプロジェクトをこれからも作っていかないと視覚障害者全体の地位向上というのは難しいでしょうね。  既存の施設・団体が協力し合って,知恵を絞っていかないと,今これですべてよしという感じじゃ絶対にないだろうと,今回「70年史」を作り上げてそう思いましたね。  【「70年史」の発送は,新型コロナのおかげで仕切り直しとなり,結局,東京の印刷所から大阪市内の橋實先生のご自宅,そしてご子息の橋和哉氏の東京のご自宅に分けて送られ,お二人の責任で全国の盲学校と点字図書館,それに実行委員や協力者,講演会の時に希望された方などに2020(令和2)年4月初旬に約330冊が送付された。】 ++       ■全国盲学生音楽コンクール/全日本盲学生音楽コンクール/ヘレン・ケラ       ー記念音楽コンクール歴代1位・ヘレン・ケラー賞・審査員特別賞受賞者  以下,敬称略,「盲」は盲学校の略 ◆第1回(1949〔昭和24〕年)  [童謡]田中暁子(千葉盲)  [独唱]楠胞衣吉(宮城盲)  [合唱]神奈川盲  [ピアノ]田中禎一(国立盲教育附属盲) ◆第2回(1950〔昭和25〕年)  [童謡]タナカ・アキコ(国立盲教育附属盲小4)  [唱歌]ナカヤマ・アキラ(千葉盲中2)  [歌曲]クスノキ・イナキチ(宮城盲高1)  [重唱]フジイ・ケンジ,キシダ・カズタカ,ナカザワ・ヨシオ(国立盲教育附属盲高等部)  [合唱]国立盲教育附属盲高等部  [ピアノ]カトウ・トミオ(千葉盲高1) ◆第3回(1951〔昭和26〕年)  [童謡]オカ・テルコ(滋賀盲小3)  [唱歌]テラダ・カズオ(兵庫盲小5)  [歌曲]ツカモト・アキヒロ(大阪市盲高1)  [重唱・合唱]大阪府盲  [バイオリン]モリオカ・アキラ(大阪市盲高1) -------------------------------------------------------  上記第2回と第3回は,協会に記録がないので,点字毎日編集部の協力を得て,当時の『点字毎日』から墨訳した。 ------------------------------------------------------- ◆第4回(1952〔昭和27〕年)  [童謡]木村愛子(教大附盲小3)  [唱歌]飯泉千鶴子(教大附盲小4)  [歌曲]渡辺勇喜三(教大附盲高2)  [合唱]千葉盲  [ピアノ]黒住静謙(岡山盲高2) ◆第5回(1953〔昭和28〕年)<中止> ◆第6回(1954〔昭和29〕年)  [童謡]金井玉枝(教大附盲小2)  [唱歌]大家正弘(訓盲院中1)  [歌曲]尾崎三郎(光明寮専2)  [合唱]教大附盲  [ピアノ]日高実則(教大附盲中3)  [バイオリン]特1位,和波孝禧(横浜市盲小4) ◆第7回(1956〔昭和31〕年)  [童謡]並木久枝(埼玉盲小1)  [唱歌]浜田靖子(教大附盲小6)  [歌曲]河原田栄(教大附盲専1)  [合唱]大阪市盲  [ピアノ]高林実(教大附盲専2) ◆第8回(1957〔昭和32〕年)  [童謡]永山淳子(教大附盲小3)  [唱歌]屋比久秀子(大阪市盲中3)  [歌曲]迫田勲(大阪市盲高2)  [合唱]名古屋市盲 ◆第9回(1958〔昭和33〕年)  [童謡]宍戸キミヨ(教大附盲小1)  [唱歌]鈴木礼子(教大附盲中3)  [歌曲]屋比久秀子(大阪市盲高1)  [合唱]埼玉盲  [ピアノ]井上静子(教大附盲高1) ◆第10回(1959〔昭和34〕年)  [童謡]二宮律子(文京盲小3)  [唱歌]浜田靖子(教大附属盲中3)  [歌曲]岸波正(八王子盲専2)  [合唱]文京盲  [ピアノ]寺崎忍(文京盲高3)  [バイオリン]長岡英司(教大附盲小3) ◆第11回(1960〔昭和35〕年)<中止> ◆第12回(1961〔昭和36〕年)  [童謡]土屋譲次(平塚盲小1)  [唱歌]佐藤恵美子(栃木盲小6),関賢子(平塚盲中3)  [歌曲]中田キヨコ(横浜市盲別2)  [ピアノ]後藤弘(大阪府盲専2) ◆第13回(1962〔昭和37〕年)  [童謡1部]正司登実(教大附盲小1)  [童謡2部]堀江健二(同,小2)  [唱歌]片山直美(同,小4)  [歌曲]江淵三郎(大阪市盲高2)  [合唱]大阪府盲  [ピアノ]島筒英夫(教大附盲小4) ◆第14回(1963〔昭和38〕年)  [童謡]坂本勅子(川越盲小2)  [唱歌]岩上義則(文京盲高2)  [合唱]東京光明寮  [ピアノ]島筒英夫(教大附盲小5) ◆第15回(1964〔昭和39〕年)  [童謡]坂本頼子(教大附盲小3)  [唱歌・歌曲]笠原章子(同,小5)  [合唱]文京盲  [ピアノ]大島彰(群馬盲理2)  [その他の楽器の部]合奏=横浜市盲 ◆第16回(1965〔昭和40〕年)  [童謡]石川滝子(埼玉盲小3)  [唱歌・歌曲]池田梅一(徳島盲専1)  [合唱]横浜市盲  [ピアノ]中村正二郎(神戸市盲高2) ◆第17回(1967〔昭和42〕年)  [童謡]金田由紀子(教大附盲小3)  [唱歌]白沢和子(埼玉盲中3)  [合唱]福島盲  [ピアノ]武久源造(松山盲小4)  [サクソホン]内村寛治(横浜市盲専2) ◆第18回(1968〔昭和43〕年)  [童謡]岡添千賀(松山盲小3)  [唱歌]金田由紀子(教大附盲小4)  [合唱]福島盲  [ピアノ]佐藤裕子(宮城盲中1)  [その他の楽器の部]吹奏楽=横浜市盲 ◆第19回(1969〔昭和44〕年)  [童謡]樋口晴代(教大附盲小3)  [唱歌]関口徳成(会津盲中1)  [合唱]東京視力障害センター  [ピアノ]金田由紀子(教大附盲小5)  [その他の楽器の部]クラリネット演奏=桶本光男(松山盲専1) ◆第20回(1970〔昭和45〕年)  [童謡]安田恵美子(教大附盲小3)  [唱歌]金田由紀子(教大附盲小6)  [歌曲]伊藤さつき(山形盲専2)  [合唱]埼玉盲  [ピアノ]清水淳子(大阪市盲小5)  [その他の楽器の部]フルート演奏=坂井孝之(訓盲院専1) ◆第21回(1971〔昭和46〕年)  [唱歌]鈴木泉(教大附盲小6)  [歌曲]大竹敏晴(福島盲専2)  [合唱]ヘレン・ケラー学院  [ピアノ]林直史(教大附盲中1)  [ピアノ]長友公一(文京盲専3) ◆第22回(1972〔昭和47〕年)  [童謡]河野美賀(松山盲小3)  [唱歌]寺田利子(大阪市盲小6)  [歌曲]和出野充洪(ヘレン・ケラー学院按2)  [合唱]ヘレン・ケラー学院  [ピアノ]原好幸(岐阜盲高3) ◆第23回(1973〔昭和48〕年)  [童謡]横山早苗(埼玉盲小2)  [唱歌]高橋節子(同,中3)  [歌曲]伊藤顕裕(福井盲専1)  [合唱]福島盲  [ピアノ]黒葛原富士子(大阪市盲専2)  [その他の楽器の部]ギター演奏=村田勇(長野盲高3) ◆第24回(1974〔昭和49〕年)  [唱歌]岡添千賀(松山盲中3)  [歌曲]佐藤起恵子(文京盲専2)  [合唱]ヘレン・ケラー学院  [ピアノ]塚田哲夫(文京盲普2)  [バイオリン]田辺藤祐(岡崎盲中3) ◆第25回(1975〔昭和50〕年)  [唱歌]中間直子(教大附盲小6)  [歌曲]和出野充洪(ヘレン・ケラー学院鍼5)  [合唱]ヘレン・ケラー学院  [ピアノ]福島勝弘(横浜市盲高2)  [その他の楽器の部]ホルン演奏=遠藤栄記(宮城盲専2) ◆第26回(1976〔昭和51〕年)  [童謡]木村真由美(埼玉盲小2)  [唱歌]山岡隆子(松山盲小4)  [歌曲]渡辺代司子(ヘレン・ケラー学院按1)  [合唱]ヘレン・ケラー学院  [ピアノ]郡加寿子(横浜市盲普1)  [ピアノ]塚本孝(北九州盲中2) ◆第27回(1977〔昭和52〕年)  [童謡]藤城保史美(横浜市盲小1)  [童謡]松本和子(埼玉盲小3)  [唱歌]酒井和久(松山盲小6)  [歌曲]渡辺代司子(ヘレン・ケラー学院按2)  [合唱]ヘレン・ケラー学院  [その他の楽器の部]トランペット演奏=古坂みゆき(平塚盲中3) ◆第28回(1978〔昭和53〕年)  [童謡]広川康之(埼玉盲小1)  [唱歌]亀岡直一(松山盲小4)  [合唱]筑波大附盲  [ピアノ]郡加寿子(横浜市盲普3)  [ピアノ]鈴木厚志(明星学園中3) ◆第29回(1979〔昭和54〕年)  [童謡]関純子(埼玉盲小3)  [唱歌]石田久美(松山盲小4)  [歌曲]関静子(文京盲高2)  [合唱]平塚盲  [ピアノ]田中文人(久我山盲中2)  [その他の楽器の部]フルート演奏=松田好弘(山形盲高2) ◆第30回(1980〔昭和55〕年)  [童謡]牛若治子(兵庫盲小4)  [唱歌]村上知佐子(兵庫盲小6)  [歌曲]渡貫時美(新潟盲高2)  [合唱]八王子盲  [ピアノ]高橋玲子(筑波大附盲小6)  [その他の楽器の部]フルート演奏=松田好弘(山形盲高3) ◆第31回(1981〔昭和56〕年)  [独唱1部]福島順子(大阪市盲小1)  [独唱2部]中川守(徳島盲中2)  [独唱3部]時田直也(兵庫盲高3)  [合唱]八王子盲  [ピアノ]大野康弘(徳島盲高1)  [バイオリン]河村千晶(大阪市盲小6)  [その他の楽器の部]フルート演奏=五島章太郎(横浜市盲高1) ◆第32回(1982〔昭和57〕年)  [独唱1部]遠藤れん子(大阪市盲小2)  [独唱2部]尾方尚子(大阪市盲小5)  [合唱]八王子盲  [ピアノ]小西佳恵(久我山盲中3)  [ピアノ]金子久美恵(群馬盲小5)  [その他の楽器の部]フルート演奏=立花政志(茨城盲高3) ◆第33回(1983〔昭和58〕年)  [独唱1部]岸田昌子(兵庫盲小1)  [独唱2部]丸橋知穂(大阪市盲小5)  [独唱3部]小熊新三郎(ヘレン・ケラー学院按1)  [合唱]八王子盲  [ピアノ]金子久美恵(群馬盲小6)  [ピアノ]坂巻明子(筑波大附盲小6)  [その他の楽器の部]フルート演奏=立花政志(茨城盲専1) ◆第34回(1984〔昭和59〕年)  [独唱1部]近藤恒久(大阪市盲小2)  [独唱2部]飯泉千恵子(茨城盲小6)  [独唱3部]安元大二郎(ヘレン・ケラー学院按1)  [合唱]八王子盲  [ピアノ]白樫幸子(和歌山盲中2)  [ピアノ]高垣斉(大阪市盲中1)  [その他の楽器の部]フルート演奏=和泉沢弘子(群馬盲中1) ◆第35回(1985〔昭和60〕年)  [独唱1部]佐々田洋子(大阪市盲小2)  [独唱2部]牛田令子(徳島盲中1)  [独唱3部]永浜容敏(徳島盲高3)  [合唱]八王子盲  [ピアノ]小林富美子(筑波大附盲中2)  [その他の楽器の部]フルート演奏=小山修治(ヘレン・ケラー学院按1) ◆第36回(1986〔昭和61〕年)  [独唱2部]飯泉千恵子(茨城盲中2)  [独唱3部]鈴木八重子(ヘレン・ケラー学院按1)  [合唱]八王子盲  [ピアノ]立石敬一(広島盲中1)  [その他の楽器の部]ハーモニカ演奏=中里聡(筑波大附盲中3) ◆第37回(1987〔昭和62〕年)  [独唱2部]新井光美(埼玉盲小4)  [独唱3部]米良律子(千葉盲高1)  [重唱・合唱]八王子盲  [ピアノ]小倉裕二(浜松盲小3)  [ピアノ]米良律子(千葉盲高1) ◆第38回(1988〔昭和63〕年)  [独唱2部]小林崇(八王子盲中2)  [独唱3部]原真理子(千葉盲高2)  [重唱・合唱]ヘレン・ケラー学院  [ピアノ]佐藤昌代(神戸市盲中2)  [その他の楽器の部]リコーダー四重奏=松山盲高3 ◆第39回(1989〔平成元〕年)  [独唱1部]塚本哲郎(大阪市盲小2)  [独唱2部]波平和樹(筑波大附盲小5)  [独唱3部]飯泉千恵子(茨城盲高2)  [重唱・合唱]八王子盲  [ピアノ]長沢由季(大阪府盲高2)  [バイオリン]原秀章(平塚盲高1)  [その他の楽器の部]リコーダーアンサンブル=栃木盲 ◆第40回(1990〔平成2〕年)  [独唱3部]束原研(栃木盲高3)  [重唱・合唱]栃木盲  [ピアノ]杉本久美子(大阪加賀屋中3)  [バイオリン]原秀章(平塚盲高2) ◆第41回(1991〔平成3〕年)  [独唱2部]澤田理絵(筑波大附盲高2)  [ピアノ]服部真弓(栃木盲小5) ◆第42回(1992〔平成4〕年)  [ピアノ]木村りえ(北九州盲小5) ◆第43回(1993〔平成5〕年)  [ピアノ]清水紘子(神戸須磨女高1)  [その他の楽器の部]琴二重奏=竹野磨智子,門脇浩子(筑波大附盲専2) ◆第44回(1994〔平成6〕年)  [バイオリン]白井崇陽(筑波大附盲小5) ◆第45回(1995〔平成7〕年)  [ピアノ]辻井伸行(筑波大附盲小1)  [その他の楽器の部]琴演奏=沢村祐司(筑波大附盲中2),尺八演奏=安田知博(熊本盲中3)  [独唱2部]狩野真奈美(富山盲高3)  [重唱・合唱]栃木盲 ◆第46回(1996〔平成8〕年)  [バイオリン]白井崇陽(筑波大附盲中1)  [その他の楽器の部]リコーダーアンサンブル=松山盲 ◆第47回(1997〔平成9〕年)  [ピアノ]平野泰代(筑波大附盲専2)  [バイオリン]荒木唯子(筑波大附盲中2)  [重唱・合唱]栃木盲 ◆第48回(1998〔平成10〕年)  [ピアノ]桑原良恵(岐阜盲中1)  [その他の楽器の部]クラリネット演奏=小井手奈緒美(大阪府盲専2)  [重唱・合唱]栃木盲 ◆第49回(1999〔平成11〕年)  [独唱2部]山下平(山梨盲高専1)  [重唱・合唱]栃木盲 ◆第50回(2000〔平成12〕年)  [ピアノ]大月裕夫(松本盲中2)  [弦楽器]飯嶋輪(熊本県立盲高1)  [その他の楽器の部]中国笛演奏=楊雪元(筑波大附盲専2)  [重唱・合唱]栃木県立盲  [審査員特別賞]遠藤さゆり(文京盲専2)ピアノ伴奏者 -------------------------------------------------------  第50回までは,対象を全国の盲学校に在籍する児童・生徒に限っていた。しかし第51回からは「全日本盲学生音楽コンクール」から「ヘレン・ケラー記念音楽コンクール」に名称を変更して,幅広く普通校や大学で学ぶ視覚障害児・者も対象とすることにした。  そして,とくに感銘を受けた出場者には「ヘレン・ケラー賞」を贈ることにした。 ------------------------------------------------------- ◆第51回(2001〔平成13〕年)  [ピアノ]木村りさ(国立音大2)  [重唱・合唱]栃木県立盲  [審査員特別賞]長く音楽教育に携わり,多大な貢献をした中田篤子教諭(栃木県立盲)  [ヘレン・ケラー賞]栃木県立盲 ◆第52回(2002〔平成14〕年)  該当なし ◆第53回(2003〔平成15〕年)  [ピアノ]中西良輔(千葉盲中1)  [独唱2部]上田信幸(筑波大附盲専1)  [ヘレン・ケラー賞]上田信幸 ◆第54回(2004〔平成16〕年)  [ピアノ]越智美月(札幌盲小2)  [ヘレン・ケラー賞]越智美月 ◆第55回(2005〔平成17〕年)  [ピアノ]越崎沙絵(八王子盲小5)  [弦楽器]荒木温子(筑波大附盲高2)  [独唱2部]堀内友貴(京都府盲高2) ◆第56回(2006〔平成18〕年)  [ピアノ小学の部]越崎沙絵(八王子盲小6)  [ピアノ中高大学の部]近山朱里(新潟盲中1) ◆第57回(2007〔平成19〕年)  [ピアノ課題曲の部]水野隆(東京都足立区立五反野小3)  [ピアノ自由曲の部小学生]志岐竜哉(八王子盲小4)  [ピアノ中学生以上]飯嶋輪(熊本県立盲専1)  [独唱2部]池田サラジェーン(筑波大附視覚特別支援高2)  [重唱・合唱]北原新之助・高山ちひろ(筑波大附視覚特別支援高3,専2)  [ヘレン・ケラー賞]北原新之助・高山ちひろ ― 池田サラジェーン(ピアノ伴奏) ◆第58回(2008〔平成20〕年)  [ピアノ小学生の部]阿部友亮(栃木県立盲5)  [ピアノ中学生の部]市川純也(奈良県天理市立西1)  [ピアノ高校生以上]服部澄香(名古屋盲高2)  [弦楽器バイオリン]飯嶋輪(熊本県立盲専2)  [独唱2部]桝井彩加(大阪府立視覚支援専2)  [重唱・合唱]大阪府立視覚支援(高2・3,専2)  [ヘレン・ケラー賞]飯嶋輪 ◆第59回(2009〔平成21〕年)  [ピアノ小学高学年]志岐竜哉(八王子盲6)  [ピアノ高校以上]盛岡陸(大阪府立視覚支援高1)  [独唱2部]後藤杏奈(大阪府立視覚支援専1)  [重唱・合唱]大阪府立視覚支援(高1,専1・2)  [ヘレン・ケラー賞]大阪府立視覚支援 ◆第60回(2010〔平成22〕年)  [ピアノ小学生低学年]鈴木理子(岐阜盲3)  [ピアノ小学生高学年]水野隆(筑波大附視覚特別支援6)  [ピアノ高校生以上]越崎沙絵(筑波大附視覚特別支援高1)  [バイオリン]キム・チソン(韓国ソウル特別市私立ハンビット盲中2)  [独唱2部]渡邊順子(筑波大附視覚特別支援専3)  [ヘレン・ケラー賞]キム・チソン ◆第61回(2011〔平成23〕年)  [ピアノ1部]佐藤翔(筑波大附視覚特別支援小3)  [ピアノ2部]田中綾乃(石川県立盲小5)  [ピアノ4部]盛岡陸(大阪府立視覚支 援高3)  [その他の楽器の部]アルトサックス演奏=東直志(京都府立盲専3)  [独唱2部]横井秀平(大阪府立視覚支援専1)  [重唱・合唱]横井秀平,上村龍夏(大阪府立視覚支援専1,中3)  [ヘレン・ケラー賞]横井秀平・上村龍夏 ◆第62回(2012〔平成24〕年)  [ピアノ1部]小林友香(筑波大附視覚特別支援小2)  [ピアノ2部]菅田利佳(和歌山盲小6),佐藤翔(筑波大附視覚特別支援小4)  [ピアノ4部]千頭和達(千葉盲高1)  [弦楽器の部=バイオリン]池内風香(筑波大附視覚特別支援中1)  [独唱1部]辻本実里(大阪府立視覚支援中3)  [独唱2部]沼本尚輝ルーカ(文京盲高2)  [重唱・合唱]筑波大附視覚特別支援中学部合唱部(中1)  [審査員特別賞]川崎春香(新潟盲小5) ◆第63回(2013〔平成25〕年)  [ピアノ1部]渡邊千優(筑波大附視覚特別支援小3)  [ピアノ3部]田中綾乃(石川県立盲中1)  [ピアノ4部]齋藤玲奈(桐朋学園大音楽学部1)  [その他の楽器の部]箏演奏=三浦紗耶(文京盲高2)  [創作・編曲の部=創作演奏]鈴木元気(函館盲中2)  [独唱2部] 辻本実里(大阪府立視覚支援高1)  [重唱・合唱]筑波大附視覚特別支援小学部(小5) ◆第64回(2014〔平成26〕年)  [ピアノ1部]小原檀(横浜市立盲特別支援小2)  [ピアノ2部]佐藤あかり(福島県相馬市立中村第二小5)  [ピアノ3部]工藤星奈(秋田県立盲中2)  [弦楽器の部=バイオリン]遠山作弥(群馬県立盲小5)  [その他の楽器の部]フルート演奏=川添ミユ(八王子盲中2)  [独唱1部]芳澤和子(長野市立南部小5)  [独唱2部]宇木素裕(文京盲高3)  [重唱・合唱]中畑友里・鈴木萌依(筑波大附視覚特別支援専1,高3)  [ヘレン・ケラー賞]小原檀 ◆第65回(2015〔平成27〕年)  [ピアノ1部]矢部菜央(八王子盲小1)  [ピアノ2部]石田乃彩(南魚沼市立浦佐小4)  [ピアノ4部]志岐竜哉(筑波大附視覚特別支援高3)  [その他の楽器の部]ホルン演奏=坂田優咲(筑波大附視覚特別支援高3)  [独唱2部]中畑友里(筑波大附視覚特別支援専2)  [ヘレン・ケラー賞]志岐竜哉 ◆第66回(2016〔平成28〕年)  [ピアノ2部]相原晴(筑波大附視覚特別支援小4)  [ピアノ3部]佐藤翔(葛飾盲中2)  [ピアノ4部]工藤星奈(筑波大附視覚特別支援高1)  [弦楽器の部]バイオリン=株竹大智(武蔵野音大2)  [その他の楽器の部]唄・三線演奏=三刀屋美鈴(文京盲高2)  [独唱2部]鈴木萌依(筑波大附視覚特別支援専2)  [重唱・合唱]松山盲  [ヘレン・ケラー賞]鈴木萌依 ◆第67回(2017〔平成29〕年)  [ピアノ1部]矢部菜央(八王子盲小3) ◆第68回(2018〔平成30〕年)  [ピアノ3部]宮城翔(沖縄盲中1),石田乃彩(筑波大附視覚特別支援中1)  [独唱1部]神山翔(栃木県立盲小6)  [独唱2部]広瀬由花(栃木県立盲高2)  [重唱・合唱]筑波大附視覚特別支援中学部合唱・合奏部  [ヘレン・ケラー賞]神山翔(栃木県立盲小6) ◆第69回(2019〔令和元〕年)  [ピアノ1部]新倉将希(平塚盲小2)  [ピアノ2部]三島奏音(福岡視覚特別支援小5),矢部菜央(八王子盲小5)  [ピアノ3部]東玲那(横浜市立盲特別支援中1)  [独唱1部]重永大武(久我山青光学園小1)  [独唱2部]原理子(筑波大附視覚特別支援高3)  [重唱・合唱]筑波大附視覚特別支援中学部合唱・合奏部  [ヘレン・ケラー賞]筑波大附視覚特別支援中学部合唱・合奏部 ◆第70回(2020〔令和2〕年)  新型コロナウィルス禍により中止 ++       ■『点字ジャーナル』創作文芸懸賞小説入選者  以下,回数(受賞年),審査委員長,入選作・作者(敬称略) 第1回(1970年) 審査委員長 中川童二  「死の瞳」中林知哉 作 第2回(1971年) 審査委員長 戸川幸夫  「波紋」竹村実 作 第3回(1972年) 審査委員長 野村尚吾  「雲間もれる陽」杉浦新 作 第4回(1973年) 審査委員長 野村尚吾  「赤はげ犬に近寄るな」片倉欣称 作 第5回(1974年) 審査委員長 野村尚吾  「雨」北條ただす 作 第6回(1975年) 審査委員長 戸川幸夫  「くちべ」御机承 作 第7回(1976年) 審査委員長 戸川幸夫  「最終バス」福田涼 作 第8回(1977年) 審査委員長 大江健三郎 「はし」鈴原五郎 作 第9回(1978年) 審査委員長 水上勉   「少女」中山吉泰 作 第10回(1979年) 審査委員長 巖谷大四  「別れ道」中村みよ子 作 第11回(1980年) 審査委員長 池田みち子 「雨あがり」佐々木利忠 作 第12回(1981年) 審査委員長 巖谷大四  「もがり笛」増田守男 作 第13回(1982年) 審査委員長 田中澄江  「『ももたろう』物語」水谷昌史 作 第14回(1983年) 審査委員長 住井すゑ  「盲学校閑日」大島健甫 作 第15回(1984年) 審査委員長 多岐川恭  「貯金箱」中村みよ子 作 第16回(1985年) 審査委員長 河野多恵子 「怨念」小池圭子 作 第17回(1986年) 審査委員長 伊藤桂一  「花嫁の父」湯澤じゅんこ 作 第18回(1987年) 審査委員長 伊藤桂一  「草取り」宮崎茂 作 第19回(1988年) 審査委員長 大原富枝  「手を洗う女」郡司七重 作 第20回(1989年) 審査委員長 大原富枝  「最後の航海」氏里史郎 作 第21回(1990年) 審査委員長 阿刀田高  「セピア色のライバル」杉江勝也 作 第22回(1991年) 審査委員長 阿刀田高  「愛の方程式」福島智 作 第23回(1992年) 審査委員長 儀府成一  「感嘆符」山口エリ 作 第24回(1993年) 審査委員長 阿刀田高  「ある村長選挙」新城久人 作 第25回(1994年) 審査委員長 赤川次郎  「雨上がりの朝」中山吉泰 作 第26回(1995年) 審査委員長 赤川次郎  「鏡」あおい玲子 作 第27回(1996年) 審査委員長 赤川次郎  「親友」稲岡幸恵 作 第28回(1997年) 審査委員長 島田雅彦  「アルジャーノンに“あてがね”を」豊田裕也 作 第29回(1998年) 審査委員長 島田雅彦  「アカシヤの花が咲く頃」歩青至 作 第30回(1999年) 審査委員長 島田雅彦  「福寿草」志方六点 作 第31回(2000年) 審査委員長 辻仁成   「残り火」永野幸郎 作  ※応募が少なくなったので,31回を最後に「懸賞小説」の募集は終了した。 ++       ■ヘレンケラー・サリバン賞受賞者  以下,肩書や実績等は受賞当時(敬称略)  ◆第1回(1993年):小島純郎(全国盲ろう者協会理事長,千葉大学教授)盲聾者教育に尽力し,全国盲ろう者協会を設立した。  ◆第2回(1994年):下薗彦二(日本盲人福祉委員会理事長,元・高校教諭)1万3000冊に上る盲学生のための受験参考書を点訳・製本し,無償で配布してきた。  ◆第3回(1995年):實本博次(日本盲人福祉委員会理事長,元・厚生省援護局長)長年にわたり,視覚障害者のための全国団体の指導者として,福祉の向上に努めてきた。  ◆第4回(1996年):河村宏(東京大学総合図書館職員)次世代の視覚障害者用デジタル録音図書システムを推進し,国際標準化を実現した。  ◆第5回(1997年):ラクシュミリ・ナラヤン・プラサド(ネパールの眼科/耳鼻科医)ネパールで唯一の盲人援護団体を創設し,多数の視覚障害児教育校を開設した。  ◆第6回(1998年):根岸幸子(古典講読・朗読講師)長年にわたり各種テープ雑誌の朗読ボランティア活動を続け,月刊テープ雑誌『つのぶえ』の「音の絵はがき」を単独で企画・取材・編集し,288回手がけた。  ◆第7回(1999年):遠藤貞男(元・日本銀行職員)劇団・劇場に働きかけ,視覚障害者の観劇の場を広げた。  ◆第8回(2000年):斯波千秋(盲人福祉研究会代表)長年にわたり盲人用具の研究・開発・製造を継続し,視覚障害者の自立と社会参加に貢献。  ◆第9回(2001年):松本克彦(元・日本点字図書館用具部長)1982年に視覚障害者と共に山行を楽しむ会「六つ星山の会」を結成。20年にわたる山行に参加した視覚障害者延べ約2900人に対し約5800人の健常者がサポートし,350コースに及ぶ山行を実現させた。  ◆第10回(2002年):塩屋賢一(財団法人アイメイト協会理事長)日本で初めて盲導犬育成に成功し,1971年に東京盲導犬協会(現・アイメイト協会)を設立,884頭もの盲導犬を育てた。  ◆第11回(2003年):星川安之(財団法人共用品推進機構専務理事)障害や高齢にかかわりなく,より多くの人々が利用しやすい製品,サービス,さらに施設にまで浸透させよう,と1999年4月,財団法人「共用品推進機構」(本部・東京都千代田区)を組織した。  ◆第12回(2004年):「視覚障害者のみなさんへ」(日本放送協会ラジオ第2放送番組) 1964年4月に「盲人の時間」としてスタートし,1991年に現在の番組名に変更したが,放送開始以来今日まで40年間視覚障害者に情報を発信し続けている。  ◆第13回(2005年):和波その子(アカンパニー・グループ代表)全国から上京する視覚障害者の東京都内及び近郊での外出介助を目的として,1985年11月に発足した。これまでサポートした視覚障害者は,2005年8月12日現在で延べ6,865人にものぼる。  ◆第14回(2006年):グレース・チャン(香港盲人補導会行政総裁)1987年より香港盲人補導会の最高経営責任者を務めながら,WBUAPの会長や同マッサージ委員長,国際的な失明防止協会の役員,香港政府の委員などを歴任してきた。  ◆第15回(2007年):李勝彦(天津市視覚障害者日本語訓練学校校長)1995年アジア視覚障害者教育協会の青木陽子会長(全盲)が,中国天津市に日本語学校を設立したが,校長として青木会長を支え続けてきた。  ◆第16回(2008年):大島幸夫(NPO法人東京夢舞いマラソン実行委員会理事長)視覚障害ランナー伴走の長年にわたる実践的リーダーで,ニューヨークに本部を置く障害者のランニング・クラブ「アキレス・トラック・クラブ」の日本支部創設者。  ◆第17回(2009年):藤野稔寛(徳島県立城東高等学校教諭)簡単なパソコン操作で点図を容易に作成するパソコンソフト「エーデル」の開発者。これにより,理数系図書の図やグラフだけでなく,絵本の点訳,一般学校に通う視覚障害児童・生徒用の点字教科書製作にも道を広げた。  ◆第18回(2010年):岩橋明子(社会福祉法人日本ライトハウス会長)世界盲人連合(WBU)の会議に,長年,日本の視覚障害者組織の代表の一員として参加し,日本と世界の架け橋となってきた。38年間にわたりネパールにおいて失明予防や眼科医等の人材育成を継続しているアジア眼科医療協力会(AOCA)でもまとめ役として活躍してきた。  ◆第19回(2011年):酒井久江(全盲老連常務理事・事務局長)「全国盲老人福祉施設連絡協議会(全盲労連)」の事務局長を務めていた全盲の聖明園園長を支え続け,現在は自身が常務理事・事務局長としても活躍をしている。  ◆第20回(2012年):伏島洲一郎(朗読の会・小笹会代表)商社に勤務しながら1978年から朗読ボランティアを続け,月刊誌『選択』の音声版発行の許諾を得て,1982年11月から私財を投じてカセットテープ版やDAISY規格のCD版を30年近く製作し続けてきた。  ◆第21回(2013年):當山啓(日本点字委員会事務局長)日本点字委員会の事務局員も務め,1990年からは運営実務を担当して点字表記体系の整備に尽力。2002年からは事務局長を務めている。  ◆第22回(2014年):渡辺文治(視覚障害情報機器アクセスサポート協会〔アイダス協会〕理事)1992年の視覚障害リハビリテーション協会設立に深く関与すると共に,アイダス協会やロービジョンセミナーで活躍してきた。  ◆第23回(2015年):譜久島和美(日本盲人福祉委員会事務局員)日本盲人会連合から日本盲人福祉委員会に出向し,たった一人の常勤事務局員として経済的基盤である愛盲シール委員会をまかされ,寄付金を集めながら昼夜を問わず国際活動の裏方を行ってきた。  ◆第24回(2016年):平塚千穂子(バリアフリー映画鑑賞推進団体「シティ・ライツ」代表)視覚障害者のためのバリアフリー映画鑑賞推進団体シティ・ライツを組織し,2016年9月1日,ユニバーサル・シアター「CINEMA Chupki TABATA(シネマ・チュプキ・タバタ)」を設立した。  ◆第25回(2017年):岩野英夫(特定非営利活動法人点訳・音声訳集団一歩の会理事長)1994年4月練馬区立図書館音訳講習会修了者4人と点訳・音声訳集団一歩の会を組織し,約20年間点訳・音訳活動を継続し,なかでも『週刊東洋経済』デイジー版は,原本発行の翌週には読者の手元に届くよう迅速な音訳サービスを行っている。  ◆第26回(2018年):盲大学生奨学金事業(社会福祉法人聖明福祉協会)1969年,法人設立15周年記念事業として視覚障害大学生に対する奨学金事業制度を創設し,以来50年間に212人に奨学金を貸与して,学習環境を改善してきた。  ◆第27回(2019年):原田良實(名古屋ライトハウス理事)視覚障害者への点字指導を1970年から始め,長年の努力の末,中途失明者が習得しやすい独創的な点字指導法を考案・普及した。  ◆第28回(2020年):山口規子(関西盲人ホーム理事・施設長)伝統ある盲人ホームを支えながら多くの視覚障害女性の自立を支援し,歩行訓練士として生活訓練等の指導を通じて視覚障害者の自立を促すと共に,2,000人を超える同行援護従業者の養成に携わった。 ++       ■協会の組織と職制の英文表記 【現在の法人名】 社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会:Tokyo Helen Keller Association, Inc.(略称:THKA) 【旧法人名】 財団法人東日本ヘレン・ケラー財団: East Japan Helen Keller Foundation, Inc. 【評議員】Trustee 【役 員】 理事長:President 業務執行理事:Managing Director 理事:(Board) Director 監事:Auditor 名誉総裁(ヘレン・ケラー女史): Honorable Presidency 顧問:Executive Adviser 【組織・施設】 理事会:Board of Directors 評議員会:Board of Trustees 本部:Administrative Office 総務課:General Affairs Section 経理課:Accounting Section ヘレン・ケラー学院: Helen Keller Medical Academy 点字出版所:Printing House for the Blind 点字図書館:Library for the Blind 盲人用具センター: Appliance Center for the Blind 海外盲人交流事業: Rehabilitative Counselling Center for the Blind 【点字出版所】 総務課:General Affairs Section 業務課:Operations Section 経理課:Accounting Section 製版課:Braille Transcribing Section 編集課:Editorial Section 印刷課:Braille Printing Section 録音課:Audio Recording Section 資材課:Procurements Section 【施設長】 ヘレン・ケラー学院長:Rector 点字出版所長: Director of Printing House for the Blind 点字図書館長: Director of Library for the Blind 【職制】 事務局長:Secretary-General 次長:Associate Director(2012年3月26日の施設長会にてAssistant Directorから変更) 課長:Manager 課長補佐:Assistant Manager 主任:Senior Staff 【職掌】 技師長:Chief Engineer 編集長:Editor 記者:Staff Writer 海外交流事業担当職:Program Officer 職員:Staff 【雑誌等】 編集委員会:Editorial Board 編集委員:Editorial Board Member 『点字ジャーナル』:The Tenji Journal 『ライト・アンド・ライフ』:Light & Life 『愛の光通信』:Light of Love ++       ■財団法人東日本ヘレン・ケラー財団役員       設立1950(昭和25)年4月1日  理事長 高橋龍太郎 日本商工会議所会頭  常務理事 一色直文 毎日新聞編集局参与  理事 木村忠二郎 厚生省社会局長  理事 伊藤謹二 日本赤十字社副社長  理事 磯村英一 東京都民生局長  理事 川本宇之助 東京聾教育学校長  理事 青木秀夫 中央社会福祉協議会事務局長  理事 山本實一 東京盲人会館副会長  理事 後藤巖之助 東京盲人会館理事  理事 磯島慶司 東京盲人会館理事  監事 山下豊男 東京都民生局保護係長  監事 笹澤三善 毎日新聞社検査役  名誉総裁 ヘレン・ケラー  顧問 ジュヌヴィエーブ・コールフィールド ++       ■社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会歴代役員       1952(昭和27)年5月17日組織変更認可  理事長 高橋龍太郎 1952(昭和27)年5月17日〜1967(昭和42)年12月22日  常務理事 鈴木三郎 1952(昭和27)年5月17日〜1954(昭和29)年6月11日  理事 一色直文 1952(昭和27)年5月17日〜1954(昭和29)年6月11日  理事 櫻井安右衛門 1952(昭和27)年5月17日〜1968(昭和43)年5月24日  理事 松野憲治 1952(昭和27)年5月17日〜1961(昭和36)年10月31日  理事 川本宇之介 1952(昭和27)年5月17日〜1960(昭和35)年3月15日  理事 磯島慶司 1952(昭和27)年5月17日〜1955(昭和30)年2月25日  理事 山本實一 1952(昭和27)年5月17日〜1953(昭和28)年12月31日  監事 青木秀夫 1952(昭和27)年5月17日〜1976(昭和51)年12月31日  監事 新井専三 1952(昭和27)年5月17日〜1965(昭和40)年6月11日  以上は認可時役員  理事 安積得也 1953(昭和28)年12月〜1968(昭和43)年5月30日  常務理事 一色直文 1954(昭和29)年6月〜1978(昭和53)年9月30日  理事長代行 一色直文 1967(昭和42)年12月〜1968(昭和43)年6月12日  理事 広瀬英太郎 1957(昭和32)年3月〜1962(昭和37)年3月27日  理事 畑市次郎 1960(昭和35)年7月〜1968(昭和43)年5月30日  理事 中村京太郎 1962(昭和37)年3月〜1964(昭和39)年12月24日  理事 福田一 1962(昭和37)年3月〜1963(昭和38)年2月5日  理事 大野理三郎 1963(昭和38)年1月〜1971(昭和46)年3月29日  理事 葛西嘉資 1965(昭和40)年3月〜2001(平成13)年4月29日  監事 中西彦四郎 1965(昭和40)年6月〜1971(昭和46)年3月29日  理事 西山隆夫 1968(昭和43)年3月〜1980(昭和55)年1月24日  常務理事 西山隆夫 1980(昭和55)年1月〜1980(昭和55)年7月31日  理事長 櫻井安右衛門 1968(昭和43)年6月〜1994(平成6)年8月9日  理事 御子柴博見 1968(昭和43)年9月〜1995(平成7)年1月23日  理事長 御子柴博見 1995(平成7)年1月24日〜1996(平成8)年6月11日  理事 御子柴博見 1996(平成8)年6月12日〜2005(平成17)年11月24日  理事 今村讓 1968(昭和43)年9月〜1971(昭和46)年3月30日  理事 中川幽芳 1971(昭和46)年3月〜1999(平成11)年1月24日  理事 三谷博 1971(昭和46)年3月〜1976(昭和51)年6月12日  監事 秋山正徳 1971(昭和46)年3月〜1997(平成9)年1月30日  理事 森丘秀雄 1976(昭和51)年6月13日〜1976(昭和51)年12月31日  監事 森丘秀雄 1977(昭和52)年1月1日〜1979(昭和54)年3月26日  理事 山内猛 1978(昭和53)年10月〜1979(昭和54)年3月26日  常務理事 山内猛 1979(昭和54)年3月〜1979(昭和54)年12月7日  監事 横大路俊一 1979(昭和54)年3月〜2003(平成15)年3月26日  理事 森丘秀雄 1979(昭和54)年3月〜1981(昭和56)年12月21日  理事 加覧俊吉 1980(昭和55)年1月〜1986(昭和61)年12月31日  常務理事 加覧俊吉 1986(昭和61)年12月4日〜1996(平成8)年6月11 日  理事 井口淳 1980(昭和55)年6月〜2000(平成12)年6月11日  理事 永元忠志 1982(昭和57)年2月〜1983(昭和58)年3月31日  理事 堀込藤一 1983(昭和58)年3月〜1996(平成8)年6月11日  理事長 堀込藤一 1996(平成8)年6月〜2005(平成17)年3月31日  理事 藤元節 1996(平成8)年6月〜2000(平成12)年7月31日  常務理事 藤元節 2000(平成12)年6月〜2005(平成17)年3月31日  理事長 藤元節 2005(平成17)年4 月1日〜2010(平成22)年6月12日  監事 久野三千夫 1997(平成9)年3月〜2008(平成20)年6月11日  理事 佐藤次朗 1999(平成11)年3月〜2016(平成28)年6月11日  理事 竹内恒之 2000(平成12)年6月〜2006(平成18)年3月22日  理事 鈴木可人 2001(平成13)年12月12日〜2016(平成28)年6月11日  監事 多久島耕治 2003(平成15)年3月26日〜  理事 石原尚樹 2005(平成17)年4月1日〜2008(平成20)年3月23日  常務理事 石原尚樹 2008(平成20)年3月24日〜2016(平成28)年6月11日  理事長 石原尚樹 2016(平成28)年6月12日〜2017(平成29)年6月16日  理事 三浦拓也 2005(平成17)年4月1日〜2010(平成22)年6月12日  理事長 三浦拓也 2010(平成22)年6月13日〜2016(平成28)年6月11日  理事 森野亮一 2006(平成18)年3月22日〜2016(平成28)年6月11日  監事 稲山輝機 2008(平成20)年6月12日〜  理事 宮澤豊宏 2009(平成21)年12月9日〜2016(平成28)年6月11日  理事 福山博 2010(平成22)年12月9日〜2017(平成29)年6月15日 業務執行理事 福山博 2017(平成29)年6月16日〜  理事 橋秀治 2014(平成26)年6月12日〜2015(平成27)年5月22日  理事 山田茂 2015(平成27)年5月23日〜2016(平成28)年6月11日  理事 横山晴夫 2016(平成28)年6月12日〜  理事 楯香津美 2016(平成28)年6月12日〜  理事 渡部聡 2016(平成28)年6月12日〜  理事 松上文彦 2016(平成28)年10月25日〜  理事長 馬塲敬二 2017(平成29)年6月17日〜2019(令和元)年6月11日  理事長 奥村博史 2019(令和元)年6月12日〜 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------  社会福祉法人の評議員会は,従来は任意設置の諮問機関で理事との兼任が認められていた。だが,社会福祉法等の一部を改正する法律が平成28年3月31日に成立・公布され,評議員会を定款の変更,理事・監事・会計監査人の選任・解任,理事・監事の報酬の決定等法人運営の基本ルール・体制の決定と事後的な監督を行う機関として位置付け,必置の議決機関とすることに改められた。  下記に記すのは,社会福祉法人の制度改革により新たに選任された評議員である。 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------  評議員 加藤美代子 2017(平成29)年4月1日〜  評議員 山内修 2017(平成29)年4月1日〜  評議員 橋秀治 2017(平成29)年4月1日〜2019(平成31)年12月12日  評議員 渡邊武松 2017(平成29)年4月1日〜  評議員 大江尚樹 2017(平成29)年4月1日〜  評議員 長岡雄一 2017(平成29)年4月1日〜  評議員 福母淳治 2017(平成29)年4月1日〜2020(令和2)年7月3日  評議員 長岡英司 2019(令和元)年12月13日〜  評議員 君島淳二 2020(令和2)年7月4日〜 ++       ■歴代ヘレン・ケラー学院長  高橋龍太郎 1951(昭和26)年6月26日〜1954(昭和29)年6月10日  一色直文 1954(昭和29)年6月11日〜1976(昭和51)年12月31日  西山隆夫 1977(昭和52)年1月1日〜1980(昭和55)年7月31日  櫻井安右衛門 1980(昭和55)年8月1日〜1994(平成6)年3月31日  加覧俊吉 1994(平成6)年4月1日〜1996(平成8)年6月11日  堀込藤一 1996(平成8)年6月12日〜2005(平成17)年3月31日  藤元節 2005(平成17)年4月1日〜2010(平成22)年12月31日  三浦拓也 2011(平成23)年1月1日〜2016(平成28)年7月31日  石原尚樹 2016(平成28)年8月1日〜2017(平成29)年7月31日  馬塲敬二 2017(平成29)年8月1日〜2019(令和元)年6月30日  奥村博史 2019(令和元)年7月1日〜 ++       ■歴代点字図書館長  佐野晴 1974(昭和49)年4月1日〜1977(昭和52)年3月31日  長谷川功 1977(昭和52)年4月1日〜1980(昭和55)年9月30日  横田次平 1980(昭和55)年10月1日〜1988(昭和63)年3月31日  乗松小三郎 1988(昭和63)年4月1日〜1991(平成3)年9月30日  加覧俊吉 1991(平成3)年10月1日〜1994(平成6)年3月31日  橋本幸信 1994(平成6)年4月1日〜2000(平成12)年7月31日  藤元節 2000(平成12)年8月1日〜2005(平成17)年3月31日  石原尚樹 2005(平成17)年4月1日〜2017(平成29)年6月30日  馬塲敬二 2017(平成29)年7月1日〜2018(平成30)年6月30日  川西幸治 2018(平成30)年7月1日〜 ++       ■歴代点字出版局長/点字出版所長  黒崎久 1968(昭和43)年10月1日〜1973(昭和48)年2月29日  山内猛 1974(昭和49)年1月1日〜1979(昭和54)年5月31日  井口淳 1979(昭和54)年6月1日〜2000(平成12)年5月31日 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------  1998(平成10)年4月1日付で,「点字出版局」から「点字出版所」へ改称 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------  竹内恒之 2000(平成12)年6月1日〜2006(平成18)年3月31日  藤元節 2006(平成18)年4月1日〜2006(平成18)年6月31日  迫修一 2006(平成18)年7月1日〜2009(平成21)年3月31日  福山博 2009(平成21)年4月1日〜 ++       ■歴代『点字ジャーナル』編集長  長谷川功 1970(昭和45)年6月号(創刊号)〜1974(昭和49)年4月号(第47号)  一色直文 1974(昭和49)年5月号(第48号)〜1978(昭和53)年10月号(第101号)  井口淳 1978(昭和53)年11月号(第102号)〜1983(昭和58)年10月号(第161号)  橋秀治 1983(昭和58)年11月号(第162号)〜1992(平成4)年12月号(第271号)  内田捷治 1993(平成5)年1月号(第272号)〜1995(平成7)年3月号(第298号)  阿佐博 1995(平成7)年4月号(第299号)〜1997(平成9)年4月号(第323号)  水谷昌史 1997(平成9)年5月号(第324号)〜2003(平成15)年9月号(第400号)  福山博 2003(平成15)年10月号(第401号)〜 ++       ■歴代『Light & Life(ライト&ライフ)』編集長  秋岡義之 1986(昭和61)年4月号(創刊号)〜1993(平成5)年5月1日号(第153号)  阿佐博 1993(平成5)年5月15日号(第154号)〜2000(平成12)年7月15日号(第326号)  福山博 2000(平成12)年8月1日号(第327号)〜2003(平成15)年9月15日号(第400号)  田辺淳也 2003(平成15)年10月1日号(第401号)〜  ※『Light & Life』は月刊として創刊され,1987年10月から半月刊(月2回発行)となる。 ++       ● おわりに ●  協会の母体は,1940(昭和15)年10月3日に設立された(財)東京盲人会館なので,協会は今年で創基80周年にあたる。そして同会館と,ヘレン・ケラー・キャンペーン委員会が統合して,協会が発足したのは1950(昭和25)年4月1日なので,協会は今年で設立70周年を迎えた。  ここに改めて「創基80周年」を強調したのは,ヘレン・ケラー女史初来日を記念して東京盲人会館が設立され,以来,戦中・戦後の苦しい時代も視覚障害者福祉のために一貫して献身的に尽力した先達に思いを致したいからである。しかしながら,当時をリアルに語る人は今や皆無である。しかし,協会の黎明期を知る人はまだおられる。佐藤實氏(86)は,1950(昭和25)年4月1日に都立向丘高校(定時制)に入学すると同時に,協会に入職。そして4年かけて高校を卒業した後も協会に残られた。  当初同氏は東京盲人会館,次いでヘレン・ケラー学院に勤務された。その後,点字出版所に異動され,定年退職後も嘱託として,2001(平成13)年3月1日までの約51年間勤務された。その後は,東京都杉並区にある視覚障害者支援総合センターに転職され,現在も現役の点字製版士として点図作成を担当されている。  同氏は,東京盲人会館とヘレン・ケラー学院に勤務されていたので,小誌編纂にあたって協会揺籃期の事情をご教示いただいた。  爾来ヘレン・ケラー学院は,営々として視覚障害者の自立と社会参加に貢献してきたが,来年の2021(令和3)年から学生募集を停止する。最も大きな理由は,入学生の激減である。  なにもこれは同学院に限ったことではない。全国の視覚特別支援学校(盲学校)の理療科や保健理療科の門を叩く視覚障害者は,今や希有な存在となってしまったのだ。遠からず公立盲学校もその姿を一変させるだろう。  ただ視覚障害者の総数は,この70年間30万人前後と一定である。日本経済の発展と医学の進歩により幼児失明は激減し,中途失明者が増え,高齢化してきており,現在,新たな支援策が求められている。  その転換期のただ中で,協会は創基80周年,設立70周年を迎え,新たな方向転換を行う時期に来ている。  本書作成にあたっては,コロナ禍の中,至らないところも多かったが,無事に編集を終えることができ,まずは執筆や校正に汗を流した人々に心から感謝したい。  本書は設立50周年記念誌『視覚障害者とともに50年』をベースとした。ただ,同誌「編集を終えて」で,「あえて“物語り風”という変型の構成を試みてみた」と記しているとおり,当時の新聞記事を多数引用したり,実際には実施されなかったプランニングを紹介したり,重複もいとわずに饒舌である。  本書作成においては,それらの部分をそぎ落とすとともに,欠落していた意味あるエピソードを補足して,さらにその後20年の事業の推移を簡潔に記載するように心がけた。本書の内容に関しては,今後,読者諸兄姉のご批判を仰ぐこととしたい。  この記念誌を刊行するに当たり,事実上の創設者であり,その後も協会の運営に大きなご支援とご協力をくださった毎日新聞社,毎日新聞社会事業団はもとより,東京都,厚生労働省,文部科学省,盲学校長会,視覚障害者関係団体・施設,および各公益団体や企業の皆々様に心からお礼を申し上げる。  最後に,協会の設立にご協力いただいた先駆者をはじめとする多くの善意の人々,ならびに協会を支えてくださった役職者の方々に感謝してこの書を捧げたい。  2020(令和2)年11月吉日  コロナ禍収束を願いつつ 社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会 業務執行理事・点字出版所長 福山博 ++ 視覚障害者とともに 創基80周年/設立70周年 東京ヘレン・ケラー協会のあゆみ  2020(令和2)年12月1日 初版第1刷  発行 社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会  〒169-0072東京都新宿区大久保3-14-20  TEL. 03-3200-1310 FAX. 03-3200-2582  発行人 奥村博史  編集人 福山博  印刷・製本 有限会社ヤマオー事務機  〒164-0014東京都中野区南台2-49-8  TEL. 03-3384-1661 FAX. 03-3384-1810  (c) Tokyo Helen Keller Association, Inc. Printed in Japan  ISBN978-4-925019-31-6 C0000